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「民俗・地理学のフィールドから」 2015-2017


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2017.12.30

船の時刻まで少しの時間があったので外海側へ出てみた。まだ波の高さはそれほどではないが、風と波の速さは通常ではなかった(右が太平洋側)。こんな情況・場所でも釣り人は帰ろうとしない…結局この日は島に残った。

連絡船待合所に戻ると、土嚢作りの準備が始まっていた。ここは台風銀座・室戸岬の近くで台風の対処は淡々となされていくのである。

行きは辛うじて船のデッキで写真が撮れたが(立ち歩くことは無理)、帰りは大波で潮を被ることになるため船内でおとなしくしていた。船は追い風・追い波を受けてあっと言う間に牟岐港に着いた。英語教室の8名の人達も同乗で、いつもより早く帰っていった=いつもは最終便の5時の船で戻るらしい。これで出羽島の旅はお終い。

2017.12.29

学校から下りていくと坂の途中で、土地の古老と出会い、雨の中30分以上にわたって出羽島今昔の話を聞くことができた。やはり鰹・鮪の遠洋漁業で世界の海を股にかけて働いた思い出の話が中心となった。いったん航海に出ると半年−1年と戻らずに、漁をしては漁場の近くの港に上がって休息、ハワイやシンガポールで遊んだことを懐かしく語ってくれた。冷凍した魚は焼津などの大漁港に水揚げしたらしい。一時は出羽島の漁師が日本で一番となったこともあるとのことだ。それで子供達を都会の大学にも通わせることができて、皆それなりに都会で出世できたようだ。

元来た道を戻り出羽神社で休息、歩いた3時間半の間にも風は強くなってきた。

漁師達は台風に備えて船の舫(もやい)に余念がない。内湾と言っても流されたり破損することもあるのである。住民の割りに漁船が多いのは、本土に住んでいて、いったんここへ来てから出漁する人がいるからである。

2017.12.28

他にも掲出すべき画像があるのだが、もう2ヶ月も前になる出羽島紀行を年内に終えたいので、こちらに重点を置くことにした。西の地区をあとに、また歩き始めた。ある漁家の軒先に昔のガラス製のアバ(定置網などを浮かせておくもの=それより前は木製、現在はプラスチック製)が置いてあった。最近は資料館など以外では見かけなくなった。

山の方へ上がって学校へ行く。自動車は一台もないことになっているが実際は運搬車があり、校舎へも車道がついている。学校は生徒がいないため廃校となり、現在は島の集会所なっていて、校庭も含めて手入れはなされている。移住者に子供がいても船で牟岐町へ通学となる…しかし本土の港前の小学校も休校になっていたので、子供は本当にいないのだろう。

2017.12.27

西の集落は少し新開地らしく中心部に比べると家並みは多少新しい。しかし人はほとんど住んで居らず、鰹・鮪の遠洋漁業全盛期に広がった町のようで、その後の衰退により人達が去った場所と思われる。向こうの林の後ろは断崖絶壁で、家並みはそこで終わっている。

山への最後の家、もちろん廃屋となって久しい。ジャングルのように木々が繁茂しているので海面は見えなかったが、台風の波と風が轟々と聞こえていた。この先は細い山道が続いているが集落はなく、崖崩れ等の危険性があるため引き返すことにした。

2017.12.21

本土から伸びている電気の海中ケーブル(この後ろに小さな変電設備がある)…この程度の強度でよいのかと思ってしまう。台風の波でグラグラ動いているのである。

さて西の集落に入った。奥に変電設備の建家が見えている。少し浜から奥へ道は延びているが、もう集落横の防風林の向こうは外洋で、おりからの台風の風波の音が轟いていた。風が吹き付けるせいか防火具の箱がいくつも倒れていた。今倒れたのではなく、倒れては起こした跡がある。風で転がらないように石の重しが置いてあった。消防車のない離島には出羽島だけではなく、消火栓と消火器具の箱が多く建っている。

2017.12.19

家並みの途切れた道を数分歩くと隣の集落が見えてきた。海は湾口に近く、突堤の石積みは明治4年に行政と島民が半々に資金を出して作られたもので、現在は町の文化財に指定されている。もちろん湾内に大波が押し寄せるのに対して実用ともなっている。

地区の外れに派手な建物があった(上の写真にも見えている)…出羽島ゲストハウスシャンティシャンティ、どうやら地区の共同管理の民宿兼イベント場のようだ。山の上に建物が見えたので、向こうの階段を登ってみると途中で木々の繁茂で進めなくなっていた。おそらく元の校舎と思われる。土地の少ない島では平地に広い敷地を確保できず、山を開拓して学校が建設されていることが多い。そして廃校となるとアット言う間に山に還っていく、そっくりの光景を笠岡諸島の真鍋島で経験した=そこに校舎が見えているのに階段が植物の繁茂でジャングルのようになり進めなくなる…確かに別の用途に転用されない限り、廃校に用事のある人は居ないし、建物も撤去に多額の費用がかかるために、このような光景となってしまうのだろう。

2017.12.16

海へ出ると家並みは少し途絶えて浜沿いの道を歩く。道の横に大きな井戸(給水所と書いてあった)があり、地蔵が安置されているぐらい貴重な水源だったのだろう。ここに町指定(平成20年指定)の天然記念物の「オオウナギ」が住み着いていて(体長1.6m/体重30kg=南方系のウナギで日本のウナギとは別種)これも神聖視されていて保護されている。地元の長老に聞くと最近オオウナギは死亡して、別のまだ小型のオオウナギが住んでいるとのことである。

海側を見ると奇妙な物体があり、よく観察すると「芸術作品」らしい。対岸は連絡船の待合所、右の木立は出羽神社の森…歩くうちに湾の対岸まで来たのである。

2017.12.14

ようやく町はずれに辿りついた…階段の上はお寺で、本堂の庇の下で雨宿りと本土で買ってきたパン(島歩きの時は軽くするためパンにする=ゴミ箱もほとんどない)の昼食…下にも書いたように雨の日の島歩きはなかなか大変なのである。民家の庇は浅くて雨を防げないし、廃屋と言っても勝手に中に入る訳にもいかない。結局、お寺か神社ということになる。傘を持って片手での撮影となり、足元も良くないため雨の日の取材は1.5倍ぐらい疲れる。

寺を出て、90度道は曲がって港へ向かう。ここに限らず島には派手な色遣いの家や、洋風の造りの家がしばしば見られる。この島の漁民は遠洋漁業で世界の海で活躍し、また他の島では海運時代に船員として世界を回り、世界の家々を見てきたからだと(もちろん現金収入が大きいせいもある)聞いている。

2017.12.12

タワーから降りて、更に道を進む。どうやらこれは旅館兼食堂だったようだ。ここにも「芸術家」が入っているらしく、何やら作品めいたものがいくつか飾ってある。雨はさらに強くなっていく。

人口は少なくても町内会は活発なようで、道は掃除もなされ、集会所では催しも実施され=この日は英会話教室=本土からも台風の到来を知りながらも、生徒さんが10名近くやって来ていた。港の郵便局から徒歩10分なのにポストがあり、1日1回取りに来ている(おそらく島民に委託されている)。

2017.12.10

避難タワーに登ってみた。港は天然の良港で、向こう(北=四国本土側)に狭い湾口があり、奥行きのある入江へは大きな波は押し寄せない。湾内の2/3は背後に山があり風も直接は吹き込まない。この時も台風接近のために海は荒れていたが、雨は降っても港は凪いでいた。この入江を囲んで家は建っている。高台にある建物は小中学校(休校中)である。

反対側を見ると歩いてきた旧街路の向こうに外海が見えている。もとは家並みの外が浜で、連絡船桟橋からこの付近までが高潮の弱点だった。現在は高堤防が築かれていて不安は多少解消されている。しかしこの日も波浪激しく轟々と波の砕ける音が聞こえ、霧のようになった海水が防波堤を越えて飛んできていた。右に見える山から右は比較的深い山となっている。

2017.12.9

元の商店のあとには移住者の工房(移住者はどの島でも芸術家や工芸家が多い)があり、どうやら改装を終えているようだ。この島には定住島民は50−60名程度でも、定住していない漁業者や移住者(多くは本土と行ったり来たり)、釣り人やサーファーなどにより、昼間の人口はそれなりの数らしく、港側には新しい商店が営業中である。

街路の途切れた場所(町並みは先にも続く)に変わった構造物あった。沖縄・久高島でも見た津波避難用のタワーである。湾の開口部は北を向いているので、この高さで大丈夫という設計なのであろう(背後は山に囲まれている)。ここでは平時でも上にあがれるが、久高島のものは普段はロックされていて入れず、大地震が来たときには機能しない可能性がある。阪神淡路大震災の時も避難指定地に鍵がかかっていて避難できなかった場所がある(例:夜は閉まる天王寺公園)。

2017.12.7

いよいよ町中へ入る。ここは伝建地区として、残された古い漁村の町並みが保全されている。出羽島は昔から鰹漁・鮪漁の基地としておおいに栄えた島で、最盛期は人口1000人を数えた=現在は50−60人だが漁業で成り立っていることは変わらない。近年は移住者の受け入れも始まっており、将来的な可能性を示している。向こうは出羽神社。

移住者のひとり「ラッセル」さんの家=ここの伝統的な雨戸の構造は、古式の蔀戸(しとみど)に近く上下に開くようになっている。上は庇に、下は足を出して簡易の縁側になる。彼は定住者ではなく、時々やってきては無償で借り受けた廃屋に少しずつ手を入れているようだ。私と同じ船でやってきた。

2017.12.6

船着場の横(郵便局の前)に診療所がある。牟岐町立ではなく徳島県の管轄らしい。やはり定期か不定期は不明だが月2回の回診があるように表記されている。

更にその横に島の信仰の中心たる出羽神社があり、かなりの雨となったので軒を借りて雨宿りをした。その前に小型の焼却炉が燃えていた(もう都市部では見られない)…その向こうに連絡船が停泊している。

2017.11.25

町を歩けば廃屋も目立つが、最近では廃屋を無償で借りて移住してくる人々も出てきているようで、少しの活気は感じられる。

港の横の郵便局の周りも地元の人によって整頓されている。この日は土曜だったので閉まっているが、平日は9時から16時まで開いている。島唯一の金融機関である…郵便局が完全民営化しても、赤字を承知で閉鎖はありえないと思う。年金生活者の多い離島では年金の受け取りや公共料金の支払いができなくなる可能性がある。離島には山奥とことなり、必ず電波塔があるため、ネットバンキングは可能なのだが高齢者にはハードルが高いと思われる。

2017.11.22

荒れた外海を15分航海をして、出羽島に上陸…人もさることながら物資の輸送が重要である。多くの島民がそれぞれ手押し車で手荷物を持ち帰っていく。

連絡船の待合所は漁協倉庫の下にあり、島民の憩いの場にもなっている。船が着く時刻は決まっているが、だいぶ前から集まっておしゃべりを楽しみ、船が来たあともすぐに帰るわけではない。狭くて遠い島だが活気はある。最盛期の人口は800名以上、現在は百数十名の遠洋漁業で栄えた島である。

2017.11.17

暗雲の中、定刻am11:10に15名程度の乗客を乗せて出航。外国人も含む釣り師の一団・最近、出羽島に移住した外国人のところへ通う英会話のグループ・数少ない島民・そして私…嵐の不安のせいで皆が帰り便の時刻を気にしていた。しかし台風や船の性能を熟知した船員は「3時までは動く、しかし最終便の5時は欠航」と言い切り、3時で帰るつもりの私は一安心。

牟岐川の河口から外海へ向かう。川をはさんで右岸(絵では左)は漁師町、左岸は農家とくっきり分かれている。一番大きい建物は役場、二番目は農協だ。駅は両方の建物の間をまっすぐ行った突きあたりである。

2017.11.15

港の西の丘の上に満徳寺がある。旧の街道もこの丘を越えていくようだ=現在は役場や駅も含めて牟岐川の狭い沖積平野が町の中心となっているが、本来は津波や高潮を避けて丘の上の町のようである。境内には「大坂のお地蔵さん」なる変わった地蔵群があった。

どうも商売はふるわないらしいが、さすがに徳島「後藤田さん」の人気は絶大である。他の政治家のポスターがまったくないので、貼る必要もなさそうだが、あちらこちらに貼り出されている。

2017.11.13

日が短いので徳島県北部の撮影は終わり、阿南市のホテルから高知県境の牟岐町へ台風の接近を予測しながら向かった。ここ牟岐港は内湾なので波は静かだが、外はもう太平洋で荒れ始めていた。向こうに見える出羽島へ渡るつもりだが、今は良くても帰りの便が欠航となると帰れなくなるのである。連絡船の職員に聞くと「午後3時までは動かす」とのこと、左端の小さな連絡船に乗って11時10分出航、島までは15−20分の短い航海である。

船の時間まで30分あったので町内を散策した。廃校となった小学校の横に昭和21年の南海震災の碑が建っており、新しく当時の津波の潮位の標柱が立てられていた。地元の人に話を聞いてみても、ここでは震災・津波は現実的な驚異なのである。 ここからは島歩きのためにα6000+SONY-E20mmF2.8での撮影である。

2017.11.6

音に見上げると、徳島空港が近いせいか、旧吉野川上空には低空を飛行機が頻繁に飛んでいた(これはプロペラ機だが、立派な旅客機だ)。旅客機は例外なく小型機だ。

そして軍用機も秋の雲を背景に数多く飛んでいた。

2017.11.4

下流を見るとセメント工場に停泊している。海から遠く離れて遡河してくるのである。この程度の船が出入りするため、どうしても高い橋か可動橋が必要となるのである。鳴門では渡し船となったが、ここでは通行量が多いための措置である。

新橋の可動橋の時刻表…ここへ来はじめた頃(2007年)は橋が上がるたびに船の通過が見られたが、その後はめったに見られない。陸運の発達と土日が休みとなる工場が増えたためと橋の管理者が語っていた。見たいのなら「船舶優先開閉」の朝夕の時間帯の平日に来ると良い。

2017.11.3

更に河川敷を進むと、葦原の中に木造船を発見…破船ではあるが中タナや肋骨材の付いた海の漁師船だ。このあたりでは河口部付近は土砂の堆積で繋留に適さないため、川湊が発達した名残であろう(現在は海側に築港もできたが、至便性によりまだまだ自宅近所の川での繋留も続いている)。

そして国内最大の川の可動橋である新加賀須野橋へ辿りついた。旧の橋は落とされたが、長く頑張ったため(これは元の国道)新の橋につながったのである=老朽化したために高い橋に架け替える案もあったが、地元や関係者の熱意のたまものである。

2014年新橋完成の直後、旧橋が落とされる直前の景色。2007年旧橋が現役だった頃から毎年のように来て、記録や聞き書きを続けている。もちろん船の通過時の写真もあるので探してみよう。

2017.11.2

岡崎渡船…小さな航海の仲間達(という気分になる)=釣り少年はとっくに走りさった。補正をかけないとF8程度に絞ってみても周辺光量が落ちる…歪曲収差・色収差は補正するがシェーディング補正はしないことにしている。

旧吉野川河口堰。河口というが海は埋立や河川改修工事のために遠くに行っている。少し環境整備もしているらしく、水質は悪くなさそうで画面から外れているが、右側に葦原が残され、たくさんのカモが群れていた…この川の河川敷を遡って加賀須野橋へ向かう。少しづつ旅情が湧いてくる。このあたりはすべてSONY NEX-7+Zeiss Vario-tessar E16-70mmF4。

2017.11.1

ワイドなので遠く見えるが5分で着岸(潮の流れによっては3分)。土佐泊側からは釣りの子供達が帰っていく。あとは私と外国人ビジネスマン(鳴門はサツマイモ・鳴門金時/渦潮という名物以外に、大塚製薬の企業城下町という側面を持っている)、そして単独のレンタサイクルの観光客が乗った。土佐泊では連絡船は客の乗り降りだけでとんぼ返りをする。岡崎の山の上に作り物の鳴門城が見えていて、その向こうが延々と海岸沿いに続いていくイモ畑である。

これだけの自然や名物に囲まれて、その気になれば高速バス1時間で明石に着く…とても良い立地と思われる。そして釣り三昧、幸せな気分だ(私は元々が田舎の子なので、こういう空気にすぐに馴染んでしまう)。

2017.10.31

10/27-28で四国へ遠征、一日目は鳴門市・松茂町へ、二日目は台風に巻き込まれながらの牟岐町出羽島へ渡った。まずは小鳴門海峡に鳴門市営岡崎渡船に立ち寄る。このサイトにも何度か登場している場所だ…小鳴門海峡を大型の船が運航しているため、低い橋が架けられず、高い橋ばかりのために歩行者・自転車の至便性を鑑みて、現在3ヵ所ばかり運行している(鳴門市営渡船)。対岸の土佐泊と岡崎海岸を結んでいて、それなりに地元の人達の乗船が見られる。

なんとも平和な景色を5分間堪能できる。 SONY NEX-7は後継機のα6000と同じセンサー・同じ基本デザインでありながら、大きなカメラとしての転換をしたことが分かった。操作系がNEXのコントロールダイヤル式から、αでは、よりオーソドックスなアナログダイアル式に代わって使いやすくなったことと(NEX-3/5と使用して、このジョグダイヤルのような方式に不便を感じて、当時はμ4/3ボディを選択したのである)、絵づくりがまったく異なっていて、デフォルトで撮るとα6000の発色の軽さに対してNEX-7は濃厚な色味(ペンキで塗ったような…)となっている。慌てて彩度を1段落としたら地味すぎて、画像処理で少し濃くした(上の2枚)。今度からはノーマルの設定で撮ることにした=それなりの「個性」と感じられる。α6000の描写が良ければα6000で撮ればいいのだから。解像感はまったく互角、ファストハイブリッドAFではないが、実際の撮影では遅さにストレスを感じるほどは両者に差がなかった。

2017.10.30

洲本への日帰り旅行のルポも今日で終わり。船旅はノンビリとするのはいいのだが、天気が悪いと景色がほとんど見えず退屈する人もいるだろう。そんなとき巨大なコンテナ船が現れて連絡船の前を横切っていった(ユックリとしているが、それなりに危険)…乗客は見慣れぬ景色に総立ちとなった。

さて関空港へ入っていく。海から見ると旅客機の往来発着がよく見える。ほぼ5−6分おきに着陸や離陸が見られる。騒いでいた若者達も海と空の接点のこの場所で神妙に眺めていた。 明日から四国旅行のレポートに入る。

2017.10.29

そして離岸…陸勤務の職員が手を振って船を見送る。これは連絡船であっても海ではよく見かける風景で(陸上交通では見かけない)もう少し長距離の客船なら、今でも陸と船でのテープの見送りも見られる。

さて洲本の港をあとに関空港へ1時間の船旅である。乗客も思い思いに楽しんでいる…やはり船にはオープンデッキが必須である。

2017.10.26

下の住吉神社の写真にも写っているが、かなり旧の堤防が残っていて「ここから先が海」だったことが分かる。防災上はもうなくてもよいのだろうが、撤去の予算が付かないからか、住民に多少の安心感があるのか、全国的に古い護岸堤が残されている。

さて時間となり関空行きの連絡船に乗った。関空から来たとき乗客は2名、しかし船賃の高さにもかかわらず、関空へは思いの外多人数の乗船があった=全部で40名前後、中に10名程度は明らかに海外旅行へ行く人がいた。確かに四国に住む人なら高速バスで洲本まで来て、船で関空というのは合理的かも知れない。

2017.10.25

埋め立て地にはまだまだ空き地が多く、浜に元から鎮座している社がふたつあった。こちらはやはり航海神の住吉神社、それなりに手入れがなされていて健在である。日本の神々(ほとんどは渡来人と共にやって来た)は、ずっと以前から宗教などではなく、精神的な規範そのものであろう。

こちらは境界神の活杙神社、ここもしっかり管理されていて、いずれ観光施設に呑み込まれても、後世まで残っていくことだろう。

2017.10.24

さて連絡船の時刻も迫ってきたので、浜方向へ歩くと、洲本市内最後の訪問地の事代主神社に着いた。たぶんこの社の前が浜だったのだろう。付近は埋め立てられて大型スーパーやマンション、ホテルなどが建つ新市街地となっている。

事代主神と共に金比羅神も祀られ、共に航海や漁業の安全を祈ってきたのである。

2017.10.23

あいかわらず、このような景色が続く。あらゆる表示や標記がかすれているのである。

しかし歩くうちに古い町並みが取り壊されて更地が目立つようになっていく。町のまわりにいくらでも土地があるので、そちらに新市街地を造ればいいと思うのだが、そうもいかないらしく、古い建物を壊して新しい街に変わっていくようである。モザイク模様の洲本。

2017.10.21

旧市街地の明神社横、歩けども歩けども、かすれていく町並みだ。確かに近過去の繁栄は感じられるが、「今やこれから」を想像するのが難しい。

このあたりは内町といい、市街地の中心であった。暗い側面ばかりを撮っているようだが、そうではなく島の今後を考えるにあたって、今日の情況を感じ取りたいだけである。

2017.10.20

この神社で見たもの…愛嬌のある狛犬。概して古いものほど可愛く、恐いものは新しい傾向があるように感じている。

先の八幡社でもあったが、百度石ならぬ千度石…さて旧市街をまた歩くことにしよう。

2017.10.19

元の遊郭らしき建物(現在は廃屋)1階の窓と総弁殻塗りに当時の面影が見える。

旧街区を10分ばかり歩くと、今日3番目の「洲本明神社」に到着。ここで自販機で買ったコークを飲みながら初めての休憩をした。

2017.10.17

奥へ探索…2階は文化住宅(誰が考えたのか不思議な命名だ)で、どうやら入居者もいるようだ。それにしても電気のメーターは不法に改造しているように見えるが…。

奥へ奥へと歩けばビルの裏へと出る…しかし路地裏のゴミ置き場のような場所にも、ちゃんと小屋掛けのスナックがある。ここでも電気のメーターが奇妙にぶら下がっている。

2017.10.16

更に奥へ進入…この時間帯はほとんど店は開いていない。また「かどや」を発見した。

面積としてはごく狭い範囲だが、とても小さな店がひしめきあっている。町の一番ディープなあたりには明らかに昔遊郭だったと分かる造りの店も残っていた(もちろん現在営業はしていない)。

2017.10.15

振り返ると淡路島弁天の社殿が見える。子供達は車の通る表通りではなく、昔ながらの参道を通り抜けて家に帰るようだ。

さて脇道に入る…どうやら新開地町と呼ぶようだ。歓楽街の掲示板に「稲刈り体験教室」「秋祭り」とはこの島らしい景色だ。

2017.10.12

弁天銀座へ。昼間の2時頃ではどの店も閉まっている…そろそろ開店準備が始まった。

いい名前の食堂があった…ここも飲み屋ではないにもかかわらず開店は17時〜となっている=最近書き直した跡がある。ほとんど人通りはなく、道のセールスマンも所在なげだ。

2017.10.11

町を南辺から時計回りに回る。集合住宅を右に曲がってしばらく歩くと、八幡神社(郷社)よりは格式が低そうだが、淡路島弁財天 厳島神社へ行き当たった。格式はともかくとして、こちらは町の中心に近く、航海安全・商売繁盛系の神様らしく活気が感じられる。

そして拝殿から向こうを見るとハッキリとした門前町が今も残っている。弁天銀座と名付けられ、写真館や寝具店、そして精進落としの飲み屋が並ぶ。参道の左側はバイパス道路であり、普通の田舎町の風情だが、右側は多くの少路に入り、洲本の歓楽街となっている。もちろん私は右へ入っていく。

2017.10.10

神社から市街地へ出ると、土地はたくさんあるにも関わらず集合住宅が軒を連ねていた。とは言え空き家が多い。1階は店舗用の設計なのだが、これもシャッターの閉まった店が多いようだ。

町の一角に海運で栄えた頃のお屋敷の塀だけが一部残っていた。船員の家は海外で見てきたためだろうが洋風を好む傾向がある。屋敷は駐車場に変わり、それもあまり盛況とは言えないようだ。

2017.10.7

本殿裏へ回ると稲荷社がひっそりと建っていた。この社も近傍のどこからか移されたものに相違ない。もともとの本殿裏は鬱蒼とした鎮守の森だったのだろう。

更に進むと境内の一角にヒガンバナが今を盛りと咲いていた。写っているのはほんの一部で、私の立っている回りはヒガンバナの大群落であった。

2017.10.6

洲本八幡境内の社のひとつで面白い発見をした(祀ってある神様の名前は不明)。絵馬が奉納されていたが、それが木を薄く木の葉型に削ったもので、最初は分からなかったが字を読むと確かに願い事が書いてあり絵馬であった。この形も奉納のスタイルも初めて見るものだ。

そして奥にある奉納額絵馬も変わったもので芸事の神様(例えば弁財天や技芸天)かとも思う。しかし演者も観客も不可思議な者達で、木の葉絵馬と同様に次回来たときに神職に尋ねてみようと思う。

2017.10.3

洲本税務署の庁舎の横に足湯場がある。まことにノンビリした光景である。

そして城跡がつきた場所に洲本八幡神社があった。かなり広大な敷地で往時の権勢や賑わいを思わさせる。これから旧市街地と点在する4ヵ所の神社を巡った。なにしろ2時間なので大忙しである。

2017.10.2

町はずれから海へ出た。大浜公園と言い、史跡・千本黒松の碑があるとおり手入れされた松林が広がる…夏には大勢の人で賑わったと思われる。

大浜公園のすぐそばから内陸に向けて、洲本城跡が続いている。城郭(模擬天守はある)はなく史料館・裁判所・検察庁・税務署などが建っている。堀の石垣も大部分は新しく、比較的最近に整備されたようだ。しかし、ところどころに古い遺構が残っている。次の船まで2時間あまり、中をくまなく見ることはできなかった。

2017.9.29

浜から旧街区に入る。突きあたりは海だ。昔は港のすぐ傍に商店街があったが今は寂れていて、この美容院も廃業している。現在は海から徒歩10分程度の場所が中心となり、再開発も進みつつある。そして「シモカモ美容室」もそちらで盛業中だった。

元の何かの店もずいぶん以前に閉まっていて、釣り具関係の店だけが残っている。洲本には何回か来ているが、初めての町中探索の開始だ。ここから町の北外れへ出て、中心部へ戻る計画である。

2017.9.28

洲本着岸。こんなに大きなポートターミナルがあり、海運の盛んだった頃の名残を思わせる。現在は沼島への唯一動いていた連絡船は休止となり、今年7月から運行を開始した関空港行きのみが使用している。写っている船は関空航路のもので、より大型でオープンデッキも広い。

実験航海も終わりとあってか、自転車組が多く乗っていた。話を聞くと、ここから2泊3日で淡路島を1周して、またこれで帰るとのことである。船は双胴船(カタマランという)で、ローリングが少なく快適で(船酔いしにくい)高速安定性がある。弱点は一定以上の高波や強風に対して復元力が足りなくなって転覆の危険性がある。港にはこのとおり、船の姿は見あたらない。希な大型チャーター船の入港に備えたパイロット船と非常時の給油船が停泊しているだけだ(漁港は別にある)。

2017.9.27

さて乗船開始、社会実験なので台船の仮桟橋である。9月末で終わりのためか、定員58名に対して満席に近い人が乗り組んだ。船は明石〜岩屋を航行しているジェノバラインの双胴船で"INFINITY"(無限)と名付けられている。高速艇で乗り心地は良いのだが、残念なことにオープンデッキがないため海風に吹かれながらの航海はできない。本来は後部に狭いデッキがあり椅子もあるが、本実験ではなぜか立ち入り禁止となっている。窓のスモークガラスと相まって写真撮影はできず、退屈なだけの55分となった。位置づけとして、連絡船なのか観光船を前提としているのか、やや曖昧な気がする。

船内。椅子の配置も一番前は別として海の景色を眺めるようにはなっていない。窓際に席があって人の頭越しに見るか(実際は無理)窓際に座って身体をねじるかである。今は期間限定の日曜なので多くの乗客がいるが、もし定期便となると難しそうである。船員も「定期便になってくれればいいのだが…」と弱気の発言だった。私は廃止となった航路の再開や新規航路の開拓には積極的な賛成派だが、多く残っている瀬戸内航路のようなノンビリと船旅を楽しむようなものであればと思っている。終了まであと数日、平日は大丈夫だが、最終日は土曜日なので乗ろうと思う人は予約をしておこう。船便は危険回避のために定員を超えては絶対乗せない。この日もほぼ満席で帰りの便は予約で満席となっていた。洲本で乗れないとなるとバスで神戸まで行くか関空行き航路しかない=私は予定どおり洲本〜関空便で帰った。

2017.9.26

港に着くとこのような看板…航路として適切かの「社会実験」である。7−9月の期間限定で、もうすぐ航路は一旦閉鎖され、そののちに検討後、定期航路として再開するのか否かが決定される。どうやら岬町・洲本市・ジェノバライン(すべての淡路島〜本州の航路が廃止になった後も唯一明石〜岩屋間で動いていた会社)での共同の実験らしい。これとは別に、すでに洲本〜関空の定期航路を2017.7.9に開始さている。

SONY-α系バッテリー:FW50…純正の新旧型(左上の新型はコード読み取り用のチップがある)計8個、複数社の社外品6個、合計14個を持っている(性能や耐久性は違いが感じられない)。と言うことはボディは6台あるということだ(ホントは8台あるがNEX-3&5にはバッテリーを入れていない)。α7Rやα7-2には「弱い」という批判がついて回っているが、NEX-3から変えずに来ていることは評価できる。フル充電でα6000の場合(j-peg最大保存のみ)1200カットを2個半で撮れる。多種のチャージャーやバッテリーを持ち歩くのが苦痛なのである。今度α9でバッテリーが変わったようだが、さてどうなんだろう?

