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2006 / note


12/20

ふたたび都島にて。古い運送会社の中庭の「お稲荷さん」ずっと以前から名もない祠のここへ参っている。まわりはどんど変わっていくし、会社は寂れて営業しているのかどうかさえ分からない。でもお稲荷さんはあまり違わないように感じている・・・最近ひょんなことから都島の人を知った。

12/19

近鉄布施駅前の誰か政治家の事務所。全体が黄色いパネルで被われている。ここが選挙の時はこの地域の選対本部になる。中は普通の商家だ。確かに下町ではかなり目立っている。

12/7

布施・足代で。この町にはなぜか戦前戦中の国威発揚のスローガンの石碑が多く残っている。なぜ作ったのか?なぜ残っているのか?残っている理由は所有権と思想だろう、しかし作ったときの経費は小さくはない、思想はあったたろうが、この経費を武器や空襲対策に使うのではなく碑に使ったことが不思議なのである。

12/6

きのう泉州へ行った。JR日根野で電車の時間待ち、さすがに12月、にわかに寒くなった・・・ホームの「箱」に入る。やはり「!禁煙!」私は酒もタバコもやらないが、好きな人には気の毒な時代になったものだ(本質的に嗜好品なので理屈ではなく「好き」でいいと思う)。とは言えタバコを止めて21年、最初は何とも感じなかったが最近はその煙も匂いも苦痛になってきている・・・それでも「どうでもこうでも禁煙!」には反対だ。

12/4

近鉄西大寺駅のホームで。朝の光は私の視神経を刺激する・・・いいなと思って撮る、しかし直後に線路に鞄を落としてしまった。「写真に夢中、怖いもの知らず」も考えものだ。

12/2

今日、3時間半ほど大学にて講義(受講生は20名程度)、若い人の新鮮な発想や行動力に刺激を受ける。そして「悔しい」が次のコンセプトとなる。

11/30

神戸市立博物館の「オルセー美術館展」をみにいった。そのついでに王子にも寄って1時間ほど写真を撮った。1ヶ月前より寒くて、下町でも「クリスマス」だ。

こちらは三宮、まさしく30年ぶりに訪れた。なんとなく道に迷ってあちこちウロウロとした。

11/29

晩秋、大阪・桜宮の倉庫街で。鉄道輸送と結びついた日通の倉庫が建ち並ぶ、しかし荷物も人気もあまりない。ごく静かな都心の景色だ。

11/28

荒神様へ参ったあとで高野山にも久しぶりに寄ってみた。少し歩いたものの「寒い・・・」(午後3時で4.7℃)暖かい喫茶店でコーヒーを飲んで時間を過ごした。これは弘法大師が座って休んだという「腰掛け石」今は六角形の結界で守られている。

11/27

11/23、紀伊山中の立里荒神例祭へ行った。観光地とは違う(まったく不便な=携帯圏外)隔絶された場所にある。しかし信仰は厚く、どうしたものか紀伊の海の漁師仲間が多く集まる。ここも含めて奈良県南部〜和歌山の山中に惹かれるこの2−3年だ。春の例祭も来てみたい。

11/18

昨年に続き奈良県の曽爾高原に行った。天気は快晴、昨年より1週間遅いが、空気は清涼、ススキは美しく何も言うことはない。ここも毎年訪ねたい・・・高校生の頃クラブの合宿で来て、30数年ぶりに昨年・今年とやってきた。

11/15

今年の7/31に行った天河神社の七夕祭での織姫。インスピレーションが掲示させた。これから毎年、身体の続く限り通い続けるだろう。

11/5

今日「フィールド写真講座」で神戸の街へ学生達と共に行った。これは王子動物園のアシカの水槽。動物園併設の遊園地に多くの人は集まっていたようだ...各地の遊園地の閉鎖で貴重な存在なのかも知れない。

11/4

11/2−3で琵琶湖へ行った。初めてかも知れない学術を離れたルポである。これはぜひとも「民俗・地理学のフィールドから」(学術を離れたと言いながらも)で何枚かの写真とレポートを紹介したい(たぶん次の土日)。これは竹生島への航海。

11/3

「Leicaレプリカ」ファインダー・・・さすがにレプリカだけあって4−5回の撮影で早くも塗りが剥がれてきた。しかし中身が真鍮製だということも分かった。

11/1

夜の近鉄西大寺駅、時間待ちの電車で。まったくの無補正、よく写るカメラだ(リコーGRデジタル)。色温度はデイライト固定、感度は自動(おそらくISO400ぐらいにゲイン)。

10/28

ブラックペイントの風合いも悪くない。あっさりとしていて「いかにもブラックペイントでござい」という感じではなく昔の国産一眼レフのブラックボディなんかと似ている。よく煮つまっていてマニュアルRF機として良いできばえだと思う。いままで多く取りあげてきたのだから、これも「カメラ談義」で書きたい=ただし使わないといけないので(今は全体の70%がデジタル)以前と違ってなかなか話が進まないのである。レンズはコシナ・ローライ40mmゾナー、やはりトリガーを着けた方がバランスがいい。。

10/27

ひょんなことからコシナ=フォクトレンダー・ベッサR3Mが来た。なんとレンズだけが欲しくて今回のフォクトレンダー250th限定セットを買った人がいて、私がボディを引き受けることになった。レンズは人のものなので今回はテストできなかった。「いまさら」の感がないではないが、なかなか仕上げも良くてマニュアル測光の機構も進化している。初めてのコシナ等倍ファインダーボディなので、せっかくだから40mm−50mmのレンズで写したい。来春R4Aという21mmファインダー内蔵のボディも出るらしい(これはぜひ欲しい)。コシナはしぶとい。

10/24  リコーGRデジタル強化作戦・・・なかなかカッコ良くなった。

リコーGRデジタル用にファインダーを買った。ボディにはファインダーが内蔵されておらず、モニターだけで見るため晴天下では非常に見にくい。そこで外付けファインダーを考えた。しかし選択は難しい・・・私はGR28mm限定レンズ用とアベノン製、50年も前のキヤノン製を持ってはいるが、どれも大きすぎてボディ左肩のポップアップストロボが開かなくなるのである(そもそもデジタルカメラにアナログ的な可動部は不適当と思う=すぐに壊れそう)。純正品はどうやらコシナ製らしく足がオフセットしているため干渉しないが、21mmフレームを内蔵(リコーGRデジタルには21mmのコンバージョンレンズがオプションで用意されている)ているのと大きすぎるため不可。メインはモニター、仕方のない時だけファインダーという使い方となる=案外コンパクト型のデジタルカメラのヘッピリ腰の撮影スタイルも悪くないように感じている。ともかく調べてみると1.コシナのミニファインダー(作りはいいが高価!35mmフレームが出るため煩雑)2.フジショーのフェイクライカ(現行品)ファインダー(見えは一番だが少し作りが安っぽい)3.以前に見かけた完全なフェイクライカファインダー(メーカー不詳=完全なコピー商品で法的に問題あり=私個人としては「洒落」で済ませてあげたい)となった。結局実物を確認して3に決めた。ネット上で親切に教えていただいた店に行くと(梅田のマルシン)21/2/35mmと何本もそろっているではないか。さっそく「そこのフェイクライカファインダーを見せてください」「えーライカレプリカファインダーですね」なるほど物は言いようだ。コピー商品を堂々と売るわけにもいかず、あくまで中古品の「レプリカ」(本当は新品)として売っているのである。コンパクトで仕上げはまずまず(メタル+BP)、Leica 28mmと彫ってある。像の見えは極端に悪い(タル形の歪曲があり四隅が欠ける、シャープ感はない)がサブファインダーとして使うのならこれでも可なり・・・気に入っている。これでフィールドで敵なしだ。

10/23   小雨降るなか、国鉄五新線(奈良県五條市−和歌山県新宮市を結ぶ山岳鉄道)の跡をトレースする旅に行った。ついに完成はしなかったがトンネルなどの銘板を見ると1950年代のものが多く、想像していたより長く工事が続けられていたと感じた。現在路線はバス専用道路として(日に5本程度!)使用されている。ここは基点たる五條市新町の一角だ・・・途切れた高架線路。向こうは吉野川の堤防、カーブミラーを利用して記念撮影をした。 GR−D...使える(!)。

10/22  富山県早月川のサケ採捕場で漁協組合員(サケの特別採捕従事者)に今年の話を聞く・・・胸に下げているのはオリンパスE300とLeica-M6TTL/0.58。

10/20-21と富山へサケ川の調査へ行った。今年は雨が少なくて遡上が遅れていたが、昨日の雨で一気に遡河が始まった。今年から庄川に続いて早月川や片貝川でもサケ(もちろん孵化放流事業に余ったオスサケに限る)の一般への販売が許可された。ようやく施策に転換が始まったようだ。現場としてはサケを売らないことには事業の継続すら危ぶまれている事態なのである。

10/18  ”Challenge to the Beijing Olympic 2008”

http://www3.to/challenge知人の娘がヨットの女子470級で北京オリンピックを狙っている。そしてこの度サポータークラブも立ち上げた...まだ大学生だが素晴らしい才能を伸ばして欲しい。

これはクラブのTシャツとプリントされたロゴマーク。スキッパーは琵琶湖・杢兵衛造船の仲野さん(全日本でトップを取ったこともあるベテラン)、クルーの菜津子ちゃんは元気な「重り役」、以前の”重・アリーシア組”のように海の上を風に乗ってブッ飛んでいって欲しい(☆彡)。

公式マークを許可をいただいて掲示する。私も会員となった。

10/15

フィールド写真の講義・・・27名、何しろ熱心(私も、たぶん学生も)だ。教壇からは最新のシステムを導入した景色が見える。軟らかな温色系の照明(カメラの色温度はデイライト固定)で、普通の蛍光灯のように緑色がからない。プロジェクターライトが妖しく青く光る。

10/14

今日大学へフィールド写真講座のワークショップへ行った。震災で被害を受けたことは知っていた。その後建った新しい校舎での講義だ...たっぷり4時間、ビデオなども交えて話続けた。私は教える(と言うより伝える)ことが楽しくてしようがない。来月は街へ降りてフィールドワークに挑戦する。この写真は新校舎で一番印象に残ったポイント、ここに講座の終わりに皆の写真が展示されることになっている。明日はボクの誕生日。

10/12

東京から友人夫妻がやってきた。毎年2回京都へ来てくれる。今回は趣向を変えて南山城・木津川の古代の要衝、高麗寺廃寺跡で夕方のピクニックだ。木津川が流路を西向きから北向きに折れ曲がるポイントの河岸段丘上に立地し、奈良と京都の境界でもある地点だ。渡来人の夢のあとか...。

10/11

京都・木津の川灯台。以前はすぐ脇を木津川が流れ、この場所で荷役が行われていた。この字は元々船頭や船問屋の村で、川湊の浜に灯台(常夜燈)が建っていたのである。現在も村人による清掃はなされている。

10/10

ふたたび、りんくうタウン・サウスゲートタワーにて。回転ドアは事故防止のためか閉まったままだ。ここ以外でも使われていないものが多い(そもそも現代に回転ドアは何の意味があったのだろう?=事故が起こる前から私は嫌っていた)。

10/9

信楽の窯元にて。東京から友人がやってきて信楽へピクニックに行った。すっかり秋になった。 GRデジタルの実力はなかなかのものだ。

先日天川神社へ行ったときの私(お守りを買っている)。友人が撮ってくれた・・・私は写真に撮られるのが嫌いだが、少数の友人にだけは気を許している。

10/8

奈良へ行った帰りの夜の木津駅で。関西本線/片町線/奈良線の交差する南山城地方の鉄道気転駅だ。人口が増えて現在改築中、しかし私は乗り換えで25分待つ羽目になる...やはり単線のため列車は30分に1本だ。 リコーGRデジタル(新しく増えたカメラ)

10/4

神戸・湊川神社へ出仕。秋のフィールド写真講座の下見のためだ。神社はともかくとして近隣は震災後の復興ですっかり変わってしまい、港町として、あるいは門前町的な風情はほとんどなくなった。時間の都合で湊川公園の方は行っていないがどうなっているのだろう。

10/3

30年ぶりの雨の余呉湖来訪。昔は観光地ではなく、山の中の静かな湖だったように思い出されるが、その後の観光ブームで少しは盛り上がったようだ。しかし今また湖岸に立つと人気は無く、湖岸が整備されてまるで都市の公園にある池を大きくしただけのようにも思える。

10/1

近江八幡市長命寺港にて。雨の琵琶湖へ行った。条件は悪いが、こんな日のウミも必要だ。写真が大事ではなくて、そのような琵琶湖に確かに居たということが重要なのである。

9/29

最近お気に入りの「ゲージツかばん」(キース・ヘリング)義姉さんにもらったもので同じデザインの封緘印も持っている。このところカメラバッグを持つことはほとんどなくて、カメラは包装用のポチポチ袋(アンチショック&ウォーターを兼ねる)に入れて、これも含めて普通の鞄に入れて持ち歩く。乱雑きわまりない午後の自分の部屋にて。

9/27

お彼岸に滋賀県甲賀市の飯道山へ参った。山域全体が霊場となっている修験のお山だ。規模はずっと小さいが先日の大峯山と同じようなありようで、現在も信仰は盛んと思われる。

9/24

初秋の下町風景。大阪市鶴見区徳庵にて。ここは大阪市の東の外れ、東大阪市との境界の街道筋の町だ。旧市街地と新市街地を結ぶ1本の道路(人も車もここを避けると随分遠回りになる)がある。年に1−2度歩くがいつも車とのすれ違いで危なくてヒヤヒヤする。向こうの杜は旧市街地の外れの鎮守の森で、その向こうが田圃を埋め立てた新しい町だ。

徳庵の駅前商店街。街道筋の風情は残っているものの町の寂れは否めない。*

9/23

お彼岸の今日、また奈良県天川村へ行った。村の中心部に近いところ(洞川温泉)に吊り橋がかかっている。距離が短いせいか揺れも小さく怖さは少ない。

橋のこちらは龍泉寺の寺域、向こうは緑の山塊(今はハイキングコースだ)、その間には深い峡谷、こちらと向こうをつなぐ回廊、人々は向こう側へ去っていく。彼岸の今日、私たちの「むこうとこちら」を感じた。背後の滝では水垢離の人達の鋭い念が発せられている。

9/21

信楽の行きつけの美容室にて。にわかに秋めいてコスモスの花が満開になった。雑木林と田圃と秋空と、美容室のロケーションとしては最高だ。花も洗濯物も台風の吹き返しに揺れていた。 これがフォーサーズのトリミングなしのフォーマットだ。APSより少し小さい分、メカの慣性モーメントも小さく、レンズ(特にワイド)の射出瞳の距離やイメージサークル・収差補正など、廉価版CCDカメラとしては有利に思われる。ライカが現在特殊なこれをパートナーとしたのも頷ける。

9/20

近所のパスタ料理中心のレストラン。我が町では唯一と言っていいレストランである。来客が来るとここで食事する...お茶だけの時は「都ホテル」だ。

9/17

先週取材に行った大阪・尻無川右岸のJR環状線の鉄橋下にて。西区/大正区/港区の境の場所だ。向こうに見えているのが昔からのランドマークのガスタンク(西区)でその向こうには大阪ドーム、さらに先には旧松島遊郭がある。鉄橋を渡ったところが大正区三軒家で、その先は木津川との交点に大正橋がかかっている。立っている所が港区市岡となる。こんな都会でも川端の三角地は特に有効利用されているわけではなく清掃局のトラックの駐車場になっていた。

9/14

ハンザ・ライカM6TTLがやってきた。2000年−2001年頃のM6TTLベースの限定ライカの最後のモデルとして2001年9月に登場した。近江屋写真用品(株)創業80周年記念モデルで100台が作られた。限定モデルが多発されたことと景気の悪化、そしてハンザ(近江屋の別名)の倒産などと重なったことや、どうした訳かこれのみがブラックペイントではなくシルバー仕上げだったためかまったく人気がなかった...そしてまわり回って未使用のまま私のところへ来たのである(定価は\680,000...買値は秘密)。レンズはエルマー50mmF2.8でレンズにも「HANSA」の表記がある。