2017.9.25

京都から2時間半かけて、岬町深日港駅にたどり着いた(南海多奈川線)。ほとんど降りる人はいない=もちろん乗っている人も少ない。そして2基ある自動改札機の1台は故障していた。しかし往時がしのばれるのはホームの広さである。

駅前に出ると、海運華やかなりし頃の風景がある。シャッター通りの向こうに古い旅館街が続いていた。ほとんど営業はしていないが、まだ多少の旅行者はいるようだ。天候は曇り。これから徒歩3分で埠頭だ。

2017.9.24

今日は超ハードな取材旅行=3=3=3 自宅から南海:岬町深日港へ(約2時間半)、社会実験で航行している、深日−洲本の連絡船に乗り(約1時間)、洲本市内を2時間半探索、帰りは定期便となっている、洲本−関空港の連絡船(約1時間)、そして関空から帰宅(約2時間)=3=3=3 秋になって久しぶりの徒歩撮影、あー疲れた(Θ_Θ)Zzz  しかし2ヵ所の連絡船と洲本の市内を半分歩けた(成果大)! もちろん珍しい木造船も発見。写真は洲本から関空への連絡船(港から空港ターミナルへのバス便も含めて片道2800円!少し高い)がコンテナ船を追い越しているシーン。

今日は短時間にたくさん歩くのと、暑くなるかもしれないとの予報で、カメラはこれだけにした。予報は少し外れて、ほぼ1日薄曇りで歩きやすかった。 これから1週間ばかり今回の珍しい、日帰り島歩きをダイジェストしてみよう。

2017.8.29

今日は疲れたので写真だけ…鳥羽・神島(小説「潮騒」の舞台)…ここはムラの高台、八代神社。ここから島を一周する道が始まる。

ムラの真ん中の時計台。昔、誰もが腕時計を持てなかった時代のなごりである。そしてこれは今もちゃんと動いている。 α6000+SONY-E20mmF2.8

2017.8.28

「とおしあい」の続き…今年から熱中症対策の氷漬けの飲み物はコーラやサイダーなどの甘味料入りのものは廃し、お茶とスポーツドリンクになった。老壮年の人達は少しもの足りなさそうだったが、水分補給にはこちらの方が良さそうである。かき氷は例年どおり…今年はホンの少し涼しかったために行列はできなかった。

町長・校長・大会役員の重鎮諸氏も楽しそうである。これからも行ける限り参加したいと思っている(帰りがけに会長から「来年もよろしく」となった)。 SONY-α6000+Zeiss Vario-tessar E16-70mmF4(この画角のレンズがFUJIFILMから出たら良いのだが…)…結局レンズ交換の余裕のない場合はCanon 6D(5D-III)+EF24-105mm F4Lか、α6000+Zeiss Vario-tessar E16-70mmF4になってしまう。

2017.8.22

今日は早起きして若狭:おおい町大島地区の船漕ぎ競漕「とおしあい」に行った。昔の村祭りに加えて地元の小学校の社会教育の一環として続いている。最初に誘いを受けてからもう8回目である(毎回「船祭りのお話し」をする)。 毎年35℃を越える酷暑の中、4時間程度の木造船櫓漕ぎ体験や高速漁船に乗っての湾内巡り、そして村人あげての競漕とヘトヘトになるが、それでも招待を受けると一肌脱いできた…今年は曇っていたために例年より過ごしやすかった。また今までは前日から現地に入り1泊して祭りにのぞんだが京都縦貫道路の全通により自宅から2時間半で行けることになったため、朝6時半起きをして日帰りで参加した。来年も行くことだろう。

船漕ぎ競漕の花、当地の在来船「マルキブネ」(まさしく刳船だ)による最終レース…木造船と言ってもマルキブネは伝馬船などとはまったく異なる操船となるため元気な老人達の圧勝である。 α6000+Zeiss Vario-tessar E16-70mmF4で通した=最初はCanon 6D+EF24-105mm F4Lを用意していたが暑さの中(そして天気予報では降水確率50%=結局祭りの間は降らなかったが…)少しでも軽く歩き回れるように前日に変更した。

2017.8.11

本殿前の神職達…親子兄弟、古代から神を守り仕えてきた賀茂一族の末裔である。

老宮司の先導で氏子一同、神殿に入りカミと対面する。柏手の音と蝉の声だけが聞こえていた。とその時一瞬雷鳴が轟き…宮司は「今、カミがおわした」吉兆である。

そしてな直会(なおらい)、御神酒と生米、昆布で賀茂の神と供食し今年の夏越の大祓神事は終わった。

2017.8.10

夏越の大祓…神事の始めに設置された茅の輪と拝殿・本殿、そしてその向こうに広がる神の森に向いた神棚を設け、権宮司は祝詞言上ののちに陰陽道の作法にのっとり人型を破り奉納する。背後に払いを受けた氏子一同が並んで祈る…皆が何を祈っているのかは分からないが、私にとっては半年の穢れを祓い、次の半年を迎える大事な瞬間なのである=何も祈らない・祈願もしない、身と心の雑駁さを祓うだけである。

そして宮司を先頭に茅の輪を左に2回、右に1回行列して本殿へと向かう。今日で茅の輪くぐりは終わった…次は大晦日の年越しの大祓である。

2017.7.31

今日は近江八幡・賀茂神社の夏越の大祓神事に詣ってきた(+茅の輪くぐり)…他の神社の多くは新暦で6/30に半年の穢れ・厄を祓い、次の半年を迎える神事だがここでは旧暦で行われる=宮司によると今年は閏月があるので本当は8/20あたりが半年の節季らしいが毎年の祭礼のこと故7/31にしているとのことである。7年前から毎年来ているが、年々参加者が増えて今年は40名を越えることとなった。 LUMIX GX7+ZUIKO 12mmF2…久しぶりに使った(神事なのでおとなしいカメラ)がAF/AE/AWB/etc快適に写せる。アマチュアにはμ4/3の出来の良いカメラを勧めたい。

権宮司に教えられて蔵の後ろの笹藪を覗くと、なんと数十年に1回と言われる笹の花が咲き始めていた。境内の神聖な森を歩くと別の群落にも開花が見られた=俗説として「竹や笹の花が咲くと地震が起こる」と言われている。これはそれぐらい忘れた頃に開花(そして種を飛ばして枯死)するという例えだろう。...訂正:理系の友人の指摘で、これは笹そっくりのヤブミョウガの花と分かりました/取りあえず笹の大枯死は回避です。

2017.7.1

白山神社から大通りの反対側の急な丘を登って1本裏道へ入ると開発から取り残されたような場所が残っていて、通れるはずの道が「私道により通行禁止」となっていたり…道に迷って目的地になかなか辿り着けない。

ふたりの人に尋ねてようやく八尾屋於七の墓所に着いた。周りは上の写真のような古い家や新築のマンションに囲まれていて確かに分かりにくい。江戸時代の大罪人も地蔵尊となり、それなりの信心も集めているようだ。やはり物語のいきさつから歌舞伎役者の寄進も目立つ。今回は距離を歩いたため、ここで時間切れ(集中力が切れるため、通常撮影は1日5時間まで)。次の東京写真散歩は11月である。 FUJIFILM-X100S=なかなか綺麗に写る。AF速度が速ければより良いのだがスナップには少しもの足りない。後継機の100Tでもまだ足りず、100Fではどうなったのだろう。

2017.6.29

小石川植物園を出て、なおも文京区を東向きに歩く…最終目的地は根津神社だがどうやらとどきそうもない。大通りからメトロの駅横を入ると、こんなところに白山神社(本社は石川県の白山)が鎮座していた。境内は戦災・震災・開発などのため随分と狭くなっている。しかし威厳はあって、江戸へ全国から集まった人々が祖神を連れてきたのがよくわかる…写真にもあるとおり東京十社めぐりの一社である。

境内から大通りを眺めると、このとおり参道ははっきり残っており往時は参拝者や土産物屋、食事どころで賑わったことだろう。それにしても文京区歩きは高低差はそれほどでもないが平坦な場所はほとんどなく、登ったり下ったり…歩くのに難儀する。歩く姿勢が変わると疲労度も高くなる=ここも参道を下りながら道全体は右に傾いている。

2017.6.28

次は竹の場所だ=説明はハッキリしないが自然な植生に近く展示しているのが却っていいのかも知れない。うちの近所は食用の竹の産地であったが跡を継ぐ者もいないまま竹林が放置され、山全体がここに見られる竹の密な場所と同じようになってしまい、場所によっては道から一歩も入れなくなっている。

もう一軒の稲荷社、ここは少し新しく荒れてはいないし小さいながら社もある。背後は怖いような暗い森である。ハイカーもちらりと覗くだけで入りはしない…確かに聖域には気楽な気持ちで入らない方がいいだろうと思った。

2017.6.27

飛び石を歩いて池を越える…餌付けされた錦鯉が寄ってくる=ステレオタイプ化された光景である。

そして小さな湿地の横に気根を出したマングローブの樹木=ここは植物園ながら植物の説明板は充実していない。あくまで研究用ということなのか? 歩いても歩いても森林が続く。おそらく写真を撮りながら隅々まで歩けば、まる二日間はかかるだろう。今回は2時間ばかりかけて軽く一周回っただけだ…。

2017.6.26

山を下りて池の畔のメインストリート(?)へ出ると、中高年ハイキングの人達や若いカップルが集って賑やかになっていた。このあたりは植栽も手入れが行きとどき明るくからっとしている。確かに都心で安価にハイキングが楽しめるのはありがたいことである。

スケッチを楽しむ人も何組もいた。少なくともカメラを下げて写真を撮っているよりイーゼルにキャンバスの方が粋である。私も引退をしたら(いつになることやら…)ぜひスケッチ旅行もしてみたい。

2017.6.24

脇道に外れて丘に登れば、誰も歩かない(手入れはされている)場所に関東大震災の碑と記念石があった。何百年もの間、困窮した人々の避難場所だった。

丘を下ってメインの散策路に出る前の谷間の目立たない場所に稲荷社を発見…本殿はすでになく石造りの碑や狐像は崩れつつあり、本当の山に戻っていくのだろう。おそらく全体が東大の研究施設敷地となって宗教的なことに予算は付かなくなったと想像される。

2017.6.21

小石川植物園に入る…東京大学の植物園=広大な敷地に緑がしたたるようだ。 これは「メンデルのブドウ」遺伝学の証人が比較的ひっそりと生きている。

それなりの入園者がいるが、あまりに広く、木々が茂り、丘や谷や池にはばまれてメインの道以外には人の姿は多くは見えない。幕府の薬草園から始まったとなっているが、その後も窮民を収容したり、関東大震災や空襲の避難所となったようだ。そのような碑も森の中で見たし、ごく控えめに建っている稲荷社を二ヵ所で発見した。薄曇りの日が、より昨日の雨で元気になった新緑を綺麗に見せる。

2017.6.20

護国寺を出て小石川へ、今度は坂の多い表通りを歩く…新しいビルやマンションも見かけられるが、少し横町を眺めると、なんとなく昔の東京の風情が残っているような気がする=小規模な古い住宅地は値段が高すぎて開発がしにくいと見た。

いずれ古くからの町会なのであろう、町の景色も古めかしい…新緑の緑色以外はくすんだ街の色だ。

2017.6.15

下の赤門を下りて、ふっと左を見ると富士山のミニチュアがあった。関東地方にいくつも見られる(讃岐の海岸寺にもあった)富士講のための人工の小山で、これを登って代参とするのである。山頂まで2分の登山だ。

頂上には富士浅間神社の社と「大天狗光明尊位」の石碑が建っていた…ここでも天狗と遭遇、全国各地で天狗の足跡に出会う。少し寄り道をしたが街へ下りよう。

2017.6.14

護国寺の墓地は重厚である(以前に行った雑司ヶ谷とは別の重厚さ)…いずれ旧家・名家の一族の墓地なのだろう。もちろんよく見ると新しい今風の墓石もある…東京の一等地、さぞ高くつくのだと思われる。道を歩くとやはり周りの高層ビルは見えにくいように樹木が配されている。

ここも多くの写真を撮ったが先へ進もう…数は少ないがハイキングがてらの人もいる。都心としてはとても広く、境内を歩くにも障害や制限はほとんどない。隅っこのあたりでは少年野球の子供達がキャッチボールをしていた=これは許可を取ってのことだろう…これから小石川植物園に向かう。  FUJIFILM-X100S

2017.6.13

まだまだ文京区の町歩きを紹介したいが、それでは前に進まないので護国寺へ…ここで写真ワークショップのメンバーと20分遅れで合流した。この寺は観光地ではなく大きな檀家寺で本堂裏に広がる墓地も格別に立派なしつらえである。そして墓参りの人も多く観光寺院とは違った趣がある。

ふと境内の隅を見ると茶室があり、なにやらグループでの茶会が始まるらしい。回りをビルに取り巻かれているのだが上手く植栽を配して異空間を作っている。

2017.6.12

護国寺へ向けて「大通りから1本入った道」を歩く(私はいつも「1本入った道」を歩き、普通の人が見ない何かを発見するようにしている)。消防庁の訓練所があった…回りは閑静な住宅街、ほとんどかけ声を出さずに黙々と訓練に励んでいた。

次は消防庁の敷地の一角に新緑に囲まれて「災害時給水ステーション」があった…もちろん道に面している=これを知っている人はいるのだろうかと思う。

2017.6.11

さて翌日は雨も上がり快適な撮影となった。大塚から文京区方面の撮影だ…まず歩いて護国寺へ行く。大塚という地名は案外広く、豊島区から文京区まで「◯◯大塚町」と続いている…そのため1本道を間違えた。このあたりは道が放射状になっているため町名の看板だけ見ていたら三倍近くの距離を歩くことになった。開発途上の南大塚町、裏通りと表通りが壁一枚になっている。チェッカー盤のように新興の住宅と古アパート群が混在していた。

道を間違えた結果、遠回りとはなったものの予定にない場所が見られて得をした気分となる(脳の構造がそうなっているのだ)…大塚窪町公園、雨上がりに近在の人達が遊んでいた。背後は筑波大付属小学校の裏門だ。さすがに文京区に入ると町割りがまったく違っていて、緑が多く静かで広い。 大塚窪町公園…間違えた道筋も分かるだろう=私は京都と大阪の道は詳しく、迷うようなことはない(ほとんど碁盤の目の町割りなので間違いようもないし、間違えても簡単に復帰できる)。 FUJIFILM-X100S=それにしてもこのような条件ではとても良い写りとなる/扱いやすければFUJIFILM-X系ボディですべて撮るのだが…そう言えば前回3月に来たときもFUJIFILM X-Pro2だった(普段はSONY α系が多い=絵づくりは好まないが使いやすい)。

2017.6.7

日本堤、吉原の名前は消えたが「岡ぶら」で吉原詣でをした若い衆の歩いた日本堤の名前は町名にもバス停名にも残っている。背後に吉原の「大門」も見えるのである。

都電の始発駅「三ノ輪橋」に到着…常磐線の高架を越えて何でもない商店街にある。バラの植栽が名物で、雨の中電車に乗るでなし熱心に撮影をしていた。ここから大塚まで約40分、今日の撮影は予定完了。 FUJIFILM-X100S

2017.6.6

首切り地蔵の横の歩道橋から…巨大な貨物操車場だ。明治の頃は駅などはたいてい町はずれの無縁の地に作られたものだ=ひとつには広大な面積が要ったこと、もうひとつは駅には流れ者や疫病が運ばれてくるとの俗信があったため(実際そのようなこともある)で、私の田舎の生家でもそうだったし、昭和30年代でも祖母はそのように語っていた。今も高速道路のインターができると田舎では便利な反面、同じ語りが必ず聞かれる…瀬戸大橋が架かるとき橋桁の置かれた島のいくつかが島民しか出入りできないインターの設置を条件にしたのも同じ理由である。蒙昧と言うなかれ…半分は事実なのである。

こちらはバス操車場、陸橋を降りたところにある。南千住、雨で多くは回れなかったがここも再訪したい場所だ。すぐ先に友人いわく、東京で一番おいしいコーヒーを出す店「カフェ・バッハ」があり、しばし喫茶タイム…確かにおいしく店の雰囲気も良かった=コーヒー1杯570-1300円では最近の風潮としては入りにくいのだろう。特定の店の宣伝はしない方針だがあげておこう。…次に来たときは豆を買って帰ろう=やはり雨のため買わずじまい。

2017.6.5

小塚原刑場跡地…現在は一部が荒川区の文化財指定地として保全されているだけで、よく見ないと分からなくなっている。ここは延命寺の首切り地蔵の背後、刑場の跡地は一部が墓地として残されている他は、各鉄道線路(JR常磐線・貨物線・つくばエクスプレス・東京メトロ日比谷線が両側をひっきりなしに通過している)や貨物線の大操車場・バスターミナルなどの交通系公共施設となっている。ここが刑場の雰囲気が色濃く残っている場所で、20万人の刑死者の無念を感じ取られた。

こちらは史跡となっている小塚原回向院だ…基本的には墓地で正面奥の吉田松陰の墓(案外小さい)があるために史跡として保全がなされているのではないだろうか。

2017.6.4

南千住で降りて、小塚原(ここの写真は明日)を経て、初めて「明日のジョー」の山谷へ入る…とっくに正式な町名からは消えた町だが、大阪の釜ケ崎同様、町は存在する、商店街の景色もそっくりで今はシャッター通りでも往時の雑踏が想像できる。アーケードの屋根が穴だらけなので雨の日は傘を差して歩くことになる。

山谷の商店街を抜けると雨にぬれたジョーの像が交差点に建っている(少し目元が力石に似ていなくもない)…向こうは吉原、過去に2度来ていて、この像は見ていた。これから三ノ輪橋へ歩いて都電に乗って宿へ向かう。

2017.6.3

帰りは東武の大師前駅から電車に乗る。広い駅舎に駅員はいないし、改札機も出札機もない。そのままホームに上がり電車に乗るのである。あとで調べると都心としてはかなり珍しい存在らしい。

二階にあるホームも広くてよく清掃されている。ヨーロッパの駅みたい、と感じた(欧州に行ったことはない…)。ここが始発で隣の西新井駅で本線に乗り換え、そこで料金を支払うのである。正月には大師参りの人達のために臨時に駅員が配置されるらしい。

2017.6.1

さて雨も多少小止みになってきたので「かどや」をあとにする…外にも標語がたくさん出ている=「御食事専用入り口」の看板にも「相席のお願い」とその方法まで細かく指示している。店のショーケースの一番端に店の建てられた当時の写真が飾ってあった。

やはり昔のまま残ったらしい店…手焼き煎餅屋(今も奥で焼いている)とダルマ屋、やはり入り口は別だが同じ店だ。少し内外装に差があるので、ひょっとすると元は別の店で、近年に買い取ったのかも知れない。私の知人のテナントビルの大家さんも、経営不振で出た店(文具店)のあとを自分で経営しているケースを知っている=利益を出すのではなく色々な店がないと特定の客しか来なくなるのを防止するため(^-^) ともあれここもまた来たい店だ(雨なので煎餅は買わなかった)…よし!西新井大師にまた来ようと決心=3=3=3

2017.5.31

店に入ると昭和時代と言うよりも「戦前」の雰囲気だ。ほとんどの店は今風に改装したり廃業・転業して昔の門前町の味はなくなっているが、ここは「こんな食堂が昔はあったな」…セメントのたたき・不揃いな椅子やテーブル・品書き。入り口は二ヵ所あり、ひとつは「お食事専用入り口」と書いてある。別の方は何か不明…中はひとつの店である。

客はあまりいない…「代金は品物と引換」「酒類は取り扱っていない」「持ち込みはご遠慮」…標語が多い。シーズンには混雑をするのだろう。値段が東京相場としては格段に安い。麺類と甘党の店である…ひょっとすると、もうひとつの入り口は甘党客用かとも思った。外から見たのとは違って極めて清掃が行きとどいていた。焼きそば(大)450円を注文した。雨宿りにもなって満足した(次に来てもここへ寄ろう)。

2017.5.30

寺から出て、参道を駅方向へ歩く…雨は多少弱まったようだ。振り返ると工事中の山門と草団子や酒まんじゅうの店、食堂が並び柴又帝釈天を思い出させた。

更に一軒だけ残った古い門前の店、せっかくだからここへ昼食に入ることにした…ちなみに古くからの食堂の屋号で一番多いのが「かどや」と言われている。ここは面白かったので内部の紹介を明日にする。

2017.5.28

いつまでも本堂にいるわけにもいかず(あまり写真ばかり撮っているとお坊さんの目が険しくなっていく)雨の中境内を巡ることにした。まずは本堂の東側にある水子地蔵堂へ…おびただしい数の奉納された水子地蔵が鎮座している。近くに大師加持水(井戸)堂や懸仏額の架かった大師堂など小さな堂宇が並んでいた。

そして本堂の裏側へ回ると神様の領域となる。ここはその中で一番大きな「出世稲荷」の社だ…他にも水神や秋葉神、山の神その他多くの小さな社が並んでいた。 FUJIFILM-X100S=ワイドレンズとしては悪くないボケ味だ(フジの真骨頂か)。

2017.5.27

外が大雨なので本堂内をうろうろとする…この寺も例に漏れず「花の寺」を宣伝しているようで、ボタンの花があちらこちらに飾ってある(境内には牡丹の畑があり、かなり力を入れて育てているようだ)。この傾向は奈良や京都の寺でも同じで、檀家離れと寺社観光の隆盛が進行していると言うことだろう。

少し内陣へ…僧侶の数と同じの4−5人の小さな家族が祈祷を受けていた。何か深刻な問題があるようで、内陣に離ればなれに座る家族の表情は悩ましげに感じられた。

2017.5.26

本堂脇にたくさんの提灯が上がっていた…:大雨の中、境内のあちらこちらに露店の屋台の準備も見えて、どうやら近日中に縁日があるようだ(たぶん21日の大師の縁日)。西新井大師

本堂を覗くと、おりしも一家数名の祈祷が行われていた。ガラスの反射で見えにくいが護摩焚きの火が見える。 ふだん28mmレンズを多用するためFUJIFILM-X100Sの35mm画角では「踏み込んだ写真」となっている。

2017.5.25

境内を歩くと占い師の小屋があった…どうやら仮設小屋とはいえ常設らしいが、お寺に占い師が常駐しているのは珍しい。

本堂前の藤棚の咲き残りの下から…さすがに本堂は大きく広い。正月やその他の節季には超満員になることが想像される。 FUJIFILM-X100S=ストロボの光の回りはあまり良くない。補助光程度に割り切った方がいいだろう。

2017.5.24

下町をしばらく歩くと、西新井大師 総持寺に着いた。私は横から入った(もともと4ヵ所ぐらい入り口がある)が、傍の山門(重文)は改修工事のために閉鎖されていた…つまり平成30年11月の竣工までは正面から入れないのである。雨はだんだん激しくなる。

山門脇の塩地蔵に目がとまった…説明によると「いぼ取りに霊験あり」となっていて、塩をかけて願掛けをし、ご利益があったら最初の倍の塩をかけてお礼をすることと伝えられている。そのためお地蔵さんは頭から足元まで雪が積もったように塩に覆われている。ここは荒川筋、埋立前は海に近かったのだろうか。

2017.5.22

翌日は雨の中、足立区の西新井大師を目指した。ホテルから一番早いので、日暮里舎人ライナーに初めて乗って行く…ライナーと言う割りには小さくて遅い(モノレールに乗っているようだ=その代わりすいている)。駅の周囲は「大師」と言うにはモダンな町並みであった。道路も含めて舎人ライナーが通ったときに再開発があったのだろう。

寺まで20分ばかり歩いていく…最初は新興住宅街とB級ビル群だったのが(ところどころに古い町工場や倉庫があって、どうやら昔は中小企業の工場地帯と推測)途中から古い家や畑が見え始め、ついに地元の古くからある足立区立西新井第一小学校に着いた。知らぬ間に大師の門前町の裏側に来たのである。

2017.5.21

そして最後に不忍池へ…弁天堂では合祀されている宇賀神王(人頭蛇身の神)浴酒秘法供なる神事(法事?)を実施中である。いつも夕方に寄るので参拝者・観光客の疲れている場面を見ることになる。

弁天堂脇にやや広い休憩所があり、人が多く休んでいる。着物の女性の帯の模様(猫が縁側で寝ている姿)のセンスが良くて写真を撮った。ここはやはり水に囲まれ公園の他の場所より2℃ぐらい気温が低い…この季節、水がまだ冷たいのと、池の水と街路の比熱差で風が起こるためである。私も30分程度休憩して駅へ向かった。

2017.5.20

こちらは東照宮前の古くからの東照宮第一売店(すでに第二はない)、前回・前々回に来たときは閉まっていたので心配だったが、今回は老夫婦の接客でなかなかの盛況である。

穴稲荷に降りていく階段(参道)の鳥居に「る組」の刻印があった…昔の火消しの信仰があったのだろう。下には天神さんや弁天さんも祀ってある。

2017.5.15

上野動物園前の遊園地は前回来たときは「閉鎖」となっていて、今回は遊具のすべてが撤去されていた=なにもなくなると案外狭いことが分かる。もちろん前のパンダ焼きの店もなくなったままである。

全国から集まってきたB級グルメの露店群…なぜか歩道路面には真っ白なシートで覆われていて眩しいことこのうえなし。今回の東京では、ここに限らず欧米系の観光客が目立っていた。

2017.5.14

金土日で東京へ行った…1は写真ワークショップ「フィールド写真講座」(これは事務局がすべてアナログで運営しているためにネット検索にはかからない)の合評会と撮影実習、そして下見を兼ねて自分で関東各地を訪ねる(これで三日間となる)。初日は例によってユックリ目に上京し、20回目ぐらいの上野公園に午後2時半に到着…気温29℃、風の通る木陰で5時まで(私は時刻表記に24時間制はとらない)の半分近くは休んでいた。それでも1時間半程度公園のあちらこちらを歩いた。8年に渡り、年に3回程度来るので変わらなさそうな公園の景観も微妙に変わっていく。この日は今回は「全国B級グルメ」の屋台がたくさん出ていて、その周りにも大道芸人がパフォーマンスを繰り広げていた。その中で一番がこれ…アーティスト自身が塑像になって微動だにしない。おそらく歩行者の半分以上が気がつかなかったに違いがない。私はもちろん気がつき写真を1枚撮った…それでも動かない。そして前のお金を入れる壺に硬貨を入れると…ウィンクした。そしてまたフリーズ…彼のアートの成功を祈りたい。

新緑の季節なので、今回は緑のきれいに出るFUJIFILM-X100Sを持っていった(三日間これだけ)。しかしスナップには不向きである。すべてはAFの問題/遅い・遠近競合/あげくの果てに合わない(@_@) ともかくジックリと撮ることだ=画質はいいし、持ちやすいし、ハイブリッドファインダーは目が疲れなくて良好だ(むしろEVFが要らないぐらい)。またこのカメラの活用法を考えなくては…FUJIFILM-X100も持っているのである。

2017.5.11

海王丸パークを出て海岸沿いに東を向いて走った。四方の町を過ぎると神通川の河口域だ…たった2日間の駆け足能登・富山旅行だったが成果はあり、ここからは時間までフィールドで粘るだけである。春霞みの海に地元の人が釣り糸を垂れ、河口に白い灯台の見える呑気な景色と思われたが沖合には保安庁の巡視船が浮かび、改めて日本海側の緊張を思い出させた。

時刻も迫ってきたので夕陽を受けつつ勝手知ったる神通川(20年ぐらい前に富山の河川文化を訪ねて何度も通っていた)を河口から遡った。ここはもう中流域、向こうは富山市街地だ。以前にはあまり見かけられなかった家庭菜園が広がっている=実際、以前は一級河川の大部分は一般の人は利用はできなかったのである。当時のテーマのひとつが「川は誰のものか」は「皆のもの」が定着しつつあるように感じている。私の研究活動が一助になればとも思う。これで北陸旅行は終わり…明日から東京だ。3日間ばかり更新はできないが、東京写真散歩をアップしよう。

2017.5.10

おやこんなところにも「恋人の鐘が…」と思ったら、これはれっきとした艤装品のタイムベルである。1点鐘、2点鐘の時刻を告げる。「号鐘乱打は非常事態の警鐘で、不吉なのでやめましょう」と注意が書いてある。

ふと上を見上げると青空を背景に3名のスタッフが畳んである帆の手入れをしていた。帆走することがあるのだろうか?それとも見栄えを良くするためだろうか? Zeiss Vario-tessar E16-70mmF4は逆光にも強い。

2017.5.9

海王丸艦内二景…日本丸に比べて機関部など公開していない部分も多かったが、雰囲気作りはこちらがいいかも知れない。なるべく当時のままで掃除や補修が行き届いているようだ。

士官サロン。天井は甲板に天窓が抜けている…元はステンドグラス(今も一部残っている)で調度品も一級だ。このような洒落た記念撮影もできる。

2017.5.8

海王丸乗船…船そのものは同じようなものだが停泊してある場所がまったく日本丸とは違う。横浜ではドックのようなところに「展示している」ような感じがするが、こちらでは海岸の岸壁にじかに停泊していて、いつでも航海に出られそうである=そのため何年か前の台風の被害にあった。

内部も日本丸とほとんど同じだが、富山湾らしい部屋があった。船上から撮った富山湾の大パノラマ写真が小部屋にぐるりと貼られていた…春の富山湾の景色で、富山のひとつのシンボル・立山連峰の冠雪が湾を囲むように見える=と言ってもいつも見えるのではない。よほど空気の澄んだ初春に限られる。私も30年間に何十回も能登や富山に来ているが、この景色は1−2度しか見ていない。今回も花曇りで微かに稜線が見えていただけである。

2017.5.7

県営渡船「海竜」、オレンジ色がトレードマークだ。この船が老朽化したときが次の試練(つまり航路の廃止の可能性)となるだろう。

さて連絡船乗り場をあとに、大橋をくぐって海王丸パークへ…ローカルな観光地として多くの人が集まる。埋め立て地は広くて、かなりの人数でも人口密度は低く、駐車場も無料で広い。先日の横浜訪問で立ち寄った日本丸に続いて姉妹船の海王丸に乗り込むことにしよう。その前に公園内の日陰で弁当を広げた。フェーン現象で暑いし、空気がきれいなため紫外線も強い。