ほとんど他の限定モデルと変わらないが、持った印象は「重い」。トカゲ革貼りのためか「硬い」。今後使ったらインプレッションを書きたい。

9/6

天保山の大観覧車とモビール。ここのは日本一の径を持ち、海に向かって回っている。どうしても天気の良い夕方に乗るべきだ。

9/4

近江八幡・長命寺港の灯台灯籠。長命寺の町はずれの金比羅さんの鳥居前に建っている。昔はこれの明かりを頼りに接岸したものらしい。もちろん保存されている。対岸はひらの山並み。

9/3  夏の琵琶湖。

琵琶湖最南端の瀬田の唐橋。当然鉄筋コンクリートの橋だがデザインは近世風にしてある。見た目だけではなく下の瀬田川を船が航行するため太鼓橋となっている。ここを車で渡ると、たったこれだけのRでもいかにも乗り越える感じがする。

8/31   携帯電話で撮影...レンズカバーに手の脂がついていたのでソフトフォーカスになった(いい感じ)。

ギターを買った...黒塗りのエピフォン(USA)のレスポールレプリカモデル。35年ぶりに弾いたらすぐに指が痛くなった。さて大問題「写真家はビロウドの手と鷹の目を持つ・・・」(HCB)なので困るのである。さっそく今はボトルネック奏法に転換することにした。今まで練習したことはないが何とかなるだろう。どっちにしても「ホビー」だ。いつかキーボードやブラスなどと一緒にロートル・アーティストバンド(ここでいうアートとは芸術系という程度の軽い意味)で1−2曲できたらと夢想している。

8/27

窓の網戸に貼りついたヤモリ。どうした訳か最近家にヤモリが何匹も生息している。庭が自然林になりつつあって餌の昆虫類が豊富なせいだろうか。鳥だけではなく、虫もネコやヤモリも私は決して追い出さない。これを見ていてアニエス・ベーのクロックが欲しくなった。

8/26

阪堺線チンチン電車にて。いい雰囲気で下町を抜けていく。乗客も比較的多く、おそらく赤字とは思われるが廃線ということはなさそうだ。今日は阿倍野の安部晴明神社を訪ねた。

8/25

先日大阪市西区の古老から川の昔話を2時間半にわたって聞いた。いままで都市の河川文化については触れるチャンスが少なかったため、とても楽しく、かつためになった。この時の内容について発表の機会も遠くないだろう。

8/17

新しい時計のワインダー...3台のうち2台が同時に故障したため購入。これは手作りに近い機械(大阪の町工場製らしい)で\36,000(!)もする。丈夫だし動き方が「オーガニック」、1時間の作動で現代の三針ATならフルチャージされる。おまけにカウンターウエイトがムーンフェイズのような模様でやはりフラフラと不思議な回転運動をする。

8/15  お盆、終戦記念日だが特別の感慨はない。盆暮れ関係なく仕事(あるいは趣味?)を続けているせいかも知れない。

夏の信楽...野焼きだ。大津への取材の帰りに立ち寄った。向こう側は茶畑、ここは有名な朝宮茶の産地だ。

8/7

窓の向こうの山の上に月が冴えている。きのう町の夏祭りが終わったら、もう秋になったのか?あしたから少しだけ忙しくなる。

8/6

昨日琵琶湖へ行った(毎月2−3回の訪問)。天気はいいが霞んでいる。さすがに日本一の湖、対岸はほとんど見えない。この季節湖水浴に多くの観光客が来ている。海岸と違って気軽に湖岸に車を横着けることができ、淡水であるため大げさなシャワーも必要がない、そして琵琶湖は環境の保全に神経質なため南湖はともかく、全体としてはどこでも泳げる環境を保っている。私も少しだけ琵琶湖を守っているのだろうか(環境というより文化=しかしこれらは一体だ)?向こうに蜃気楼のように浮かんでいるのは多景島か。

8/5

今年の5月に行った、京都・嵯峨の安部晴明の墓所。誰が信仰を支えているのだろう?疑問符はつのる。

8/4

近江八幡・日牟礼神社参道の八幡堀に架かる橋で。下は修景された八幡堀、橋を渡ったところに有名な「たねや」があり、ここでバウムクーヘンを買う。滋賀の人に教えてもらうまで有名だとは知らなかった。味は本場物とは異なり「なんとなく和風」妙な言い方だが柔らかくてダシが効いている(もちろんおいしい)。

7/31

奈良県天川村の七夕祭りへ行った。☆印やシャーマニズムを求めての旅となる。今年は初めてなので来年も再訪したい。今回は撮影のみ=次は宮司や村人にも話を聞けたらと思う。

7/29

今日は午後の半日、堺市の浜寺公園へ行った。明治6年の内国勧業博覧会の第2会場とされ、第一会場の新世界(通天閣のある場所)と路面電車(阪堺線)でつながれた野外会場である。時間は始発の恵美須町(日本橋の電器屋街と新世界の接点にある)から浜寺公園まで43分、下町あり、高級住宅地ありの楽しい電車道で私を飽きさせない。浜寺公園は日本最初のリゾートであり、今でも大阪府の管理で往時の風情は充分に残っている。長い松原の先に砂浜の海水浴場があり、食堂やキャンプ場がある景色。今は海は埋め立てられ松原の中にプールがたくさん並んでいる。僕にとっては「最後のリゾート」(M.パー)とすら思われた。

7/28

今日は滋賀県大津市の石山寺−三井寺−疎水と回った。これも「民俗・地理学のフィールドから」に出せるのはいつになるのやら・・・デジタルカメラに限界を感じたので次回の琵琶湖訪問からデジタル/フィルムカメラ併用とする。フォーサーズ・ライカエルマリート14mmF2.8を出さないからそういうことになると、メーカー・ディーラーに注意を喚起したい(次の本はオールデジタル撮影と考えていたが一頓挫)。

7/27

どうやら梅雨明けか?今日は大阪府太子町の府立「近つ飛鳥博物館」へ行ってきた。前方後円墳を模した巨大な施設で、あまり見やすいとは言えないが異色性はかいたい(今ならできないバブル期の産物?考えすぎか)。楽しく2時間も見学できた。人は少なく古墳群のある山域を公園としているために(そもそも考古博物館)食事は簡単な館内の喫茶室でしかできない。私たち以外に客はなく、喫茶室の従業員2名は所在なげだった=おそらく全館で恐るべき赤字が出ていると思われる。この通路は駐車場から前方部へ上がる道、頂上の石室から入り、地下の展示室へ降りていく趣向である。綺麗なミュージアムグッズ「自然石・曲玉・携帯ストラップ」を買った...こんなものが充実していればいいのに。

7/22

昨日(今日と言った方がいいか)満水の琵琶湖へ行った。南郷の洗堰は全開であった。それでも近江八幡の浜は堤防を湖水が越えていた。さいわい昼から雨が上がったことと風も吹かなかったため調査はできた(こういう日の調査も必要なので、あえて出かけた)。行きも帰りも山越えの道は倒木や落石で一時的な通行止めがあり、遠回りして信楽経由で帰宅した。

7/21

山城から近江へ抜ける街道の要衝にある猿丸神社の社務所で。普段は無住だが氏子の神社の守はきちんとなされている。作業の合間、囲炉裏を囲んでの世相談義が目に浮かぶ。たった今まで人達は集っていたようだ。建物の軒下には割木が山のように積んであった。

7/18

先週友人とふたり御所市の山中へ行った。私を後ろから撮った絵...どんどん過去を置いて未来への遁走を開始している姿をよく写してくれている(=彼はとても有能な写真家だ)。振り向かずに坂を登り森林に消えていく。この日の写真は次の土日で「民俗・地理学のフィールドから」へアップする=ようやく心理的な袋小路から解放されていくようだ。

7/14

JR祝園駅にて。これから町へ出かける。30分に1本の電車の割にはホームにはふたりしか人が待っていない。人口が増えたとはいえ田舎である。

7/7

京都・百万遍の京大前で。ツアイスイコンの記事を書けていないので賑やかしに貼り付ける。それにしても乳母車の子供すら絵になる町並みだ。

7/4

滋賀県知事に少し知り合いの嘉田さんが当選した。14年ぐらい前、県立琵琶湖博物館の丸子船建造記録で色々話し合ったことを思い出す。当初は「当選は絶対無理」と言われていたが、選挙戦の末期に逆転したようだ...私が時々訪れる滋賀県信楽でも選挙の数日前に多くの人から支持を聞いた。初の人文学者の知事の登場である。おおいに期待している。私たちの「琵琶湖周航/プロジェクト」にもはずみがつくことだろう。

同時にHCBのドキュメンタリー映画「アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶」監督:ハインツ・バトラーを観た。何とも言えない既視感・・・映画の中でHCB「写真は永遠に生きている」(もちろん人は死んでも)と語るが、そのHCBも不吉な、そして全てを語らぬ予言を残し映画の中にだけ生きている。7/7まで大阪で上映、そのあとは京都へ行くと聞いているが、ぜひ観て欲しい。

7/3

みなさん!ゴメンナサイ!!約束のツアイス・イコンの解説が書けないでいる(とても追い込まれている=来週は前期の最後の講義?!=関係ないが)。公私ともに多忙を極め(といっても美術館へ行ったり、ブレッソンの映画を観たり・・・たいしたことではない)なかなかPCに向かえないのである。データはあるので次の日曜には何とかしたい(?!)。

7/1

京都・山城町高麗寺廃寺跡へまた寄る。以前はもっと森が茂っていたが、発掘調査でなぜか刈り払われた...どうやら調査後に開発があるようだ。もう舗装路だけは付いている。

6/25

コシナ・ツアイスから今更ながらのゾナー50mmF1.5がリリースされるようだ。コシナ=フォクトレンダーのL&Mレンズはすべてそろえ、ZMレンズも25/28/50mm(プラナー)となっている。これも高性能を期待して発注した=歴史的にはとっくに決着のついた標準レンズだが、現代に復活させるだけの自信がコシナにはあるのだろう。他は黒鏡胴としたが、これのみはツアイスに敬意を表して白レンズとしたい。

6/24

「港の景観−民俗地理学の旅」昭和堂(2005)の続編が研究報告書のかたちで印刷できた。台風災害「その後」の舞鶴の川湊の復興と、埋もれつつあった資料を使って話は進む。今回は自分たち(河川文化研究会)による印刷となったため、友人のコマーシャル関係のデザイン・編集・タイポグラフィーの事務所(AG写植)へ依頼し(一般的には学術・研究関係の印刷所へ頼む)斬新な見せ方ができたと思う。表紙は白の滑面紙に薄いマゼンタの色を乗せて洒落た雰囲気になっている。中の写真やキャプションの取扱もコマーシャルデザインの要素を採り入れてカジュアルさが出て読みやすいだろう。

6/21

京都・百万遍の京大前にて。さすがに古くからの学生相手のレストランや古書店が多く建ち並ぶ。農学部横の学術系出版社へのお出ましであった。大阪と違って用事で出かける道すがらがとても面白い。どこまでも歩いていける(ここは出町柳から徒歩15−20分かかる)。

6/19

京都の出版社に次の本の打ち合わせに行った。少し早かったので四条大橋あたりを30分ばかり歩いた。暑かったが薄曇りで川風が吹いて気持ちが良かった。本もいいものができそうだし、写真も絵も冴えわたっているので、当分は良好な精神状態(最近、思想は精神状態のことだと感じている)が保てそうだ。 オリンパスE300

6/17

沈胴ズミクロンについての新知見...私のレンズは初期型としては特に珍しいものではないが、友人が例の極初期のランタントリウムガラス使用の個体(1952年製)を持っている。放射性同位元素を比較的多く含み、被曝や経年変化の問題で短期間で製造を終えたレアレンズだ。彼はそれと知らずに購入し、私の指摘で次の調査の結果を出した(もちろん彼は科学者である)。「放射線測定の結果、レンズ真正面からのごく至近距離で、0.32マイクロシーベルト/時間。これは自然界の放射線の約4倍。健康上は全く気にならない線量だが、ウランやトリウムは半減期が長いのと、娘核分裂があるからだろう。50年以上たった今もガイガーカウンターの針を動かしたのには、微々たる線量とはいえ驚いた」とのことである。各種ライカ本に書いてある風説(書いた人は証明したのではない)は正しかったと言えるだろう...ただしこの度いくつかの偶然が重なり専門家による実験で立証されたことに意義がある。

*補足・・・用語を正確にすべく、上記記載に加筆・訂正(くだんの科学者より指摘)。
 『放射能測装置には 1)シンチレーションカウンター 2)電離箱 3)ガイガーミュラー(略してGM.ガイガーカウンターと一般には呼称されていること多い)の3種類があります。そのうち、今回の測定では、最も感度の高い1)を用いました。 そして、通常は測定する物体から1メートルの距離をおいて測定しますが、今回、1mの距離ではゼロで、どんどんレンズ(前玉)に直線的に近ずけていくと、レンズのごく手前で昨日の値が計測されました。宇宙放射線などの影響で、富士山の頂上付近や飛行機内の方が、線量的にはずっと浴びていると思いますが、肝心なのはは気分的な問題と思います』...仕事で放射線を扱っているのに、リラクゼーションのための写真趣味でも放射線とつき合うのは気乗りしないようだ。ご協力ありがとうございました。

6/15

近所の京都・山城町「高麗寺廃寺跡」で生駒に沈む夕陽を見た。車でちょっと散歩、忙しいので(本当はモノグサ)遠のいていたが、少しまた復活した...近所への旅。田舎なので短時間で広い範囲へ行ける。三重県へも滋賀県へも1時間かからない。

6/11

窓辺のカメラ。ツアイス・イコンの話...予定が狂い、フィルム現像が上がってこないためしばらく延期=今度の土日?これは2階の自室の窓、庭の木々が伸びて緑色の光につつまれている。

6/8

とうとうツアイス・イコンの解説を書かねばならなくなった。今度の土日は少し余裕があるので...慌てて2本撮った。ここんとこデジタルカメラばかりで撮影していたのでとても楽しく撮れた。

6/5

舞鶴の台風で吹き飛んだ市川造船にて...「港の景観−民俗地理学の旅」の続編が小冊子とはいえ本になって出る。すでに校正を済ませたので6月の半ばには刊行される。

6/3

ちょっと琵琶湖まで行って来た。湖北・菅浦の鬼辰の旧ショーケースの前でスケッチしていた。平和な景色、平和な気分。これから12月まで毎月1回、琵琶湖を巡る旅が続く...今回は調査より写真撮影を優先する。なぜ?