2017.5.6

富山新港は深い湾のようになっていて周りを工業団地が取り囲んでいる。その昔は放生津という大きな潟(海辺の湿地帯)であった。

対岸の堀岡港に付く。こちらにも立派な職員事務所と待合室や駐車場が完備されている。何人かが下りて、何人かが乗っていく。ここから先の線路は廃止されたままだ(線路跡は辿れるかもしれない…次回は探索してみよう)。

2017.4.29

さてようやく乗船開始(実際はバス・電車の到着から10分以内)…自転車は載せられる/以前は大型オートバイも可能だったが、どうやら禁止となったようだ。船は一般的な短距離連絡船としては頑丈な造りである。埠頭も浮き桟橋ではない。

出航、待合室や事務所(右の建物=異例に立派)はしっかりしている。代替バスが走り、橋の架かった今は副次的な交通手段だが、10年前までは対岸との唯一の公共交通だった。そして1966年までは線路は対岸の堀岡から富山北口駅までつながっていたローカルの幹線だったのである。1966年富山新港の開削のため低い路面電車と車道・歩道の橋は落とされ(この辺の事情は不透明である=赤字路線の廃線案が先にあって、開削をきっかけに実行したと思われる/聞き取りでは「台風による水害で落ちた」とも言われているが、これは「建前」だろう)路線も廃止となった。立派な発着場、立派な船、バス・電車の確実な連絡…すべてが住民対策で始まったものである=海王丸パークが整備されるまでは観光客は乗っていなかったし宣伝もなかった。したがって後ろに見える大橋が開通したあとも連絡船は残った。大橋は全国的にも珍しい車道の下に歩道があり、歩道まではエレベーターで上がるようになっている。ここでも行政の並々ならぬ地元対応が見えている。

2017.4.27

伏木を経て越の潟の県営渡船へ…富山新港の湾口に大橋が架かっても、その至便性により渡船は廃止とならなかった。そして行政も民間も不思議に力を入れている。連絡船は30分に1本だが、その発着に合わせて乗客は少ないものの必ずバスがやってくる。

そして路面電車もレトロな広告をしょって同様にバスと同時刻に終点のここへ入ってくる=こちらは少し乗客が多い。向こうが大橋。富山市と周辺には複数の鉄道会社の路面電車が多く残っており、市街地では最新のヨーロッパ型の低床車両も走っているが、この路線ではクラシックな電車をクラシックな意匠で走らせている。それと言うのも橋の向こうの一帯は海が埋め立てられて「海王丸パーク」があり、新しい観光地として整備が進みつつある(ここだけではなく他の路線も生活路線と観光路線を兼ねている)。その名も高岡と新湊を結ぶ万葉線と言う。

連絡船の待合室は昭和時代そのままの風景で、実際に通勤・通学・買い物などに利用されている。しかも県道の替わりなので無料なのである。

2017.4.25

そして恒例の藤子不二雄A氏の「からくり時計」…これも桜の季節に見るのがいい。30分ごとに4分間動く。

氷見の市街地を出て伏木へ向かう途中、JR雨晴駅へ立ち寄る…ここでも別のラッピング列車だ。のと鉄道に比べるとぐっと地味で、当地の名物や見どころを表している。ここは無人駅だが駅舎には観光協会の事務所があり、その管理人が改札口に陣どり、鉄ちゃん達の写真撮影に目を光らせていて、悪くない景色であるにも関わらず誰も撮影者は居なかった…観光協会が「新しい」観光客を阻害している一例である(もう温泉・舟盛り料理・カラオケ…では集客は難しい)。

2017.4.21

翌日は七尾を出発し、無料高速道路で氷見に来た(今日も花曇り=春は花曇りに限る)。目当ては市内中心に流れる湊川(その昔は川湊で水運はここまで上がってきて荷を積み下ろした)での恒例の花祭りである。ここも毎年寄るのだが満開ピッタリは数えるほどしかない…今回も少し散りかけていた…散る桜もよいものだ。地元のNPOの主催でサクラの期間だけの伝馬船遊覧が目玉である。最近の外国人観光客の増加はここでも急で、韓国・インドネシアなど…今日はベトナム人のグループがアオザイで着飾っての乗船だ(おそらく富山の工場で働いている人達)。乗っている間も皆でベトナムの田植え歌のような曲を合唱していた。「爆買い」などとは無縁の、まことに微笑ましい光景だ。

私も25年来の旧知の船頭さんに櫓漕ぎの遊覧伝馬船に乗せてもらった(大人1回500円=とても安い船遊びだ)…かけ声勇ましい船頭さんは当地の最後の船大工であり、何度か一緒にシゴトもし、これからも付き会い続ける人なのである(そしてこの季節に毎年来ては乗せてもらう)。この船も彼の造った船で、最近アーティストの若者が弟子入りして木造船建造技術の継承を計りつつあるらしい(もちろん職業として成り立つほどの需要はない)。私も専門の木造船の記録と保存に残りの生涯を使い切るつもりだ。今日も朝から絶好調=3=3=3 SONY-α6000+E10-18mmF4/川は実際は写真より狭い。

2017.4.20

七尾湾を回って田鶴浜のカキ養殖の加工場へ到着=ずいぶん日が長くなって撮影にはよくなった(これから暑くなるが…)。すでにカキ養殖組合は高齢化のために操業は2−3年前からしていない。30年前から訪ねていて、当時としても高齢者が目立っていたが結局後継者は育たなかったようだ(カキが穫れなくなったのではない)。そろそろ工場の周りにも草が地面を覆いつつある。 SONY E10-18mmF4…かなりシャープ、かつ直線が真っ直ぐ写る(Canon EFS 10-18mmF4.5-5.6も同様)。

肝心の「能登のマルキブネ」はなんとか健在である…これらのうち(4艘ばかりある)1艘を博物館に収蔵できたらと思っている。能登のマルキは大中小とあり、中と小はすでに収蔵済みなので大も残したい(故瀬嵐の船大工も望んでいた)…おそらく1艘は可能だろう。

2017.4.19

能登鹿島駅の駅前広場…夕方の光を受けて多くの人が集まり、おおいに盛り上がっていた…さて日暮れまで次の訪問地があるので退散としよう。また来年=3=3=3

田鶴浜へ向かう道の途中、能登中島駅近くの踏切で、またしてものと鉄のラッピング列車と遭遇、普段は1時間に1本あるなしの鉄道だが、どうやら臨時便を出している模様だ(最新のディーゼルカーは煙を出さないし音も静かなようだ)。

2017.4.18

西岸駅をあとに隣の能登鹿島駅へ行ったら、こちらも大盛況で海沿いの道に駐車車両がはみだして渋滞が起きつつあった。ついにパトカーが出動し「違法とは言えない」駐車車両を排除した(無余地駐車?)もちろん切符は切れない…あくまで「迷惑ですから…」である。観光地として行政も、のと鉄道も売り出して成功しすぎるとこんな具合となる。12年前初めて来た頃は農協の婦人部が小さな出店を出していて手作りの草餅を売っていた(これがおいしかった)程度だったが、露店は5倍ぐらいの規模になり、すっかり地元だけではなく遠くからの観光客が定着したようだ。好天好日…12年間に11回同時期に訪問したが、桜の満開に早かったり遅かったり雨が降ったりで、今回のようなドンピシャリは3回だけだ。写真記録はそんなものである。

4時26分、やはり偶然に七尾行きと穴水行きの列車の行き違いに立ち会えた(ここでの単線行き違いは珍しい=西岸でもここでも運がよい)。西岸と違って観光客は賑やかだ。 Zeiss Vario-tessar E16-70mmF4

2017.4.17  途中だが横浜の旅は終わり、能登から富山の旅になる…富山では横浜の日本丸の姉妹船である海王丸に乗船・見学をした。

 能登への旅では、まず直接能登半島へ走り、そこから何かする道を選んだ(いつもは北上し最後に能登鹿島駅で旅を終えていた)。最初の停車はのと鉄の西岸駅だ…毎年立ち寄るが、アニメの舞台として有名になり(私はアニメを見ていない)年々来訪者が増えていた…今年は駅前の空き地が車で一杯になり、駅に数十人のアニメマニアと鉄道マニアが集まっていた。偶然だが鉄道会社や七尾市が観光の目玉にしていて、ついに特別仕立の列車「急行ゆのさぎ」を走らせ、この駅で長時間停車の「お披露目」をしているのに立ち会ったのである。普段無人駅なのに貫禄のある駅員さんが気軽に観光客と話をしていた。

 「ゆのさぎ」のファンクラブまでできたようで、赤いクラブジャンパーを着た会員が場を仕切っていた…運転手も下りて30分ぐらい停車したままである。駅員と勘違いした上の鉄道員は運転手だったのである。とても和やかな人々ばかりで、たまに見かける我がちに写真を撮るのでもなく、数十人の人達は私の背後や汽車の中でワイワイと楽しんでいた。

 そして午後4時に発車=3=3=3 今年の桜シーズンに合わせた新しいラッピングで七尾方向へ走り去った。 α6000+SONY E10-18mmF4=ボディ補正も効いているのだろうが全くと言っていいほど歪曲は見られない。

2017.4.1

訓練船・初代日本丸船内へ入る=広くてあらゆる場所を公開しているが、あまりに膨大な資料となるため2カットだけの紹介としておく。ここは船長室、続きに応接間もある。実習生は当然に2段ベッドの4人部屋で、船員(訓練官)は個室としてもずっと狭い部屋である。ベッドの上に飾っている「日の出と岩」の毛布は、この船に限らず、船では毛布や布類をたたむときに色々な形にするのが慣習としてあるもののひとつだ(ホテルなどのレストランのナプキンなどにも見られる)。

通信関係の部屋。戦前建造の船だが廃船となるのは1980年代のため、何度も改装をなされて、アナログ機器に混じってコンピュータなどのデジタル機器も備えられている。

2017.3.25

日本丸に乗船すると、小学生の体験型遠足と出会う…おそらく度々行われるようで指導する職員(保安庁?)も慣れたものだ。命綱をつけてドンドン舳先へ登っていった。ここでFUJIFILM X-Pro2のAWBが妙に振れて青くなってしまった(この絵は青を押さえている)=なぜかは少し調べないと分からない。

船内に入るとノット結びのパネルがあり興味深く思った(私は二種のノットしかできない)。偶然によって船関係の民俗・地理学の世界に入ったのだが、何十年も続けていると愛着が出てくるというものだ。

2017.3.22

背中でバシャバシャ音がしたので振り返ると、水陸両用バスの登場だ(神戸にもいる)…これで陸の名所を巡り、直接海に入って海の名所を回るのである。新しい観光で乗客も多い=この船以外にもう一艘(1台?)が動いていた。

そして日本丸、大きすぎて28mm画角では離れないと全体を撮れない。しかしFUJIFILM X-Pro2はPro1より画質は優れている(同じ画素数のα6000よりもいい=もちろん本来はα6300/6500と比べるべきだが)。

2017.3.21

センター北駅から地下鉄一直線で桜木町へ(遠いが乗り換えなしは田舎者の私にとっては良好)。さて昼食をと正面のビルに入ると「ワシントンホテル」…ここは次回来訪時に泊まるホテルであった=偶然ながら次に迷わなくて済む。横浜港は関東でも好きな場所のひとつで今回で4回目となる。

大抵が半日の訪問だったので少しずつ横浜を回っている…今日はとりあえず日本丸の展示へ向かった。ふと見上げると街灯に各国の国旗がたなびいていた。港の景観が好きなのである。

2017.3.17

まったく人の気配が感じられない横浜・センター北の灰色のニュータウンであった。 2017.3.4 am11

ここをあとに神戸港へ向かおうとして駅へ戻ると、遠目にはガード下に不法投棄が…と思ったが近寄るとホームレスの物置場らしい。初めて濃厚な人の存在を感じた…真ん中の赤枠の看板に「3月19日から花壇にする工事が始まる」旨の告知が書かれていた。

2017.3.16

翌日は、まず横浜市立博物館へ行って、専門とする和船の展示を見学した。横浜市営地下鉄でずいぶん山の方へ走り、「センター北駅」で下車、大ニュータウンが広がっているが、どうも人気がしない。ちょうど神戸の西神中央とソックリだ=その時も神戸三宮から嫌になるほど地下鉄に乗って、明石との境あたりのニュータウンにある埋蔵文化財センターに行ったときと同じ気分であった。

展示はキチンとしていてモノによっては撮影可(この丸木舟も)である。ただの丸木舟に見えているが構造や樹種に意味があり、その辺のうんちくは長くなるので書かない。図録も非常にシッカリしたものを作っている。

2017.3.15

とにもかくにも大盛況のダルマ市、各露店の場所決めも決まっていて、良い場所にはたくさんのダルマがあり、どんどん売れていく。

境内の隅に「開眼所」があって、どうやら目を入れて貰うようで、やはり行列ができていた。同行の友人も古いダルマを返納して新しいダルマを買ったので、ここを退散する=二人ともひどい花粉症がでているためだ。もう駅まで歩かずに三鷹行きのバスに乗ることにした。それにしてもFUJIFILM X-Pro2はLeica-Qと非常に似た絵を造る(X70も)シャドウの締まりが良くて暗部にノイズが少ないのである。

2017.3.14

深大寺山門に到達。有名な割りに山門は小さく、境内もそれほど広くはない(山域は広い)。混雑はするものの比較的ノンビリとしていて浅草などと比べると「危なくない」ような気がする。ここは江戸で二番目に古い寺院なのである(一番は浅草寺)。

強化ガラスに守られて本尊が公開されていた=国の重文「釈迦如来倚像」(白鳳時代)立像でも座像でもなく腰かけた姿は珍しい。このような像を倚像と言うらしい。

2017.3.10

天神さんを抜けて深大寺へ向かう。同行の江戸っ子の友人も久しぶりに歩いて町並みの変貌に驚いていた。ずいぶんと新しい家が増えて昔からの和風のしもた屋がほとんど見られないのである。さて広い道をしばらく歩くと深大寺の参道への曲がり角に来た…今日はダルマ市、ダルマの着ぐるみを着た人達がお出迎えだ。

平日にも関わらずさすがに人出は多く、露天も大繁盛である。特にダルマ屋は稼ぎ時のため熱心だ…伝統的なスタイルばかりではなく緑やピンクの変わりダルマも多く見られる。関西では見たことがない市である。

2017.3.8

東京への旅…まずは京王線調布駅からスタート。駅前からの商店街に「Tenjin st.」の名前があり、天神社があるのかと思った…あまり人出はない。

道を進むと、やはり天神社があり、商店街は昔の参道だと分かった。境内には満開の梅の花が…なぜ天神(菅原道真)が梅なのか?理由は推測がついているが今は確信とまではいかないために書かない。ともあれ天気は上々、気候も良し…ではあるが初日から花粉が舞い具合が悪いことこの上なし…。 FUJIFILM X-Pro2+FUJIFILM X-18mmF2=これだけで三日間写した。やはり画質は最高ながら使い勝手が良くない(慣れでカバーするしかないのか?)。

2017.2.11

墓地の丘から反対側の地区へ下りる道…こんなに細いのである。今は舗装され簡易な階段となっているが以前は地道の急坂であったことだ。おそらく両地区ともに裏山になる墓地は穢れの対象として忌避してきたのだろう。それにしてもこの頑丈な石垣はなんのためだろうか。

そのあとも小雨の降る中を歩き回ったが日も経つことだし、ここら辺で島をあとにしよう。連絡船待合室には客はひとりだった。

神島へ帰る最終便がやって来た…ここからは3名程度だがみっつばかりの島を巡っての寄港のため乗客は20名程度はいただろうか。また気候が良くなったら来る機会もあるだろう。 FUJIFILM X-T1+FUJIFILM XF18-55mmF2.8-4R

2017.2.1

墓地の丘のてっぺんからの景色=パノラマ写真ではないため特につながっている訳ではないが(FUJIFILM X-T1/18mmで撮影)だいたいのことは分かるだろう。左の島の中心部を見ると連絡船の桟橋が見え、海洋センターの体育館や学校、丘の麓に伸びる旧のメインストリート(ここに郵便局や散髪屋がある)と学校の下を走る新道が見えている。向こうの山々も白石島で島の大部分が山林だと分かる。

まっすぐを見ると、東の集落と右の集落(正式の小字名は聞いていない)が尾根を挟んでくっきりと分かれているのが見てとれる。真ん中の山の頂上に鎧岩があり、その左の谷を下ったあたりの村はずれに開龍寺がある。戸数は左の地区が3倍以上だろう。尾根の奥にも両地区を結ぶ道があるが、かなり遠回りとなるため用があるときは墓地を上り下りする。

そして右を見ると、すばらしい砂浜が左側とは違う景色を作っている。観光客はこちらへ来るし、ひょっとすると人口密度はこちらが高いかも知れない…ただし店や公共的なものはほとんどないため、左の地区への依存は必然である。それにしても墓地はきれいに片付けられて大切にされていることが分かる。前回来たときは彼岸だったため島外に出た人もたくさんお詣りにきていた。

2017.1.31

浜の民宿街に以前訪れた時の見覚えのある辻を発見=ここが丘の反対側の地区(下の郵便局や港のある場所)へ通ずる一番近い道なのである。

道を詰めると丘になり、丘は全体が広い墓地になっている。ここは丘の両側の裏山となり、両地区の墓地でもある。したがって両地区を行き来するには墓場を通り抜けることになり夜などは怖いかも知れない。浜づたいなら3倍以上の距離となる。ここには見る限り両墓制は残っていない。島は土地が狭いため集落の規模の割りに墓地の面積が大きい…先祖代々この島に暮らし死んでいった証である。

2017.1.29

寺を後にして浜沿いに山を越えた地区へ行く。こちらは砂浜が発達していて、夏場は海水浴客で賑わう場所だ。観光旅館や民宿も多く、海の穏やかさも手伝い、本土から船で30分の至便性が良いのだろう。

そして浜の向こうは福山の工業地帯だ。潮流の都合なのか工場排水の浄化が優れているのか、至近距離でも海の水は綺麗だ。この浜にアメリカ人女性ライターの店"MOOOO"があり、ネットを通じて世界に向けて白石島の良さを発信している=したがって瀬戸内の離島としては白人系の外国人観光客が多い。

"MOOO"の外観…この日は冬場の雨の日で休業=土産物や海水浴用品、白石島の産品、そしてカフェバーを営んでいる。壁の模様は白石島のシルエットでオリジナル商品の意匠ともなっている。 http://dailymoooo.blogspot.jp/

2017.1.26

境内の外れの高台に最近(下の境内案内板には書かれていない)整備した広場あり(元は墓地)立派な仏舎利塔が天を突いている/横には仏足石があって、これらの後ろに昔からの墓石が立ち並んでいる。

広場の落ち葉を踏んで、かなり強烈なパワースポット開龍寺をあとにする。 FUJIFILM X-T1

2017.1.23

小雨の中、更に奥へ進むと太子堂が見えてくる。周りを岩で囲まれ、岩窟寺院の趣だ=実際は人工的に岩で囲んでいる…しかし昔の技術としては難工事だったに違いない。左に笠岡最古(1600年代)の石灯籠が、右に岩窟から湧き出す大師水が見られる。岩と水、これが島の神聖な場所のキーなのである。

堂の裏側へ回ると不動明王が立ち、制他迦(せいたか=たの漢字が出ないため他で表記する)・矜羯羅(こんがら)の二童子を従えている。堂は表は古めかしいが、やはり湿気がたまり、陽の差さない奥は新しく修復されている。

2017.1.21

雨が激しくなりお昼になったため、開龍寺本堂で庇を借りて昼ご飯と雨宿りとした。遠くに見えるのが鎧岩。

その後また境内を奥へ進むと不動岩や力石に遭遇…古来からの巨石信仰と修験道・仏教が入り混じった全山が聖地なのである。

2017.1.7

町はずれの高台に開龍寺と四社神社が見えてくる。ここも島の規模から考えると非常に広く格式もある…おそらく一時荒れていたようだが現在整備が進みつつある。 http://www.asahi-net.or.jp/~wj8t-okmt/400-02-kasaoka-siraisizima-kairyuuzi.htm

現在はハイキングコースのようになっているが、本来は修行の山で、修行僧や行者が険しい山中を回峰していた=地図には載っていない細い道も多い。完全に神仏混淆が現在も残されている。上の写真の一番高い場所に「鎧岩」http://shiraishijima.net/hilight2.htmlが見えている。

2017.1.6

そろそろ中心部を過ぎるあたりから更地が見え始める…この島は海運全盛時代があったため、お屋敷が多く、無住になっても綺麗に壊して近所に迷惑をかけない見識がある。本土に出た後に島に帰って余生をノンビリ過ごす人も多いようだ。

町はずれに近い場所に今度は散髪屋があり、やはり客は見えないがちゃんと営業している=店の主人も姿は見えないので、やはり奥でお茶でも飲んでいるのだろう。 FUJIFILM X-T1=解像線は立っていないが軟らかみのある写りをする。

2017.1.5

前回は営業していた骨董品店(民具)は廃業していた…外に置いてあったものはそのままだ。前の板壁は破船の船材を転用したもので、これは各地に残る習俗である=ところどころに船釘が見えるので船材と分かる。船木は上等の材木を使ったので(高級というわけではなく、丈夫という意味+長尺の板のため使いやすい)破船となっても利用されるのである。

徒歩5分で中心を抜けるのだが多くの店(営業中・廃業も含め)があり、往時の繁栄が思い浮かぶ…と、美容院らしき建物があった。看板もなく、玄関の上に書かれた店名も、もはや経年変化で読めなくなっていた。しかし覗くと電気が点いていて、人影は見えないが店内は整頓されている。おそらく、たまのお客さんは奥へ声をかけると店主が出てくるのだろう。 

2017.1.4

さて正月三が日も終えたので、白石島に戻る。島の中心街を歩くと商店が一軒あり、その傍に真新しい郵便局があった…この島は大きく観光客も多いため郵政の予算も下りるのだろう=実際問題として島歩き(時々山歩き)の多い私にとっては全国にある小さな郵便局は便利でよい。そもそも民営化した現在でも「局」というのが面白い…郵便配達も全国の離島に委託も含めて配られている。

その向かいを見ると美しい洋館が…これが旧の郵便局である。田舎にありがちの地元の有力者が運営していたもので、局舎が新しく建てられても保存されている。なお新局舎の右にかかげられている「白石島郵便局」の看板は旧から移設されたものである。 FUJIFILM X-T1

2016.12.26

知多・篠島への旅に寄り道する(いちばん最近の旅)。さすがに観光地、島に上陸すると船の待合所が瀬戸内の同規模の島に比べて規模も内容も4倍ぐらいの充実度だ。土産物コーナーや喫茶室はもちろんのこと、建物前には鯛の張りぼて、花壇まで整備されている=船便も高速艇やフェリーが多く発着している。

しかし待合所の裏へ行くと、すぐに寂れて閉鎖された名鉄経営のリゾートがあった(これはまた解説する)。やはりバブル期に大々的な観光開発があったのである。今はシーズン外れのこともあり、島は静かなものだった。フェンスには同じポスターが2枚貼られていて、去年と今年の分らしい…色の劣化でそれが分かる。 SONY α7+SONY FE28-70mmF3.5-5.6…このレンズは周辺が崩れるので風景には向かず、上やこの写真のように奥行きのある立体的な写真を撮ることで弱点は解消される=私の写真はおおむねこのようなディスタンスが多いため問題はなさそうである。

2016.12.25

笠岡市・白石島上陸…船着場の前に島の碑があり、その隣に昔の海岸が少しだけ残されている。波際の岩に不動明王の像が彫ってある=長年の波で不明瞭になっているが確かに肉眼では見える(写真だとハッキリしない)。ここを起点に1日島歩きだ。

どこの港でも見かける風待ち旅館があった(現在は廃業)…ここから町の(この島は大きく、集落は町というのにふさわしい)中心へ歩いていく。もちろん町とは言っても過疎のためたくさんの人が住んでいるわけではない…センサス資料によると人口は581名=住民票だけ置いていて島外に住み時々帰るような人も多いため実際には500名程度だろう。弱い雨が降り続いていた。 FUJIFILM X-T1+FUJIFILM XF18-55mmF2.8-4R

2016.12.24

笠岡市神島外浦港から白石島へ渡る。神島は元々離島だったため埋立で本土とつながった今も、笠岡港からの連絡船の寄港が一部あるのである。笠岡湾は奥深く、島へ渡るのと同じぐらいの時間がかかるのと、なぜか駐車場が不備で、笠岡諸島に渡るときはいつも時刻を合わせてここからだ。山の向こうが笠岡市街…神島外浦も海運時代の繁栄をとどめた景色があり、今も何軒かの旅館が営業をしている。 船内には乗客よりも荷物の方が多いぐらいで、いかに航路が生活の要になっているかを思わせられる。最初の島である高島を経由して白石島をめざす。 FUJIFILM X-T1

2016.12.23

さて翌日は大雨で、倉敷から笠岡へ海沿いの瀬戸内本州側で最も静かな道を走った。倉敷と笠岡に挟まれた浅口市三ッ山スポーツ公園に立ち寄る…寄島地区の大規模な埋め立て地に各種の施設や公園が建っている。ここが元々はこのあたり唯一の海水浴場を中心としたローカルな観光地であった。沖合にみっつの小島が並んでいる景色…すでに放棄された展望台があり瀬戸内海の地先が一望できる(この案内板以外は取り壊されていた)。名前は公園名に残されているが、前回来たときはどれが三ッ山か分からなかった=今回は岬を巡る細い道へ入り、その突きあたりに「発見」したのである。三ッ山は可哀想なぐらいに小さく、天候の悪さもあってか誰もここへ足を運んではいないように感じられた。これから笠岡神島外浦港へ向かう。

2016.12.22

また日生に戻る…大多府島の取材を終えて、すっかり暗くなった海の連絡船から島を振り返ると、カキ加工場はまだまだ動いていた…それにしてもデジタルカメラ時代になって「目で見えなくなっても」写真が撮れるようになった=フィルム時代は「せめて目に見えているぐらいは…」だった。それが今では現実的に肉眼で真っ暗であっても写せる。…頭島まで、たった10分の航海だがどんどん暗くなり、曇った空から夕焼けも少しでてきた。遠くの大きな島影は小豆島、近くの島は鴻島…走る船からの撮影なので海面は流れているが、遠くは角運動量の差で止まるのである。暗くなったら、1.シルエットで狙う。2.被写体ブレを防ぐために止まったものを写す。3.動いているなら遠くを写せ…FUJIFILM X-T1+FUJIFILM XF18-55mmF2.8-4R

2016.12.21

旅の1日目は知多の篠島である。三河の有人島は日間賀島・篠島・佐久島と並んでいるが、船は行政区分の都合で佐久島は西尾市一色町から、あとは知多の師崎から出ている。知多半島は工業地帯としても観光地としても栄えていて、鉄道や高速道路が名古屋方向から繋がっている…ちょっとした地理条件の違いで対岸の渥美半島とは大違いである。船便も数多く(高速艇・フェリー)人や物資の往来も盛んであった。師崎の船着場にて…向こうの島は船で10分のホテルの建ち並ぶ日間賀島。

港を出るとすぐに多くの漁船とすれちがう…かなり好漁場のようだ。この新鮮な漁獲物が観光のひとつの目玉となっている。SONY α7+SONY FE28-70mmF3.5-5.6=さすがにフルサイズ、α6000とはだいぶ違う…このサイズにしても波しぶきのひとつひとつが見えている。島歩きで使える限界のフルサイズカメラはα7とLeica-Q(一眼レフを下げて5時間も島を歩くのは論外)もう少し使おうと思った。これで年末の沖縄はα7+α6000体制に決まったようなものだ(α7Rは神経質なのだが…どうだろうか?)。

2016.12.19

フィールドは変わって、12/18-19で三河の離島:篠島(初上陸)と佐久島(4度目)へ行った…写真は若者に人気の佐久島のアート作品二態。上は上陸した西港の連絡船待合室横の作品…ここにある少し奇妙なキャラクターは全島の作品に展開されている。下は帰りの船を待つ東港での作品…今日はam11:50の上陸からpm5:15の離島まで一点の雲も見えなかった。カメラはα6000+SONY-E20mmF2.8である。1日目の篠島は初めてなのでズーム付きのα7とした。佐久島は何度も来ているので単焦点で全部撮影した=落ち穂拾い撮影(4回で全島を網羅できた)。

2016.12.17

更に歩くと、少し粋な造りの家に出会う…瀬戸内の島に多い「船員さん」の家である。良い稼ぎとなっただけではなく、外の世界(特に外国)を長く見てきているために和洋折衷の洒落た家を建てる人がいるのである。船員年金は通常の厚生年金より支給が多くて、引退後も島に残る人も多い傾向である。

10分歩くとムラ外れ…旧護岸堤の向こうは干潟だったところを埋め立てて公園としている、過疎になる前は子供達や観光客が遊んだ場所だ。向こうに数軒見える家は簡易水道ができたのちに建てられた分家筋の新しい屋敷である。その先にはお寺が一軒あるだけだ(今回は行っていない)。

下は2014.3に訪ねたときの日生諸島の写真…お大師さんの像があるのが島の西端の寺である。

2016.12.16

村中を歩く…ムラのどこからでも三角屋根の廃墟のリゾートが見えている=それどころか最も高いところに建っているため隣の島からでも見える。残った僅かな老人達によって、ムラでは規模こそ小さいが昔と同じ生活が営まれている…とてもおいしそうな野菜だ。

日だまりには収穫したばかりのサツマイモが干してある…これから保存小屋に持っていくのかも知れない。島では水がないため水田耕作は昔からなされていない(米は本土から買う)。芋は貴重な穀類と扱われていたのだろう。 FUJIFILM X-T1

2016.12.15

地元の人の姿が見えたので尾根道へ引き返した。この向こうは30mぐらいの断崖絶壁である。最初に来たときから疑問に思っていた小さな小屋(高さは1mない)のことを尋ねてみた。これは以前は島中にあった(今はここだけに残っている)畑で収穫した芋の保存小屋ということであった。以前に来たときは季節が違っていて小型の農機具が入っていただけで、少し半地下の土間に屋根をかけた構造しか分からなかったのである。風通しが良く南向きが良いのだろう…これから芋を収穫してここへ収めるようだ。聞いてみないと分からないものだ。このような風習が他の島でもあるのか次の疑問符を見つけた。

さて坂を下ると(なにしろ尾根と言ってもたったの30m)すぐにムラの中心部・六角大井戸に出る(県指定の文化財)。この広場のような場所に水脈があり、2基の井戸がある=今も稼働している…昔はこの島でここだけにしか水源が無く、ここを中心に丸く集落が形成されている。ほとんど人が住んでいないために荒れた印象があるが、それでも他の場所と比べると整頓されている。向こうは元の民宿/現在はカキの季節労働者の下宿だ。

α6000…さっぱりした絵になり、FUJIFILM X系の劇的な絵づくりと対照的である。画質は似たようなものだが画調がまったく違う。

 ↑ 2014.3の大多府島の景色。同じ場所を写しているが様子がだいぶ異なっている…たった2年半で多くを失ったようだ。

2016.12.10

廃校をあとにして、尾根道を歩いた。尾根の外側(東から南方向)は絶壁が続いていて民家はおろか道も何らかの生活施設もない。つまり集落は標高は30−40mしかないが山に囲まれた入江に立地しているのである。

尾根道から集落へ降りる道から振りかえると、この島のランドマークにもなっている、みっつの三角屋根が見える。ムラのほぼ真ん中の裏に、やはりバブルの頃に建てられたレジャー施設の跡である(宿泊・食事・セミナー等に使用)。2010に初めて来たときに、すでに廃墟となっていて、取り壊されるでなく荒れるに任せている。このように離島の崩壊の写真ばかり取材しているように見えるが、離島の今後に否定的な見解を持っている訳ではない…今後について語るには現状の記録(それも10年間程度の経過を見る)ことが必要だと考えているのである。現に、超過疎のこの島でも海岸の一角にある養殖カキの加工場では活気に満ちあふれている。特に学校や公共施設を多く取りあげるのは、それらが採算ベースではなく離島の生き残る指標となっていることが多いためである。離島振興か全島離村か、それともこのまま時の経過を待つのか…離島住民にインタビューすると最後の意見が多いことも付け加えておく。「船便さえ残してくれれば、あとはこのままで年金生活…動けなくなったら本土の子供達のもとへ行く」が代表的な意見だ。

2016.12.9

廃校内に入る…もはや風化により何か分からなくなった石像があり、建物の荒廃も進んでいる。しかし自然豊かな離島のためか野生動物の住みかとはなっていない=若干の使用があるためもあるだろう。トイレや洗面所は生きていてちゃんと水も出るし掃除もなされている。

校庭に出てみると、たまの催し物のためにある程度の除草はされている。特に朝礼などをするお立ち台周辺はキレイに刈られていた。海の見える校庭、こんないい場所なのに惜しい…建物が現状を保っている間になんとか活用できないものかと3度目ながら思う次第である。

2016.12.8

散策路の頂点付近に東を向いて大灯籠が建っている=これも昭和61年、バブルの時代に江戸時代(1700年代)の大常夜灯を復元したものである。高さは電柱と比較すると分かりやすいが2階建ての住宅より高い。昔は灯台代わりで、よく見ると基礎の石組みの下段は江戸時代の石材のようだ。手前の野原は6年前は畑であった。3年前は原野となり、今回は人の背丈より高く草木が繁茂している…畑だったので日当たりがよく、土の肥やし気もいいためだろう。 

灯籠から少し坂を下った場所に廃校である大多府小学校があり、創立100周年の碑/昭和41年建立の像に出会う。2014年までは本土からのボランティアにより草刈り等の管理があったが、たった2年半で草木が大きくなり碑に近づくことすらできなくなった。最初に訪問した2010年、廃校になった直後に見た「バレーボールを持つ少女」像はだんだん汚れていった。建物は解体されず残っていて、多少島民の催しに使われているようだ。

2016.12.7

村はずれの消火用ホース格納庫も壊れたままである。島では水が足りないため海水をポンプで汲み上げて消火する(これも離島の景色だ)。向こうに見えているのがカキの加工場(日生でも屈指の生産性を誇る)で、これから冬に向けて本格的に稼働する。

村はずれから山に入る…その昔バブルの頃、観光に力を入れていた時に整備された「自然研究路」(ちょっとした散策路)を歩く。10分程度歩くと海抜28mぐらいのピークに達する。松の木に囲まれた海蝕崖の上の道で、ときおり木々の切れ目から海が見える。カキ筏の並ぶ向こうに姫路の家島諸島が望め、陸の移動なら遠い島が、船ならせいぜい30分で着くだろう。石と土の採取でほとんどハゲ山になっているのがよく分かる。

2016.12.6

港から時計回りに島を歩くことにした…町はずれのかつての民宿街=10軒程度が並んでいる。この鳥居のような屋根の下に各民宿の看板が下がっていたのである。現在はいずれも廃業しているようだ。カキのシーズンとなって外国人季節労働者の若者が歩いている(前回来たときは中国人だったが、地元の人に聞くと最近はベトナム人も増えていると言う)。 FUJIFILM X-T1…このような条件だと空に露出が引っ張られて暗い目に写る=評価測光+AFレンジ測光(この場合AFは中央か中央ゾーンになる)に設定すると随分緩和される。

元民宿の一部はカキ養殖の季節労働者の下宿になっているところもある。おそらく自炊の共同生活なのだろう。瀬戸内ではどこでも外国人労働者が多く、離島という特殊な環境で、文化的な摩擦や享楽に走ることもなく、大部分の人達は平和に暮らして、それなりの貯蓄をして本国に帰っていく…もちろん不法就労などではない。多くの外国人労働者は偏見の目を取り去って見ると、機嫌良くシッカリと働いているように感じている。

2016.12.5

頭島をあとに大多府島への航海=と言っても10分・片道150円、しかし日生〜鹿居島〜頭島は橋で繋がり、ようやく離島に行くことになって気分良好。PM2:40もう夕方の気配だ。

上陸…まず公民館の横の集落中に響き渡る拡声器塔=元は半鐘場だった…今も突くことはないだろうが鐘がぶら下がっていた。これが文化というものだ。FUJIFILM X-T1+FUJIFILM XF18-55mmF2.8-4R=レンズ・ボディは逆光に強い。

2016.11.30

頭島の若者達…この1−2年の離島の景色の変化について=何度か書いたが若者達が増えていることだ。観光旅行というほどではなく、ごく普通の青年達が「ふらり」と来て、ノンビリ時間を過ごして、また町に帰っていく…私とは目的が違うが、その気分が分かるような気がする。

頭寺の埠頭にて…向こうから来るのは日生からの連絡船でpm2:40大多府島へ渡るものだ。食料品を持って島で1泊を過ごすらしい/大多府島には、昔の風待ち港の雰囲気を復元した「かぜまち」という公共の自炊宿があり、そこで泊まることがあとで分かった。

http://www.city.bizen.okayama.jp/kankou/guide/hinase/spot/ohtabu/kazemachi.html

2016.11.29

頭島を歩く…港から旧村内を抜けると広い場所に出る。見上げると島のいちばん高い場所(海抜50m?)にTVやG3の電波塔が建っている=これも島の点景としてすっかり定着した。BSも含めて電波で都市部とつながっているのである。もちろん離島運送料を払えば(サイトによれば払わなくても)ネットショッピングや情報の発信は自由自在だ。鉄塔の左に通称「たぬき山の展望台」が少し見えている。そこからだと島の西方向(つまり家島など)がよく見える。 FUJIFILM X-T1+FUJIFILM XF18-55mmF2.8-4R=なかなか逆光に強い。

10年ばかり前に来たときは何かいわくのある池(詳細は覚えていない)があった場所は埋め立てられてペンション・レストランの駐車場になっている。そして池のほとりにあった銘板も外されていてネットで検索しても出てこない…ただ池に落ちないようにと「注意」のプレートだけが残されている。これは行政の立てたものなので地主と言えど引っこ抜くわけにはいかない。ローカルな名所の運命を見た。

2016.11.28

11/26-27で瀬戸内へ巡研…土曜は天気が良く、日生・頭島〜大多府島を駆け足で回った(日曜は天気が悪いことが予報で出されていた)。日生から鹿居島に橋がかかったために頭島へは車で行けるようになった。前回は架橋直後だったため周知されず、それほどの変化は見られなかったが、今回行くと本土からの釣り客や自転車乗りなどが増えていた。またそのためか前回無料だった新駐車場も早くも有料となっていた…1日400−800円=周りに空き地が多く、当然に駐禁ではないためせっかくの駐車場はガラガラで港周辺に多くの「合法駐車」となっていた。頭島が離島ではなくなり民宿に泊まらなくても釣りや海が楽しめるとなってはお金が落ちなくなるのは分かるが、島民は「便利になった」、しかし客ではないよそ者が増えて「困ったものだ…」が現状である。それでも変化に対応して、海水浴場の前にはカフェなどの開業が始まっている。向こうの平たい島が船で10分の大多府島…往時1000人いた島民は今や30軒50名ほどだ(かき養殖の外国人季節労働者は除く)。橋が架かった島、離島のまま取り残される島、どちらにも解決せねばならない問題が山積している。

頭島の港近くのタバコ屋、看板だけで営業はしていない。左の1軒ある店も橋が架かると本土のスーパーまで僅かに15分で行けるようになったために遠くなく閉店となるだろう。何かの予算がついたらしく港では大改修工事が始まっている。岡山県東端の日生の海産物は有名で、翌日行った西端の笠岡・白石島でも「人気がある」とのことである。ここでも漁協前で鮮魚市が行われていた。

カメラは例によって前日まで迷い、雨が降ることが確実となってウォータープルーフのFUJIFILM X-T1とした/レンズは写真とは異なりFUJIFILM XF18-55mmF2.8-4Rである(雨の中レンズ交換などできないためズームにした)。解像性能としてはFUJIFILM X-Pro2やSONY-α6000に劣るが雨のためだけではなく縦位置撮影の操作性は良好=縦位置の方が撮りやすいぐらいだ。

2016.11.10

祭りのクライマックス…御輿の宮入りが始まった。もうあたりは真っ暗で感度を上げ(ISO1600…しかし本当はISO800までとしたい)シンクロもさせている。フードを外しても少しストロボ光がケラれる。 α6000+Zeiss Vario-tessar E16-70mmF4

御輿は無事拝殿へ入る。こちらはシンクロなしだが、なんとか実用の範囲で写った=連写で多く撮るとブレていないショットも何枚かはあるのである。大浜の秋祭りはこれでお終い…だいたいの様子は分かったのでまた来年としよう。

2016.11.9

獅子舞が境内に躍り込む(中はやはり中高生)…小学生の狐面をかぶったお稚児さんとの押したり押されたりの掛け合いが面白い。獅子舞も今風にアレンジされている。それほど広くない境内を進んだり戻ったりしながら時間をかけて宮入りの本殿へ向かっていく。 α6000+Zeiss Vario-tessar E16-70mmF4=絞り開放でもなかなか芯のしっかりした描写である。

2016.11.3

さて、また愛媛・大浜に戻る。神社の参道を台車が行ったあとに大名行列が続く=すべて地元の子供達(高校生ぐらいに見える)で、どのような理由か不明だが先導には天狗と翁の面を被った若者が付いている。

背後の八幡神社境内にも灯がともり、これからいよいよ宮入りだ。神職ふたりが心配そうに見ていた=昔は荒れることも多かったそうで、神社の建物や構造物が壊れることがあったようである。

2016.11.2

賀茂神社式年大祭…本殿から神職一同・氏子総代・氏子が奥宮まで巡行する。そして供物を供えて神事が執りおこなわれた。あたりは広大な鎮守の森で1200年以上前からの祭祀跡でもある。身体を壊して回復前の宮司に代わって権宮司が神事の一切を取り仕切った。

他の神職も(賀茂氏の後裔の一族)全員が神事に参集した。古代からの木霊が聞こえてくるようだ。 α6000+Zeiss Vario-tessar E16-70mmF4=ボケ味はあまりきれいとは言えない。

2016.11.1

信州でのいくつかの取材を終えて、飯田市近郊の阿智村・阿智神社奥宮の鬱蒼とした境内で、用意していたパンの昼ご飯を食べた=取材中は飲食店にはほとんど入らない…たいていが不便な場所が多いのと、レストランで座って食事などという気分にはなれないのである。寺の境内や風光明媚な海岸でコンビニで買って置いたパンやおにぎりを食べる。飯田インターから恵那峡に向かっても良かったのだが、信州では川筋ばかりだったので、少し山の中を見てみようと次の園原インター(どうしてこんな山中にインターがあるのかも不思議)までの道すがらに立ち寄ったのである。たいていの場合、旅は目的を持っているが、それとは別に見知らぬ土地や文物・人々と偶然・必然に遭遇するのも大事なことだと思っている。FUJIFILM X-T1+FUJIFILM XF18-55mmF2.8-4R

http://www.genbu.net/data/sinano/ati_title.htm

2016.10.29

櫂伝馬の船渡御が終わると、次は太鼓屋台を先頭に大名行列がやってくる。確かに大浜八幡神社の祭礼なのだが、もう完全に住民主導となっていて宮司さんは進行を見ているだけである。

そして町を練り歩いたあと、浜から八幡神社の参道に入る…もう神社の森の向こうに日は沈んでいる。これからゆっくりゆっくりと太鼓・大名行列・獅子舞と、あたりが暗くなるまで時間をかけて最後に宮入となっていく。

2016.10.28

1時間半待って、ようやく4時半に櫂伝馬の出発だ。ここでは櫂だけで進む=いちばん後ろは操舵櫂で、前進と舵切りを同時に果たすもっとも難しい役割で、操船に長けた長老格の人が担当する。オール式の櫂は左右6対で12名の大人が太鼓やかけ声で呼吸を合わせて力漕する。あとは女装した子供が前後に5名乗ってボンテンやケンダチの役目を果たす。趣旨を話して浜からではなく、海上の船の御旅所から16mmで撮影…いい写真が撮れた。 SONY-α6000+Zeiss Vario-tessar E16-70mmF4

港の中を踊り歌いながら巡航する(突堤から望遠70mmで撮影…かなりの船足のため追いかけての撮影は不可能だ)。浜には地区の住民が囃す…とてもほのぼのとした景色だ=来年も必ず来よう。向こうはしまなみ海道の橋。大浜は橋脚に踏みつぶされては居ないのである。

2016.10.27

今治市大浜に戻る…八幡宮の裏に地元の英雄:伊藤博文公の石像が立つ。現在は鄙びた漁村だが、往時は海運で大いに栄えた時期が長かったのである。この山の向こう側にしまなみ海道の高架道路が走っている。

観光化していないため香具師の露天もこんなものだ。しかし地区住民は皆なんらかの形で祭りに参加し楽しんでいる。 SONY-α6000

2016.10.26

姫路「灘のけんか祭り」二景…祭りの時は(時に動乱であっても…)ワイドで当事者の中に入り込むことだ=警備の警官より取り巻きのカメラマンより前に出て、スーパーワイド(この時はFUJIFILM X-Pro2+FUJIFILM XF10-24mmF4R)で情景・喧噪を写し取ることだ…もちろんフードは外して、カメラは首からしっかり固定しておこう…ヘタをすると、もみくちゃになってどこかへ飛んでいくからである。鞄もショルダーバッグはダメである(この時は背負い鞄)…できればカメラ一台とポケットにバッテリー+SDカードぐらいにして、あとはクルマにでも置いておく方が良い(レンズ交換などできない)。

上は10mmで、こちらは24mmで撮影した…祭りだけで2000カット以上撮ったので選ぶのがたいへんだ…連写設定はスローにしている。人間の動きならそれで充分。

2016.10.25

姫川上流の大糸線・平岩駅から旧道を通って川を遡ると、遠くに大仏が見えた…近くに行くと潰れた観光旅館の呼びものとして建立されたものらしい。街道を行くとこのような廃墟がしばしば見られる。国道が新しくできて旧道には地元の人以外は入らなくなって、このようになるのである。真新しい町の観光協会の看板からも外されていた。しかし誰かが住んでいるらしく洗濯物が干してあった。

近寄るとさすがに大きい…コンクリート製の大仏の見ている方向に、姫川が流れ、北アルプスの峰々がそびえている。 FUJIFILM X-Pro2+FUJIFILM XF18-55mmF2.8-4R

2016.10.24

10月は3週連続、11月も同様=そして日帰りも含めると2ヶ月で22日間の撮影旅行に出る…したがって画像:エピソードのアップはバラバラで時系列も前後するが、なるべく毎日、なるべく多くを掲示していくことにしたい。 10/21-23で行ったフォッサマグナ紀行(今回は糸魚川から恵那峡)の1シーンで、飯田市弁天橋から時又への天竜川下りに乗った。ここでは今も木造船を使って(条件が合えば筏下りもする=現在は川底の具合が良くなくて動いていない)川下りをしていて約6.5km:30分なかなか迫力がある。まだ本格的な紅葉の季節ではないが2組の団体も含めてam11の便には80数名の乗客、4隻が出て予想を大きく超える盛況ぶりだった。必ず水をかぶるので服装には気を付けた方が良い(この写真の水しぶきを頭からかぶった)…数年前に天竜川下流で起こった事故のせいだろうが安全には特に気を配っている。 FUJIFILM X-Pro2+FUJIFILM XF-14mmF2.8

http://www.gokai-tenryu.com/staticpage20/

もう1ヵ所、今回の最終目的地・岐阜県恵那峡の遊覧船=ダム湖なので陸から湖岸には近づけないために乗船した。ここでも乗船客が多く、やはり3艇が出された。ダム湖の観光地としては古くから成功していて案内・解説は洗練されている。残念ながらフルカバーの船体のために写真を撮るには不向きだが窓が磨き上げられているために(これも配慮のひとつ)何とか使えそうな写真も撮れる。 FUJIFILM X-T1+FUJIFILM XF18-55mmF2.8-4R

2016.10.17

今治市・大浜にて…祭りは朝から始まっていて、ここでは太鼓・御輿・獅子舞・大名行列・櫂伝馬の五つの揃った大規模なもので村人総出での秋祭りだ。観光とは無縁の祭りがこれほど盛大なのを見たことがない=京都から4時間半かけてやってきた甲斐がある=観光化されていないためにデータが少なくて、八幡社の宮司に電話を架けて祭りの次第について訪ねても判然とせずに不安もあった。櫂伝馬は午前と午後の2度海へ出る…午後の櫂伝馬が4時半からだが、小学生達は1時間半も前に船に乗り込んで練習に余念がない。酒樽の上での剣舞は海へ出ると危険なために中学生以上と決まっているのだが、祭りの花形なので将来に備えて練習をしているのである。むこうはしまなみ海道の橋だ。

4時になると大人達も集まり始める…定刻になってもなかなか集まらないのは、上記祭りの5要素が順次おこなわれているためで(そして同時に自宅で宴会もしている)「大浜時間」と古老も述べるように適当に祭りは進んでいく=観光化していないためそれで良いのである。メンバー(漕ぎ手も含めて最低15−6名)が揃うまで、昔取った杵柄で老人のひとりが剣舞を始めた♪それを子供達が見て覚える…聞くと櫂漕ぎも踊りもそれほど練習せずにぶっつけ本番に近いらしく、毎年何年も続けているうちに身体が覚えるという感じである(子供達はある程度練習しているらしい)。  SONY-α6000+Zeiss Vario-tessar E16-70mmF4

http://yaokami.jp/1380244/

2016.10.13

さて秋風の吹くこの頃、佐久島への旅は1ヶ月経っているので、ここいらへんで終わりとしよう…今年度内にもう一度行くので、また追補はその時にしよう。今回も天気に恵まれて良い旅の触感であった。最終便に乗るため人は集まり、やはり座りきれない人もたくさんいた。若者・釣り人・地元民・工事関係者・写真家…異夢同乗。

2016.10.12

前回来たとき疑問に思った、西地区と東地区の境界にある石の構造物。江戸時代のもので両方に穴があり、そこに棒などを通して荷車などが通れなくなるようになっている。今回は地元の古老に質問できた…由来は不明だが昔は両村は仲が悪く(西が海運業や石材業・東が漁業)同じ小学校に通っていても、外へ出るとケンカばかりしていたとのことだ。これはよく聞く話である(私の生家あたりでも同様)。昔は西と東を結ぶ道はこれだけで、必要な場合は船で移動したと思われる…現在はこれとは別に2車線の車道ができている。

両地区の間は徒歩10分程度の山が続いていて、そこにアウトドアを楽しむ施設「クラインガルテン」がある。この日も若者達のBBQの煙が上がっていた。そろそろ夕暮れ東港へ向かおう。

http://garden.tank.jp/aichi/sakushima/

2016.10.11

10/9-10で四国愛媛へ駆け足旅行=3=3=3  スケジュールがタイトで日がとれないことが多い。今回は今治:大浜と松山:北条の櫂伝馬だ。もちろん御輿や獅子舞などもあるのだが、どうしても専門が和船なので船が中心となる。秋は瀬戸内各地の秋祭りで櫂伝馬や伝馬船競漕があり、日程が重なるために皆回るためには何年もかかる。ここは北条の海、祭りの最後に御輿を乗せた伝馬船が向かいの鹿島へ船渡御(ふなとぎょ)する。その少し前にヒツジ雲が美しく現れた…残念ながら船は30分遅れて出発して、この景色には入らなかった。

鹿島への船渡御…この後にも一艘の伝馬船が続く。昔はすべて櫓を押して海上を進む(現在は一番前の船が曳航している)。天気が良くてほんとうに良かった…前日の今治:大浜ともども、観光とは一線を画してこれだけ盛大な祭りがおこなわれているのは驚きであった。  α6000+Zeiss Vario-tessar E16-70mmF4(現実の景色は暗くてISO3200で撮影)…どちらにも今回の撮影で問題点を見つけた=1.ボディは一緒に持参したα7と比べると高感度でのノイズが多く、感度はISO800までにとどめるべきだということ。2.はZeiss Vario-tessar E16-70mmF4はズーム比を考えるとたいへん良く写るレンズだが、今回2日間で4500カット(α7は遅いので500カット)撮るとズームリングに僅かだがガタが出始めた=今までもそれほど酷使した訳ではない。やはりプロ仕様とはほど遠いと感じた。昨年の櫂伝馬競漕で使用したCanon 6D+EF24-105mm F4Lとは比べられないが…写りがいいだけに惜しい。ミラーレスがプロ仕様となるためには軽さを犠牲にしても頑丈なレンズ+ボディが望まれる。

2016.10.6

西地区の中を歩くと、やはり人が住んでいるのは僅かで、多くの家が無住か廃屋である。「黒壁の町」とは言うが、それも予算の都合か人手の問題か、多くは黒ペンキが塗られている。しかし残された人達により道や畑は清掃され、あちらこちらに季節の花が植えられている。

若者が多く来るためだろうが、なんでも屋の店が一軒営業している(別の場所にはカフェすらある)。私も島の店としては珍しいアイスモナカを1個買った。ただし島にはゴミ箱がないため店の前で飲食することだ…そのために日よけとベンチが置いてある。

2016.10.5

西地区の水際には家がない。かなりの風波のために海岸段丘(小規模だがハッキリしている場所もある)上に民家は建っている。現在は簡単な漁業を生業としているが、昔は海運業で栄えた地区で、それなりの風格の家も残されている。浜に建っている倉庫を利用してちょっとしたバーベキューのできるスペースがあり、若者達がワイワイやっている。

背後の高台にはお寺があり、境内に鏡を使った「アート作品」が展示されている。ずいぶん年限が経って、鏡は割れ、構造物にも錆びや緩みが見られた…島には多くの作品があるが、いったい誰が管理をしているのか(現実には放置)不明である。

2016.10.2

静かな島の静かな岬の波が崎灯台…港から集落と反対方向に5分、遊歩道のすぐそばにこじんまりと建っている。若者達が歩き座って海を見ながら語り合う風景、なんとなく甘酸っぱい気分であった。向こうは知多半島なのだが遠い遠い…

遊歩道を集落へ戻る。内湾とはいえ風波はかなりあって、島の海岸はどこも海蝕が進んでいる(砂浜は多くない)。FUJIFILM-X70…X100系に比べると比較的逆光に強い。

2016.9.30

さて三河への旅の続き…ようやく西尾市・一色港から佐久島へ。今回も立ち席となるぐらい人が多い…地元の人の買いだし・名古屋方面からの若者グループ・釣り客・バイクや物資などで連絡船は満載だ。 島歩きはFUJIFILM-X70。

まず西港へ上陸。すぐに港外れのエビス社へ向かう…去年はかろうじて入れたが、今年は草木に覆われてたったこれだけの距離が入れない。もう世話をする人もいないのだろう。佐久島の西地区はほとんど人が住んでいないのである。むこうは波が崎灯台。

http://sakushima.com/

2016.9.21

ハズ観音を出て一色港をめざす…途中で西尾市:吉良温泉の海浜公園に寄った(これで連絡船を一便乗り遅れた)。夏も過ぎてほとんど誰も居ない=実際はまだ暑い。愛知県へ来るといつも公共施設の充実ぶりに驚かされる。面積や人口に比しての納税額が大きいのだろう。

公園のトイレの窓もステンドグラスだ…カラフルな光が眩しい。 FUJIFILM-X70

2016.9.20

妙善寺の続き…前回は秋に来たのでカボチャの奉納がたくさんあったが、今年はまだ少し早いらしくこんなものだ…もうすぐここに色々な品種のカボチャが山積みされる。。しかしカボチャ茶はシッカリといただいた。

http://www.hazu-kannon.net/←ハズ観音のサイト。

寺の境内に立つ天然記念物(県と市の指定)のイヌマキの大木がある。幹から枝垂れている枝の1本…境内に大きな陰を作っている。 FUJIFILM-X70…やや周辺に収差ボケが見られるがワイドとしては良い雰囲気をボディ内部で作っている。FUJIFILMの点像復元技術とボケ味を出す技術は目立たないが確実に絵の雰囲気作りに貢献するだろう。

去年のハズ観音↓

お茶のポットは少し壊れていて取り扱い注意! OLYMPUS E-M5/やはりキレイにはボケない。

寺の前浜…遠くに見えているのが渥美半島先端部近くの火電と神島=なるほどここから見ても神の島なのが分かる。 FUJIFILM-X10/AWBに青い濁りが出る。

2016.9.19

旧幡豆町:妙善寺に去年に続いて立ち寄る=ハズ観音・カボチャ寺として当地で親しまれており、背後は三河湾の浜辺で農耕と海の信仰に通じている(今は病気平癒と厄除け)。そうしている間にも参詣者は多く詣っていく。門前の松林でシートを広げて食事をしている景色も昨年と同様だ。

今回も本堂に上がった…仏像にも近寄れるし撮影も問題ない。前回は堂内は詳しくは見なかったが、今回は丁寧に見てみた。無造作に文化財を眺められる。  FUJIFILM-X70

2016.9.18

蒲郡市の金剛寺にて…昨年来たときに風景はアップしたため、今回はお寺の内部を紹介する。金剛寺は一時衰えて、戦後先代住職のが復興した。真言宗だがチベット仏教の様式を取り入れて、より密教色が濃い。これは釣り鐘ではなく、仏塔に収められている巨大な摩尼車である。小さな摩尼車を1回まわすとお経を1回唱えたことになることは知っていたが、こんなに大きいなら千回唱えたことになるのだろうか?少し見えているハンドルで回す…そうとうに重いが代わりに回り出すと慣性の力でなかなか止まらない。これも含めて仏塔はネパールの仏具職人により作られた。  SIGMA sd-Q…近距離でもシャープだ。

http://www.kongoji.com/ja/index.html

外に出ると境内の隅にやはり密教色の濃い仏具が安置してある(残念ながら浅学な私にはこれが何か分からない=仏舎利塔か?)…ガラスケースに上記の仏塔と、その向こうに広がる森、そして三河湾が写っている。私はうまく仏具の陰に隠れられた。いつかここも再訪したい。 SIGMA sd-Q…9/16ファームアップがあり、AF速度が「やや」速くなった…もちろん二昔前の速度であることは変わりない。

2016.9.14

海の景色…渥美半島先端部付近から伊良湖岬を見た…小高い山の向こう側に灯台や観光施設がある。25年前に来たときは雨でこのような景色は見えなかった。左の島は鳥羽・神島(私が好きな島のひとつだ)。SIGMA sd-Q/4:3比率で撮影。

下は田原市の名もない浜辺で撮影…海では天気さえ許せば必ずどこにでも停まって撮影だ:日没が6時7分と分かっていたので海辺の道をホテルに向かって走りながら適当な浜を探す。対岸は渥美半島の内浦側で、少し半島の先が内側へ曲がっている場所だ。風力発電の風車がずらりと並んでいるし、どうしたわけか火力発電の煙突も見えている。右端遠くに見えるのが知多半島だ。SIGMA sd-Q/3:2で撮影。

2016.9.13

今日は三河湾の夕景ふたつ…渥美半島・田原市の海浜公園/FUJIFILM-X70.2016.9.9 6:15pm…この日の日没は6:07pm。

佐久島/FUJIFILM-X70. 6:00pm…日没直前に雲がかかった。去年と同様多くの若者と出会った。多くが名古屋近辺から来るらしいが、岐阜からの人もいるとのこと。連絡船の最終便が6:20pmなので埠頭近くの護岸堤に腰を下ろして日没を眺めている「こんにちわ」と声をかけられた=島を巡る間に何度か行き会うのである。離島振興のヒントが見えたので、また今年度中に行って探索してみよう。