6/2

先月初めて「りんくうタウン・サウスゲートタワー」へ行った。飛行機に乗らないので関空は行く必要もなかった。とても広くて人は極端に少ない。倒産したと聞くが、それもやむなしと思う...現在は外資系が所有しているようだが、テナントや施設の管理はどうやら依然として大阪府の外郭団体がしているようだ。美術館的な府立の施設もあり、次回紹介したい(私は入り、たっぷりと休憩した)。これからは毎月1回訪れる場所になる。

5/28

義父が亡くなった。クリスチャンなのでお通夜はなく、葬儀の前夜式を自宅の本人の書斎でとりおこなった。独文学者としての一生だった。10数年前、ファウストとメフィストの契約の話を聴いたことを思い出す。学問の話はあまりしなかったが、ひょっとすると私に形而上学の影響を与えたかも知れない。

葬儀は古くからの住宅街の教会でおこなわれた。牧師先生は丁寧に何度も死者を弔った...私は教会の信者ではないが人の生死について何か考えさせられた。晴れわたる告別式。と、出棺のひととき驟雨にぬれ、そして斎場の森のなかを一瞬の嵐が吹き抜け、木々の葉を揺らしたのを私は見た。

5/21

今日、京都・嵐山の三船祭りへ撮影に行った。嵯峨の車折神社の祭礼のひとつである。詳しくはいずれ京都府のHPに紹介されるので割愛する。とにかく暑くて紫外線たっぷりの状況に閉口...朝起きて行く気を喪失させたが年に一度の機会、撮らないと許してもらえそうもない。で友人を無理に誘って出発、渡月橋の橋のたもとの川灯籠の横で待ち合わせた。今までにも何度か熱中症(あるいは紫外線による皮膚障害)になったが、今日はその状況必至だったので、家を出るときから完全武装(いろいろあるが珍妙なのでここでは書かない)。おかげで無事にこれを書いている。今年は水位が高く危険なため川岸で小規模に実施された。そのため写真は撮りやすかった。オリンパスE300

5/12  松井三四郎さん最後の絵。

フナヤ裏のカモ舎の前で。来客にカモ鍋をふるまうたびにカモは減っていき、春になるとまた若鳥が入ってくる。この写真が最後となった。松井さんのところへ取材が来て、遺族の方が「季刊民族学」を見せたところ、新聞の追悼記事にこの写真が掲載されることになった。土曜の朝日新聞(たぶん滋賀版)だ・・・それじゃあ、さようなら松井さん。  ヘキサーRF+eimarit28mm/3rd+RA(PS-20によるデイライトシンクロ)

5/6  調査の旅に出ているあいだに琵琶湖の船大工・松井三四郎さんが亡くなった。

2004/1月に訪問したおり、帰りにフナヤ横の畑で大根を抜いて持たせてくれた。

2006.1.4、堅田のご自宅で。毎年正月恒例のかも鍋をご馳走になったのが最後になった。4/20に「琵琶湖周航」(季刊民族学116)と題する松井三四郎さんの活躍をとりあげた作品ができあがったのに残念だ。5月に直接持参するつもりで持っていたが、三四郎さんの突然のご逝去で本人にご覧いただくことはかなわぬこととなってしまった。もっと早くお届けすべきだったと深く反省...ひとりフィールドでの友人を失ってしまった。三四郎さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

5/5  調査に行っていた越後荒川より帰還した。風邪でたいへんだったが友人の内科医から強い薬をもらい(自信のなさそうな私に「行っていいよ」とのお言葉)決行した。それが効いたのか旅行中に少しずつ回復し、天候も良く、次の成果と物語の続きを確信させる旅となった。

5/4、荒川の日没。列島は新潟で大きく北へ折れ曲がり、上越あたりまでは夕陽は河口の左に沈むが、ここでは河口の方向へ沈む。

5/1  窓の景色。

信楽の友人の窯元にて。オーガニックなガラス瓶。

窓から見たモモの木、これは果樹ではなく観賞用の花モモだ=実はならない。

4/30  4月ももう終わり、連休明けは忙しくなる。

先週末また近江八幡へ行った。今年は八幡がよいが多くなった。ここは円山の氏神様だ。水郷地帯なので家も神社も高台にある。遅咲きの八重桜が綺麗だった。

4/26

庭のヤマブキが満開だ。年々大きく育ってきている。

4/23  新緑の庭にて。まったく森林と化した。住宅地図でも落葉樹林のマークとなっている(洒落た担当官だ)。春先の梅をかわきりにサクラやスモモが開花し、今はモモとライラックの花が咲いている。冬のサザンカまで年中花が咲いている庭。

これは開花前の3月下旬の写真だ。まだマンサクと梅が咲いているだけ。庭の真ん中に大きなクスノキが立っている。

4/21  Zeiss Ikonがやって来た。詳細は後日の話として、第一印象を述べる。同じコシナのベッサR2Aと比べて、巻き上げや各種ダイアルなどの操作感はスムーズになったし、レンズマウントの嵌合も軟らかくなった。シャッターは基本的に同じと思われるが音はやや軽くなっている(ボディの素材/構造が違うだけかも知れない)。質量460gとMPの600gと比べてずいぶん軽い(サイズはほとんど同じ)。デザインは往年のCLEそっくりで使用感も同じようなものだ。気楽に使えるカメラで歓迎したい...だが値段がR2Aの倍にもなった割には「たいして差はない」のがユーザーにどう受け取られるかと思う。 1回使っただけでの問題点を指摘しておくと、ファインダー像がやや甘い=まさかファインダーレンズ系の収差が大きいとは考えられず、おそらく視度が遠視型になっているようである。視度補正で対応できるだろうが、高齢者向きに作られているとすれば「Zeiss Ikon」ブランドと合目的的とすら思われて頬笑ましい。もちろん目くじらを立てて言うほどの視度のズレとは言えない。そもそも私は近視なのだから。もう一つ、ファインダーフレームの自動切替は進歩としても、28/85、35、50mmと4種類しか内蔵されておらず、コシナ・ツアイスZMレンズとの整合性は計られているとは言え、ユニヴァーサルマウントとしてのMマウントを考えると疑問を感じる(ここはヘキサーRFが上)。ひょっとしたらCLEの時もそうだったようにライカ社との「約束」かも知れない。更に外装の仕上げにバラツキがあり、3台のボディを見たが、ペイントの塗りむらや貼り革(人造皮革)に個体差が見られた(ペイントはMPが上=昔の国産一眼レフはもっと上)。ともあれ文句はつけても気に入っていることは宣言しておく。切望していたCLE-2がこんな形で出てきたのだから...軽い気分で使いたい。純正のストラップは重苦しいので店に転がっていたニコンの軽いナイロン製のものを装着した。

さて同時に「季刊民族学」116号、2006年春(4/20発行)がやってきた。これの中に久しぶりの力作『琵琶湖周航−丸子船船頭と船大工の世界』が載っている。会員制の学術グラフ誌なので店頭にはないが図書館で見て欲しい。

4/20

近江八幡の長命寺の奥の院「太郎坊天狗」の祠の前で。山全体が聖地となっていて、そこに長命寺が建立されたものと思われる。典型的な岩船の信仰が読みとれる。天狗は鞍馬から比叡・琵琶湖を越えて飛んできたことになっている。ここで祈ることを是とする。

舞鶴・匂崎公園。にわかに空はかき曇り、日本海側独特の時雨模様となった。子供達も帰るので、私たちも撤収することにした。

4/19

ここのところ「春になった」ので、しばしば遠出をしている。天候は不順なれど今年の春は特別の意味を持っている。滋賀県近江八幡市円山にて。

舞鶴の匂崎公園のサクラ。眼下は吉原の漁師町、その向こうが西舞鶴市街地だ。春は春雨、花曇りがちょうどいい。

4/16

ニーヴァの代わりにコペンがやってきた。よく走る車だ・・・新車なので長く乗れるだろう(今まで何台も乗ってきたが、これはそのなかでも愛着が出ることになるだろう)。

4/6  大阪芸術大学の「アンリ・カルティエ=ブレッソン自選コレクション」写真集から紹介のために転載させていただいた。

HCBの回顧展(大阪芸大コレクション)をみるためにサントリーミュージアムに行った(4/17まで=ぜひ行くべし)。多すぎて疲れてしまい、最後の20−30枚は目がかすんでしまった。私がHCB作品の中でもっとも好きなのは「トルーマン・カポーティ 1947年」(『ティファニーで朝食を』の作者)のポートレイトだ。紹介VTR(ドキュメンタリー映画の予告編でもある)の中で、これを見ながら、アーウィットは「若い...ずっと昔」と語っていた。大阪芸大の写真集のポートレイト編の中でも最初に掲載されている。この写真ではもちろん分からないがカポーティの視線と植え込みは私の神経を直接なでるような触感がある=ことわっておくが、これを見てマネたのではなく、子供の頃から植物・植え込み・藪・・・こういうものに理由もなく興味があり、人間の視線にも関心が強かったのだ。HCBの写真との出会いは小学校の頃みた平凡社の百科事典に載っていた「キング・ジョージ6世の戴冠式」(飲んだくれのオジさんが群衆の前で寝ている絵)の写真からで、カポーティのポートレートは20年前に知った。私が考えている世界である。

ところで、展覧会の隅っこでVTRが回っていて、これが今春公開の(いつから?)「アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶」ハインツ・バトラー監督 ロングライド配給 2003年作品 72分 の予告編だった。さっそく手配して行くことにしよう。秘密のキーワードが隠されている。写真は古くさいが、深層の真理は新鮮にすくいとられるだろう...このためにHCBは90歳まで一切を語らなかったのだろう。サラ・ムーン「疑問符?」、NHK「写真と生きた20世紀−アンリ・カルティエ=ブレッソン 91歳の証言」の次の話の続きだ。 下は公式のパンフレット...これも転載させていただいた。この映画も見て欲しいし、DVDの販売も期待したい。

4/4

たいした意味はない。1913-1983限定のM4−Pとsummicron50mmF2がとても気に入っている。

4/2  能登から帰還。

邑知潟の漁協組合長は相変わらず元気、元気。半農半漁の暮らしを捨てない。冬の漁の季節を終えて、これからハウスでの野菜の栽培を始める。隣のハウスでは稲の苗が順調に育っていた。

3/30

明日は能登の空の下...今年最初の遠出だ。これは千路のエビス祭りに参加したときの写真。右端がお世話になった邑知潟の漁協組合長。

3/26

私がいつも世話になっているカットハウスで同じ年生まれの人と会った(店主と親戚)。同級生などは別として初めて同い年と近づきになった。不思議な縁で『琵琶湖周航』に出てくる湖北・尾上の人で、同地の丸子船船頭サスケさんもよく知っている関係だ。これから友達付き合いをしたい。

3/25   2005年春、近江八幡・船木の松井瓦店前。左は八幡堀、今は静かな場所だが、八幡瓦の全盛期には、ここで瓦を載せ、瓦焼き用の割木をおろす賑やかな光景が繰り広げられた。右の閉店された店は水運の盛んだった頃、荷揚げの人や船頭、瓦屋や土屋などで繁盛していた。今回の「季刊民族学」の『琵琶湖周航』の舞台となった場所である。 TX-1x30mmF5.6xRA

3/24

私の事務所の近所の不思議な植え込み。垣根らしいがすでに家はなく、ゴワゴワした粗い垣根に囲まれた空間がある。近隣のところどころに開発に取り残された場所がある...しかしいつの間にか隣の土地とともにマンションに変わっていく。 GRデジタル

3/22

バウハウスデザイン二種。ノモスウォッチとリーガルの靴べら(オーガニック)。

3/21

琵琶湖の湖北地方、竹生島の夕景。今年の1月に行った。

3/16

奈良県・一言主神社にて、秋の景色。

3/15   難関の仕事が一段落し、気持ちが軽くなった。さてこれから「春」の撮影だ。

雪の信楽で。夕陽がさして気分がいい。

3/14  どうしてか、不思議な景色に見えている。

1975/9 山城山中の小学校。ヒマワリの花が枯れかかっていた。

2002/12 大阪市・桃谷の裏町。シャツが陰干ししてあった。なぜ?

2001/9 東大阪・小阪のポストのある家...なぜか民家の敷地に昔のポストがある。実際には集荷されていないが、道に面しているのでハガキを放り込む人もいるだろう。

3/13

天保山エリアの夜景。私はここが大好きで、たいした用がなくてもしばしば訪れる。大観覧車は夕暮れ時に乗るのが一番(そう思う)。 エプソンRD-1xWH15mm(友人のカメラで撮影)

3/12  暖かい雨の降る庭の八重の梅が満開、窓際のHCBの写真集。

H.C.B/アンリ・カルティエ=ブレッソンの展覧会に先立った大阪芸大の講演会へ行った。内容は平凡だと感じたが、大学院の教授である浅井慎平の話には説得力があった。一番印象に残ったのは「私は映画を目指していたが、ストーリーを捉えるよりシーンを捉える能力があったため写真家になった」「知っていようと知らないでいようと、写真を撮る人はHCBになる」このふたつが残った=テレビや印刷物において作られた浅井慎平のイメージ(夏、南洋の海...)とは異なる好印象を得た。さて芸大のHCBコレクションの図録もこの度刷新され、一段といいものになった(411点、たったの\2,000!)。ぜひ見よう=大阪天保山サントリーミュージアムにて、3/11-4/11まで。HCBの写真は今から見ると「古典」「教科書」と見えるし事実そのとおりである。しかしそのうしろにある、ちょうどブレッソン自身が語っていたポートレートに関する考え方=沈黙の向こうで語るもの=を読みとって欲しい。講演会で最後まで誰も語らなかったこと=ブレッソンが繰り返し述べていた「私はシュールレアリズムの影響を受けていた...」についての謎解きが必要だろう。文字通りのシュールレアリストとしてのHCB、そしてその裏にあるもっと本当のこと...私はHCBの写真そのものは(モホリ=ナギでも同じことが言える)それほど執心していないが(たいていの場合、芸術的傾向のある写真家は他人の作品に興味を持たない)、思想の背景や未来についての見識に関心があり、自分もまた(ずっと小者ではあっても)それなりに同じ道を歩むことだろう。

前にも書いたこと、HCBの「決定的瞬間」のテキスト(というより秘密のマニフェスト)を再掲しておく...私はこれを支えに30数年間、写真を撮り続けた。 HCB「わたしにとって写真とは、1秒の何分の1かの間に、出来事の意味合いとそれに適う表現を与えるフォルムの的確な配置の二つを、同時にみいだすことである。生きるという行為を通じて、人格形成を左右する周囲の世界に気づくとき、わたしたちは同時に自己をみいだすのだと思う。このふたつ、つまり内側と外側の世界のうまい釣り合いをとる必要がある。両者の間でたえずやりとりを続けていけば、やがてこれらがひとつにまとまる時がくる。わたしたちが伝えるべきはこの世界である。ただ、これで決まるのは写真の内容だけだ。内容とフォルムは切り離せないとわたしは思う。フォルムとは、質感、線、明暗の相互作用の厳密な構成を意味する。このように構成されて初めて、わたしたちの考えたこと、感じたことは具体的な形をとり、ひとに伝わるのである。写真では、視覚の構成は磨かれた直感からしか生まれえない・・・わたしたちは動きに寄り添いながら、それが人生そのものの成り行きの前触れでもあるかのように、撮影をするけれども、そうした動きのなかに、動作中の諸要素がみごとに釣り合う瞬間がある。写真はその瞬間を捉え、その均衡を不動のものにしなければならない」

訳文は、「マグナム」ラッセル・ミラー著、木下哲夫訳 白水社 から引用させていただいた。

3/9

別のスマートGSX。あきらかにアラン・シルベスタインを意識している。でもこちらはよりカジュアルだ(A.Sでは遊べない)、と負け惜しみ。

3/8

あまり知られていないがGSXスマート(そう車のスマートの時計ブランド=純国産)の2005サマーリミテッドを買った。もともとクリスマスモデルのキャラクターとして登場した「ゆきだるま・ジャック」が人気があったため、夏時計にも登場した...サングラスはガラスに印刷され、文字盤の絵と微妙にずれていて、見る角度で眼が隠れたり見えたりしておもしろい。針や文字盤、ベルトなどのデザイン・色使いもソフィティスケイトされていて、とても軽くて柔らかい意匠に仕上がっている(2005クリスマスモデルもいい)。これでもクロノグラフである。

3/7

とても大切にしてきた「ラダ・ニーヴァ1600」を誰かに引きとってもらうことにした・・・本当に惜しいが仕方ない。

3/4

4月発刊の「季刊民族学」...『琵琶湖周航』の写真から外したものを紹介しよう。これは本の主人公・琵琶湖最後のマルコ船頭「サスケさん」と1995年に竹生島へ行った帰りでのショット。寺や神社は島の向こう側(西南)で北側から見ると帽子が浮いているように感じられる。島の右側は鵜の糞害で立木がほとんど枯れていた。それでも野鳥の駆除は禁止されているので、打つ手はなかなかないとの話だった。なんでも岐阜あたりから飛来してきたらしい。つまり餌が不足して琵琶湖へ来たらしく、ここでは鳥と森林の自然どうしの環境保護問題があるのだ。環境保護派も思案のしどころと言うことである。ウミは遊覧船で行くのとは違って、湖とはいえまったく自然そのものである。この日は凪いでいたが荒れると難船の危険はあるということだ。 T90+FD24−35mm+KR 

2/28   冬の散歩道の続編...TC-1、CLExG28mm、BESSA-R2AxKO28mmxNOKTON35mm、M4-PxSA21mm/WH12mm

大阪環状線のガード下。以前はゴミゴミとした暗がりだったが、ここのところ再開発で今風の店が増えた=これは韓国料理店。

大阪梅田の新御堂の高架下。冬場でも皆自転車で移動している...どこの町でも同じだろうか?私には大阪の特質のような気がしている。

父の死んだ日。京都の田舎では雪が降った。これから1時間半かけて病院へ行く。

別の日、京都府瑞穂町へ行った。知人宅の裏庭から町の中心部を見る...過疎地の風景である。

瑞穂から汽車で京都へ戻る。車窓から撮ったので曇っている。亀岡盆地を走る汽車の影が視野について来る。むこうのV字の谷間は京都へつながる保津峡の入り口だ。「速く走れよ貨物列車、速く走れよボクを乗せて...」そんな歌詞があったっけ=たぶんウッディ・ガスリー。 窓越しの走る汽車からでもTC−1はよく写った。最高のコンパクトカメラだ。

近鉄京都駅のホームにて。ここでは夕方には必ず町が赤く染まる。眼下にJRの広い線路帯があるため空間が空いているのだ。さてローカル線を30分で私の町へ戻れる。

近所のNTTの研究所のテニスコート。裏山から山道を歩くと、いつのまにやら研究所の敷地へ降りてしまう。セキュリティなんて無いも同然だ...誰にも見とがめられることもなく、敷地を横切って帰路についた。夕方の更に暗い影での撮影に新規導入のコシナ=フォクトレンダー・ノクトン35mmF1.2の威力を見た。素晴らしいのひとこと、何も言うことがない。銀塩用の35mmレンズの最終的な成果と断言できる。定点的な観測ではこのレンズ1本で充分だろう=フィールドでは大きく重いので不可。

信楽にて。不思議な景色だが信楽では普通に存在する。山が少しづつ削られて窯元(登り窯建設のためには斜面が必要)の敷地となり、ところどころに昔の残存の竹藪や雑木林が残っている。そしてその向こうにはまた窯がつかれている。

我が町の野焼き。あまり利用されなくなった畑だが、それでも季節になると雑草を焼く。しかし徐々に作られなくなった畑が原野に戻っていく。 SA21mmF3.4

村の平野部にも開発の手が届いた。村はずれのきわまで丸坊主だ...何を考えているのか地主の心は分からない。もう充分豊かになっているはずなのに、自分の住む村まで開発しようとしている。つい先日まで一面の雑木林だった。何とか「今のところ」残っている畑の畦から撮影。 SA21mm

また墓場へ。上の壊された山の裏側だ。裏山の尾根の上に木々に囲まれてたくさんの参り墓が立っている。いつも墓場へ来ると、空はにわかにかき曇る。 WH12mm...これもコシナ=フォクトレンダーの傑作レンズだ。高いけれど素晴らしい。15mmもいいが、12mmは更にイイ。

墓場の駐車場。私ひとりで記念写真を戦没者の供養塔の前で撮った。12mmなので広く見えているが本当は非常に狭い。M4−P記念ボディ(1984)も快調である=使われていない古い記念モデルは使われないことによる不調が時にある。

京都府加茂町で。向うの山は鹿背山、畑は163号線沿いの近郊作物。私の町と同じで京都や奈良の消費地に近い立地のため、農家の商品作物の栽培が盛んである。 これはGロッコール28mm、すぐれた逆光特性が分かるだろう。ライカレンズだとこうはいかない。

京都府和束町の最奥の村で。信楽へ行くのに月2度通る、滋賀県との県境の村である。府の土木課が融雪剤を撒きながらゆっくりと走る。私の車は4WDなので大丈夫だが途中2台ばかりが田圃に落ちていた。私の町は山が浅いのでこんなことはないが、同じ相楽郡内でも奥地は時々陸の孤島となる。町村合併からも外されて、和束/笠置/南山城はどうなってしまうのかと考えてしまう。郡内に市はひとつもなく、木津/山城/加茂は合併して市に、精華町は単独で将来に市に、しかしあとは予定はたっていない。もとはどれも田舎だった、それがちょっとした立地の差や開発の気まぐれによって、大きな格差につながっている。私の家からたったの30分で過疎地の村に着くのである。雪は午後に溶けた。

大阪府交野市にて。ローカル線のJR片町線から同じくローカル線の京阪交野線に乗り換える。ローカルといってもここは大阪、乗り換え客はたいへん多い。電車は30分に1本しかないが、時間帯によっては席が埋まるぐらいの人となる。

ローカル線から京阪本線に乗り換えて香里園の街へ着いた。坂を登ると見慣れない景色が広がる。用事で来たはずの町に興味がわいて、坂を上り下りして探検してみた。子供の頃、住んでいた町にも近い、なんとはなしに懐かしかったのかも知れない。

昨年末に「インフォメーション」で紹介したJR桜宮駅前の木造の寮が予想通り取り壊された。父の四十九日法要にハイライズへ行った時に目撃した。両親がここへ引っ越してから15年、しばしば見てきた古い建物がなくなって、残念なのかサッパリしたのか分からない。その両方のように思う=父の死と同じだ。

高層マンションでのごく少数の親族の法事。家族も含めて10人あまり、3人がお経を詠み上げていた。仏壇などはない。

天王寺の無宗派寺院「一心寺」に納骨されることになった。都市には信心があろうとなかろうと故郷を遠く離れて没した人々のよりどころがある。過疎の村へ戻るのもよし、都市の雑踏に消え去るもよし、今日は21日、たくさんの人達が訪れていた。

寺務所の脇の池に(私は仏教徒ではないので結界の中には入らない)「淡水魚供養」の石碑が建っていた。母による手続きが終わるまで、何となく妹と新しい酵母でのパン焼きの話やヨーグルト(どちらも自家製)の話をして待っていた。ごくありふれた内容だが、久しぶりに兄妹だけで話したように思い返された。いい一日だった。ここをあとに私は都会の雑踏に消えていく。

2/23

堅田の現役船大工・松井三四郎さん、93歳。この人が80歳の時からの付き合いだ。今度の「季刊民族学」でも活躍してもらう。

2/18

2006.1.9、棹飛びで有名な琵琶湖・伊崎にて。今日「季刊民族学」の編集者氏と会った。次の号に「琵琶湖周航−丸子船船頭と船大工の世界」として出る写真/文章の最終的な打ち合わせのためだ。日本では編集者に対しての評価が不充分だと日頃から思っている。私たちが安心して原稿を預けられるのも彼らのおかげだ...単なる校正・編集のためにだけではなく、時代考証や国語学的な裏を取ってくれている。ポジや図面も大切に預かってくれるので、いっそ自分のポジを全部(そう一切!)預けて管理してもらいたいぐらいだ。どうしても私には管理人が必要だと思われる=単なるエージェントというだけではなく、私のすべてを理解した上で、私が安心して仕事ができ、私の間違いを正し、最大のポイントは私を常に支持してくれる人がいるといい(高給を支払ってでも!)。

2/7

気分転換に奈良の「おふさ観音」に行ってきた。ここは七夕やバラの花で有名な寺で、今は誰もいない境内でノンビリ(しかしとても寒く)と過ごせた。これは本堂脇の水子地蔵の横で俗人を睨む不動明王。 

上はシンクロ、こちらはノンシンクロ...オリンパスE300

2/4

1976年、夕暮れの賀茂川河畔にて。編み物をしている「当時の」同世代の女の子に声をかける。考えてみると今も昔もあんまり変わらないようだ...変わったのは退色したフィルムだけだ。写真家とは不思議なもので、この時の情景や会話を今でも写真を見ているとハッキリと思い出す。だから写真を撮るとき、あまりデータやセチュエーションをメモしない。 CL+キヤノン35mmF1.5+EX

1/17

私の部屋。資料に囲まれて暮らしやすい。 

GR−デジタルがやって来た。さっそくテストしてみたがキヤノンG1デジタルやオリンパスE300と比べて良くも悪くもなかった。ただし「軽い」「単焦点28mm」の良さがあり、たいへん良好。レンズの解像力は「まあそこそこ」だが歪曲がなく、レトロフォーカスのために周辺光量も充分である。難点は無限遠のシャープネスが今一歩ということだろう。これはキヤノンG1デジタルで撮影。

1/4    冬の散歩道から ...ミノルタTC−1、CLE+G28mm、TX−1

大阪梅田の阪急百貨店前にて。ここはJRの複数線、阪急、阪神、地下鉄の3線が乗り入れていてラッシュ時には相当の混雑をする。その昔、この混雑を見て松下幸之助がこの歩道橋(国鉄/阪神/阪急をつないだ)を日本最初の歩道橋として寄贈した。阪急の文字の下にある階段の下に、そのむねを記したブロンズのプレートが貼ってある。今は地下街の充実で歩く人は減った。

布施足代町。私立の幼稚園らしいが斬新なデザインで派手な色に塗ってある。あたりは全体に砂色の下町風景で、とても良く映えている。花の咲く季節には桜や桃の花で彩られさらに明るくなる。明るいこと、それ自体が素晴らしいと思うのである。

夕暮れ時の布施足代町で。これはシンクロさせている。この木は私の庭にも生えていて冬場も実は落ちずに、春までに少しずつ減っていく=観察していると鳥は少しは食べているが、あまり熱心ではなく鳥にとってもおいしくはないのだろう。

久しぶりの積雪の日。単線のため列車は大幅に遅れる。向こうに見えているのは天井川をくぐるトンネルだ(トンネルの上は川が流れている)。今日は「暗い日曜日」と言うところだろう...父死す。

途中の駅で保線係が降車する。ローカル線ならではの頼もしい景色だ。たいして人数の乗らない列車でも軌道は確保されていく。赤い旗や斧など持ち物が大時代がかっていて面白い。

冬の葬式。葬式はいつでも寒い冬に多い。私はごくスムーズに身内の死を受け入れているが、私以外の人はどうなのだろう?悲しげにも映るし、ごく自然にも感じられる。私も数年ぶりに喪服を着た。

私の住む村の墓地にて。参り墓と埋め墓が別になっていて、住宅地の最奥に墓地が目立たぬようにある。すっかり摩滅して顔も判然とはしない地蔵さんが墓石や卒塔婆を眺めている、たぶん百年以上も前からずっとここにある。

朝、富山県雨晴海岸を高台から眺める。雪は充分に積もっているが、まだまだ弱く強く降り続く。向こうに見えているのが能登半島へ続く氷見の山影。

冬の汽車の旅。富山県雨晴海岸にて。氷見線に乗って氷見から高岡へ向かう。雪が汀まで積もっていて、これは当地でも珍しいほどの降雪らしい。激しい潮騒とディーゼル車のブルブルとした音で眠気と覚醒を同時に感じる。軽い眩暈=最近は汽車に少し酔うようになっている。

2006.1.1

good mornin’2006 ! 本年もよろしくお願いいたします。

庭で。


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2005/note


12/9   初冬の1日。大阪市内を歩いた。    M7+キヤノン28mmF2.8+EB3

桜宮で。古いアパート(おそらく中小企業の寮)から引っ越していく。近隣はほとんど都市再開発で大型のマンション群や医療機関などに変わっている。いずれ近々この近所もマンションやテナントビルになるのだろう。

桜宮の大阪環状線のガード下。レンガで作られたトンネルである。蛍光灯が1本点いただけの暗いガード下、近代化とは無縁の戦前のままである。がしかし、古くからの住民は住み続け、老人の暮らしやすい町なのだろう。病院や介護施設などの社会資本は整備され、それでいて下町風情は残されている。

さて駅前から3分歩くと再開発地域へ入る。使われなくなった倉庫の軒下によしずが立てられ「にわか店舗」になっている。どうしたものか冬なのにまだ「氷みず」の札が貼ってある。中には何台かの自動販売機と簡易な椅子やテーブルが並ぶのみだ。

ニュータウンに入った。ここは大阪市も開発にかかわった大規模な町で植栽も多く、都心マンション群としては余裕をもって建てられている。住民は高齢者が多いと感じる。

ハイライズ・コンブレックス。紅葉と青空が美しい。ここに両親が住んでいるのである。上層階なので地上の喧噪とは無縁だ。老人の最後の住みかは郊外の田園地帯ではなく、案外整備された都心部なのかも知れない。月に一度訪問する。

天王寺区上本町の古くからの商店街。上本町は以前は近鉄電車の終点駅で(現在は難波=ミナミ)、たいそう賑わった場所らしい。地下鉄谷町線が上町筋から谷町筋へ計画変更され、近鉄が難波に伸びたため急激に寂れた。もちろん上本町近鉄デパートはあるし、老舗の飲食店や劇場など表面的には繁華街に見えている。しかし一歩裏へ入ると畳んでしまった店が多い。

私の家の近所で古いツアイスビオゴン21mmF4.5L改のテスト中。昔のレンズはピントはともかくとしてコントラストがとても低い。当時のスーパーワイドは全体にピントを合わせることで精一杯、色味やコントラストなどは二の次だったのだろう。日本のレンズが猛追撃していた1950年代、ドイツのレンズも設計が苦しかったと思われる。その後追いつかれたあとは反対に楽になったのか、無理のないレンズ造りに戻ったように思われる。私は京セラのツアイスも、ハッセルのツアイス、ローライフオトテクニックのHFTツアイス、コシナ・ツアイスも大好きだ(仕事では使わない)。ツアイスの「どこで作ってもツアイスです」は、けだし名言である。

12/1

JR桜宮駅前。都市の駅とはいえラッシュ時以外は人の出入りはまばらだ。特に駅の北側は日通の大きな倉庫以外に企業は少ない。倉庫の向こうには大きなマンションコンプレックスがあるが、地下鉄の駅へ人々は流れていく。興亡盛衰...どこに分かれ道があるのだろう。 ベッサR2A+コムラー28mmF3.5+EB3

11/29

旧友との再会。先日琵琶湖・堅田の造船所へ行った。10年以上前に琵琶湖博物館所蔵の丸子船建造記録以来の付き合いだ。当時も80歳と老船大工だったが、93歳の今も現役船大工だ。あいかわらず自家用のカモを飼っていた。またまた琵琶湖水運の興亡についての本が出ることになる。 キヤノンG1デジタル

11/20  昨日、大阪の市街地を歩いた。3年ほど前から続く、大阪下町見て歩きの写真散歩だ。大阪の渡し船から始まり、現在は大阪環状線(JR)を巡る町行きである。何か目的があるわけではない。子供の頃、一時住んだこともあり、長く事務所を市内に置いてきたことも関係あるのだろう。 今回は鶴橋から玉造、森ノ宮、京橋まで半日をかけて歩き、大阪城公園ではイチョウの紅葉をみることもできた。今年はどこでも紅葉は遅れてるが、ここでは都心にもかかわらず綺麗だった。もちろん公園なので手入れがなされているのである。先週訪ねた奈良の山奥、下北山村の一部の山の荒れようと比べると、すでに人間が関わらないと森林は維持できないと感じた。