2016.9.12

9/9-10で三河地方へ旅した。灯台二景…こちらは伊良湖岬灯台、豊川インターから延々2時間ようやく着いた…関西からなら対岸の鳥羽まで車で行って、船でこちらへ渡る方がずっと楽だ。それほどに淡々とした砂丘の続く半島である。25年ぶりの再訪、海岸部に遊歩道が整備され景色は良好…何組かのカップルがノンビリ歩いていた。 2016.9.9 pm4 SIGMA sd-Q+17-70mm F2.8-4DC=4:3比率で撮影。

2016.9.10 pm4 西尾市・佐久島の渡が崎灯台…ここでもカップルが、最近島へ行くと若い人が増えている。観光というほどではなく、島へ渡って数時間ブラブラするのである。ここに離島振興のキーがある(振興というより存続)。特に観光名所というわけではないが、静かで自然がいっぱい・本土から船で10−30分・店がないからお金を使うこともない…今回で3度目の訪問…この間にも、にわか造りのカフェやレンタル自転車屋が増えつつある。 FUJIFILM-X70

2016.9.11

9/8の船は突堤から外へ出て、沖の小島を回って戻る。そのあとは手漕ぎの船で漁港内を学年ごとに分乗して海と親しむ=地元の子であっても普段船に乗ることはほとんどない。今年は合併した名田庄村の診療所の先生も参加したし、何かで祭りを知った町外からの参加も見られた。遠くの町並みは小浜である。

そして船漕ぎ競争「とおしあい」の本番だ…これは小学生の部:伝馬船競漕、上級生は毎年参加してそれなりに漕げるようになっている。

闘い終わって表彰式・閉会式、また来年もよろしくお願いいたします(大人達は左の日陰にいる)。 SONY-α6000+Zeiss Vario-tessar E16-70mmF4

2016.9.8

そして時刻も来て、おおい町大島の船漕ぎ競争の会場へ…今年で7回目だ。まずは実行委員長の開会の挨拶から…ここの特徴は単なる村祭りだけではなく大島小学校の子供達(1−6年生全員)を中心とした「ふるさと教育」の一環として校長や教員、父兄なども参加することだ。招待されているとは言え7年も連続して来ているのは、その辺に価値を感じているからである(毎年ちょっとした「お話し」もする)。 SIGMA sd-Q=少し癖(味とも言える)のある発色だ。

そんなわけで普段釣り船に使われている船に小学生や先生と共に乗って湾内を回る…海と親しむのがコンセプトとなっている。競争は手段で目的とは違うのである。このあと小学生の部や婦人の部、男性の部と競漕が続く。 SONY-α6000

2016.9.7

さて翌日、船漕ぎ競争は12時からなので、朝から合併でおおい町になった旧名田庄村:納田終(のたおい)を訪ねた若狭と山城の国境の山塊の福井側最後の村である。ここに土御門(安倍晴明の孫の代に朝廷から与えられた)の旧地がある。地区の中心に陰陽道・賀茂神社があり、土御門の社もある。武士の時代の仏教化政策や明治の伊勢系神道への統合政策にも耐えて、氏子達によってここまで陰陽道を伝え保たれてきた。

村はずれの谷に分け入ると、砂防ダムに上下を挟まれた小さな平地に土御門廟がある。おそらく近くにあった碑を砂防工事の際に移転したものだろう。安倍晴明に敗れた道満方の人間だが、すでに精神的には和解している。

2016.9.3

30年来の旧知の船大工の造船場に立ち寄り、いつもの港町談義をしたのち(年に2回来る…自分で見るだけではなく「港の景観」の推移を聞くのである)すっかり暮れかけた高野川の対岸に移る…堤防道路の止まった場所が造船場だ、橋が架かると自動的に廃業となる…移転先を希望すればそれも可能だったが、もう80歳を越えて「これでエエ」と廃業を決めた…何しろ舞鶴周辺では一番古い八代目を数える造船場なのである。廃業となれば護岸堤も伸びていく。

そして住吉神社方向から西を見る…ここに橋は40年ぶりに架かることになる。西舞鶴のランドマークの特徴的なプリン型の山に砲台跡があるらしく、白杉や瀬崎の砲台跡と共にいずれは見に行きたいものだ。

2016.9.1

午後4時、西舞鶴・高野川の河口域へ…ここに立つ限り去年と比べて景色はあまり変わらないようだ。まだ海舞鶴線の踏切遮断機の残骸は残されていた。予算がないのか今年は草刈りがなされていない。その代わり舗装のためのバラスが敷かれた。

これは去年の夏。変化は「この先海」の看板が移動しているのと、フェンスが頑丈になって簡単には入れなくなっていることぐらいか…

フェンスの隙間から橋のたもとへ出てみる=特に立ち入り禁止というのではなく不法投棄防止のためのフェンスのようだ。対岸の住吉神社の森の横を鉄道は通っていた…再架橋で今度は道路となるのである。鉄道が廃止になっから何十年も計画されてきたが、この10年でようやくノロノロと動き始めた。渋滞の多い国道175/27号線のバイパスとなるはずだった。しかし近辺の観光や産業の低迷で渋滞は限られたものになり、なんのための道か位置づけが難しくなった。現在は西舞鶴の古くからの港湾と中舞鶴方向の新埠頭を直接つなぐ道路となりそうだ(+地元の生活道路)。ここの景色はあまり変化がないが、背後も神社の向こうもほぼ完成しており、橋も基礎はできていて橋を乗せれば完成の段階になっている…神社近辺の権利補償関係が片づいていないのである。計画通りなら今年中に架橋されるはずだが、もう少しは時間が必要だろう(今は行政も強硬なことは言わない)…ともあれ道路が通れば、30年にわたって通い慣れた「港の景観」も大きく変貌するだろう=それまでにやりのこした記録を撮りたいと思う。年度内に再度訪問しよう。 α6000+Zeiss Vario-tessar E16-70mmF4

2000年の同じ場所。これはフィルムカメラ/TX-1だ。対岸の住吉神社近辺の家が立ち退いて壊されたために、そこに木々が生い茂っている。同じ船が停まっているが、川側の船も含めて橋が架かると下をくぐれないため少し下流(左側)に船着場が建設中である。

2016.8.30

大浦半島の南岸の小さな浦々の船小屋を巡って、いくつかの発見をしたあと、引き揚げ桟橋の対岸あたりに浮島丸の「殉難の碑」に立ち寄った。何度もここの道路は走っているが降りてみたのは2度目だ。太平洋戦争後に本国へ帰る朝鮮の人達の乗る船がここで沈没し、多くの被害者が出た当時の大事件だった…地元の人達の救出活動のかいもなく多くの人が亡くなった。1978年に日韓双方の人々により碑は建立された。今も地元の人によって綺麗に掃除がなされ、大陸からの参拝者も絶えることはない。

2016.8.29

金剛院をあとにして舞鶴市大浦半島の多禰寺(たねじ)へ行く…金剛院は写真左奥の山中にある。そして無住の多禰寺の住職は金剛院の住職が兼務している(普段の管理は檀家の人)=古刹ではあるが、それが実態なのである。ここには展望台があり、舞鶴東湾が一望できる。ここで景色を見つつ休憩だ(暑い)…左の煙をあげている工場群のあたりは旧引き揚げ桟橋で一部復元もなされている。その山の中腹には引き揚げ記念館があり、山中に遊歩道も整備されている。大きな橋は右手にある大丹生火電のために架けられた。湾の奥に東舞鶴市街地があり、右端に中舞鶴の海自の自衛艦が係留されている。SIGMA sd-Qのオリジナル画像を拡大すると細かな景色の隅々まで見えるのである=今までのカメラとは異次元の写りだ(そしてこれまでのFOVEONカメラとも違う)。このように縮小すると寝ぼけて渋い画像となるがセッティングで更に良くなるだろう。

1998/2、工事中の大丹生火電、こちらは舞鶴西湾に面している。奥が西舞鶴だ。ローライフレックス2.8Fクセノタール=懐かしいカメラだ。

こちらが去年この展望台を訪れた時の写真…どこかから持ってきた双眼鏡が据えてある(無料)。 SONY-α7R

多禰寺本堂、前回は誰も居ずに住職と話し込んだが、今回は地元の写真グループが撮影会をしていた。ここの宝物殿には大変立派な仏像が収蔵されている。本尊は波切り不動明王で海の信仰と結びついている。背後の山は非常に深い。

2016.8.26

山の中腹にある本堂、やや痛みはあるものの風格がある。この山は京都府舞鶴市から福井県高浜町への国境だが寺域は福井側まで続いている=室町時代には相当の偉容を誇っていたようだ。気温は30℃、しかし風の通り道で地上にはない涼しい風が吹いていた。写真では表現しにくいが、山にひとり、聞こえるのは蝉しぐれと木々のサワサワと風に揺れる音だけであった…

本堂の梁に明治の奉納字額が架かっていた=比較的珍しいものだ。 SONY-α6000

2016.8.25

8/23-24で若狭湾方面へ行った。まず住職と面識のある舞鶴郊外の金剛院を訪問した。あいにく住職は不在だったが、初めて境内(山中の広い寺域)を歩いた。寺務所裏の天然記念物の大カヤの神木を見て奥へ進む。α6000の設定を地味にしすぎて色が冴えない。

5分ばかり山の麓を歩くと重文の三重の塔があり、高い階段を上って本堂に行き当たる…緑の色濃い本堂前から塔婆を撮る…廃仏毀釈以来ずいぶん荒れていて比較的最近に(先代の住職から)再建されつつあるらしい。そのような訳で広大な寺域は大部分が山で登山に近い=それも風情があると思われる。寺域の一部を舞鶴市に寄贈して市民公園になっていて、そこも含めて紅葉のシーズンは渋滞が起きるほどのようだ。今は山の中らしくミンミンゼミの合唱だ。ここでカメラの設定をスタンダードにした。

2016.8.19

浦嶋神社から本庄浜へ出た…ここにも多くの木造和船が残っている。浜の様子はすっかり変わって、現在新しく護岸がなされようとしている。朝日新聞の旗が立っている向こう側が砂浜の海水浴場だ…ただし1台の車も(駐車料金800円)ひとりの海水浴客も見えなかった。どうやら観光開発のために漁港と海水浴用の砂浜を分ける工事のようだ。遠くなくコンクリート護岸されるだろう。

本庄浜から海沿いの海岸段丘上の伊根へ続く道へ入ると「通行止め」だ…工事中ではない、どこかで崖崩れがあって予算が付かないために長く通行止めのままなのである=看板の赤ペイントの色がくすんでいる。もう道の両側から緑が這い下りてきている。この先集落もないし、内陸の国道が整備されたため必要のない道になったようだ。ここでタイムアップ…伊根をバイパスして帰路に就く。 FUJIFILM-X70

2016.8.18

ようやく断崖絶壁の道は終わり、広くはないが平野部へ出た(海までは車で5分)…少しだけ観光施設のある当地の有名神社「浦嶋神社」に到着。前に来たときはなかった奉納和船がガラス張りの展示小屋に鎮座していた…昔は海辺の神社にはよく見られたが、最近の奉納は珍しい。浦島太郎の伝承は各地にあるが、ここが一番有名だろう=学術的な証拠もある。

拝殿には亀の甲羅や藁で作った亀が奉納されている。神主の奥さんに多くの話が聞けた…いずれ遠くなく時間をとって神宝を拝み、それらの由来を聞くことになるだろう。 FUJIFILM-X70

2016.8.17

丹後半島若狭湾側の最奥の集落へ下りる…これは伊根方向から来た別の会社のバスだ…外海側ではまったくなかった木造船も風波の穏やかな内海側には数多く残っている(久美浜と違い現役船)。しかし乗っているのは老人ばかりで、年金と合わせて小遣い稼ぎ程度の漁だと聞き取る。だがそんな僻村にもかかわらず村に残った人々によって、シッカリとした船小屋に大切に保管してあり浜の掃除も行き届いている。

港の中に小山があって、登ると金比羅さんが祀られ、てっぺんから港と左側の集落が一望できる。両側を崖に囲まれた天然の良港である。これから丹後半島を宮津に向けて南下する。  FUJIFILM-X70

2016.8.16

丹後半島先端部近くに経ヶ岬灯台がある。かなり広い駐車場があり、そこから整備された断崖の道を15分ほど歩くと到着。断崖の上に建っているため灯台そのものは低い。

岬を若狭湾側に巡って(海況はぐっと穏やか=しかし崖は垂直)展望スペースに停まると、またバスがやって来た。袖志から若狭湾側の最初の集落・蒲入の間に3台の路線バスと出会った…人はほぼ乗っていないが「岬めぐり」の歌を口ずさむような景色だ。

2016.8.15

間人の市街地を抜けると急速に人が集落が少なくなる…地形は山が日本海に落ち込み、そこへ冬の北西の季節風と高波が押し寄せて崖が連続し、人々は海蝕崖の上の台地で細々と暮らしている。崖の一部の遊歩道から見ると、岩の島も風波に長年押され続けて傾いでいるのが分かる。

丹後半島の日本海側最後の集落・袖志、ここはこちら側としては珍しく砂浜に面している=この砂浜は昔は広くて小学校の校庭代わりになったぐらいだ…今は山の砂防ダムにより砂の流出がはばまれ、砂が供給されなくなったため砂浜は数メートルとなっている。護岸まで海が迫っている場所には波消しブロックが積まれている。いずれここの浜の護岸も高くなるだろう(それまで地区が存続すればだが…)。 戦後は米軍・自衛隊のレーダーサイトの町として多くの関係者が暮らしたが、現在は自動化が進んだためか冷戦の終結のせいか、基地外の居住はなくなって基地内に住んでいるようだ。バスは町村合併で市営バスが通り、今は二社が運行していて人口の割りに本数が多い=バス停も冬の風波をまともに受けるため頑丈な造りだ。 SONY-α7R+SONY-FE28mmF2

2016.8.14

竹野川を下って日本海側のカニで有名な間人(タイザ)へ出た。高台から見ると海蝕崖の上の狭い土地に町が並んでいるのがよく分かる。浜にあった船大工小屋も廃屋となって久しい…木造船は皆無だ。港は整備されて漁民にとっても釣り客にとっても便利になったようだ…しかしこのような整備の時に古いものが廃棄されるのである。だからごく小さな漁村や船溜まりに古い船が残っていることになる。

間人の浜のすぐ前に城嶋があり(橋でつながっている)、神聖な場所として海にまつわる神の社殿がいくつかある。現在ここは半分公園のようになっていて外海側へ下りてみた。向こうの陸地は久美浜や香住だ。汀に何か不明の石碑があった=これ専用の燈火があり、大切なものらしいが判別はできなかった。これから丹後半島を一周する=3=3=3

2016.8.10

味土野の本村である大宮町へ下る(北へ移動)。ここでようやくバス停がある。もう合併して弥栄町はないのだが看板はそのままである。過疎地ゆえ民間のバス路線はなく公営のバスが1日4本走っている。

地区の中心の大宮神社で休憩…山から湧き水が出ていて、そこが神聖な場所になっている。小さな池から三方向に制水がなされて、ここから実際に地区の田圃に水が引かれている(このような風景は今や珍しい)。池の石、狛犬、水神様、本殿と整然と並んでいる。殖栽も境内もきれいに整頓されていた。これから日本海側へ出る。 FUJIFILM-X70

2016.8.9

スキー場への山越えの道も草むして通行止めであった。傍らの猪の罠も放置されたままで草に埋もれていく。

そして芝生が植えられて整備され、村人により中世から代々守られてきた細川ガラシャの碑(昭和11年建造)、土台は碑と同じような年代だが、まわりの石柵はずっと古いように見える。ようやくここへ辿り着いた…1988年当時はもう少し鬱蒼とした森に囲まれていた。

2016.8.5

長い時間をかけて山を越えると味土野のはずれに入る…「港の景観」にも出した看板だ(もちろん新品になっている)。元の田畑の跡だ…今は自給用に少し作るだけを除いて山に帰りつつある。1988年に初めて行ったときは3戸4名、2001年の訪問では3戸5名、さて今回は…調べた訳ではないが2戸に減ったようだ(ついに元からの住民はいなくなったように思われる)。

2001年の同じ場所。まだ畑は広く耕されていた(この日も大雨)。住民は区長夫妻と、都会からの移住者2戸4名…この頃ここがTVのドキュメンタリー番組で二度、別々の局で制作された。

1988年のソバ畑での区長夫妻…この時は夫妻と、ひとりぐらしのお婆さん、都会から来た「芸術家」が住民で、元から住んでいた人はすべて山を下りた。 FUJI GS645

ここの山の分校跡地を宿:ガラシャ荘にして区長が管理…1988年に泊まった。薪で焚いたご飯と、サクラの薪で沸かした風呂の香りが鮮明に思い出される。現在もバンガロー風に建て替えられてガラシャ荘は存続している。

元の集落の中心に味土野之跡の石碑が建つ…まだ住民は居たが、昭和38年の三八豪雪により大多数の人が離村し、旧住民によって石碑も昭和59年に建てられたものである。

2016.8.4

翌日は朝から大雨で、峰山から林道を通って(ナビにはない道)丹後半島の山間部へ入り込む…行き先は旧弥栄町・味土野だ=この集落は正式の道が丹後半島の日本海側からついているため、林道で近道するほうが半分の距離で済むのである。しかし小型四駆でないと踏破は不可能だ(狭い上にガレ場があるため)。山に入ると雨は少しおさまりかけたが今度は霧に覆われた。気温は22−3℃、低温・高湿度で過ごしやすいが10m先がハッキリ見えず危険だ。静かで深い山々…この道も廃道寸前だ。

林道の傍らに石碑を発見、廃村の跡地である…ずいぶん前に廃村となったらしく、この碑以外に人の住んだ痕跡はもうない。これから行く味土野もそうだが全国で一番の過疎地域が丹後半島の山間部なのである。高くはないが険しく地形の複雑な山々、夏は雨、冬は大雪で、農業に適した平地もなく、林業も山からの木材搬出にコストがかかるため盛んとはいえない。観光に資する場所として蘇らせたいと願っての予備調査なのである=和船調査が第一、観光立地の予備調査が第二…FUJIFILM-X70=どうも緑色が強く出る/あまりにも綺麗すぎたために、ここでは少しの色抜きをしている。

2016.7.30

今日は帰りが遅かったため写真は1枚…丹後旅行1日目はとても暑く、大雨が降ったため早めにホテルに入った。久しぶりにホテルの窓からの日没だ=最後に日没が見られるなら浜辺にとどまったらと少しの後悔…京都縦貫の完成が関係あるのか峰山町では国道沿いにちょっとしたブームタウンができて各種の店舗に混じって比較的大きなビジネスホテルまであった。ホテルの部屋は国道と反対側を向いていたので、以前の田圃ばかりの田舎風景だ…向こうの家々の多く建つ場所が旧宿場町。いよいよ翌日は丹後半島を一周する和船探索の旅だ。

2016.7.29

府道を進んで塩江との峠に辿り着いて、展望台から西を見ると山陰方向から巨大な黒雲が迫っているのが見え、どんどん暗くなった。慌てて峠を東へ下った。遠くに高い山陰が見えるが、これが氷ノ山である。海が見えるはずの場所は大雨で天と海がつながっている。

塩江に辿り着くころに黒雲が追いついて、あたりが何も見えないぐらいの大雨だ…ワイパーも効かないほどの降水量で走るのが危険なため漁港の高台で驟雨が通り過ぎるのを待つ。

2016.7.28

更に断崖の道を進むと浜詰漁港を望む海蝕崖の上に祭祀遺跡があった=風化した一枚板の岩である。古代から海の要衝であったことが分かる。向こうは丹後/但馬の国境稜線、さらに遠くには香住の山々が見えている。左奥が久見浜湾。この周りだけは草も刈られ多少の整備がなされている。笹藪の向こうは絶壁だ。

そして背後には大泊古墳の石室が残っている。もう漁港からはナビからも道は消えて、なんとか四駆なら入れる山道だった…これも網野塩江まで抜けている道なのだが途中で崖崩れなどで車は通行不能、徒歩でも廃道のため登山道に近くなる。ここで海岸線を辿る道は諦めて内陸を通る道路(府道665号線)へ戻ることにした。

2016.7.24

小天橋の長い砂嘴の東端=夕日ケ浦海岸に到達。砂嘴の先端が久見浜湾口で、その向こうは兵庫県との県境の山々、そして香住や浜坂に続く。背後は浜詰から網野まで断崖の山で、日本海側は冬の強い風波により、何千万年もかけて岩山は断崖絶壁の磯浜となり、少し平坦な場所には削られた砂が溜まり砂嘴や砂丘が発達した砂浜となる。ここは砂浜が湾曲して西向きになるため、夕日がきれいに見られるために比較的最近に「夕日ケ浦」として観光に力を入れている…民宿や温泉ホテルも数多く、現在では小天橋を追い越している。

海づたいの断崖の道を浜詰へ向かうと、道から山への参道があり中腹の志布比神社へ達する。エビスさんを祀っているらしいが、境内のあちこちに神仏とりまぜた奉納品が置いてあり、灯籠には恵比須の面が祀られていた。境内も掃除が行き届いていて、現在も海での安全に願いをかけているのだろう。

2016.7.22

湾口付近の湊宮の漁港…ここはようやく漁師町らしい雰囲気が残っている。この風景全体が文化的景観として保全されている。ここでも破船のマルコを発見=長く放置されているために草が生えている。

長い砂嘴、小天橋の海水浴場…7/2としては海水浴客はまずまずだろう。左が外海、この砂丘の向こうが久見浜湾、背後に狭い海峡で湾に繋がっている。夏になってもそれほどたくさんの人が押し寄せる訳でもないので、更衣室やシャワー、海の家などは多くない…逆に今や「穴場」かも知れない。海は穏やかで美しい。

2003.1の同じ海岸。

2016.7.20

久見浜湾はカキの養殖で古くから有名である。ちょっとしたブランド牡蠣で専門の料理店もあるし、凪いだ湾や養殖筏の並ぶ景色は京都府指定の文化景観にも選ばれている。その一方ここでもカキ殻の始末には手を焼いているようで人の来ない入江に仮の殻置き場に満載されている。焼いたり砕いたりすると肥料その他に利用はできるのだけど、その手間と、処分量より増加料が多いためどこの産地でも似たような景色となる。真ん中でおばさんが一人作業をしていた…その人との比較でも殻の山がいかに大きいかが分かる=これでも全体の一部だ。

湾口の近くに橋が架かっているが、現在は「地震対策」のため改修工事中…復興特別税はこのようなところにも配分されている。なんとか地震被害に苦しんでいる東北や熊本に回せないものかと思うしだいである。

2016.7.18

湾は入り組んでいて、小さな峠を越えて隣の入江にでたら、アッサリと木造船(これは伝馬船の破船)が見つかった。対岸の岬あたりは20年前とはすっかり変わって、半島の西側全体がゴルフ場になっていた…なるほど風波が弱く比較的積雪も少ないため住むのだけではなくゴルフ場にも向いているという訳だ。前に数多くあったマルコも何とか残っていた(使用はしていない)。

次の入江ではたくさんのFRP船が係留してあった…しかし漁船の数は昔よりずっと少なく稼働率も低いようで、多くは釣り船やプレジャーボートである。かつて浜だったところも汀まで草がむしている。静かだ。

2016.7.15

県庁跡の学校の裏へ回った…広い運動場だ(暑い土曜の午後なので誰も見えない)。背後は城山公園、やはり城があったようだ。公園の登り口にはお稲荷さんの鳥居がある。それにしてもSONY-α7R+SONY-FE28mmF2は素晴らしいピントを結ぶ。

そして少し横へ歩くと「如意寺」…この裏山が城山なのである。やはり暑さのせいか参拝者は見えなかった…35℃。

2016.7.14

長明寺を旧街道にそって西へ歩くと、町はずれに歴史的建造物・久美浜県庁跡地がある。江戸時代の代官所から県庁、町役場、小学校、京丹後市合併後は役所の支所など、同じ場所で行政・教育の中心として長く続いてきた。度重なる改修で古い建造物は少ししか残っていないが、往時の繁栄を象徴する立派な門柱だ=門は付いていないが左にこれと同じ柱が立っており、県庁時代のものであろう。

久美浜町時代に立てられた解説板。

県庁跡のすぐそばの民家…驚異的な護岸の低さである。湾奥とはいえ冬の日本海の風波は強い…湾口の小天橋(砂嘴)により波は阻まれ、まわりを取り囲む山々で風は遮られているのである。

2016.7.13

一番大きく変わったのは広大な海浜公園が整備されたことだろう。まだ芝生が植えられているぐらいで設備はへとんどない=でも箱モノは要らないだろう、ここは交通の便が悪く気軽に来れる場所ではない。「自然がいっぱい」+海水浴+カニとカキでよいのではないか。この背中側に「船小屋」と付属施設が作られつつある。

町中に入る。ここは久美浜町の中心地区・仲町だ。回船問屋が多くあり、海運時代の昔は繁栄をきわめた…なにしろ今は外の世界と隔絶したような田舎町だが、明治の廃藩置県のおりは久美浜県の県庁があったぐらいなのである。左が湾で角にあるのが回船問屋跡の一軒だ(現在町並み保全はある程度なされている)。

2003.1の同じ場所。ほとんど変化はない。懐かしいような景色だ。

更に旧街道を進むと次の川があり、その橋のたもとに長明寺があり、旧「久美浜県立久美浜小学校 発祥の地」の碑がある。湾の最奥のため風波は弱く、この程度の護岸で用をなした。

2016.7.6

さて、先週末の和船探査の旅を書いておこう。ずいぶんと便利になった京都縦貫道路の全線開通で、まず久美浜へ行った…残念ながら高速道路は丹後半島の付け根の野田川までで、家から150kmを2時間で走ったのに、インターから海まで1時間もかかった=観光に力を入れているにも関わらず天橋立以遠はぐっと観光客は減り、久見浜湾まで来ると静かなものだ。遠くの低くなったあたりは小天橋(天橋立の小さいものという意味)=砂嘴で海と区切られていて、ごく狭い水道で日本海と繋がっている。ここは何と言ってもカキ養殖で有名で、昔から夏は海水浴、冬はカキ料理・カニ料理と賑わってきた(鉄道が来ていることも利点)。しかしモータリゼーションの発達で高速道路の来ない現在は衰退やむなしということか?

以前にも(30年間で3−4回)訪問していて和船の推移を見てきたが、久しぶりに来て少し観光用に復活していることが分かった。実用の船としては港の隅で朽ちていっているのが現状だが(それでもぽつぽつ残っている)浜の近くの空き地を利用して昔の船小屋を復元し(船も新造)、周りを整備して文化施設を作りつつあった=まだ半分は更地。当地の伝統的な船は「マルコ」と呼び、板材を丸くはぎ合わせた船形の独特なものだ。  今回はおおむね天気が良く(気温は最高35℃)主としてSONY-α7R+SONY-FE28mmF2で撮影した。画面の隅はちょっと怪しい部分もあるが全体としてボディ・レンズ共に良い仕事ができる組合せだと実感=これまで実戦では多く使わなかったがおおいに見直した=ただしFEレンズのズームやテレレンズに使えるバリエーションがないので、どうしてもSONY-FE28mmF2とZeiss35mmF2.8FEにならざるをえない。

2016.7.3

土日で丹後地方へ撮影旅行…土曜は気温35℃と熱中症寸前となり、日曜は26℃ながら非常に高い湿気に悩まされた(レンズが曇る)。ここは狭い山道を通って丹後半島山間部の廃村寸前の味土野(人口3−4名)を訪ねた。霧に包まれた僻村に細川ガラシャ隠棲の地の碑があり、当地の人はずっと守ってきた。ここの廃校跡の分教場を宿にした「ガラシャ荘」に泊まったのは30年近く前、その後も1度来て、今回は10年以上ぶりに再訪した。北側から入る道は細くても普通の道だが、西からの山越えの道は小型の四駆でないと無理である。

今回の装備品はこれだけ…RICHO GXRはバッテリーがFUJIFILM-X70と共用なのでスペアに持ってきただけで10カットばかり撮っただけだ(やはり古さが目立った=写り云々よりボディ機能が古い)…梅雨なので天気が気になっていた。しかし前日にまずまずとの予報で、急遽SONY-α7R+SONY-FE28mmF2を持ち、主としてα7R、よじ登ったり潜り込んだりの撮影でFUJIFILM-X70を使用した=原則的に木造船の現況と使用実態の調査である。

2016.6.21

さて弁天町から天保山への短い旅も終わりだ…遠くからでも分かるここのシンボル大観覧車の二景。渡船乗り場の裏は天保山公園、夕方になると観光客も近所の人も潮風に吹かれて集まってくる。以前にも一度書いたが、大観覧車は夕陽に向かって回転(ここでは右方向=神戸の方を向く)していく…だから乗るときは夕暮れ時に限る。今も乗りたそうなカップルが観覧車を見つめる。この観覧車は10年ぐらい前に何度も来た当時は「日本一」の径だったが現在はどうなのだろう?

もう夏至に近いため午後5時でも日は高い、この季節は6時半か7時が適当か? 早めの晩ご飯を食べるために、あまり流行っていない(実際10年前より観光客は減っている)大衆食堂風インド料理店に入ってこの日を終えた。 初めてのFUJIFILM-X70、結果は「良好」というところだった。

2016.6.20

人工の山・天保山の海側(北港のはずれ)に渡船の乗り場がある。安治川を越えて対岸の此花区・桜島の工場地帯に行く船だ。ここは8ヵ所の大阪市営渡船のなかで最も交通の便が良く、港区・此花区側ともに観光地となったために乗船客はもっとも多い。対岸にUSJと隣接のホテル・マンション群が見えている。

乗船客には目立って外国人が多い=USJのスタッフや観光客である。渡船+自転車は移動手段として便利なため、どこの渡船でも多くの自転車が乗っている。

2016.6.19

橋を渡ると天保山(あるいは大阪北港)の領分となる。左側の岸壁に貨物船・消防船・保安庁・渡船・観光船などが隣り合わせに停泊している。陸上では考えられない雑多さで、港の景観の典型である。頭上は阪神高速湾岸線、右側は浚渫船などの縄張りだ(まだ一部に水上生活をしている人達もいる)…港湾は基本的に国や府県のものだが、狭い海面、昔からの権利があって容易には変わらない。ここでは「みんなの海辺」という訳にはいかない…国のものなら誰が停泊しても良さそうと思われるようだが勝手には泊められない。もちろん海面・埠頭の使用料は支払っているし、泊めている彼らとて一旦ここを離れたら、次の許可はおりない仕組みとなっている。

岸壁と内側を区分する高い防潮堤…何度もの改修を経て複雑な模様となっている。数年前の台風で一部高潮が護岸を越えて浸水した。壁の内側の海遊館や大観覧車などの観光施設は海抜0m地帯から10m程度土地を上げた場所に建っている。

2016.6.17

迷路のような高架橋下をくぐれば急に視界が開け、高架道路の交差・旧の道路・新しい道路・古い建物・ゲートボール場・堀や運河に囲まれたややこしい空間に出た。私は右の黄色い建物の上を通過する高架の下から出てきたのである。左の道路からすぐ横の海岸へ出たかったが行く道が見つからなかった。

そして橋を渡ると人工の山・天保山のエリアへ入る。左は地下鉄中央線、右奥に大観覧車が見えている。もうすぐ旅の終わり…

2016.6.16

埠頭のとぎれた場所から一般道路へ。川筋から少し入った道なので、やはり倉庫群が続く…そうするうちに渦巻き上の構造物が見えてきた。阪神高速の朝潮橋PAである。はじめて下から眺めた=そして横には管理事務所がある。

更に歩くと車道は高速道路(あるいは高架道路)へ上がっていき、歩道は狭まって怖いような道となる。ここを抜けると川尻と海岸の入り組んだややこしい場所へと繋がっていく…都市の探検=川歩きや島歩きはやめられない。 FUJIFILM-X70は環境や色温度変化にもすばらしく追随していく。とうぜんモニターは見ずに外付けファインダーだけでの撮影=合焦音もうるさいので消してある。つまりシャッターボタンを押しきるだけである(ほぼすべて合焦=FUJIFILM-X100とは大違いだ)。シャッター音だけは音を低く・小さく設定している…単純にいつ切れたかを知るためである。ドライブボタンが独立していて、ここで連写H/L・各種のブラケット撮影が即座に切り替えられる。これで気軽な撮影以外はRICOH GRの出番がなくなった=逆に神経質に考えない場合はRICOH GRが良いということだろう。

2016.6.15

埠頭を河口に向いて歩くと、多くの小型貨物船(昔風に言えば渡海船)が停泊していて、なかには自転車を積んできて、ここから街へ買いだしに(或いは娑婆の空気を味わいに…)出かけていく。船籍は呉や福山などの瀬戸内の港が圧倒的に多い。

約30分歩いて埠頭の先端部に近づいた。埠頭の途切れている向こうは元は海だったのだろう…今はずっと遠くまで埋め立てられている。足元のレールはおそらく荷役用の軌道のあとだろう。ここは港ではあるが一般の人も歩いている=自動車の出入りは制限されているが、散歩や近道で通り抜けるのは黙認しているようだ。国土交通省の監視車両が見回っていたが咎められることはない。天保山はまだ遠い。

2016.6.13

まだ稼働している町工場で…往時は、このような切削屑やドラム缶が山のように積んであったのだろう。 FUJIFILM-X70の点像復元技術はこのような中近距離で威力を発揮する。

護岸の上を河口に向かって歩くと、ようやく何艘もの貨物船が見えてきた。今は川中の港だが以前はこの先が海だった。

長年通っているが珍しく荷役をしているところに立ち会えた。昔は仲仕が荷の揚げ下ろしをしたのだろうが、今は大型クレーンで船から左の工場へ直接搬入する。ここでは各工場や倉庫にクレーンが設置されている。この作業風景が見られただけで大きな収穫だった。 FUJIFILM-X70…それにしてもよく写るカメラだ。

2016.6.12

歩いて歩いて、安治川河岸の保税地・弁天埠頭へ到達した。しかし北港や南港に埠頭の座を譲って(埋立で海は遠くなった)建屋にも人気はなく、埠頭に桟橋はあるものの係留されているのは浚渫用の泥船ばかりだった。

町には多くの船舶関係の店や町工場が並んでいるが、港の衰退と共に営業も芳しくなさそうに見える。埠頭に支えられた町だけに、倉庫群は残っているものの、今となっては人やトラックの往来発着も少ない。

2016.6.11

今日はFUJIFILM-X70のフィールドでの実写テストを兼ねて、大阪・弁天町〜天保山への写真散歩である(おおむね安治川筋)。前回の大正〜弁天町は尻無川、前々回は汐見橋〜大正の木津川を渡船と町並みを巡る旅の西側の終点まで来た。1時半から5時まで撮影しながら(熱中症に気を付けつつ…)みっちり歩いた。

FUJIFILM-X70の評価として「遠景がどうも…」と言うのがあったが、これは否定できる…ライバルRICOH GRとの比較で見てみるとほとんど同等と思われる。ところが画質全般で見てみると(点像復元技術etc)RICOH GRと比べて「やや良い」という程度で、絶対買い換えるべきとは言えない。もちろん色々なセチュエーションで比べると違った答になるのだろうがフィールド写真家の必要条件としては「大差ない」が結論だろう。ただしそう言えるのは画質のことで、AF速度や画像設定の多様さはRICOH GRを大きく上回っている。AFについてもうひとつの指摘する点は、他のFUJIFILMのボディにも共通することとして低コントラストの状況で遠近の迷いがあることだ(GRより劣る)…しかし暗い場所でもコントラストのある被写体ならAF補助光なしでも良く合うし、近接撮影でも良好だ。今日は画像設定をクラシッククロームとした=説明に書いてあるより色が濃くなる(これもFUJIFILMボディ全般に言える)ので、どのモードで撮影する場合も彩度を落とした方が良さそうだ。もちろんRICOH GRのように渋くなることはない。

http://www.ab.auone-net.jp/~osaka565/K110-00.html(リンクはしていないのでコピーして検索を)…弁天町駅から大々的に再開発された表通りから小路へ入ると昔ながらの住宅地へ入る。区画整備された町並みの向こうに緑が見えたので来てみると、八幡屋公園とあり、その一角に江戸時代のウオーターフロントの古跡「波除山跡」があった。やはりブラブラ歩くのが良い。このあたり一帯はどうやら戦災で焼けた後再建された町らしく寺や神社などの古いものはほとんど見られない。この3回の川筋歩きで見えてきたのは、西成区は住宅や学校・公園などに再編、港区は大規模な工場や倉庫、そしてビルやマンション、海遊館などの観光施設に再開発、昔の港町のややこしい景観は大正区に残っているということだろう。夏は暑いので秋になったら南の港湾・河川へ行ってみよう。

2016.6.9

志度寺…境内は少し南国風の緑の木々に覆われている。小径が四方についていて、巡ると本堂(重文)が見えてくる。やはり今となっては僻遠の地なので参拝者は多くない。八十八ヵ所の86番、もう巡礼の終わりを予感させるたたずまいと見えた。

境内のはずれ…寺の経営の老人保健施設と老人のための診療所の看板があった…背後にそれらの施設がある。ポタラとは古代サンスクリット語のポータラカ(観音浄土=漢字では補陀洛と書く)のことで、さすがに観音信仰の寺である。私もその時が来たら、町唯一の大きなカソリック系老人施設に入るかもしれない…事業として運営している施設に一抹の不安を感じる。  RICOH GR

2016.6.8   姿を消しつつある渡船二態。

広島の音戸渡船…音戸大橋ができたあとも住民の足として活躍している=橋は大型船を通すため高橋となっていて徒歩や自転車では対岸に渡るのに難渋する。向こうは呉の工業地帯。  RICHO GX100 2007年の写真だ=また今年度久しぶりに行きたい。

夕刻の愛知県営西中野渡船=愛知・岐阜の県境の木曽川を渡す…昔はたくさんあった木曽川の渡船もここだけになった。 Canon 6D+EF24-105mm F4L

2016.6.2

志度寺の境内に入ると、すぐ左手に「史跡 海女の墓」がある。1300年も前の藤原不比等の時代の伝承なので、細かなエピソードはおとぎ話に近いものだが、それほど昔から瀬戸内海運の要衝だったことは間違いない。そして東讃岐にポツンと建つ札所:志度寺の生い立ちも同様のことなのだろう。厳密には寺とは関係ない史跡だが、管理は志度寺でしている。墓の向こうはすぐに浜だ。

次に見えてくるのが五重塔、境内全体が森になっていて、歩くのが心地よい…一度は荒れたようで(おそらく明治の廃仏毀釈)、まだ全域のうち整備は8割程度である。しかしここは介護施設や診療所も併設していて、依然として観音思想を継承している。前回来たときより細かく見ることができた。 RICOH GR

2016.5.30

同じく掃き清められた津田八幡の境内…二人の氏子か町内会の人が落ち葉掻きを黙々としていた。

少し車で走り、志度寺の前浜へ出る…海は透明と言うほどではないが、ゴミはなく浜辺の護岸に海草が生えていた。これから四国八十八ヵ所霊場の八六番札所・志度寺へ入る。 RICOH GR=だんだん扱いに慣れてきたようだ。

2016.5.29

石清水神社…境内は広くてとても綺麗だ。まず目に付いたのが、ここの狛犬は日本狼(伝である=耳が垂れているのは不思議で犬に見える)で合計4体ある。今までで天竜川上流の山住神社を除き(ここのはもっと狼らしい風貌)話には聞いていても実際に見たことはない。大神の導きか偶然の遭遇である…像自体は古いもので絶滅した日本狼はこのような姿だったのかも知れない。

散りかけた藤棚が境内の隅にあり、新緑の葉と共にとても美しい。すぐ向こうをJR高徳線の列車が走っていた。

2016.5.28

広い津田の松原公園を歩いていると、あちこちにこのような看板がある。何かと思うと来園者に付属の竹ほうきで掃除を呼びかけているのである。事実ここでも松葉が1ヵ所に掃き集められていた…市民(合併前は津田町民)に愛されている公園なのだ。

さて公園を出ると向かいに石清水神社(津田八幡宮)の鳥居がそびえていた=実際は道路のできるまえはここから浜が始まっていたのである。よく整頓され清浄な境内に入ろう。 RICOH GR…いくら南国とはいえ4/29の絵なので今とは服装などが異なる。

2016.5.6

讃岐への旅紀行を始めよう。まず高速道路を降りて東讃岐のさぬき市・津田の松原へ…前回訪れた東隣の白鳥の松原に比べると桁外れに広く、松林の手入れがなされていて明るい。やはりローカルな観光地らしく連休さなかでも人は多くない。しかし駐車場も広く(無料)大袈裟な施設はないかわり、小さな観光案内所ではお茶やコーヒーを無料でふるまってくれた。四国お遍路の習慣か、ここ以外でも「お接待」文化は生きている。

松林の外は砂浜が広がり、水路に架かった願い橋・叶う橋を渡って若者達が何組も歩いていく。天気は快晴、これが瀬戸内の日中の景色だ…RICOH GR、設定を変えたが「まだ地味」なようだ。更に煮詰める必要がある。

2016.5.4

時間が経ちすぎたので真鍋島紀行もこのへんで…まだまだたくさんエピソードがあるのだが、もう2ヶ月も経ち、次の旅が続くため。町中に入るとかなり構えの立派な旅館が何軒か残っている(営業はしていない)。これも海運華やかなりし頃の残映なのだろう。行商人であれ、船乗りであれ、海が荒れると何日も足止めをくらうのが島の日常だった。 RICOH GR

真鍋港から連絡船に乗って「さようなら」…高速艇は速いが乗り心地が悪く、船上からの写真も撮りにくい。やはりフェリーでノンビリとした船旅が好ましいだろう。 Canon G1X-2=このカメラでは4:3比率で撮っている…センサーサイズは3:2なので、そちらで撮る方が有利とも言えるが、縦横比は4:3が好みなのである。今回はサブのCanon G1X-2でも多く撮った。

2016.4.10

墓地の真ん中で30分ていど地元の人に島の今昔の話を聞く。やはり昔は海員や水夫が多く、純漁村ではないことが分かった。現在は行政区(ここの場合は笠岡市)によって航路や付きあいが分かたれているが、合併前の単独の町だったころは、尾道や福山、四国の佐柳島や多度津、丸亀(実際の距離は近い)などの島々との交流・通運は盛んだったそうで、今も数は少ないが他の島からの行商船が来るそうである。

真鍋地区の高台にある円福寺から家並みを見た。岩坪地区と異なり家々は平地に建っていることが分かる。 RICOH GR

2016.4.7

どうやら真鍋島も「猫島」化しつつあるようだ。地元の人に聞くと、どの島でも「どうも迷惑…」と語られるが、猫が人を呼ぶことも知っているので邪険にはできない事情もある。猫島で有名な讃岐・佐柳島の隣の高見島では以前は猫はおらず「駆除しています」の方針だったが、島の世話役的な人(数年前聞いた同じ人)に、昨年尋ねると「止む終えませんね…」=確実に猫は増えていた。

村中を更に進むと墓地に出た。ここは元の埋め墓で右は砂浜だった…浜に護岸ができ、家や作業小屋が建って、集落の真ん中に墓地がある風景となったのである。ここでは両墓制が衰えて埋め墓と参り墓がいっしょになっている=他の場所は舗装されて、昔ここが砂浜だったことは分からなくなったが、墓地の土壌は依然として砂のままである。お彼岸で花が供えられ、本土からのお詣りの人も多くみられた。

2016.4.2

真鍋地区へ入ると集落のはずれに廃道と化した石段があり、登っていくと途中で藪にはばまれる=木の葉越しに古い建物が見えて、どうやら学校の跡地らしい(現在は別の場所に新しい学校がある)。

浜の住吉さんの社の前に飲み屋の跡があった…往時水運の盛んだった頃のなごりである。農村になくても海の町には必ず飲食店や酒屋がある。これは漁家や水運の家に現金収入があったばかりではなく、乗組員として他の場所から出稼ぎや移住していた人々が多くいたからである。右の看板には「つり舟・レンタルボート・灯油配達・なんでも請け会(負いの間違い)います」とあり、渡海船の最後の商売だったのだろう…しかし現在も、各島々で僅かに渡海船は動いている。 RICOH GR

2016.3.31

岬を巡ると、忽然と離島に似合わぬ大公園があり、ここでも若者のグループや家族連れが遊んでいた…取りあえずあずまやで休憩…かなり暑い。

そして真鍋地区のはずれに到着=岩坪の倍ぐらいの規模だろうか、家もおおむね平地に建っている…RICOH GR=あまりに地味なので彩度を少し上げると劣化したネガカラーのようになった(@_@)なんとかせねば…

2016.3.28

岩坪集落の端の方に来ると廃屋が目立つようになる…しかし風景は穏やかそのものである。廃屋にはやはり山や森が迫ってくる。

町並みを外れて浜へ降りると、徒歩20分程度で向こうに見えている隣の真鍋地区へ向かう。やはり若者が多く歩いている…左は両地区の境にある島の鎮守の八幡神社の杜である。 RICOH GR

2016.3.26

なおも山の中腹の小径を歩くと庵寺に着いた…小さなお堂だが地区の人達によって整頓されている。ここにも古い五輪塔が置かれていて、海の見える丘に墓地がある。他でも見られる風習だが、いくつかの仏像には化粧がなされていて顔が今風にカワイイのである。お彼岸のためか墓や仏像には花が供えられている。瀬戸内の海の景色の典型である、遠く近くに島や本土が見えている。

道はこのようだ。道を歩くと大きな家に見えるが段差にそって「薄い」のである。ここで猫とようやく遭遇…右から歩いてきて、私の前を悠々と回って左の坂を上っていった。 RICOH GR

2016.3.25

岩坪集落を登っていくと墓地に出る。昔はおそらく両墓制だったのだろうが(これもあとで判明)今は集落のはずれの荒神社の近辺に墓地(たぶんここに参り墓があった)があり、中世の五輪塔群が保存されている。もう誰の墓とも知れないが、往時は水運・水軍の拠点として栄えた島だったことがうかがえる=特筆すべきは真鍋島では人口や集落の規模に比べてお堂やお社の数が非常に多く、しかも丁寧に今も祀られていることである。現在は笠岡諸島でも六島とならんでもっとも遠い島だが「行ってみないと分からない」典型の場所である。かくして写真家は遠くまで歩いていくのだ。 RICOH GR

てっぺんの小さな荒神社への石段に座って、岩坪集落を眺めつつ昼ご飯のパンを食す…取材とはいっても楽しいピクニックだ。

2016.3.24

さて2日目は笠岡から連絡船に乗って真鍋島へ…笠岡から1時間も船に乗る、瀬戸内としては比較的沖合の島だ。ふたつある港のうち岩坪港に上陸…しかし他の離島とは景色が違う。若者達が多く(日本人・中国人・韓国人)訪れていることだ。人口200名の島の規模としては異例に多い…そして店もない島が多いなか、驚いたことに新築のカフェまでがあった。最近はやりの猫島であることは知っていたが(実際はそれほど多いわけではない)他の猫島とは比較にならない数だ。若者達は島の奥へ路地を登っていった…慌てて彼らの後を追おう。 RICOH GR

崖に貼り付いたように町並みが山の上の方まで続く。現在は年金生活と小規模な漁業の島だが、以前は船員として活躍したり、四国本州間の水運をになっていたらしい。実際船員保険の年金は少し支給が多いのである。ここでも地区の真ん中に井戸があり今も稼働している。家は廃屋も多いが、ふだん不在で盆暮れや節季に戻ってくるような家も多い…今回は春の彼岸で墓参りに本土から戻ってきている人達も多かった。 RICOH GR…やはりクラシックな絵でデフォルトだと渋すぎるような気がする。少し彩度とコントラストを上げねば…

2016.3.23

高梁川の風景…山陽本線鉄橋を貨物列車が行く=3=3=3 高梁川右岸に木造漁船があったため停車、観察と撮影をしていたら偶然貨物列車が来たのである。川漁もおこなわれているし、木造船はかなりの数が残っている。そして貨物列車は私の幼少期に比べると随分短くなったと感じた。 Canon 6D/連写に切り替えて撮ったが、極めてスムーズ&余裕である。

同じく右岸の船穂地区に残る「一の口水門」(江戸の初期に完成=倉敷市指定文化財)と用水を記録した。農業用水と河川水運を兼ねていて、河口の玉島まで10kmを高瀬舟が物資の運搬に利用されていた。ここのすぐ傍に下の渡し船があり、流域の縦の水運と横の街道を渡る船、そしてここから陸運へつながっていた交通の要衝であったのである。

2016.3.22

さて次の旅のお話しの始まり…3/19-22で倉敷〜笠岡〜福山〜尾道と、今年度最後の取材旅行に出た。初日に雨の心配があったので、またしてもOLYMPUS E-M5の登場かと準備していたのだが、前日の予報で降水確率が低くなり、急遽Canon G1X-2と差し替えた(このカメラのダイナミックレンジの広さは捨てがたい)。これとRICOH GRが島歩き用で、Canon 6Dは定点観測用のカメラだ。

まず倉敷市道の延長で動いている(無料)、高梁川の「水江の渡し」に乗る。架橋により(向こうの橋=今年2月に開通)廃止が市によって決められた。周辺住民も含めて6000人以上の署名・存続嘆願書が出されたが議会で否決され、ついに3/31をもって廃止が確定した。普段は1日数十人程度の乗り合いだったが、廃止の決定で3月に入り昔を懐かしむ人や観光客も含めて多くの人が押し寄せ3/19は半日で150名も乗り降りした…船頭さんも大忙しながら惜しむ気持ちも感じられた。同乗した家族連れも、夫はこの船で通学したとのことで、娘に見せてやりたかったようだ。水江の渡しは、もうすぐ90年の歴史の幕を閉じる。しかし応援する人がいて、操船する人がいて(現在8名で交替で操船)、船は建造7年の木造船(あと20年は使える)があれば、渡し船としてではなく高梁川遊覧に復活するかも知れない。 乗って撮影、岸からの撮影で、1時間1800カット(もちろん連写)…Canon 6D+EF24-105mm F4L=去年の瀬戸の櫂伝馬競漕の時と同様、手首が痛くなった…やはり手持ち撮影の1.5kgは堪える年代になったのだろう。Canon&Nikonもそろそろフルサイズミラーレスカメラを用意しつつある…まるで僕等の年代のためのように(^_^)

2016.3.18

時の経過と場所がバラバラになるが、答志島探索の続き…右が盛業中の旅館、左が元旅館、向こう側がジンジ(神祭)の舞台、そして白い建物が郵便局、その向こうは崖…狭い局面にあらゆるものがひしめいている。かなり大きな字なのだが港まではどこからでも徒歩10分以内である。

郵便局の横を上がると7−8分で峠に出る。ここが答志地区と和具地区の境界でもある。そこに寺と神社があり、双方の信仰を集めている。その潮音寺の本堂には堂々と「蘇民将来」のしめ縄がかかげられている…神仏混淆というよりも蘇民将来信仰が宗派を越えて根付いていることの証である。ユダヤ教・キリスト教に出てくる「過ぎ越し」そのものと考えて良い。伊勢鳥羽地域ではここに限らずどこでも同じ風景が見られる=更に八幡信仰も非常に盛んで、各家々には八の印が描かれている。そして八幡信仰と関連があるドーマン・セーマンの信心も特筆できるだろう(陰陽道)。

これが海女のお守りであるドーマンセーマン(左右は逆)=セーマンは安倍晴明、ドーマンは蘆屋道満(本来は播磨秦氏の秦道満である)と伝承されているが、話が都合よすぎるので後世の創作と見る…ただし八幡≒陰陽道は秦氏をはさんで関係が深いと思われる。

各家にある八の印…人物は漁から戻った海女である。八はまた伊勢から三河にかけての八母音系(標準語は五母音)の言葉とも対応している。

2016.3.17

答志島…浜から坂を上がると(地区内は宿屋(元宿屋も含む)が多い=民宿ばかりでなく立派な旅館もある)古い近畿日本ツーリストの看板が残っていた。おそらく往時は今より宿泊客が多かったのだろう。今は丘をひとつ越えた和具地区が観光の中心となっている。印象として漁業の答志、観光の和具と感じられる=もちろんどちらも両方に力を入れているが。 RICOH GR

和具の浜「サンシャインビーチ」まで全部で2時間ばかり歩いて、浜のベンチで休んでいると比較的若年男子の団体が歩いていった。和具のはずれには企業の保養施設・研修施設が何軒か建っていて、便利な立地のせいか観光とは明らかに違う目的でやってくる人達も多い=なにやら難しい顔をして議論しながら港へ歩いていった。

2016.3.16

答志島への海路…人口も多く、若い人の残っている答志島への船は島の住民で混雑といううほどではないが、瀬戸内の離島と比べると、かなりの乗客の数である…通勤・通学・買い物・通院etc。

答志漁港に小さな小山があり、登ってみた。砂田松の碑があり、てっぺんの松は港湾の改修工事でも残された。この時活躍したのが砂田代議士で、爾来「砂田松」と呼ばれるようになった。 OLYMPUS E-M5

鳥羽市のサイトから引用=昔の港と砂田松。どうやら灯台や常夜灯籠と同じように帰るべき港の目印となっていたようである。

2016.3.15

答志島答志地区へ上陸後、最初に訪れたのは浜にある「海女小屋」…昔の海女小屋を再現したもので、今は観光用のカフェ(?)・採りたての魚介類を食べる場所である。ここでホンモノの現役バリバリの海女さんに話を聞いた…答志地区だけで80名以上の海女さんが活躍し、若い人も参加しつつ、かなり漁獲高もいいそうだ=やはり村中が活気があり女の人の元気が良い。海女の文化は世界無形文化遺産の候補にもなっている。

ジンジ(神祭)の舞台…土地の少ない村の中の中心に神事を執りおこなう広場がある。すぐ横が鳥羽市役所の出張所、向かいが郵便局と人の集まる場所だ=神社ではなく、普段は子供の遊び場や井戸端会議に使われている。  それにしてもRICOH GRの画質はAPSカメラとして秀逸だ…ダイナミックレンジを拡げたためにコントラストが低くくなった…少し画像設定でコントラスト&シャープネスを持ち上げよう=じゃ最初からノーマル設定でと言われそうだが、それは違う…ダイナミックレンジを拡げてエッジを立たせるのである。

2016.3.14

3/13−14で鳥羽の離島へ3年連続で島歩きに行った=日曜は薄曇りで時々晴れ、答志島の答志地区と和具地区へ、月曜は大雨の中、答志島の桃取地区と坂手島へ、雨と寒さでかなりの強行軍となった。ここは桃取の桃源寺の裏山にある墓地からみた桃取地区(細かく見ると、さらにふたつの小字と見えた=こちらは西側の集落)…答志島の西端にあり、観光はそれほど力を入れていないが漁業で生計の成り立つ場所である。 OLYMPUS E-M5=本格的な防滴カメラであることと5軸手振れ補正が効くため雨の日は必携である…ひょっとしたら持っているカメラの中で一番多く出動しているのかも知れない。

今回持参のカメラ…天気予報で天気が悪いと分かっていたためOLYMPUS E-M5を、そして雨さえ降らなければ持っている中で最も小型のAPSカメラ・RICOH GRを島歩き用に持っていった。大正解だった=1日目は降らなかったためにRICOH GRを、今日は1日中雨が降ったためにOLYMPUS E-M5を使った。どうしても、歩くとは言ってもデジタルカメラはトラブル(バッテリー切れが一番多い)の不安があるためサブカメラは必要なのでこういう組合せとなるのである。もちろん画質そのものはRICOH GRが良好。

2016.3.12

東京の水辺二景…佃島の船溜まりとマンションコンプレックス。ほんの一角だけが佃の雰囲気を残していて、あとは隅田川沿いに高層マンションが建ち並んでいる=開発が遅れた場所ほど景色の流転が激しい。 CASIO EX-ZR20

お茶の水駅の橋から見下ろした景色…中央線と地下鉄のすれ違いは良くある写真だが、この時は運良く浚渫用の泥船までが画面に納められた。 CASIO EX-ZR20

2016.3.11

琵琶湖のサクラ#2…八幡堀のサクラ(時代劇のロケ地として有名)=ここの遊覧船はモーター船だ。しかし景色は春にサクラ、秋は紅葉と美しい。2008.4の撮影=現在は木の生長により開花の最盛期には川面が見えないほど咲くようになった。  PENTAX-K10D

懐かしい瀬田川のサクラ…対岸は石山寺、川の左岸から桜並木をとおしての夕景がいい。ここも川には遊覧船(やや大型)が動いている。 PENTAX-K10D

2016.3.10

今日はもうすぐやってくるサクラの季節に…琵琶湖の春二景。 昔はたくさんあった琵琶湖周辺の内湖を結ぶ水郷地帯の櫓漕ぎ遊覧船(近江八幡)。琵琶湖の開花は大量の冷えた湖水のおがけで京都や大阪より1週間以上遅く、それも湖南・大津から日々北上していって、最後に湖北に4月下旬に到達する。運が良ければ3回ぐらいは見られるというものだ。それにしても船からの花見は寒い。 Leica M9

そして湖北・海津大崎の桜並木。花の下の道路を走るのも良いが、年にこの季節だけ走る花見船(花見専用に作られている)からのサクラは格別だ…風波がないため散った花びらが湖面を覆う景色はここだけのものだ(4/25前後の散り始めが良い)。土日は陸・湖ともに大混雑するので平日に行くことだ。 OLYMPUS E-M5

2016.3.9

多忙にて更新ままならず…今日は富山の海二景。富山新港に架かる新湊大橋=2012年に車道が、2013年に車道下の歩道が開通し、今も橋の周辺の開発(おおむね観光施設)は続いている…ここには元々「富山地方鉄道」の鉄橋が架かっていたが水害で1966年に橋が落ちた。この時点で橋の再建は断念し、線路は左岸の越の潟までで、あとは廃線となり、ここから出る県営渡船で対岸の堀岡へ渡った。今回の架橋で県営渡船廃止の議論もあるが(道路の代わりなので無料=大赤字)、地元の強い要望もあり便数を減らしつつも今のところは動いている。この写真の船は新湊の川から海まで出る全国的にも珍しい遊覧船である。さて港の景色はどうなるのか?ここも毎年立ち寄って変化を20年以上眺めている。

富山湾の東側の朝日海岸…向こうに見えているのは親不知子不知の断崖だ。ここで富山平野も終わる地の果て…でもここの海岸は糸魚川の海岸と並んで全国に2ヵ所しかないヒスイの拾える隠れた名所なのである。山や川のヒスイ産地は採掘権が確立されており一般人は採ることは禁止されているが、川を下って海に入った原石は拾ってもいいのである。冬の荒波に削られて良い石はなかなか見つからないが、石も川からどんどん供給されるため、根気よく毎日浜を歩けば、たまには値打ちものが見つかるらしい…写真の人も探している地元の人だ。荒れる冬こそが勝負という=海に出た原石が風波で浜に打ち上げられるからだ。