公園では市民が寄り集い、野球、インラインスケート、ブラスバンドの練習など観光客ではなく、普通の人々が楽しんでいる。以前(公園横のマンションに1年ほど住んでいた)はアベックばかりだったように思われるが、現在はOBPができ、ホールその他の施設ができて、ごく自然な市民の公園になっているようだ。 オリンパスE300=縦横比が他の一眼レフと異なり67判に近い、焦点距離/画角の関係もAPSはX1.5だが、これはX2となる(このレンズは14-45mm=換算値28-90mmとなる)。このような逆光条件でも破綻は最小限だろう(フードは撮影のじゃまになるので外している=デジタルでは見かけ上の射出瞳の距離を大きく取らねばならないため、どうしても鏡胴が長くなる悪い傾向がある)。

このシーンは昔から見かけた。音楽好きの若者が思いきり練習するために人のいない場所で黙々と演奏している。これはそれほど大きな音ではないが、ホーンやブラス系統の場合は生で聴くと本当に大きな音なのである。話を聞いた。「プロを目指しているの?」「うーん...できたらね」、「よく来るの?」「はい、自転車に乗って」、近頃の若者は・・・などとは思わない。君たちの可能性は大きくて遠くまである。

11/6

富山・庄川へ行った。今日は近隣の小学生がサケ漁の見学に来た。その小学校出身の組合員がサケを触らせたり説明をしたり、孫ぐらいの後輩達に対してさすがに力こぶが入っていた。今年は水温が高く、川の流量も少ないため今のところ採捕目標は達成されていないようである。 オリンパスE300

10/23

「港の景観−民俗地理学の旅」の舞台となった市川造船所へ久しぶりに行ってきた。旧交を温めつつ次の展開をたくさん話ができた。さて今度は何を? オリンパスE300

10/20

今から30年ぐらい前に飼っていた「mele」の子猫時代の写真が出てきた。友人宅のネコの子を1匹引き取ったのである。現在のミーと同じく積極的に飼ったわけではないが、独り身だった私はとても可愛がって育てた。小型のネコにもかかわらず強力なハンターだった。 トプコンRE−2+マクロトプコール58mmF3.5+EPR

10/16

庄川サケ簗場にて。昨日、富山のフィールドから戻ってきた。今年のサケの遡上は遅く、普段なら最盛期のはずが、まだ始まったばかりであった。水温が高いのと川の水量が少ないため遡上が遅れているらしい。富山県下では黒部川だけが予定通りの採捕量である。だいたいが4年前の放流稚魚が大きく育って回帰してくるのだが、黒部の孵化放流の技術者が一昨年「2005年は楽しみ」と言っていた予想が当たった。もちろん4年前に「いい稚魚」が放流できたからである。  オリンパスE300

10/2

ようやく「港の景観−民俗地理学の旅」の第4章−冠島参り−へ進めた。今年は暑さに完全に参ってしまって色々なことが滞っている=過ごしやすくなってはきたが、仕事の遅れを取り戻すためには秋のスケジュールをタイトにせねばならない。

9/28

昨年の夏の「ミー」の写真。この年生まれた3匹のうちの1匹がミーである。たぶん毛並みから見て真ん中のだろう。親ネコは植木鉢の陰で寝ている。今年は親に代わってミーが縄張りを引き継いだ。

9/26

昨日車屋へ行って点検をしたとき、スイフトスポーツのミニチュアカー(スズキ純正品!)を売っていたので思わず買ってしまった。昨年に続き、今年もJWRCを制覇しそうである。昨年型のワークスレプリカモデルはいいデザインだったが、スイフトのモデルチェンジに従って今年のレーサーも新しいデザインとなり、発売されたそのレプリカモデルは今ひとつである(昨年のモデルはよりワークスに近く、今年のはノーマルとほとんど同じ・・・)。

9/24

秋のフィールド第二弾=9/23−24で富山へ行って来た。台風の接近で海は大荒れ、残念ながらフィールドワークもままならなかった。ここ小矢部川河口部の「如意の渡し」も高波のせいで運休である。その向こうに新しく架かる橋の橋梁が二本建っていた。橋ができると渡しもなくなる可能性が大きい。 オリンパスE300

9/19

由良川上流域の和知のアユ漁の取材に行ってきた。ここでは川船はまだまだ健在である。

秋の到来。これは昨年の写真だが、般若寺(奈良)での1枚。ここでは他の花の寺(最近流行っている)と異なり、様々な花が寄せ植えのように密植されており、雑然としているようにも見えるが、箱庭的ではなくかえって趣があると思う。今年は調査が忙しく、どれほど秋の風情を楽しめるか疑問=しかし仕事とは別に月に二日ぐらいは出かけたい。

9/18   会員制の学術雑誌「季刊 民族学」財団法人千里文化財団(監修:国立民族学博物館)のマニュフェストを紹介する。1977年の発刊以来、この文章は必ず目次の次に書き込まれ、記事の編集にも実践されている。数多くあった学術・教養のグラフ誌が衰退の一途をたどるなか、「ナショナル・ジオグラフィック」とは比べものにならないが、それでも依然として健闘している。私も2度寄稿したことがあるが、スタッフの情熱は寄稿者に充分伝わっている=願わくば長くマニュフェストを守りとおして欲しいものだ。 選挙が終わって、急にこのようなことを思い出した。

9/16

我が家の「ミー」の子供達が大きくなってきた。庭履きのサンダル・ぞうりが子猫のオモチャになり、最近では一人前に爪とぎまでするようになったため、もう原形をとどめていない。新しく買ったが、まだおろせない。 オリンパスE300

9/14

今日、街を歩いていて、あんまり暑いので道端のCDショップに入った。昔にレコード店には行っていたが、今風のショップへ入るのは三度目だ。このところネットでCDを買い、友人から借りたりしてCDを聴くようになった。悪くない、「グレース・スリックのジェファーソン・エアプレン」である。

9/13

東海岸のプリマスロックからハワイのダイアモンドヘッドまでの自転車旅行を縦糸に、正義とは何かという問いかけを横糸に、30年にわたって織り上げられたロック・シンフォニー。

今日、「SMiLE」(ブライアン・ウイルソン)と「Vietnam Inc.」(「ベトナム株式会社」マグナムのフィリップ・ジョーンズ=グリフィス)が海外からやってきた。どちらも以前から気になっていたが、ようやく来た(インターネットの威力だろう、今なら簡単に買える)。

9/12

選挙は終わった。特に今回の選挙では、私のフィールドである地方の諸問題(河川、湖沼、海浜)が関係していたので大きな関心を持っていた。 キヤノンG1デジタル

9/11

今日は選挙の投票日。さて結果はどうなって、我らが日本丸はどこへ航海するのだろうか。9/10の最後の党首の演説放送を撮った。 キヤノンG1デジタル

9/7

フジフィルムTX−2。秋のフィールドワークの季節を前にして、とうとう導入となった。TX−1もまる4年使い続けてきて、ボディ単体としては最もフィルムを通しただろう。ライカマウントボディは全体としては圧倒的に使用頻度が高いが、なにせ何台もあるので各々のボディ1台あたりではTX−1より少ない。それにカット数はライカ判の半分しか撮れないため、一旦使い始めるとフィルムはどんどん消費されていくのである。TXマウントは残念ながら専用なので、以前からサブボディを必要としてたのだが、なかなかボディのみの中古は出ず、いっそ新品にと考えた・・・当分はTX−2を使うことになるだろう。値段はかなり上がったが値引率も高くなったため、それほど大きな差はなく、使い勝手も似たようなものなので違和感もない。微細な差は(もちろん改良はされている)「カメラ談義」のTX−1の項で書いていきたい。

先日、ビーチボーイズのリーダー「ブライアン・ウイルソン」の復活のドキュメンタリーをNHKで放映していた。最後のブライアン主体のアルバム「Pet Sounds」は素晴らしい出来映えで、当時中学生だった私もFM放送でラジオにかじりついていた。その次の「Smile」は更に前衛的なアルバムになるはずだったが、様々な事情で中止となった(1966-67)。しかし2004年ついに長い沈黙のあとツアーとアルバムが完成した。「Smile」のCD/DVDも発売されている(もちろん購入した)。

9/6

事務所の近所の谷町9丁目の交差点にて。葉っぱに黄色味が出てきて、そろそろ夏もお終いだ。 キヤノンG1デジタル

9/3

我が家の庭に住む「ミー」と子供達。ミーもうちの庭で生まれ、その子猫達も今年生まれた。全部トラネコだが、少しづつ色や模様が異なる(あと一匹ミーとそっくりのが居る)。今がかわいい盛り、貰ってくれる人はいないものか...?! それにしても、ストロボ発光時に人間なら「赤目」になるが、ネコは「緑目」となることを初めて知った。 オリンパスE300+内蔵ストロボ

8/31

居間をE300で撮る。これは完全オート撮影、無補正でのリサイズだが、こういう難しい色温度状態では「やや」赤みが強くなる。ブラインドは木肌色で朝日に照らされている。タル型の歪曲は残っているが目立つほどでもない。クドクドと理屈をつけてなかなかフィールドに持ち出してはいない。どうしても秋のフィールド調査の前に野外へ持ち出してテストせねばならない(!)、9月の上旬にはこのカメラ(オリンパスE−300)で村へ出よう!

8/28

8/15の「ほうらんや」がTV大阪(びわこ放送も)、今晩7時から「田舎に泊まろう!」で放送される。 これは長老格の人が境内を練り歩く松明に点火するところ。ワラは伝統的にナタネ藁である。  キヤノンG1デジタル

8/20

「港の景観−民俗地理学の旅」より。冠島の漁民の祭礼「雄島まいり」の光景の1シーン。  TX-1x45mmxPKR

8/16

昨日お盆の伝統行事「ほうらんや」を、奈良県橿原市坊城へ見に行ってきた。昨年に続き二回目だ。前回は全体的な流れを追ったが、今回は火そのものを撮影するようにした。今年は空梅雨のせいかナタネの藁が乾燥していて、危険なぐらい燃えが良かった。全体に見物の客は増え、撮影が難しいぐらいである。警備の警察官や消防も増強され、各局TVクルーも質と量が充実したようだ。このようにして観光化は進んでいくのだろう。 キヤノンG1デジタル

8/6

あんまり暑いので、涼しい写真を1枚。今年の初春に行った西吉野村の梅。山肌に点々と家が建ち、梅だけではなく果樹やおいしい野菜を作っている。2度行ったが、また訪ねたい場所である。遠くに見える山は大阪と奈良を分けている金剛山脈、その麓の町は五條市だ。民俗の宝庫としてだけではなく、この地の凛とした空気がたまらない。 LeicaMPxCS35mmF2.5/IIxRAIII

7/30

2005年5月の越後荒川にてのマス刺網漁。7月は夏バテの前倒しで「お休み」だったが、体調も回復しつつあり、8月はまたフィールドへ出よう!

7/5

非売品だが大きな図書館・博物館にあるのではないかと思う。ここに「川辺の生活世界」というタイトルで論文が載っている。1996年に名古屋大学出版会から出された「川辺の環境民俗学−鮭遡上河川・越後荒川の人と自然」のその後が書かれている。そのころから10年経って、大きく川の置かれた社会的な環境は変わった。自然破壊と言うけれど、現実には人と社会の変化が環境の破壊(ときに保全)を進行させるのである。

7/1

港区の港湾住宅にて。暑い日が続く・・・今年はビワの成り年らしく、ここでも世話をしていなくてもたくさん実っている。私の家の庭でもたくさん収穫できたが、見かけはともかく味は店で売っているモノと遜色はなかった。15年ぐらい前に庭にプッと種を吹き飛ばしたのが大きくなって二階の窓より高くなっている。

6/29

私の写真の上での友人(もちろんアマチユア)がとうとうものになった。マイナーだがCDのジャケット(正確にはバックフォトと書いてある=表はイラスト)に採用された。写真の「窓と鏡」のテーマで撮られたものである。とても素敵なことだと思う。写真にはアマチュアが活躍する場があっていいと思う。あまりに国民文化として浸透しすぎたためにコンテスト等の発表の機会が多すぎる=その結果としてアマチュアにとって写真は社会へのかかわりより、額縁に入ってどこかの壁を飾ったり、各種雑誌の写真のコーナーを埋める「作品」ものになっているように思われる。私の信念として、アマチュア諸兄に「展覧会の絵」として以外に、産業や報道、学術や社会運動などに写真を役立てて欲しいと期待しているのである。  CDの内容=タイトル:千晴  曲:1.風 2.千晴 3.Soul  Vocal : 浜本龍蔵  Corp.コウベレックス KRS301  \1,300

6/21

E−300で撮った記念すべき最初のカット。買った店でカードを入れて、外を向いて一番ワイドの14mmでフルオート(ノンストロボ)で撮ってみた。リサイズ以外はまったく無補正、なかなかよく写る。色味、解像力、遠近、ホワイトバランス、シャドウとハイライト、スローシャッターでのブレ具合(手ぶれと被写体ぶれ)、などたくさんのことが分かる。ワイド側は歪曲が出ていて多少目立つか?やや黄色味が強い・・・混合光線下では正確なことは分からないが、比較的悪条件でこれだけ写れば上等!

過去活躍してくれたキヤノン・パワーショットG−1(4−5年前のコンパクト型デジタルカメラではハイエンド機)をE−300で撮ってみる。これも無補正の混合光線下だがよく写っている。最望遠45mmで絞り開放だ。さすがに深度が浅くて全体にピシッとはピントがこない。やはり近接はパワーショットを使おう。どちらもCFカードなので便利である。

6/20

とうとうデジタル一眼レフがやってきた。「まだまだ・・・」と待っていたが、もう「そろそろ使ってみよう」という気分で入門用として入手した(価格も相当こなれてきた)。いままで3.3MのキヤノンG1で撮って来たが、ちょっと印刷には不十分なので、完璧とは言えないまでも試してみることとした。

6/17

コシナ・ツアイス biogon28mmF2.8ZM がやってきた。現実的な使用はこれからだが、ライカ用レンズの最後の姿として期待している。ライカとツアイスが最後についに連合した。もちろんコシナが橋渡しをしたのだが。

6/13

奈良県橿原市上品寺町のシャカシャカ祭りの頭屋宅にて。大人たちは準備に余念がないが、ここの娘はお構いなしにはしゃぎ回る。水神祭りと端午の節句を混淆されたような祭りで、本当は長男が主役なのだが、ものおじせずに顔を出す妹は観客の人気者だ。今は時間が無くて「民俗・地理学のフィールドから」にアップできないが、画像は処理済みで近々あげたい。  M7+eimarit28mmF2.8/4th+RVP100

6/12

1960年代の人気バンド「THE BYRDS」の Chris Hillman (ベースとマンドリン担当)の当時の映像=もちろん古いVTR映像を撮影したものである。ビデオで再生し止めて撮れば楽だが、動いていないと流れるように出ては消えるモアレがうまく写らない。そして1/30以下のシャッター速度で接写(これは画面の一部を接写している)を手持ちでするのは難しい。少し画像処理して絵にしてみた。当時私はませた中学生、毎晩NHK−FM実験局(たしか本放送前だった?)にかじりついて聞いていたように思う。

6/10  Contemporary Art Space Osaka にて・・・ここでなら将来展覧会をしてみたい、初めてそう思った。

大阪市港区の海岸通ギャラリーCASOで、私のお義姉さんの作品展「方法としての断片/再読 白地図」を6/8−19の期間でおこなっている。海岸の倉庫街の真ん中で、最初はロフトのような場所かと想像していたが、立派なギャラリーである。天保山から続く親水空間の端に建っていて、二階のロビーの窓からは海やレンガ作りの住友倉庫が見えている。

6/6

能登・七尾湾の木材業者(山師)、昨年のインタビュー時の写真である。一昨年の「邑知潟のササブネ建造記録」船の科学館−の作業をしてくれたベテラン木挽き職人である。このたび「木造和船の造船可能性調査報告書」海の博物館−に写真とともに山師の生活を紹介した。

6/1   春の舞鶴西湾の景色。高台の匂崎公園から見ると、吉原から竹屋川、喜多の貯木場まで一望だ。リアス式海岸の湾奥は、いつも凪いでいて、船の往来発着、荷や魚の積みおろしが常に見られる。昨年の台風被害からの復興も徐々に進みつつあるようだ。 *「港の景観−民俗地理学の旅」昭和堂、ようやく本が出た。この本の表紙写真である。フジTX1+30mmF5.6+RA 

5/27

近所の宅地造成地にて。ひと山丸ごと森林が伐採された。刈られていない森の影が、少しでも風景を和らげるように土砂の山を覆っていた。  エルマリート28mm/3rd

5/22

時計を1個買った。代理店でのテストをくぐり抜けた、素晴らしく性能の良いレギュレーター(ようやく時の基準機たるにふさわしい精度を得た)である。精度以外は普通の市販品と変わらない。

5/15

富山県営渡船越ノ潟港にて。富山新港(放生津)の越ノ潟−堀岡間に運航している。もとは橋が架かっていたが洪水で落ちた後、大阪市渡船と同じように、道路代わりに県営で運航された=もちろん無料。しかしついに廃線が決定し、大規模な架橋工事が始まった。渡船が止まるのは橋の完成するまでだが、すでに夜間は廃止し、代替バスになっている。 向こうを大型タンカーが過ぎていく。右が富山新港で、左が富山湾である。 

5/10

スコットランドから送られてきた甥の勇姿。トライアルの世界最大のイベント「SSDT=スコティシュ・6デイズ・トライアル」に参戦したのである。昨年は残念ながらタイムオーバー失格だったが、今年は80/300程度のリザルトらしい(これは大健闘)。写真撮影は長男をサポートした次男である。

5/9

早春に行った、奈良の西吉野村の珍しいシダレ梅の花の写真が出てきた。場所は賀名生・教蓮寺、あたりは山肌にいっぱいの梅林(ここの梅は本来は観賞用ではなく、あくまで農産品としての梅)が続き、時期には交通規制がなされるほどの人出がある。この寺の先代ご住職の奥さん(つまり現住職の母上)と懇意になって、2月と3月に二度伺った。下の写真は3月、これは2月。地元の話や仏法についての興味深い説話を聞いて感銘を受けた。今後のテーマのひとつに「説話」(宗教ではないが、ある種のエピソード)を加えたいと思う。 LeicaMPxCS35mmF2.5-IIxRAIII

5/8

連休中に新潟県下越地方(山形県に近い)の越後荒川へ、恒例の春マス漁調査に行ってきた。今年は春先の寒マス漁は良かったが、最盛期へ来て良くないということである。例年にないぐらい冬の雪が多く、そのため雪解け水(ユキシロ)が多くなり、急流すぎて川の状況が悪いのである。昨年から一般の釣り人のルアーフィッシングも解禁されたが、今年は現在は同じ理由でさっぱりだそうである。しかしこれも自然の摂理、これでマスの漁業資源が守られて、来年以降の漁獲が期待される...当然のことだが、大漁が何年も続くと、川という限られた範囲での漁業資源は枯渇の運命が待っていて、マスの人工増殖計画も簡単には進まないため、釣りファンには申し訳ないが、不漁も釣りのうちと考えてほしいと思われる。この写真は漁協組合員の網漁で、一般には許可されていない。川であっても危険は伴い、今年は川漁師が1名行方不明となっている。水深はここで2.5mある。

5/3

私のフィールドワーク用の道具=基本的に記録と測定のためのものである。カメラとレンズ、メジャー・スケール、コンパス、テープレコーダー、そしてフィールドノート。現実には、この三倍程度の装備で出かける(当然自動車で)。

4/24

潮来の女船頭。男まさりの口調から川への愛着が感じられる。今は観光用の遊船だが、往時は水郷地帯の乗り物として地域に必須のものであった。近年、水路は高く護岸され陸との距離は遠くなったかに見えるが、簡単に伝統は消えず、ひょいと窓から顔を出して「こんにちわ」の関係が続いている。橋も少しの不便をおして、船が安全に航行できるように、道から一段高いところへ架かっている。 コンタックスT2+ネガ反転(色は正確とは言えない)

4/18

春はあちこちへ行く。先週末は北陸へ...ヨットの帆影の七尾湾に風が渡る。左は能登島、右は七尾半島、向こうは能登半島の先端ぐらいで、この海はいつも凪いでいる。

4/13

吉野の春、さてこれから観光客がやってくる。奥千本はこれからだろう。金峯山寺蔵王堂前にて。

4/12

4/8、舞鶴へ取材に行った。ここは舞鶴湾を一望できる、匂崎公園=桜の名所で、桜に囲まれた舞鶴湾を撮りたかった。天気は上々だったが、残念ながら三分咲きで、前日の低気圧の通過で寒かったらしい。この日は暑くて閉口したが、それでもウィンドブレーカーを着ていて丁度いいぐらいだ。たくさんいい写真が撮れ、これが5月発刊の本の表紙を飾ることだろう。ここでは陸とは反対側の日本海方向をブロニカRF645で撮っている...湾内にまた埋立地が広がっている。

4/5

なぜか読者から反響があり、別角度からの写真を載せる。

この車の詳細は、http://www.neko.co.jp/guest/magazine/carmagazine/226/a112new.htm ここにある。

4/3

長年乗り続けたアウトビアンキ・アバルトA112をそろそろ手放そうと思った。20年以上前にヨーロッパのラリーエイドを走った車の公道モデルで、公道車として最終期のアバルトチューン車である。しかもその最終モデルの限定モデル(つまり最後の最後)である。20年経った今でも内外共にほぼオリジナルのままで、すばらしい性能を発揮している。車は調整・修理でまだまだ長命だろうが、私の方がそろそろ潮時かと思うのである。

3/26

園部町船岡にて。往時は舟運のひとつの結節点で、現在からは想像できないぐらい賑わった場所である。山陰本線の鉄橋を特急が走り去っていく。 TX-1x30mmxRAIII

3/20

天保山渡船の船上にて。船長とは3年前の調査で知り合いとなった。一時は廃船の話すらあったが、だんだん乗客が増えて、今後とも存続は確実なようだ。

3/16

冬、事務所の近くの清水谷にて。 食事をしながらみぞれの降る景色を見た。 R2Axkomura28mmF3.5xED-3

3/15

先週、西吉野村へ行ってきた。梅林で有名だが、今のところ観光地というほどではない。今は五分咲きといったところで人出は少なく、むしろハイキングがてらの客ばかりだった。そして最近まで作物としての梅だったので(今もそうだが)観光的な施設はない。それでも満開となる3月末には交通規制がかかると看板に書いてあった。2月にも来たが、その時に知り合った教蓮寺の奥さんに再会し、いろいろと仏法の基本を教わった。また秋に来てみたい。 R2Axcs28mmF3.5xAGFA CTprecisa100 = アグファのポジはコニカのものと同じように「渋い」発色で、少し粒子の粗いところもあるが個性的でいい。ベッサR2AのAE露出は安定しているが、1/2ぐらいアンダーになる。

3/11

1970年代の初めごろ、授業とは別に、たった4人で写真クラブを作った。その例会で琵琶湖・近江八幡へ行った時の記念写真が出てきた。ここはその後私のフィールドのひとつになり、30年以上出入りしている。一年下級生だった彼女たちは今どうしているのだろう。今年も琵琶湖へは4月に出陣だ。  ミノルタSRT101x28mmF3.5xトライX=当時はやりの粗粒子現像、懐かしい。

3/6

2年半前に取材で行った、富山県小矢部川河口域での釣り人の写真が出てきた。これがこの時の旅の終わりのシーンであった(もちろん本では別のテイクが載った)。これから春4月からの新しい旅に備えたい。 M5xsummicron35mmF2ASPHxRA

3/3

JR尼崎にて。暗いホームと明るく高い空。現在多忙にて更新ままならず、しばらくは進まない。

2/18

ベッサR2Aが複雑な経路を経て、私のところへやってきた。もう銀塩も終わりかと思われる日々が続く=複雑な経路であるにもかかわらず価格は安くなる。本来は複雑な流通でコストがかさんで高くなるのが当たり前だったが、どこでも誰でも「売り抜きたい」のだろうか。もちろん新品で保証もあり、製品としては何の問題もない。見ためはR2にバルナックの軍艦部を乗せただけ(何かと取りざたされた安原一式とも似ている)のように見えるが、ベッサ系のボディの最終的な形・機能か、使ってみるとたいへん洗練されている。単にAE化されただけではなく、この数年間のコシナのカメラ開発の線上で達成された洗練はよく分かる=L−R−T−R2と全部使ってみた結論だ。少し使ってみて詳細の説明はしたい。 さてコシナ=フォクトレンダーのブランドは今後どちらの方向へ行くのだろうか。                                  

2/6

富山県氷見市の船大工の船屋にて。金土で豪雪の富山へ取材に行ってきた。以前から決めていた日程なので行ったが、個人的に寒いのが苦手なので、あまり冬の雪国への旅は過去してこなかった。行きも帰りも積雪のために汽車は遅れたが、「越前かにめし」弁当を食べながら、流れゆく車窓から見え隠れする雪の景色を楽しめた。雪が苦手なのは若い頃の雪山登山の辛さが身にしみていたせいなのだろう(若い頃は山が好きでよく歩いた)。しかし久しぶりに雪の上を歩いて、また来よう、冬の雪国はいいと思った。当地でも「冬の氷見を楽しんで下さい」との話で、仕事を離れて本当に楽しかった。金曜は撮影したが、土曜は薪ストーブを囲んで何時間も話し込んで、富山の人々と交歓できた。三件の仕事をつうじた4年間の調査研究で、以前の新潟と同じように富山を心から愛するように知らないうちになったようだ。一見ぶっきらぼうな富山県人の心の芯の豊かさを感じるこの頃である。私はオメデタイ、そして幸せな人なんだろう=どこへ行っても最後は楽しみに変わっていく。今回の「郷土学」への取り組みはいったん終わって(もちろん「まとめ」はこれからだ)次のプロジェクトも北陸を選んだ。また会いましょう。

1/9

昨日桂川上流の園部から亀岡へ下った。ここは左岸の亀岡市河原林町の入口。小さな小川を渡ると在所の田地が広がる。本流(桂川は亀岡では保津川と呼ばれる)はかなり向こうだが、以前の大氾濫原が耕作地となっている。昔は大水がしょっちゅう出ていた。現在はサラリーマンと兼業、その前は半農半漁、さらにその前は船頭や川漁師など、川で暮らしを立ててきたムラである。入口の一軒家はもとの雑貨商店跡で、現在は無住だが、昔は村人達の消費に応えていたに違いない。私の後は微高地(小さな河岸段丘と思われる)になっていて、そこまでは水もつかず、多くの専業農家が居を構えている。旧の街道もそこを通っている。結局は私の旅も「川でならした」人達の足跡を辿る、そして光をあてる使命を背負っているのだろう。

1/5

ここは亀岡、保津峡への入口付近。今度の土曜に今年の初取材、京都・保津川上流域へ行く。学術的な写真を撮っているといっても、実際の現場では「報道写真家」になったような気分になる。昔憧れていて、しかし断念した報道写真家への道、「もっと踏み込んで!」「もの言わぬ対象物に語らせる」「歴史や民俗の瞬間を細やかに写しとる」なんと魅力的な作業だろう。

2005/1/1

あけましておめでとうございます。 また今年がいつものように始まった…よきことである。

ホームページを開設して早や5年、このPCとずっと向かい合って発信し続けた。PCもカメラも私も充分に古びたし、方向はあっちこっちとさまようが、写真の持っている可能性はまだまだ捨てたものではないと、自分自身の写真人生と重ね合わせて手前勝手に思っている。ずっと先があると考えているので、今年もテクテクと遠くまで歩いていくことにする。


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2004/note


12/29

「冬の散歩道」...初冬の大阪。日曜の朝、オフィス街も静かなものだ。暖冬のせいか12月なかばになっても御堂筋のイチョウは全部は散っていなかった。空気は温度と湿度が下がって透明感が増してきた。自然も街も少し寂しいが、晩秋から早春の「抜けたような」景色が好きだ。足下にはイチョウの葉の黄色い絨毯だ。

私の住むローカル線の駅で。駅員もひとり、乗降客も数人、駅のまわりの景色は遠くまで田畑が広がり、木津川や山城山地がすぐ近くに見えている。空気の透明度があがる冬場こそ更に距離が近くなる。さて各駅停車がホームに入ってくる。

寺田町の裏町で。古い黒塀に見越しの松、粋な三味線のお師匠さんの家の向こうに、新興の住宅とマンション。手前は旧国鉄か天王寺駅の軍需倉庫の跡だろうか、今となっては意味のない石垣と階段、何やら重々しい空気が感じられる町である。  データはすべて、ミノルタTC−1+torebi100c

12/26

プレゼント1+アルファ。

下の大阪港の写真で視線を90度右へ振った絵。船着場の横に税関の船、その向こうが水上消防署の船、そしてそのむこうは・・・少しずつ領域を広げているが、また現地へ行きたい。

12/25

琵琶湖・堅田にて。最近寄ったときの絵だが、湖とはこのような水路(堀)で結ばれ、ここで荷や人の上げ下ろし、洗濯などの水仕事が最近までなされていた。もちろん今でも船の出入りは多少はある。浮いているのは琵琶湖伝統の農漁共用船「タブネ」の破船である。

12/24

能登・門前町山中にて。二年前から能登の和船の復元事業に関わってきた(船の科学館叢書2「チヂブネ建造」)。これは船木の伐採現場、地元では名うての山師による「最高のヒバ」であった。これの本もこの夏できあがり、その次の若狭の海の「港の景観」も今日、完全脱稿できた。年末は毎年仕事をひとくぎりできてホッとする気分がある。今日も一日走り回り、知人の家でケーキが出てきて、それにクリスマスの飾りがあったのを不思議な気分で見ていた「なんでやろ?」まだ12/20ぐらいの感覚だった。今日がイブだということをすっかり忘れていたのである。今年もお終い...たくさんのいい仕事に参加できた充足感で一杯だ。

12/23

シリーズ大阪環状線。忙しくて中断していたJR西日本大阪環状線(旧省線)の見て歩きを再開した。たとえ何年かかかっても続けたい。今回は大阪の南の玄関「天王寺駅」から「鶴橋」までの短い旅だった。残念ながら時間がなく、途中で暗くなって桃谷駅までしか撮れず、鶴橋は次回の撮影となる。 データはミノルタTC−1+TOREBI100C、天気が悪くコンパクトカメラには苦しい局面だったが、よく写ってくれた。

大阪教育大学付属の横門、ここには大学の二部と高校、中学、小学校がある。校舎も塀もあまりにも古い。カラマツの大木が紅葉していて回りの照葉樹や常緑の針葉樹との対比が美しかった。天王寺駅と寺田町駅の中間、天王寺区南河堀町にて。今回歩いた天王寺から鶴橋は、おおむね環状線の内側が天王寺区、外側が生野区である。

サザンカの咲く裏町のアパート群にて、昔は「通り抜けられません」の看板のあったような、小路のどんづまりだ。寺田町駅裏の生野西二丁目。

移転した下町の工場跡地に草が生えていた。昔はこんな原っぱがあちこちにあったと記憶しているが、都市のドーナツ化現象と最近の不景気で、このような空間が久しぶりに出現しはじめた。いずれはマンションになるのだろうが、今のところは昔のままの塀に囲まれている。生野西一丁目、ちょうど寺田町駅と桃谷駅の中間あたり。大阪における丁目は大阪城に近いところから始まり、遠いところほど丁目の数字が大きくなっている。今でも中心は大阪城だということで、そこから各町が放射状に番地がふってあることになる。地図がなくても場所探しに役に立つ。

12/21

またまた多忙の中、12/19に舞鶴へ。発表までに最後の取材だ(もう時間的に待ったなし)。と云ってもやはり過程に過ぎず、最後の最後まで港の景観の行方を見とどけたい。暖冬の影響か漁は低調で漁師も所在なげだ。向こうの船はもう動いていない連絡船。 さて年末は忙しい。次は正月に京都洛中、1月の上旬に桂川中流域への旅となる。東奔西走とはこのことだろう。来年はどんなフィールドが待っているのか楽しみである。