2016.3.6

明石の元の漁村地帯…埋め立てで海岸線は遠くなり、漁港も新しく築港されて船は集められた。それでも旧の漁村地帯にはそれなりの雰囲気が残っている。

須磨浦山上公園から(似たような写真が多い…理由は思いつかないが展望台の双眼鏡にどうも惹かれる)明石海峡を望む…向こうは海峡大橋と淡路島だ。

2016.3.2

先週末に訪れた橿原市の小谷古墳=山域全体が聖地となっていて(掘れば遺跡・遺物が出るものと思われる)、全体は市によって管理されている。民有地と入り組んでいるため石室横では家庭菜園がおこなわれている=整備も大切だが、このような生活と隣り合わせの景色もいいものだ。今回は橿原市付近のごく目立たない、しかし重要な遺跡・神社仏閣を何ヶ所か歩いた=風邪と花粉症で大変な1日だった…その後今日まで忙しい年度末(@_@) 3月いっぱいはスケジュールが詰まってしまった。 SIGMA dp1Q/FOVEONBLUEモードで撮影…今回のファームアップでj-peg画像は改善され目が痛くなるようなシャープ感ばかりが目立ち、擬色や像のザラつきなどが感じられたところが、解像感を維持しつつよりスムーズになったと思う。

2016.2.20

浜名湖弁天島の浜から今切を見る。バイパス橋の下の水道で海とつながっている。背中方向には細い砂州に新幹線・東海道本線・国道一号線がひしめいていて、まさに交通の要衝である。 Canon 6D=お気に入りのボディ。

2016.2.17

沖縄旅行からあまりに時間が経ったので「休止」…ともかく翌週に行った「速駆け東海旅行」を付け足しておこう。全国に残る渡し船の取材の一部だ。地形や川・水路の使用状況によって橋の架けられない場所に道路の延長線としての渡し船(本来がそうだ)を実地で調べている=HPでも分かるように思われるが実際は相当に違うことが多い。ここは愛知県豊橋市営の牛川渡船(道路の延長なので乗船料は不要)で、川が細いため対岸から乗りたいときは船着きにある鐘を鳴らす(大声で呼んでも聞こえる)。棹で操船し、随時運行・1日乗船客が年平均で50名前後だから多い方だ…通勤や通学などの地元の人は1日17−8名であとは評判を聞いた観光客だ(テレビでも何度も紹介されているし、イベントがされることもある)。現在架橋が決定されているが渡船は残るそうだ。 OLYMPUS E-M5

木曽川を渡す愛知県営西中野渡船。こちらは大河、さすがに広く動力船をふたりで動かしている…しかし地元の足としては用を終えたようで乗船客は1日平均17名(ほぼ全員が観光客)だそうだ。ここも対岸から乗るときは旗を揚げて船頭さんに知らせる(大河なので音では無理)…夕陽を浴びて午後4時10分の最終便に乗れた。 Canon 6D

2016.1.22

本島の那覇空港と瀬長島への連絡道路から…島は米軍の施設があって、そこへの出入りのために長い海中道路が2本建設されたのである。もちろん当時の島民は対岸の本島へ移住させられた。1977年に返還されたものの頭上を飛ぶ民間機や軍用機の爆音により人の住める環境ではなく、ごく最近にリゾート開発が始まっている。

これは海中道路から那覇空港へ着陸する民間機、高い山がないため遠くから点のような機影が見えて一直線にこちらへ向かってくる。海の近くに多くの人が車を停めている…どうやら意外なことだが地元のエアプレンウォッチャーのようだ。訪問して、まず複雑な沖縄の現実に出会った…昨年の初訪問では、すぐに中北部の漁村部に行ったために素朴な沖縄しか体験してはいない。

向こうが本島、浜辺の漁船は元島民達のものである。

2016.1.21

さて暫くぶりに旅のシリーズだ。今回は1/15-18に行った沖縄旅行のお話…まずモノレールに乗って伊丹空港へ、朝が弱いので11時すぎの飛行機だ。快晴、那覇は曇りとのアナウンスが入る。行きはまったく問題もなく静かに飛んでいった…今回は天気予報で4日間とも曇り時々雨だったので、持っている唯一の本格防滴カメラOLYMPUS E-M5とキットズーム12-50mm(とうぜん防滴レンズ)にチェンジした(押さえにLUMIX GX7)=旅行は2ヶ月前から決まっていたので当初はSONY-α6000かα7を予定してフル充電していた(サブにSONY RX100M3)。

那覇に着くと予約していたレンタカー営業所へ向かうことになる。他の空港と違うところは公共交通機関がないため観光立県たる沖縄ではレンタカーが圧倒的に至便性に優れるということで(実に沖縄ナンバーの2割がレンタカーという数字もある)空港前の道には各レンタカー会社の送迎バスが並んでいて、各社の職員が予約客をさばいているあたり、昔の温泉観光の駅前で汽車が着くたびに旅館の番頭さんが並んで客を誘導した風景を思い出して面白かった。ここでは2家族7名の客が大型のワゴンを借りているところ…私は当然に軽ワゴン(狭いところに入る)のタント…パワーはぜんぜん無いが燃費はまずまずで、全行程400kmを22リットルで走りきった=3=3=3  おそらく体力の落ちていくこれからは、本土でも列車で現地へ…そこからレンタカーで行動というパターンが増えていくことと思われる。昔と比べるとレンタカー会社はどこでも対応は良くて値段も安く(今回は4日間で21,600円=1日5000円)車種も選べる。当然にナビ・ETC・普通のカーステレオは標準装備(そして禁煙車両)で汚い車はない。

2016.1.14

さて実際はもっとたくさんのエピソードがあるが(島の北側や島の西側の集落など)ここいらで帰路につこう…また港の脇の商店で「作品」のフグ提灯、まだ行っていない集落・上新田があるので春になったらまた来よう。

連絡船がやって来た…これに乗らないと帰れない。詫間の港から自宅までたったの3時間半だ。真ん中に建っているのが海員学校校舎、5時間半の島歩きだった。 CASIO EX-10

2016.1.13

夕刻の島中を歩く。曇っているので景色は青い色になっていく。小さな社やお堂がたくさんあって、昔の人口の多さとは別にしても神や仏が身近に存在していたのだろう。

時々奇妙なものがある…いずれ再訪して何かを尋ねてみたいものだ。船の時刻も近づいてきた、そろそろ港に戻ろうか。

2016.1.12

村の最奥(と言っても浜から3分)、やはりかなりのお屋敷だ=高潮に見舞われる島では小高い場所が一等地となる。ここより奥は森林に呑み込まれている。以前はちょっとした耕作地や薪取りの入会地があったのだが、もうすでに生い茂る藪のため人が入ることはできない。

浜へ戻ると鉄筋コンクリートの建物が建っている(人気はない…)。これはどこの島にもある島外からの人のための居宅である=主として学校の先生、そして役場の出張所の職員・郵便局員・農協や漁協の職員等のための施設である。町から「来てもらう」体制がある…それも現在はあまり人は住んでいない。

2016.1.9

なだらかな坂道を村奥へ登っていく…たちまち漁村の景色となる。道は狭く曲がりくねっている…もちろん車は通れなくてスクーターでもすれ違うのには注意が必要だ。ほとんど無住とはいえ清掃は行き届いている。

このような不規則な辻がしばしばあり、微高地でありながら更に石垣で土台を上げている。最大の高潮の際は海抜7−8mのこのあたりまで海水が上がったのだろう。

2016.1.8

海員学校の前の護岸道路を行くと次の集落・下新田だ…海岸線に沿って長く伸びている。その集落の真ん中あたりに小さな毘沙門堂がある=仏教系なのだが鳥居がある。かつては浜に面して集落を守っていた…一昨年訪れたときは、この裏の土蔵で「島アート作品」のオブジェ制作中で、作家ばかりではなく近隣の住民が集まって協力していた。地区の人達の集う場所でもあるようだ。

毘沙門堂の横から集落を見ると奥に家並みを見ることができる。浜から見ると海に貼り付いているように見えた村も思ったより山際まで続いているのである。高潮対策に多くの家は土台を高くするか、より山の麓の高い場所に建っている。人は既に多くは住んでいないが立派な家が多く、本土から時々帰って手入れがなされているようで荒れた印象はない。

2016.1.7

浜へ数分で下りると、明治30年創立の国立粟島海員学校の跡地がある。今も建物は保存され敷地内にはレストランやバンガロー、テニスコートもあり、粟島観光の中心になっている(総合して粟島海洋記念公園と称す)。粟島の近代の繁栄はこの海員学校にあり、歴史を遡れば塩飽水軍の拠点、江戸時代は天領にも属さず諸藩にも入らず「人名制」という自治区(首長は世襲ではない)を全国でただ一ヶ所保ち続けた(勝手に宣言したのではなく幕府の公許である=幕藩体制の外に近代的な「塩飽の国」があったのである)海民の繁栄を「つい最近まで」維持してきたのである…島の若者は島から出ることなく海員学校へ通い、船員となって世界を巡り、定年後は島に戻って年金と半農半漁の生活をしてきた(島の家としては"お屋敷"が多いのもそのためだ)。この学校が昭和62年に廃校となって(その前提には海運不況がある)粟島は急速に衰えたのであり、今島で悠々自適の生活をしている人達が最後の栄光の時代の生き残りなのである。

学校内は完全に保全され資料館となっている。学校の前はすぐに浜が広がっている。

2016.1.6

そして「漂流郵便局」に到着…前回来たときに初めて見て、過去に各地の島で見た「島アート作品」の中で最高のものと思い、また訪れたのである。アートコンセプトには触れない=下のサイトをぜひ閲覧して欲しい。現在300人の人口の島が3000人だったころの立派な郵便局そのものを作者のコンセプトを込めて作品化したものだ。島の人達も他の作品については是非を言うが、この作品だけは「ふるさとの郵便局」という意味も含めて愛着を持っていると語る。

ここへ手紙を出そう…今も月に2回は作家または元郵便局長がやってくる。次に私がやってくる時には日を合わせて中に入ろう…現在の小さな新しい郵便局は港のそばにある。下記は「漂流郵便局」サイトから転載した。

漂流郵便局とは

ABOUT MISSING POST OFFICE

漂流郵便局(旧粟島郵便局) は、
瀬戸内にあるスクリュー型の小さな島、
粟島の丁度おへその部分に在ります。
ここにはかつてたくさんの物、事、人が流れ着きました。

こちらは、届け先の分からない手紙を受け付ける郵便局であり、
「漂流郵便局留め」という形で、いつか宛先不明の存在に届くまで
漂流私書箱に手紙を漂わせてお預かり致します。

過去/ 現在/ 未来
もの/ こと/ ひと
何宛でも受け付けます。

いつかのどこかのだれか宛の手紙が
いつかここにやってくるあなたに流れ着く。

漂流郵便局員

http://missing-post-office.com/

2015.12.30

さて、また粟島への旅の続きだ。集落のはずれに来ると次の地区への少しの空間に畑が広がる。土地が狭く水に不足があるため稲作はしていない。漁業もそれほど盛んではなく、おかず取り程度の半農半漁+船員としての出稼ぎを生業としてきた。人口減少と共に畑も遊休地となり、そこここに「アート作品」が展示され、住民の手で管理されている…移動芸術祭の時以外は作家もめったに来ないのである。会期中は1ヶ月に数万人単位で観光客が訪れ受け入れ体制もままならない状況になる=「それでも誰も来ないよりはいい」が感想らしい。

使わなくなった畑も少しずつ整備されて花や木々の植栽が面積を拡げていく=以前はここも草ぼうぼうだった。向こうは城ノ山(私は勝手に「塩飽富士」と呼んでいる)…ここへはハイキングコースもあり展望もいいらしい。残念ながら登ったことはない…

2015.12.27  今年最後の島歩きを置いて…一筆。

12/25-27で今年最後の旅に出かけた…明日からの帰省ラッシュの直前で道路も町も島も静かなものだった。 ここは塩飽・本島の港から山を越えた反対側の集落へ通じる峠の茶屋で、4代目の主人と(+13匹の猫達)話し込んだ。塩飽の中心の島だが今では海運盛んな往時の1/10以下の全島10地区の合計人口は200名足らず、客など来ないが年金をもらいながら「店がなくなると困る人もいるでな…」といたって淡々と日々を過ごしている。日に3本のバス停でもある。11時30分の次は16時30分までバスは来ない…FUJIFILM-X100S=X100とは外見は同じでも別物のカメラだ。EVF+OVF併用カメラとしてX-Pro系カメラと同様、島歩きに使いたい。

2015.12.23

更に村中を進むと「当分の間、月曜日だけの営業…」の看板が出ていた…店らしいものはなかったが何かの商売を週に1日だけしているのだろう(おそらく美容院か?)…なんとか島民の需要を支えているのだろう。

ちょっとした広場(広場の地下には貯水タンクがある)があり、ようやく島の人々に会えて話が聞けた…いたって明るく「みんなで助け合い…」とのことだ。やはり元船員が多く、船員年金(厚生年金より少しだけ手厚い給付)で、あとは畑で食べる分だけ作り、魚はおかず取り程度の半自給自足生活だ…米は昔から水が足りないため作らずに本土から買ってきた。

広場の外れには地蔵堂があって、ここもキレイに片付けられている…中には二体のお地蔵さんが並んでいる。出入りはさっきの薬師堂と同じく自由だ。寂れてはいるが清潔感のある集落である=住民の掃除・整頓がいきとどいているのだろう。

2015.12.23

集落の小径を5分歩くと村の中心に着く…ここに今も生きて地区に給水している井戸があり、その前には廃屋と化したお屋敷跡がある。左は社の朽ちてしまったお稲荷さんの境内だ。井戸は島の生活にとって非常に大切なものだ=島は山の保水力が足りず、大きな川がないため水を溜められず、しかも海岸近くでは地下水に塩水が混じる、そして瀬戸内の海浜部は日本一降水量が少ない…どの島でも水で苦労してきたのである。

そして井戸の手前には薬師堂=ここは手入れがなされて地区の集会所の役割もはたしているようだ。76番の札はこの島の観光ガイドの番号の名残りらしい。お堂の前には古くからの自然信仰(おそらく水神)の石の小さな碑が鎮座している。

2015.12.21

旅館の敷地へ入る…山から木々が下りてくるだけではなく、庭木も大木になっている。たまに何かの集まりに使うらしく道だけは雑草が刈り込まれている…左の建物が「海友荘」本館。

元旅館の雰囲気は残っている(なぜ旅館があるのか?それは後述するが、この島は重要な立場を持っていたので官吏や企業の責任者などが訪れる島なのであった)…土蔵や倉庫はすっかり朽ちているが本館だけは掃除もされ、昔風の波うったガラスがいい感じだ。しかし倉庫の方から山が迫っている。

2015.12.20

左は唯一の商店(島の店としては比較的大きな店だ)、右は「作品」と商品置き場。この島では町並みや景色と作品が入り交じっているために=しかも作品も島外のアーティストのモノと地元の人のモノがあって賑やかだ。

さらに村奥へ歩くと廃屋が増えてくる…なにしろ3000人が300人なのだから、建っている家の9割は廃屋(あるいは無住)ということになる(実際には取り壊されている家もあるので2/3程度が廃屋だろう)。人の住んでいない家も、まったくの捨て去られた家と、時々(盆暮が多い)帰ってきて少しの手入れのされている家がある。突き当たりは元旅館、裏山が年々敷地に下りてきて半分は植物に覆われている。畑の柑橘類はたわわに実るが収穫されることはない。食べても肥やしが足りないせいか甘みは少なく、とびきり酸っぱい味がした=瀬戸内の島々は柑橘系の産地だったし、今も盛んに栽培している島もある。

2015.12.18

さて来週も行くつもりの讃岐の旅を見てみよう(2015.11)…面白いのでCASIO EX-10のArt-HDRで撮ったものだけで構成する(もちろん実際はj-peg同時記録している)。 香川県三豊市詫間町須田の港から粟島についたところから始まる。ここも何回目かの訪問だが(島が大きいので全部を回るには何回か来ないと無理である)少しずつ島外からの「新観光客」が増えているようだ。つまり離島そのものを楽しむ連絡船の旅である。須田から粟島へ来て、ここで志々島へ小船を乗り換える中継の港でもある。郵便もバイクごとやってくる…小さな島だと郵便物だけが来る。車は小型車が1台だけ乗せられる=したがって予約制であることに注意。

港からさっそく集落に入る「消防屯所」というのが面白い…中には新車(に見える)の軽トラック改造の消防車が収まっている。村の入り口から「アート作品」が見え始めている。老人が電動三輪車で島で唯一の商店へ買い物にきていた。昔3000人、今300人を切った粟島の旅だ。

2015.12.13

さて今日で佐久島への島旅も終わり…弁天島地先の灯台(灯標というのかも知れない)、向こうは渥美半島と神島。 FUJIFILM-X10の望遠端撮影。

帰りの連絡船内から…暗くなったら皆帰ろう。まだ5時だ。

2015.12.11

佐久島本島に戻って連絡船の時刻まで地区内を歩く…西地区に比べると人口は多いものの景観保全はしていないので廃屋はあっと言うまにこのようになる。

阿弥陀堂にて(もちろん無住)猫と遭遇…その向こうは「アート作品」=このようなものが荒れ寺といっても村の宗教的な場所にあっていいのかと思う=最近、離島での「芸術祭」が盛んで、この島にも数多くの作品がある。

2015.12.10

すっかり夕暮れの東地区へ着くと(ここは2度目だ)家並みは増して民宿や土産物屋が何軒もある。若者グループや釣り客が多かったものの島に泊まる人は少ないようで人の気配はあまりない。

向かいの堤防でつながっている大島へ渡ると海釣り公園のようになっていて釣り人が20人程度いた(実際、どんな離島へ行っても釣り客がいるのは不思議)。夕方になって天気は良くても風波が強まり、かなり寒い状況だ。 これはFUJIFILM-X10で望遠撮影。

大島の東側の岬に立つと灯台と渥美半島が見える…だが崖の下を若い女性がひとりでスマホを見ながら歩いていた=風波が強くなると磯場は非常に危険なので歩くべきではない。もし波にさらわれたら絶対に助からないし、身体は波で繰り返し岩にぶつかって大きく損傷するのである…しかし彼女は磯をぐるっと回って向こうへ消えていった。 

2015.12.9  何としても佐久島旅行は最後まで書こう…季節が進んで冬になる。

黒壁の家も大半はこんな具合だ。それでも「残そう、守ろう」という気概は単に観光目的だけではなく、島民の文化的・精神的な支えを存続させる意志と考えている。

 

西地区の外れに来たら突然視界が開けて「クラインガルテン」…Wikiより引用=市民農園運動…「クラインガルテン協会」が管理し、希望者は協会員になって区画を借りる。ドイツで最初のクラインガルテン協会は1814年、北部の街カペルンに作られた。その後、1864年にライプツィヒで最初の協会が作られ、ドイツ各地に広まった。1919年には利用者の権利を保護する法律が定められ、国の制度に取り入れられた…となっていて宿泊施設やバーベキュー施設があり、見たところそれなりに利用者がいた。

 クラインガルテンを過ぎると短い距離だが山道に入る(それなりの標高)。相変わらずの藪が続く。道を下ったところが東地区(佐久島の中心部でもある)だ…どうした訳か西と東の道に結界があり、元は出入りに制限があったようだ。これは後日再訪して意味を確かめたい。

2015.12.7

さて佐久島上陸の続きだ…この島には西と東の地区があり、まずは古い家並みの西地区を歩く。やはり冬の風波を避けるためか(北西を向いた村)家の多くは少し高台にある。浜には倉庫程度の建物しかない。釣りの名所らしく釣り人が歩くのをよく見かける…おそらく私の乗ってきた船で本土に帰るのだろう。

黒壁の家並みが港裏の岡へ続いている。ただし民家は多くても住んでいる家はそれほど多くはない。元は杉の焼板だったのだろうが、劣化した板壁に景観保全(観光用か?)のために黒ペンキが塗ってある家が多い。草木は茫々と茂り、その中を親子連れが黙々とあるいていく。

若者もレンタル自転車で走る黒ペンキの家並み…ちなみにレンタル自転車屋さんは石工の人達である。多くの島がそうなように石材業が不振となり観光業に替わっていったのだろう。  LUMIX 14mmF2.5Gはやや逆光に弱い傾向がある。

2015.12.4

さてついに西尾市営渡船に乗って佐久島に上陸…以前に来たときはほとんど乗客はなかったが、観光対策に市も力を入れていて、本土の近在の若者が多く乗っていた(満席!)。下りるとハッキリ本土より暖かいのが分かる。

港脇の浜を灯台に向いて歩くと風が強く、湾内とは言っても風波が押し寄せてくる。向こうは知多半島、さらに遠くに伊勢の山並みが遠望できる。波と風の音だけしかしない…「島へ来た」感慨である。 OLYMPUS E-M5…こんなシーンでは独特のOLYMPUSブルーが好ましい。この旅では機械としてはやや古くなったOLYMPUS E-M5の実力を見直した旅であった。

2015.12.3

かぼちゃ寺本堂の中に入って撮影…晩秋の陽が軟らかい。海に近く暖流が流れているせいか三河の海辺は暖かい。右に鎮座するのは「びんづるさん」。

寺から退散する前に鐘突堂横のハゼの木かなにかの(つまり詳しくはない)紅葉が目にとまった…緑や赤や黄、青空に映えていた。

2015.12.2

このペースではなかなか前に進まない…しかしハズ観音の続き。潮の香りの風が吹き込む境内はそれほど広くはないが壇信徒や住職の手で綺麗に整備されている。本堂横にはカボチャに乗った十一面観音立像が浜を見つめている。

ありがたい御本尊、脇にも多くの文化財級の仏像や僧侶の像がならんでいる。自由に本堂に上がれ、節度をもった態度でいれば、さらに近くで拝むこともまったく妨げない…神社仏閣とはかくあるべきだろう。

本堂脇には大きく育てられた観賞用品種のカボチャが数多く奉納されている。

横のポットには「カボチャ茶」が入っていて参拝者が喉の渇きを癒すだけではなく観音と供食することを意識させられる。目的地の佐久島は近いがなかなか着かない。

2015.12.1

ようやく西尾市に入り、通称かぼちゃ寺と呼ばれるハズ観音の妙善寺に到着。なかなか個性的なお寺である=詳しくは検索を…ハズはこの地域の名前の幡豆(はず)からきている。決して観光的ではないが地元の信仰は厚く、20分ばかり滞在している間にも何組もの信徒がお詣りに来ていた。

寺は浜に面しており「成人病封じ」とは別に海の信仰と関連があると見られる。向こうは渥美半島と神島だ。浜にはカモメの大集団が羽を休めていた。この写真はFUJIFILM-X10だ。

2015.11.30

蒲郡・八剱神社に寄り道…ここは格式が高く、この日も七五三のお詣りに多くの人が家族で集まっていた。ここにも浦島伝説がある。

古い寄進の札…檀家寺と異なり、多くの人の寄進で成り立っていることが分かる。

2015.11.26

さて夜中は大雨だったものの翌日は晴れて秋の空が戻ってきた。佐久島への連絡船までの時間、豊川市〜西尾市への道すがら、いくつかの観光ではない寺社に寄った。ここは三河高野山と言われる金剛寺だ。平安期の創建とされ、その後衰退したが現住職一代で復興された。これは趣味がいいとは言えないが山域のもっとも見晴らしの良い尾根の先端部に作られた弘法大師像…三河湾を見下ろしている。やはり地元の参拝者が多く(ちょうど七五三の時期に当たっていた)喫茶店が営業していた=つまり採算がとれる程度の参拝者がいると思われる。

尾根を歩いて本堂の近くから大師像を見る…向こうは三河湾、ここからなら姿がよい。ここではすべてOLYMPUS E-M5+LUMIX 14mmF2.5Gで撮影。

本堂から見た蒲郡市街地…向こうは知多半島だ。この画面左奥に大師像が建っている。佐久島への連絡船の港は遠くのタンカーのとまっているあたりだ。ここから二ヶ所ばかり寄り道したが、それは来週…明日から三日間東京だ=3=3=3

参道を歩く、毎日歩き続ける…景色や人・事物だけではなく地面も空も見なくてはいけない。

2015.11.25

豊川稲荷に戻る…境内を2時間ぐらい歩くと、日の短さと曇り空が険悪になってきたことで真っ暗になってきた。OLYMPUS E-M5の五軸手振れ補正は強力で他のカメラに比べて暗いシーンには最適のカメラだと思う=今は手振れ対策(フィルム時代には考えられなかった…)に1.高感度耐性を高める方法 2.手振れ補正装置 3.レンズの大口径化 4.可動各部の振動低減などが考えられるが、私は2と4を重視している。1はかなり進歩したとはいえ高画質と画像の安定性のバランスの点で「未だ」と思われる(高級カメラでは達成している)、3は魅力的ではあるが大口径レンズは大型化するためフィールドカメラマンとしては避けたいのが本音だ。4はフィルム時代からの課題で、1998-2005の間、私がLeicaしか使わなくなった理由のひとつでもある。これは少しずつではあるが今も進化している。2が劇的に変わった装置だろう…開発当初はブレないが画質が少し落ちる傾向があり明るい場所ではoffとしたものだが(今もLeica-Qのメーカー指示には手振れ補正は切るのが望ましいとなっている)最近は画質低下が目立つことはなくなった。

豊川稲荷の深部へ…伏見稲荷などとは違って、ここでは表には稲荷らしい鳥居群や狐の像などは少なく「お寺」の雰囲気だが、奥の「狐塚」へ進むにしたがって景色は一変する。木々は鬱蒼とし参道が森を抜けるように続く=伏見稲荷と違って町中の境内なので実際は広くはない。幟はここでも稲荷ではなく荼枳尼天(ダキニテン)となっている。

最奥の狐塚に着く…おびただしい奉納された狐像の群れがある。ここは昼間ではなく夕暮れ時に来るべき場所だろう。眷属狐の面目躍如だ。ここをあとに豊川稲荷を出たとたんに豪雨が降ってきた。

2015.11.24

三河地方への旅日記が終わらないうちに、今度は讃岐の島嶼部への島歩きへ…三日間で3万歩以上歩いた。これは二日目の多度津港から佐柳島への途中、高見島へ寄港した際の写真。1年半前に来たときより乗り降り(しかもやや若い島歩きの人達)が増えた。前回は佐柳・高見島ともに土地の人は別として外からの人は一人か二人だったが、今回は高見島では若い女性観光客が3名、佐柳島では若者のグループが5−6名、アマチュア写真クラブらしい中年のグループが4−5名下りていった…しかも皆1日粘って最終の5時過ぎの便で多度津へ帰っていった…少し島へ人を呼び込む努力がなされているようだ。 CASIO EX-10

これは三日目の塩飽・粟島での「コンセプチュアルアート作品」の"漂流郵便局"…詳細は検索してほしい=本物の旧郵便局そのものを作品としたのである…作者のコンセプトと共に過去3000人の島民、現在は300人となった「時の経過」を感じさせる。他の作品群は朽ちつつあるが、これだけは今も稼働し島の人達も大切にし、そして誇りとして語られている。 私も瀬戸内を中心とした多くの「島アート」の作品群の中でピカいちと思っている。 Leica-Q…今回は歩くのでLeica-QとCASIO EX-10を持ち出した。

2015.11.21

豊川稲荷参道…たくさんの幟が立っている。灰色の世界。 FUJIFILM-X10…画質は悪くないが少し絵づくりが古いように思う=フィルムっぽいのである…それは欠点とは言い切れないが、矛盾ある感覚としてもデジタルカメラの進化の中では違和感を感じた。

2015.11.20

稲荷と言ってもここは寺院でもあり、本堂(本殿?)では仏事・祈祷などが混淆したかたちでおこなわれている。稲荷神社、しかし祀っているのは荼枳尼天=ヒンドゥー教や古代仏教では悪神で呪術をつかう…これが渡来の稲荷神や古来からの狐を畏怖する信仰と習合して現在の稲荷信仰となっているのである。信徒は微動だにせず1時間経っても祈り続けていた。

天気が悪く、日も短いため広い境内は4時半になると真っ暗だ。ホテルがすぐ近所なので写真の撮れる限界の5時まで粘った…そして撮影を終えた5時丁度に大粒の雨が天から落ちてきた。

霊狐に乗って天下る荼枳尼天=ここでは弁天の姿をとっている。

2015.11.19

街道の峠のトンネルを抜けて三河・豊川に入る…トンネルの出口のすぐ横の旧道に入るとゴツゴツとした岩山があり、その中腹に「嵩山蛇穴(スセジャアナ)」が森の中にある…考古的な調査によると約1万年前・縄文草創期の遺跡で、当時ここで穴居していたらしい。現在は落盤で70m程度しか入れないが、以前はもっと深かったようで、言い伝えによると長野・善光寺まで続いていたという。また洞窟に埋蔵金があって守護の武士がいたとも伝えられている。観光コースからは完全に外れているが、それでもずっと昔のトンネルのできる前あたりに少し手を入れた跡がある。もちろん恐いので中には入っていない。

街道を下るとそこが豊川稲荷だ。日本三大稲荷の最高の格式をもっている。稲荷といっても神仏混淆で明治の神仏分離令にも耐えて、お寺の中に神社があり、神社の中に寺院がある。場所が鄙の悲しさ…伏見稲荷などと比べると参拝者はそれほど多くはない=しかし、お正月はたいへんな人出となるため階段を特設のスロープに改装している。向こうの山がさっき越えてきた国境の山塊である。

2015.11.18

華蔵寺の本堂脇のモミジ=だんだら模様に紅葉していた。これから平地でも紅葉の季節だが、今年はどうなのだろう? きのう今日と大雨が降っている。

更に街道を進むと橘神社に遭遇…創建は平安時代とあるが、その後衰えたらしく平成にいたってようやく再建されつつある。橘逸勢は渡来人橘氏の中興の祖であり、境内の整備も中国系の人々が関わっている。本殿の再興は未だなっていない。

2015.11.17

東海への旅…まず静岡の浜名湖へ三ヶ日から下り立つ。少しだけ浜名湖畔にて撮影=強風だったものの雨は止み、空は明るくなっていた。ここから旧街道(現362号線)を辿って遠江から三河へ越える峠道に入ることにした。