12/12

先日、久しぶりに天保山へ行った。表の船着場は遠距離航路や観光船がいるが、大阪市渡船のある裏側には、保安庁や税関、水上消防などの船が並んでいる。岡と異なり各機関の差別はなく、狭い海域にひしめきあって、まさに「舟溜まり」である。不思議なことにコンクリート護岸の海際に大きな照葉樹が残されている。ここは保安庁の灯台用地で、灯台は壊れて機能していないが、用地の使用権は残っているのだろう。頭上には船を通すための高い橋が架かっている。

12/8

先月の末にまたしても友人と京都へ行ってきた。今回は四条東山・円山公園そばの西行庵から知恩院、粟田神社と歩いた。本命は二度目となる西行庵で、前回は春先、今回は紅葉時で、お茶と庭を楽しむためである。茶室そのものも文化財で、素晴らしいものであった(入るには要予約)。詳しい話は後日になるが、今度は来春に朝茶にのぞみたい。 ヘキサーRFxGR28mmF2.8xRAIII

12/7

土日で初めて関東地方への調査に出た。外房地域の栗山川である。このところ多忙で先月からの吉野、東福寺、富山に続き「民俗・地理学のフィールドから」での報告は先のことになるが、今回も従前からの河川文化調査からのアプローチだ。今回はサケ漁(実質的に本州太平洋側の最南端の鮭放流河川)を中心に広大で落差の極端に少ない関東平野の河川調査の端緒である。写真は栗山川河口域での投網漁(前にも後にも九十九里浜がどこまでも続いている)で、私の普段のフィールドである北陸地方に比べると若い人が多いように思われた。ボラやセイゴ、シタビラメ、エイ、そしてたまにはサケが入るようである。初めての関東の河川、見慣れないことばかりで、新しい発見があったことを記しておく。

11/28

先週、紅葉の名所「東福寺」へ行ってきた。10月に行ったときは観光客もまばらで、カエデの青さが綺麗だったが、今回はさすがに境内が雑踏と化した。まだ紅葉は七分程度だが、それでも評判だけのことはある。 今年の秋は台風の来襲などで観光客の出が悪く、天候のよくなった今最近一気に人出があるようで、ここだけではなく京都の各地で混雑がみられる。東福寺通天橋にて。 ヘキサーRF+G28mmF3.5+RA-III(このようなシーンでは良好)

11/27

先週吉野へ行って来た。世界遺産に選定されてから、とても多くのイベントと人出があったようだ。今回は奥千本へ紅葉見物と、金峯山寺蔵王堂の本尊「蔵王権現」を拝観するために行ったのだ。秘仏蔵王権現像は400年あまりの間にたった2度、数日程度公開されただけで、次にいつ見られるか分からないために「どうしても」見たかったのである。さすがに人目から避けられていたために、彩色はまだ鮮やかさが残っており、その群青色の肌が美しい。今回の公開は今年の7月1日から来年の6月30日までと「おおばんぶるまい」である・・・ぜひ見に行って欲しい。私も来年の新緑の頃(5月下旬)また来てみようと思っている。私にとって毎年吉野へは何回も来る、魅力のある場所なのである。これはたまたま演じられていた雅楽の演奏と舞。 ヘキサーRF+G28mmF3.5+RA-III

11/19

愛用カード型ストロボ「パナソニックPE−20S」スレーブ機能付きの外光オート機である。フィールドでは光の具合が悪いところも多く、そして「どうしても」撮らねばならないシーンもある。したがって小型のオートストロボは必需品だ...おかげでデイライトシンクロも思うとおりこなせるようにもなった。今までキヤノン277Tを2台、パナソニックストロボット、その他サンパックやカコのストロボを使い潰してきた。いろいろ試してきた結果、現在使っているこれが最も気に入っている。まず小型で、その割に光量が大きく(GN20)、配光もムラがなく広い。色温度も新品からナチュラルで耐久性もある。オート撮影でも、連動範囲(ISO100でF4/0.7-5m)内なら安定的な露出が得られる。この手の製品が減ってきたため、半年前スペアを買った。まだ使っていないが、製造中止の声を聞いたなら「もう1個」入手することになる。外付けの汎用オートストロボは風前の灯火なのである。

11/14

富山県庄川から帰還。今年は台風によって二度もヤナが流されて漁ができず、孵化放流用のサケ卵の確保がかなり厳しい状況だった。急いで駆けつけたら数日前から再開されて順調だそうである。何とか今年も地場卵でまかなえ、道卵などの移入卵は要らないようだ。さすがに本州日本海側河川最高の回帰率を誇る庄川である。

11/7

先日運転免許の更新に行った。京都は更新が非常に不便で、伏見の免許センターまで各自行かねばならない。受付も朝の2時間、昼の1時間だけで、受付−手続き−適性検査−講習と並びに並んで、比較的近くに暮らす私でも半日仕事、少し遠ければ一日を費やしてしまう。何とか大阪のように居住地か勤務地の近所の警察署で簡単な手続きで終わらせることは不可能なのだろうか。 唯一京都の良さは免許センターが田舎にあって、傍を流れる桂川の景色はノンビリそのものだ。釣りは今の季節「フナ」がいいさうな。

11/6

今日、台風被害の大きい舞鶴へ行って来た。あらかたはかたづけられ、これからが本格的な復興である。台風の翌日、20年来の付き合いの船大工と連絡をとったが(電話は何とかつながった)「今は大混乱、しばらく来るのは待った方がいい」とのことで、今日になったのである。大正年間に建てられた船小屋は近年老朽化に心配があったが、ついに今回の大風で傾き、とうとう解体屋の世話になった。鉄筋で増築された部分のみが残って、あとは本当に久しぶりに船小屋の土間は陽に照らされた。稼業を続けるか止めるか、70歳の主は思案をしたが、周囲の得意先や住民に押されて、やっぱり継続を決意したようだ。

10/31

私たちの大阪市内での集合場所のカフエにて(たった3ヶ所のうちのひとつ=これら以外は入らない)。今興味を持っている「エプソンR-D1」+コシナ=フォクトレンダー15mmF4.5で撮ってみた(メンバーの所有物)。室内は白熱灯、外は曇り、感度100での撮影。15mmは35mm判の24mm相当となる。面白いのはボディ裏に35mm判との焦点距離の換算表がついている。客層を考えてのことだろう=なにせライカマウントなのである。私にとっても性能や定格、デザインにおいて気に入らない点も多々あるが、ライカマウントレンズが使えて、ほぼ今と変わらぬ操作性で撮り続けられるデジタルカメラはこれをおいて他になく、実物を前にして導入を考えている。ニコンやキヤノンの最新一眼レフデジタルカメラがいいのは分かっているが、それに適合するレンズをほとんど持たない私にとって、R−D1は比較的安くつく(ボディ価格は26万数千円)のである。写りは?デジタル専用レンズに比べると良くないようだが、実用的には何ら問題はない。

10/30

富山新港の県営渡船。台風の日に行ってきた。このあと強烈な雨が降ってきた。ここは大阪市渡船と同じで「道路の代わり」なので、乗船は無料である。本数はずいぶん減ったが(以前は夜中航行していた)まだ健在である。ここに橋が架かることになってたので一応「廃止」となったが、まだまだ先の話であり、私は「逆転」の可能性もありうる(代替バスになるようだ=現在夜はバスになっている)と思っているし、それを実現する一助となるべく「研究と啓蒙」を通じて活動したいと決意している。

もう舞鶴連絡船廃止のような光景は見たくない。経済効率のために「悪夢」が現実となってしまったのである。9/30の廃止のあと現在報道されているように大型台風がやってきて、舞鶴の川湊は壊滅的な被害を受けた。すぐにも行きたかったが、現地との連絡で「混乱しており、まだ来ない方がいい」とのことで少し延ばした。さて来週は舞鶴に乗り込む。写真は連絡船最後の日の航海。

10/26

秋だ。先週の土曜に京都/東福寺へ行って来た。ここは紅葉で有名な寺で、ちょっと下見と「京都を歩く計画」の再開のための足慣らしであった(夏の京都は暑すぎる)。「民俗・地理学のフィールドから」で後日報告するが、ともかく素晴らしい茶室があったので掲げておく。同行した友人は茶室好きで、家に本格的な茶室を造ってしまった人物だが、彼をして「感動的...」と云わせしめた。単に茶室が良いだけではない、門を入ったところから庭園、回廊と続き、その先にある丸窓の四畳半の茶室、そして立って入ったとき、座ったときの丸窓からの景色。何も言うことはよそう。行って座ってみると良い。入っておうすを喫して、2時間もくつろいで、700円はあまりに安すぎる...また11月に行くことになる。私が若い頃目指していた具体的な世界での抽象性を表した造形である。久しぶりに「大感動」。

10/10

前後するが、自治会役員として参加した町内の夏祭りにて。なぜこれほど熱心に開催・運営されるのか分からなかったが、ボランティアとはいえ企画・運営を担当してみると、郡部の比較的閉ざされた町の年中行事として、ごく普通の住民が心から楽しんでいることが理解できた。政治=話し合い、経済=衣食住、が本質だと教えられたことが思い出された。自治とは集団として暮らす人間の基本的な枠組みである...たとえ仕事や生活のつかの間の安息の日としても、普段付き合いのない遠くの隣人と交流し、そして人々は集い楽しむ。

祭りは夜遅くまで続き、盆踊りはプロの音頭取りを遠方から招き、河内音頭・江州音頭は踊りの輪と共に、いつまでも続いていくようだ。私は祭りの喧噪から少し距離をおいて、写真記録と会場警備のために何時間も歩き続けた。運動会も同様だったが、まるで映画のシーンの、たくさんの没になったテイクを見ているような目眩を感じた。

10/6

私は今期町の自治会の役員をしている。先月、町民体育大会が開催され、競技にも参加したが、行事の記録撮影も仰せつかった。これがなかなか難しい=普段している民俗調査記録とは大違いで疲れ切ってしまった。上の2枚は町内の子供会チームがリレーで勝ったところの映像。いかにもクラシックなとらえ方だと思う。それにしても古いデジタルカメラの応答の遅さは信じがたい=動くものの撮影は絶望的である(画質は問題ない)。

10/1

台風の影響の残る9/30、舞鶴の岬を巡る連絡船が80年の幕を閉じた。現在の第三セクター方式では20年間赤字続きで、行政が支えきれなくなったのだが、その前に過疎やモータリゼーションの発達により、老人と子供のためだけに就航してきた現実があり、海と人間の関係は昔とは違ったものになっていったのである。最後の航海へ向かう「ちどり」、廃船が決まったあと一時の話題となったが、それでも関係者だけのひっそりとした航海だった。

最終便は夜の便(普段は通学帰り)で、連絡船は岬の各集落の船着きで最後の歓迎と送別を受けた。各集落でも町から遠い僻村ほど盛大な送別会となっていった。私たちの若狭湾を巡る20年にわたる研究の旅も、これで一区切りである。ここまでを一冊の本にまとめ、これからも続く「港の景観」の流転のありようを見続けたい。

9/26

夏の終わり。都島の下町にて・・・人は街に暮らし、私は街を歩く。

9/3

夏の鞍馬寺。京都の中心から少し外れた「出町柳」(なんと京都的な響き!)から京福電鉄で北山へ分け入ると終点が鞍馬駅だ。そこからケーブルカーで本堂へ上がるようになっている。現実には観光用になっているが、あまりに急峻な山域で、冬の積雪のため、参詣者用に敷設されたものである。そのため今も代金は運賃ではなく喜捨として受けとっている。ここも何度か行っている場所で、なんとかまとめたいと思っている。

8/31

坊城の「ほうらんや」、お盆の火祭りである。これは時間を作って、なるべく早く「民俗・地理学のフィールドから」に出したいと思う。 ヘキサーRF+トリエルマー+RA

8/21

オメガはオメガ。手で巻くのはリューズがケースに「埋まっている」ので操作しにくいが、ムーンウォッチはやっぱりいい・・・重くて大きいので、どう考えても撮影には不向きである(ATが実用的)。

8/15

お盆の火祭り、奈良県橿原市坊城の「ほうらんや」へ参加した。丹後の精霊船を諦めてここへ来た甲斐があった。観光的には知られていないが、荒々しい伝統の祭りとして記憶に残るものである・・・来年も必ず来よう(と、ここへ連れてきてくれた友人と約束した)、そして今度は機材を整えて。これはデジタルカメラでの画像だが、フィルムでも多くを撮った。これらは今月中には「民俗・地理学のフィールドから」に上梓したい。

8/14

庭にネコが巣を作った。数日前からミャーミャーという声が聞こえていたのだが、ただ庭を通り抜けていく子猫達と思っていた。庭が林なのでタヌキやイタチなども出没するし(犬はフェンスの隙間が狭いため無理である)、鳥が巣作りをするなど、たいして動物は珍しくなかった。が、今日窓から覗くと親ネコを中心に子猫が3匹庭の物置小屋の横でくつろいでいるのである。そして小屋の床下から出入りしていて、バケツに溜まった水を飲み、ほぼ一日小屋前の小さな草地で寝たりじゃれたりしていた。親ネコは餌探しに出かけて時々戻ってくるようである。去年も巣作りをしていたようである=ウロウロしていた同じ親猫であり、親とソックリの子猫を連れていた。私は鳥も猫もそれらの生活に介入せず、餌付けもしないし、追い出しもしないことに決めているので、彼らが成長したらまたあちこちに広がっていくことだろう。庭はかなり広く、ほとんど森林のようになっていて、安全で隠れやすい場所なのだろう。

8/7

カルチェ=ブレッソン逝く。このニュースは8/5のテレビニースで初めて知った。現在「ブレッソン」で検索すると、ブレッソン死去の報道に行き当たるので、詳しいことはそれを見て欲しい。私の唯一の師(作品の内容とは関係なく、もちろん精神的な意味でだ)であった。ブレッソンの「決定的瞬間」に記された彼の言葉を引用して追悼としたい。私はこれを支えに30年間、写真を撮り続けた。

「わたしにとって写真とは、1秒の何分の1かの間に、出来事の意味合いとそれに適う表現を与えるフォルムの的確な配置の二つを、同時にみいだすことである。生きるという行為を通じて、人格形成を左右する周囲の世界に気づくとき、わたしたちは同時に自己をみいだすのだと思う。このふたつ、つまり内側と外側の世界のうまい釣り合いをとる必要がある。両者の間でたえずやりとりを続けていけば、やがてこれらがひとつにまとまる時がくる。わたしたちが伝えるべきはこの世界である。ただ、これで決まるのは写真の内容だけだ。内容とフォルムは切り離せないとわたしは思う。フォルムとは、質感、線、明暗の相互作用の厳密な構成を意味する。このように構成されて初めて、わたしたちの考えたこと、感じたことは具体的な形をとり、ひとに伝わるのである。写真では、視覚の構成は磨かれた直感からしか生まれえない・・・わたしたちは動きに寄り添いながら、それが人生そのものの成り行きの前触れでもあるかのように、撮影をするけれども、そうした動きのなかに、動作中の諸要素がみごとに釣り合う瞬間がある。写真はその瞬間を捉え、その均衡を不動のものにしなければならない」

訳文は、「マグナム」ラッセル・ミラー著、木下哲夫訳 白水社 から、写真は、NHKのドキュメンタリー「写真と生きた20世紀 −アンリ・カルティエ=ブレッソン 91歳の証言−」 から引用させていただいた。

Leica III c/f と「サンラザール駅」...さよならHCB。

8/6

石川県邑知潟にて。この日はライギョが捕れた。寄生虫がいることがあるので危険な魚だが、刺身で食べると最高らしい。取材の現場でふるまわれる料理は勧める側も、勧められる側も恐るおそるである。 M7+トリエルマー+RA