まず街道の遠江側の最後の集落付近で「華蔵寺」に立ち寄る。このあたりはミカン畑が多く寺の境内にも手入れのされた柑橘の木があった。ともかく旅の成功を祈った。  OLYMPUS E-M5+LUMIX 14mmF2.5G(レンズはこれのみ持参)…どちらも旧式となりつつあるが、まったく問題ない画質だ=E-M5の5軸手振れ補正は強力でスローが安心して切れる。

2015.11.16

北陸の旅を中断して、今週の週末旅行(東海地方)をはさむ…ここは三河湾に浮かぶ西尾市・佐久島。例によって旅の終わりの場所からだ。本島の横に浮かぶ大島への堤防上のアート作品=島のあちこちに作品が点在する、その中でいちばん気に入った休憩所兼展望台の作品だ。風が強く(比較的年中凪ぐことが少ない=風の通り道か?)本土に比べて気温がやや高いにもかかわらず体温が奪われていく。周りを見ると外洋は見えず、右に知多半島、左に渥美半島、遠くに伊勢志摩から紀伊半島が見えている。懐かしい鳥羽・神島もすぐそこだ。

事前の天気予報では降水確率70%、しかも島歩きなのでカメラは私の持つ唯一の小型防滴カメラOLYMPUS E-M5を持参した。サブとしてはFUJIFILM-X10=これはたいした意味はなくOLYMPUS E-M5の不調のさいの押さえ+どうしても望遠が必要になった時のためである。2日間みっちり撮影し両方合わせて3000カットとなった。実際は土曜が曇り、日曜は晴れで移動時間以外は雨にあうことはなかった。

2015.11.13

河北潟を一周し、内灘町の海への放水路へ向かう…高速道路の高架橋、そして水門の外は日本海だ。秋が深まると毎日が灰色の空と海になる。

2015.11.12

親水公園も大きなものが二カ所ある…しかし見てのとおり手入れのされた「野原」。好きに使って下さいということなのか、特に設備もなく、当然に人影は地元の人がまばらに散歩しているぐらいだ。向こうの山は能登での最高峰の宝達山塊。

河北潟の埋め立てで残された湖面…ようやく漁師の船溜まりを発見した。船は二艘、今は漁期でないらしく漁具は店じまい状態だった。河北潟はこの10倍はあったと思われる。

2015.11.11

瀬戸内をあとに10月に行った北陸の旅…北陸道の杉津(すいつ)PAで=ここで何十回目かの昼食をとる。と言っても食堂に入るわけではない、持参の弁当をPAの端っこに停めた車の中で日本海の景色を眺めながら食べるのである。あまりに大きな琵琶湖を走り、江若山塊(近江と若狭)を越えて最初に見える日本海なのである。対岸に見えるのは敦賀半島…真ん中あたりの白い構造物が廃炉の決まった敦賀原発…画面から外れるが半島左側に私が日本マルキブネ研究を始めるきっかけとなった縄間地区が見える、あれから30年経った。

金沢東インターから下りて、河北潟へ…今回は埋め立てられた潟の巡研がひとつにある。ここと羽咋の邑知潟を見た=もちろん何回も来ているが、30年間の変化も記録しておかないといけない(むろん見落としもあるし…)。河北潟では30年前は埋め立てが進んだとはいえ木造船による漁業もそれなりにあった。今回ぐるりと回って埋め立て地が有効に活用されているのか少しく疑問を持った…以前と比べても田畑あり、小規模な工場や倉庫あり、広大な荒れ地ありの凸凹な景色が広がる…潟の自然を犠牲にして、はたして得られる充分な効果があったのだろうか? 私はナチュラリストではないが水辺の資源利用についての研究をしている立場で、犠牲と恩恵のバランスを常に注目して観察している(長期に渡る)。 この旅ではNikon Df+NIKKOR 24-28mmG、RICOH GRを使用した。前回の瀬戸内の櫂伝馬の祭り取材に使ったCanon 6Dが重いが大量の処理が楽になる(ミラーレスのEVFは目が疲れる)ことを再発見し、今回Dfの登場となつたのである。さすがにDf、ダイナミックレンジが広く、低画素のせいで解像線は太いが豊かな質感の絵が撮れた=製版屋さんに聞いた「フルサイズなら2000万画素まで」は正解である。展覧会作家でないかぎりそれ以上の高画素は不要だろう。趣味として「ピクセル等倍鑑賞」はあるかも知れないが…ただしセンサーサイズは大きい方が結果がよい=DRに余裕があるからだ。小さなセンサー+優秀なエンジンでDR拡張でも良さそうだが、その場合は画面全体&個々の物体の立体感がそこなわれるように思われる。

2015.11.10

阿多田島への旅を終えて、次へ行く前に「フィールド写真講座」で訪ねた滋賀の日吉大社を…ここは日本で2番目に末社の多い日吉神社の総本社で(一番多いのは謎の多い八幡社)、延暦寺の守り神でもあり、多くの神を祀っている…どういう訳か「猿」を神聖視している。これは東本宮前の「猿石」=どことなく猿の顔に見えなくもない。境内のそこここに岩があり巨石信仰のなごりを感じる。またご神木は梛(なぎ)の木で、神社では種から芽吹かせて一般に販売している。  α6000+SIGMA 19mmF2.8DN=ピントは非常に良いがボケ味はやや硬くなる=フルコレクションに補正すると概してボケ味が良くない。

2015.11.8

さて灯台から港に戻り、連絡船の時間まで港周辺を散策する。元は離れていた猪子島が防波堤兼道路でつながっている…無人島だが魚介の加工工場が建ち並んでいる。島の左肩には龍神様のお社がある。左奥の島は厳島で圧縮した写真では分からないがオリジナル画像を拡大すると頂上付近の建物が見えている。

猪子島に渡ると奇妙なオブジェに見える海具がたくさん並んでいる…何かは不明だったが牡蠣養殖筏に使うものと推察される。これはシンクロさせている…もうすぐ日没、船がやってくる。私は写真が撮れる間はとどまるが、写真の撮れない暗さになると帰るのである。

2015.11.6

最後に灯台前から四国方向を見て、ここを後にした…この日は薄曇りながら比較的シーイングが良く、愛媛・松山沖の島々や四国本島の山が遠くに見えていた…沖合を貨物船が航行する。

2015.11.4

天文台近景。建物は二棟建っていて、ひとつは風呂と住居・倉庫で、こちらが観測室(古い時代はこちらに住んでいたらしい=台所やトイレがある)…草刈りなどの手入れはなされている。ここでヤマカガシと遭遇…この島にも毒蛇がいた(蛇は船荷に潜り込んで方々に移ることが多い)。元々居たのかどうかは不明。

内部…洋館ながら住居部は畳敷きである。今も往事に仕事や生活に使っていた道具や食器が保管されている。

庭の日時計=ホンモノである。

2015.11.3

 

木のドアから建物の前のテラスのような場所へ出る…双眼鏡が設置されていて、これで航行する船や海況を見たのである=観光地にある双眼鏡より倍率が高く性能も良い。雨ざらしにもかかわらずかなりシャープに見える。左の島影は江田島。

 

郵便受けも当時のまま…こんな場所まで郵便配達は来たのである。今は「海の家」開発のせいで道はよくなったが、昔は灯台へ行くだけの細い山道だった=時代は変わったが灯台守だけではなく郵便配達夫にも感謝せねばならない(宅配便の発達した今、郵便は故意に貶められている…と感じる)。私の生家でも新聞は1日遅れで郵便で配達されていた。

2015.11.2

 無住の海の家の横を岬へ歩くと一気に視界が開けて、国指定の文化財でもある阿多田灯台があった…このために山道を30分かけて歩いてきたのだ。灯台が見えないが、ここは地先の岩礁にある灯台をコントロールするための施設だからである。現在も対岸の江田島と阿多田島の間を抜けて広島湾に入る重要航路だ。建物内外、風呂や台所も往事のまま残されて、今は灯台資料館となっている=普段は閉まっているため見学希望者は大竹市に連絡をとったほうがいいだろう。

 

敷地内を抜けて海の見える丘に出る。ここから周防大島が正面に、右に岩国の米軍基地が、左に江田島の海自が見える。ただただ波の音と風の音だけが聞こえる。

2015.10.31

 

さてまた瀬戸内旅行の続き…峠を越えると忽然と大竹市立の海の家「あたた」が建っていた(民家はない)。完全に箱モノだ…立派な施設に驚いたが基本的に休業中で、団体予約の場合だけ臨時的に開けているらしい。本来は公共の宿としてスタートしたようだが運営が難しく(それは不便さか…)現在は合宿所としての機能のようである。このような施設が瀬戸内の島々には多くみられ、離島振興の難しさを表している=多くの島では廃業となっている。

2015.10.30

 

またまた脱線=今日は奈良の大和川流域の文化遺産について訪ね歩いた。ここは竹取物語発祥の地とされる讃岐神社で…まだ何も理解はしていないが奈良には不思議な場所が多く残っている。と言っているうちに中学生らしい集団の遠足(社会見学?)がやって来た…教員がひとりなので1クラスなのだろう。どうやら古跡を歩いて回っているようだ…私も若い頃奈良にいて「古美術研究」と称して、さっぱり分からないまま旧跡を歩いたことを思い出す…それらを記憶しておけば、いつか意味も理解することだろう。  OLYMPUS E-330+SIGMA 10-20mm…たったの750万画素の旧式の4/3デジタルカメラだが、どうしてどうして実用で使える…動体撮影や暗所撮影など厳しい条件ではだめだが…

2015.10.29

 

さて瀬戸内へ戻り、阿多田島の踏査を進めよう。誰も通らない山道を20分ばかり歩くと峠だ…大袈裟な切り通しがあり、昔に相当に力を入れて道を拡げたことがわかる。新しい電柱も立っている…木々も整理されて海がよく見えた。

2015.10.28

 

ハンググライダーに超小型エンジンを取り付けたウルトラライトプレーンが黒部川・愛本の堰堤近くの河川公園(誰もいない…)飛んでいた。こんなところでしか飛べないのは勿体ないぐらいのテクニックだ。ドローン等と同様に、なんとか規制の方向ではなく、災害時や報道にもっと生かせないものだろうか? 今年アマチュアの飛ばすドローンで瀬戸内のライブ画像を見せてもらったが、写真家として、その可能性の大きさを見た=私は歳なので古式のスチル写真で続けるだろうが、これからの写真家はこのような新しい技術を取り入れて、今までにない記録をしてほしいものだ。  RICOH GR...とっさに撮ってもチャンと写る。

2015.10.26

 

瀬戸内の記述の終わらないうちに、10/23-25で木造和船を求めて北陸路を旅した。ここは最後の訪問場所の黒部川・愛本の堰堤である。いつも富山へ来たらここへ寄る…紅葉も始まり、これから新幹線が通っての初の秋、それなりに混むことだろう。右に見えるのが川灯台、背後は黒部川の大扇状地、向こうは黒部渓谷、何度もここに立ったが、いつ来てもいいものだ。 RICOH GR=小型軽量で頼りないが(連写したらフリーズした=バッテリーを抜いて復帰)写りは頼りなくない…同携行のNikon Dfに比べても絵を大きくしないかぎり対等に写せる。RICHO GXR-IIも開発して欲しいものだ…

2015.10.25

 

坂道をどんどん登っていくと集落が見える最後の場所に出る(島は大きいが人が住んでいるのはこの範囲だけだ)。ここから先は山を越えて島の反対側へ行く道となる。そう、灯台まで歩くのだ…見るとほとんど農地はなく食べる範囲の畑があるだけだ=それも全戸ではない。瀬戸内に多いミカンもほとんど作られてはいない。

2015.10.21

 

さて神社脇の小径を島の反対側にある灯台へと登っていく…遠望されるのは厳島の裏側(南)だ。左の新しい建物は外国人労働者の下宿である。天気は上々、吹く風も快い。

2015.10.20

 

島に上陸するとすぐに島唯一の神社「阿多田島神社」が鎮座している。漁村にありがちな村中の狭い場所に建つ(島は山がちで平地が少ない)。まずは境内の荒神社に旅の成功を祈念した。

2015.10.19

 

さて上陸すると釣り客の団体を乗せたチャーター船が着岸した=今乗ってきたフェリーで本土に帰るのだろう。人が多いのは養殖ばかりではなく釣りにとっても好漁場だと思われる。ちなみに島は漁業で潤っているため民宿はあまり見えない=外国人労働者のための下宿は多く建っているが…向こうの島は猪子島=防波堤兼道路で阿多田島とつながっていて人は住んでいないが比較的大きな水産加工場が建ち並んでいる。 

2015.10.16

 10/12、広島県大竹市港からフェリーに乗って「阿多田島」に上陸、ここは観光地ではないため乗客は島民ばかりだ(車は工事車両が1台)。しかし人口は300人程度で、漁業(主力は広島牡蠣の養殖)の島として自立している。もちろん都会への若者の流失はあるものの牡蠣養殖作業員として中国人やベトナム人も多く住んでいる=したがってあちこちの表示板は日本語・中国語・英語で書かれていた...この島を3時間かけて歩いた=3=3=3  阿多田島歩きはLUMIX GX7+summilux15mmF1.7ですべて撮影(最適だろう…)。

2015.10.13

 

土日月とで瀬戸内の島をいつつ巡った(久しぶりの超ハードフィールドワーク)…ここは広島県とびしま海道の豊島、「櫂伝馬競漕」の秋祭りである。競漕とは言っても速さを競うのではない…技能や漕ぎの勇壮さを競うのである。観光化していない村祭りなので取材もしやすいし人々も気楽に楽しんでいる。この島では各浦々で実施されていて、このような競漕を見慣れている私も「上手い」と感じられた。 Canon 6D+EF24-105mm F4L=これで2200カットを撮ったら両手が軽い腱鞘炎となった(久しぶりの一眼レフ撮影)…ここのところ高機能のミラーレスカメラばかりだったので手首や手の甲の筋肉が落ちたのだろう。悪いことに、祭りが少し早く終わり、船便があったので齊島へ船で渡り、Canon 6Dを持って2時間以上歩いた=船の時刻がギリギリでカメラをLUMIX GX7に交換する時間が無かった(@_@)

 

今回のカメラは島歩き用にLUMIX GX7+summilux15mmF1.7/祭り取材用にCanon 6D+EF24-105mm F4L/そしてスペアとしてCanon G1X-2を持っていった=目的を絞るため、車で行っても装備は少ない。リスク回避のためにフィールドではレンズ交換は極力しない方針である(ズームの性能に信頼感が出てきたせいもある)。

2015.10.8

 

ついに長老が岳山頂展望タワーから西舞鶴湾を撮影(最近、春〜秋には夜まで開場している=以前は夕方まで)ガラス越しだがキレイに磨いてあるのでちゃんと写せる(内側はともかくとして外側はどうして磨くのだろう?)。 昼間止まっていたロシアの材木運搬船がタグボートに引かれて動き出した。何度見ても素晴らしい景色だ…それに「港の景観」出版から10年、まだまだ書かなければ(記録もたまっている)ならない変化や不変化がある。あと5−6年で「港の景観2」が出せることだろう。    SONY-α6000+Zeiss Vario-tessar E16-70mmF4…exifによると37mmで撮影

 このタワー。

2015.10.7

 

さて天橋立をあとに対岸の宮津市・栗田半島を回る。半島の最奥の集落:島陰だ…宮津市と言っても半島を回る道は通る人もなく山に帰りつつある(もちろん対向車の離合困難)。本来は漁師町で釣り客も多く、民宿経営がなりたったが10年ぐらい前から魚が捕れなくなり、聞き書きによると(時の経つのは早い=私と同年)漁師民宿・今日上がった魚を夕食に…が新鮮な魚貝を揃えることが困難になり、「カトキチのエビフライ」ではダメだと民宿を廃業、今は通年で泊まれるのは2軒ぐらい、漁師も3名=うち80代ひとり、60代ひとり、40代がひとり…年金なしで漁を続けているのは一軒ということになる。釣り客も高速道路の整備などにより日帰りがほとんどで釣果も今ひとつだという。 向こうの山は栗田半島から突き出た岬で関西電力が火力発電所を中心にして研究所や資料館を併設している=しかし現在稼働しているのは「魚っち館」(関電の広報用のエネルギー資料館)と研究所のごく一部だけで、平成15年に発電所をはじめ他の施設はほぼ廃止となっていた=平成元年スタートなので15年動いただけだ。地震による原発の停止・点検を受けてここの火電の再稼働も検討されたが、老朽化が進みコストがかかりすぎると断念された。今は遠くに霞んでいる舞鶴の大丹生火電がこのあたりの主力発電である。 α6000+Zeiss Vario-tessar E16-70mmF4

2015.10.6

 

廻旋橋を北へ渡ると案外知られていないが、もうひとつの水道がある=つまり2本の水道で阿蘇の海と若狭湾はつながっているのである。こちらは可動橋ではなく小型の漁船やモーターボートが通れる高さだ…しかしアンテナなどの接触や満潮時のことを考えて橋の真ん中は少し高くなっている=太鼓橋は元々船がくぐることを前提に考えられたデザインなのである。右は栗田半島、その先が外海である。

 

そして水道の内側は阿蘇の海、かなり広いことが分かる。以前はアサリが多く穫れたが今は水質の悪化で漁獲は少ない。連絡船や高速艇は並の穏やかな内海を通って対岸へ行く…そして対岸の港から徒歩10分ていどで「股のぞき」の傘松へのケーブルカーの駅がある。天橋立へ行ったら行きか帰りか天橋立の砂嘴を歩き(約40分)あとは船に乗ることを勧める。  SONY-α6000の評価測光はこういうシーンでも空の光に引かれることなく「ややオーバー」だ=これは画像処理で暗くしている…露出補正は-0.7が良さそう。

2015.10.5

 天橋立の定期便の遊覧船(向こうが廻旋橋)…以前は文殊堂から阿蘇の海を通って対岸の江尻までの運行だったが、最近宮津から橋立間がつながり、まだ季節限定ながら外海へ出て、遠く伊根までの観光航路も始まった=その昔、陸路が不便だった伊根には宮津から連絡船が出ていた…定期便となれば、それの30数年ぶりの復活ということになる。水運研究者としては嬉しいかぎりである=現在でも船で行けば、車で岩滝をぐるっと回って行くより早いかもしれない。  Zeiss Vario-tessar E16-70mmF4=望遠側はあまり解像力を期待できない。

 もうひとつの遊覧船…これは高速艇で対岸までを連絡船の1/3程度の時間で走り、時刻表もなく水上タクシーのような存在だ(しかも連絡船と乗船賃は変わらない)。若者を中心に人気があり、最近隻数が増えている。追加料金で近隣の海辺を回ってもくれる。

2015.10.4

 

橋立・文殊堂のお神籤は扇形をしていて境内の松の木には小さな扇子が無数にぶらさがっている。天橋立/股のぞきの傘松や成相寺/知恵の文殊堂と、数多くの観光資源があり、若い人達も含めて多くの観光客が集まる。 α6000+Zeiss Vario-tessar E16-70mmF4

2015.10.2

 

天橋立「廻旋橋(かいせんきょう)」大正時代から天橋立の水道に架けられた回転橋=当初も今も阿蘇の海の奥にある鉱物精錬会社の鉱石や石炭運搬船の運航と観光を両立させるための橋である…天橋立は対岸の傘松からこちらに伸びた砂嘴で、もともとつながっている訳ではない。最近になって観光船が就航したため土日も橋の開閉はなされて職員も増えたようだ。水道の左側の岸壁上にあるカフェ(昔の船問屋の建物を改築した受動喫煙防止法ができるまえから女性店主の考えで全席禁煙だ)からの船の動きと橋の開閉を眺めていると時を忘れてしまうほど退屈しない。  α6000+Zeiss Vario-tessar E16-70mmF4

2015.10.1

 

舞鶴市三浜地区の海蔵寺…この近辺のお寺は山の上に建っているようで、下の多禰寺(大丹生地区)と同様、ムラの裏山のかなり高い場所に位置する。海を見下ろす断崖の上で窓に映る原生林の向こうに海が見えている。狭い漁村の集会場を兼ねているようだ。 SONY-α6000+Zeiss Vario-tessar E16-70mmF4

2015.9.28

 

舞鶴市・多禰寺の展望台から、眼下は東舞鶴湾だ・・・聖徳太子の弟・麻呂子親王が開いたとされる(飛鳥時代!)古刹である。 大浦半島の奥にあり仏教美術の文化財を多く所蔵している割には観光化はなされていない。地元の人達が少し足をのばして詣る程度だろう…ここの景色を見つつ弁当をつかった。このあと住職と歴史や民俗について長話…宝物館の仁王像は素晴らしかった。また来ることになるだろう。 SONY-α7R+FE28mmF2

2015.9.27

 

秋の週末旅行…まず手始めに土日で宮津〜舞鶴へ出仕=宮津から天橋立へ船で行き、文殊院や旋回橋を見て、船で宮津へ戻り漁師町で漁の聞き取り、そして栗田半島を回っていくつかの集落で木造船調査、栗田の関電「魚っち館」見学、翌日は舞鶴赤れんが資料館を見学=ここで舞鶴湾遊覧船に乗り、普段は見ることのできない各種自衛艦と海自の施設を自衛官の解説付きで巡見、そのあと大浦半島の浦々を5時半まで巡った(充実した2日間である)。 ここは旅の最後の方、舞鶴市三浜の裏山からみた秋…集落の向こうにアンジャ島が、真ん中遠くに三角形の冠島が見えている。海は本当にいい。  今回は天気の心配もあったがα6000(Zeiss Vario-tessar E16-70mmF4)&α7R(SONY-FE28mmF2)で撮影した…結果として両日とも好天。

2015.9.23

 

四条京阪を南座前に降りて四条通の雑踏を少し東へ歩くと、狭い間口の仲源寺がある。今まで何十回も歩いているのに気がつかなかったぐらい小さく見えた…今回はフッと入る。さすがに京都、お寺まで「鰻の寝床」奥行きは深い…観光寺ではないので信心している人ばかりで、ちょっと休むところもない通りの表とは違って境内や本堂で一息ついた。不動明王や水子地蔵にお供えがたくさん見えた。 Leica-Q

2015.9.22

 

尾根を歩くと延年寺の境内から墓地の向こうに京都市街が見えた。大谷本廟から長く緩い坂道なので苦もなく登ってきたが、もう東山の中腹だ。 Leica-Qは逆光にも強いことが分かる…少しはゴーストがコロコロと出て欲しい気もある。

2015.9.21

 

大谷本廟裏の尾根道を歩くと、右の尾根と谷間に広大な墓地が続いている(天明や天保など江戸時代の墓石が目立つ)…左側も墓地があるが、ところどころに墓参者のための仏花屋店があり飲み物なども売っている。この道(京都市道)を進むと清水寺の裏につながっている(現在は崖崩れ補修工事のため通行止めだ)。 Leica-Q=やはりフィルムっぽい写りをする、まずは良好。

2015.9.20

きのうは久しぶりに京都市街を歩き、ミニ歴史探訪…Leica京都(田沼武能氏のミニ展覧会)〜建仁寺・安井金比羅宮・六波羅地蔵堂・六波羅密寺・大谷本廟・その他観光寺ではないお寺・最後は清水寺裏の妙見宮で終えた。観光客で大混雑の清水寺を避けて、その周りを歩いたのである。道を1本隔てれば歩く人は少ない。晴れてはいたが秋風が最終的には涼しく長い距離となった。

 

大谷本廟の裏の尾根道へ登っていくと、広い尾根と谷に古くからの門徒宗の墓地が高いところまで続いている。その尾根は清水寺から伸びている東山の枝尾根で「清水の舞台」の裏につながっている。尾根のところどころに観光地ではない寺社があり、ここはそのひとつの妙見宮である。京都市街が眼下に望め、北の方角を守っている…社殿内にも陰陽道の結界が張ってあり、今も都の空を睨んでいる。  Leica-Q

 安井金比羅宮…縁結び・縁切りの神さま(本来は金比羅神は航海神…)として祇園の芸妓たちにより信仰されてきた。近年は若いカップルがお札の山の中をくぐるのに行列を作るようになった。15年前は人もまばらで、お札の山もこんなにコンクリートで強固に作られていなかったように思う。 Leica-Q

 15年前の姿。

2015.9.18

 但馬・高源寺山門…静かな山中にある。圧倒的な緑の壁だ。この森林の大部分がもうすぐ紅葉する=もちろん自然林とは言えず手入れがそれとなくなされている。ここの本堂まで続く石段は古式にのっとりとても歩きにくい...自然石に近い石を使っているために幅や高さが不揃いで、しかも湿度が年を通して高いらしく苔むしているため滑りやすい。山門の近くにマムシの仔が死んでいた=丹波・但馬は古来よりマムシの産地(正確な表現ではない=蝮捕りが多かったの意)だったことを思い出した。 Leica-Q

2015.9.15

但馬・高源寺のあづま屋で弁当を食べた。紅葉で有名な寺でシーズンには人が溢れる(観光シーズンのみ入山料300円、普段は駐車も含めて無料)。丁寧に手入れされた落葉樹と境内の近辺の山の緑が美しい…平地では木々の盛りがすぎつつあるが、ここでは森林が生き生きとしている。商売気がなく観光的な施設は一切ない…少し不便な場所だが居心地のよい寺だ。どちらかと云うと禅宗の修行寺のように思われる。 Leica-Q

2015.9.13

 昨日は生野銀山を中心として但馬地方を訪れた。豊岡から山を越えて加古川や市川流域の播磨へかけての地域には渡来人の大きな足跡があり、この銀山も元は金属採掘・精錬技術集団の拓いたものと推察される。写真は閉山の鉱石運搬用の昭和40年まで使われていた蓄電池で動く軌道車である。展示は石見銀山の世界遺産指定に刺激されたのか5年ほど前に来たときより少し充実している。 LUMIX LF-1

2015.9.8

 西舞鶴・高野川河口域…私の著書を読んだ人は分かるだろうが、ここに昔貨物線が走り、川を跨いで可動橋があって(川湊で橋の下を船が行き来するため)、その後1970年代の貨物線の廃止と共に橋は落とされた。そしてすぐに貨物線跡を道路として湾岸を結ぶ計画が立案されたが予算や土地の所有者などの問題が解決せず、ずっと延び延びとなっていたが、昨年からようやく計画は動きだし、再度高野川をまたぐ橋の建設も始まった=道路整備も含めると実際はあと2−3年はかかるだろうが…。さて「港の景観−造船場のむこうは海舞鶴」の完結編へ当方も始動だ。…奇妙なことだが貨物線が廃止になっても、レールが外されても(これは2000年ごろまで残っていた)、具体的な橋や道路の建設が始まっても、元からの踏切の遮断機の取り付けフレーム(右の黄色い鉄枠)だけはずっと現在まで残され、しかも再塗装までなされている(私の背後にも一基ある=そして背後は湾岸道路が開通している)。いつ撤去されるのだろう?モニュメントとして残すのかとも思っていたが、どう考えても新道の真ん中になりそうで…不思議なことだ。左は埋め立ての保税地、右は民地だが立ち退きの対象でほとんどが廃屋か空き地だ。 Canon 6D+EF24-105mm F4L

2015.8.31

おばあちゃん達の競漕=婦人の部があるのだが70歳より下の女性でマルキブネをちゃんと漕げる人はいないのでこうなる。おばあちゃん達の若い頃は道の整備がなく、田畑へも海から漕いで行き、町へ出るのも漕いで行ったものである。漁業に運搬用(牛を一頭積んで農作業に行ったという話も聞いている)に大活躍で40−50年前までは各家に一艘はあった。今回の婦人の部でも最年長の80歳を越えたおばあちゃんが優勝した。

Canon 6D+EF24-105mm F4L…望遠域で撮影/センサーもレンズも設計が古くてシャープ感はないもののなめらかな絵を作り出す。多点AFは頼りないが、昔風に1点AFならバッチリ決まる…Canon 6DにはAFの測距点のマニュアル調整が付いているぐらい…自分で調整をしなさいと云う意味に解釈した=AFには気を遣った方がよい。

2015.8.30

8/29、若狭・おおい町大島地区のムラ祭りである木造船による船漕ぎ競漕「とおしあい」に参加した。これで6回連続である。一時は途絶えていた伝統行事だが近年地元の有志によって復活され、はや16回目を迎える。観光行事ではないため外から来る人は少ないが、大島小学校の課外での地区の歴史教育の一環としても位置づけられており、今年もボク達は小学生や父兄・教諭を対象にミニ講演をおこなった。地元では重要な行事なので地元TV局や地元新聞も毎年必ず取材に来る。船は板合わせの伝馬船(写真の船)と若狭湾に固有の「マルキブネ」で、特にマルキブネは造船史的にも重要な文化財で近年激減している(新しい船でも50年程度前のもの)…ここでは使われなくなったマルキブネを近在の村々から譲り受けて手入れし、競漕にもちいているのである。つまり地域文化の継承と民俗文化財の保全を同時にしている希有な例といえる。

マルキブネに小学生を乗せての体験学習、櫓漕ぎのの練習もするし、競漕にも小学生の部があり、毎年参加すれば簡単な操船もできるようになる。

マルキブネ=1本木をくり抜いた丸木船(独木船)とは異なり、船底部に刳り抜き材をもちい、それに船底板と舷側板を取り付けて船の容積と耐波性・耐久性を改善した船で、板を貼り合わせて箱形に作る伝馬船より現代までよく残ったのである。

Canon 6D+EF24-105mm F4L…Canon EOS M3のレンズとも共通する問題点はズームのワイド端でのタル型歪曲収差がボディ補正で取り除ききれていない点で(色収差はよく押さえられている)、このままではNikonやSONYのフルサイズカメラには到底およばない…ソフトで補正可能だが、まずはj-pegで圧縮と同時にレンズ収差の補正がなされるのが常識だろう。


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