8/4

今市の横町。普通の民家で豆腐を作っている。深大阪下町にて。

左は昔のソ連製高級時計「セコンダ」の復刻版ステラである=1970年代以前のテイストがあってなかなかいい。右はご存じスプートニクに乗った「シュトゥルマンスキー・ガガーリン」である。

8/3

舞鶴竹屋町の川湊にて。今も往時をしのぶ回船問屋の土蔵が残っている。すでに港としての機能は新しい築港に移っているが、川に船を着けて、荷を直接蔵に納め、ここから往還に出られた便利な場所であった。ここも歴史的な景観として残したいと思う。 M6xGR28mmxE100VS

7/26

7月七夕の日に吉野へ行って来た。目的は金峯山寺蔵王堂での「蛙とび神事」だが、途中吉野の市街地に寄った。街道筋のしもたやに七夕の飾りが出ていて、初めて今日は七夕と気がついた。昔は大阪や京都の普通の町屋でも出ていた。七夕と「蛙とび神事」、そして「奥田の蓮切り」「役行者」...どういう関係があるのだろう。神事の写真のアップはもう少し勉強してからにしよう。「幾星霜」という言葉があるのも思い出した。あまり日本では星や天体の民俗が語られないが、山岳信仰と水の信仰、そして星の信仰、最後に仏教の重層的な関係が暗示されている。 ヘキサーRF+トリエルマー28mm+RA

7/19

舞鶴市営連絡船の最終便の出航。これは島への渡船ではなく、リアス式海岸独特の離れた岬の村々への最も早い乗り物なのである。車だと複雑な海岸線につけられた狭い道路を回るため、海路を直線的に行く船より時間がかかる・・・しかしこれも近年のモータリゼーションの発達で、車に乗れない子供と老人以外は利用がなくなった。関係者の楽観的な予想を覆して、地方財政の逼迫のなか今年9月廃止になると決まった。近年中に富山県営の越の潟の渡しもなくなると聞いている。残された短い期間で、私の調査も時間を緊急に投入せねばならないと思っている。

7/18

南山城村童仙房の農家にて。いつと云うわけではないが、比較的近所のことゆえ、いつかは調査・研究したいものだ。南山城山中の開拓村で、明治からの薪炭の産地でもある。同じ京都の桂川上流域・日吉町の森林組合がここの炭焼きや造林の指導をしたことが分かっている。

7/17

吉野・金峯山寺蔵王堂にて、7/7の蛙とび神事の一コマ。今回の取材はなかなか深い話なので、もう少し勉強してからのアップとしたい(たぶん8月始め)。ともかく暑さと我慢の一日だった。当地が「世界遺産」に登録された最初の行事で、TVクルーもたくさん来ていたし、信者だけでなく観客も大変な数であった=桜の季節の「花供会」よりも多かったぐらいである。

7/15

夏時計(38mm径)。手巻きもいいがフィールドワークではATの方が便利である(不思議なことにブレスが手巻きとATで異なる)。プラスチック風防に不安を感じないでもなかったが、先日河川敷で転んで時計にも小石が当たったとき、傷がついただけで割れることはなかった。その傷もポリッシュワックスでピカピカになる。硬度の非常に高いサファイアガラスは別として、普通のガラス風防より良いと思う=当然プラスチックにも材質差があってオメガのものは最上等と思われる。下の時計と同じで強い調整が効いていて機械式としてはとても正確だ(クロノメーター並み)。 ただし時計が多くなりすぎるのはレンズやカメラボディが増えるより具合が悪い。

7/9

全然今までの話とは関係ないが、私の冬用の時計である.....概してクラシックなデザインのものが好みである(39mm径)。特にブルーハンドと薄い藤色の文字盤、ムーンフェイズのお月様が微笑んでいるのが大好き。夏は汗をかくためメタルブレスの時計だ。

7/3

天王寺公園。こちら側は「通路」向こう側は有料の公園。有料と云ってもアミューズメント施設ではない。事実上ホームレスを追い出すために囲っただけのものである。野宿の是非の問題は複雑なので簡単に論じることはできないが、税金で作られた公園に市民が入れないのである。天王寺博覧会の時に整備され、そのあとクローズド公園となった。博覧会も5億円の赤字を出し、それも多くは税金で埋められたのである。おまけに災害時の緊急避難所にも指定されているが、夜には常時閉まっている門の鍵は、かの阪神大震災の時の朝も閉まったままであった。ホロゴン16mm

6/23

瀬戸の夕暮れ。向こうに見えるのは家島・・・いい石を産するが、その石の切り出しで島が半分なくなってしまつた。相生の海浜公園には若いカップルが何組も遊びに来ていた。私の田舎はこの背後の山を幾つか越えた山中の盆地にある。もちろん過疎地である。

6/22

大阪・都島にて。また梅雨の合間に町へ出た。高齢化が進んでいるのか、公園に小さな子供達はいない。学校帰りの高校生が小雨降る中、足早に通り抜けている。 ヘキサノンKM35mmF2で撮る。

6/21

京都東山にて・・・暑い季節になった。写真家より観光客の方が元気な季節である。7/7に吉野へ行くが、あまり夏場は活動しにくい。

6/20

台風がやってくる。さっきまで曇っていたが、日没近く急に晴れた。庭のクスノキを前景にしてストロボ1発で撮ってみた。どうと言うこともないが裏山の向こうから天気の神がこっちを覗いている気分がした。

6/19

初夏の天瀬ダム(京都)。琵琶湖と京都や大阪をつなぐ宇治川に建設されている。もちろん治水と電力用である。このダムだけは流域のすべての人にとって賛成されているダムである。近畿のほとんどのダム工事が凍結されているなかで、ここだけは改修工事が実施されている。

6/17

M7xCS35mmF2.5 P-IIxRA  梅雨の合間、京都駅伊勢丹の美術館へ「知られざるロバート・キャパの世界」展を見に行ってきた。キャパが世界的に有名になった「崩れ落ちる兵士」を撮ったスペイン市民戦争での取材写真を中心に展示されていた。キャパの仕事の中では「駆け出し」に近い時代の写真で、一部の有名な写真以外には残念ながら物足りない面があるかもしれない。しかし戦前のその時代の取材と考えると、かなり画期的だったようで、その意味で「知られざる・・・」なのである。今まであまり紹介されなかったキャパの若い頃の写真に、そして当時の「人民戦線=国際義勇軍」のありように触れてみよう。単なる戦争報道ではない。当時のスペイン共和国に対してナチスに後援を受けたフランコ将軍のファシズム軍の武装蜂起に対して闘った共和国軍、人民軍民兵、そしてファシズムの台頭に危機感を持って全世界から集まった国際義勇軍、そしてその一員として加わったキャパ、そして小説家のオーウェル、それらの人達の「眼」なのである。この戦争の敗北後ヨーロッパはナチスに席巻された。それらの責任は日和見主義に陥って共和国に対して援助を怠ったソ連をはじめとするヨーロッパ各国の対応にあったことは周知のとおり(そしてホロコースト)。キャパをはじめとするユダヤ人写真家がそののち「戦争」に対して特別な任務を負ったのも、ここに原点がある。展覧会は6/27まで開催している。  推薦図書:ジョージ・オーウェル著「カタロニア讃歌」角川書店...私のは昭和50年の初版、今はどこで出ているか知らない。

捨てられなかった入場券と今回の写真の中で最も感動的なものを表紙にした図録、そして「カタロニア讃歌」。

「カタロニア賛歌」巻頭より・・・

「愚かな者にはその愚かさに応じた答えをするな、
 君が愚かな者のようにならないために。
 愚かな者にはその愚かさに応じた答えをせよ、
 愚かな者が自分は賢いのだとうぬぼれないために。」
     箴言 第26章5−6 

6/16

先日梅雨の合間の湿気た日に、奈良県の山中の榛原へ行った・・・長谷寺の奥である。小さな町だが独立した市街をかたち作っており、それなりに情緒のある古い町である。ふと道沿いに内科・小児科医院を見つけた。子供の頃、身体の弱かった私もこのような医院にいつも行っていたことを思い出した。よく手入れされた植え込みと、石造りの塀と石畳...私も歳をとったら大病院ではなく、やはりこんな所へ担ぎ込まれたい。私と家内の育った町に、博物学者:南方熊楠の友人にして主治医の喜多幅医師の孫の医院があり、家内の一家は先生が亡くなるまでずっとそこへ通っていた。 M7xCS35mmF2.5P-IIxRA

6/15

大阪・梅田の阪急百貨店の横で。地下街が発達したからか、地上を歩いている人は以前よりずっと少なくなった。関西の景気の地盤沈下のせいか他の地域でも人出が少ない。この阪急前は大阪でずっと一番地価の高かった場所なのである。M7xCS35mmF2.5P-IIxRA

6/13

昨日(2004.6.12)フィールドにて、一般的な撮影はコシナの35mmパンケーキIIと、この75mmの2本でこと足りることを理解した。3台のボディにそれぞれ1本ずつ(28/50/90mm)より、2台に2本(ワイドは私の場合は28mmだが一般論としては35mmが使いやすいだろう)のレンズの方が、敏速に確実に撮ることが可能なのである。私は3台のカメラをぶら下げて、急ぐあまりついに河原で転んでしまった。レンズは1本で充分(トリエルマーならなお良し)で、それでも撮らねばならないモノがあればあと1本、そしてボディに着けないならポケット(バッグではない)に入るレンズを1本、せいぜいそんなところだろう。私は心に決めた・・・もはや若い頃の体力はない、慌てて走らねばならないときは最大ボディ2台にレンズ2本(!)だということを。 取材車にはスペア、そのスペア、天候や状況によっての各種のボディ・レンズ・周辺機材・フィルムを満載して行くだろうが、現場では軽装備にすることだ(今までも軽装備だったが、今度は身体にくっつけられる範囲にしたい)。

6/5

少し遅い掲示となったが今年最後の桜の写真である。超遅咲きのヤエザクラを5月の連休のころに撮影した。場所は大阪・都島の城東貨物線跡地の長い公園である。この木は八重というだけではなく、濃淡二色の花が咲く珍しいものだ。私は仕事の都合で月に一度ぐらい都島の下町を歩く。毎回道筋を変えて歩いていると色々な珍しい事物に遭遇する。なにせ写真は「その時・その場」でないとどうにもならないのである。

5/21

大阪・上本町の路地裏。路地と言っても両側は料理屋。いつのまにやら地道は石畳となり、路傍に植えられたシュロの葉が大きく茂っている。かろうじて通れる程度の道だが郵便カブが向こうへ通り過ぎていった。

同じく上本町の路地で。小さなアパートや古いビルが立ち退きとなって、大きなマンションの建設が始まった。移転を拒否して家が一軒残っている。回りを高い建物に囲まれて、真昼の2時間ぐらいの日照にも新緑は芽吹く。2001.4.11の雪の日の家である。とうとう頑張りきった。おばあちゃんは介護センターへ行ってしまった。 どちらもソビエトレンズ=オリオン28mmF6xLeica DIII x trebi 100c

5/20

大阪梅田、大阪駅前第4ビル前にて。鏡のような新しいビルに写っているのは第4ビルだ。このところ「合わせ鏡」に興味がある。鏡に映る世界、窓からかいま見る世界、閉じこめられてしまった空間と...鏡のビルから出てきて振り向きざまにシャッターを落とす。

大阪・阪急梅田駅ホームにて。始発駅なのでホームのこちら側はデパートに続く繁華街、向こうは郊外へ続く解き放たれた鉄路。これから電車に乗って池田へ行くのである。 どちらも、Leica-DIII+ニッコール35mmF2.5+torebi 100c 。

5/18

過日、大阪で会い、大阪で別れた友人と最後に会った日。ギャラリーで写真展を見て、晴れた日の夕暮れの中之島を歩いた。風景と人間が結びついていた。 毎日持ち歩いていた散歩カメラに残っていたフィルムを2ヶ月かかってようやく撮り終えた。その最初の方に入っていたシーンだ...時間や空間が(その時、その場所で)別の時間・場所に出現し、精神や意識をも再現させる。そういうものが写真の本質と考えている(tu me)。

御堂筋、大川に架かる橋の上で。近いものほどおぼろげで、遠くの景色がはっきりとする=意識の上でも実際にも。写真家はいつも遠くを見ていたいと思う。また邂逅したその日に写真を撮りたい。

夕暮れの街に還る。 

Leica DIII x ニッコール35mmF2.5 x torebi 100C

5/16

さて今度は富山県氷見に行って来た。これは越中ブリで有名な大敷網(大型の定置網)の網船が帰ってきたところ。向こうには冠雪した立山連峰が見えている。素晴らしい海だ。今はマグロのシーズンで今日は20kg級が2本上がったそうな。夜には氷見の料理店で新鮮な魚を食す...美味しい。今年も能登から富山湾の旅が始まった。冬までに5−6回は行くことになるだろう。

5/13

先週、大阪市大正区を再訪した。先月は東半分、今回は西側だ。このところ一昨年に続いて大阪市内の「都市の汀」に興味を持って友人(一昨年の渡船取材時と同じ人物)と共に回っている。 おいおい絵で紹介していくが、これは埋立地の住宅地の公園にて撮影。子供の人口も多く、どの公園でも少年野球が目立っている。監督の罵声が飛び、コーチの励ましが聞こえていた。

5/5

連休中は新潟へ行って来た(仕事半分、遊び半分)。年内には今回の写真も雑誌に載るだろう。2−3カット使いたいシーンが撮れた。 今度の土曜は大阪市大正区の西半分を歩き、その次は能登・邑知潟だ。あと5月中に2回程度撮影に出る。6−9月は梅雨や暑気のため活動量は減り、秋にまた増えていく。歳とともに春秋のウエイトが高まり、夏冬の出動が減るようだ。

4/25

当時としては大柄なスーパーDMに取りつけると少しは小さく見える。

最近コシナから限定でトプコンREの標準レンズが復刻され、手頃な価格とオリジナルの人気で完売したそうである。 私も少し考えたがトプコンレプリカなのにマウントがニコンやM42であること、内容も「最新の技術」であることはいいとしても、オリジナルとは別物で、見た目だけの復刻に疑問を感じてやめたのである。ところがひょんな事から程度のいいオリジナルがフード付でやって来た(圧倒的な重量感=F1.4でありながら62mm径である)。運がいいと思う・・・レプリカを買っていたらたぶん来なかっただろう。この個体は人気のある銀レンズではなくて、REオートトブコール58mmF1.4最終型である。幸いボディ(これも最後のフラッグシップ機のスーパーDMを手放さずにいた)も完全動作しており、手元に残ったREオートトブコール35/100mmF2.8と共に久しぶりに使ってみようと思う。20数年前これらの機材で仕事を始めた...懐かしい友人と再会したような気分である。当時標準はこれではなく、銀のF1.8と黒のマクロ58mmを持っていた。

4/20

4月の上旬に趣向を変えて、桜を求めて大阪市大正区の昭和山へ登ってきた。これもまとめてアップしよう。ここはこの山のある千鳥公園の近所。埋め立て地の公営住宅街なのだが、少し異国風に景観が作られている。

Leica DIII x TANAR 35mmF2.8 かなり珍しく、また美しいレンズである。程度が良いだけではなく、この時代のB級レンズ(失礼)としては仕上げが相当にいい。

4/5

昨日は一転して雨の長谷寺であった。とても寒かったが充実した一日だった。桜花と僧侶、信仰心厚き人々...始まったばかりの春と桜の文化の一連の写真は今月末までに逐一アップする。

4/4

昨日舞鶴へ行って来た。さて新年度最初の「岬めぐり」の旅である。古い知人の船長と、市営の連絡船から舞鶴の港町を眺める。

4/1

次の「カメラ談義」はこいつに決めた(ペンタSPではない)。これが私のM42系のすべて(あとはタクマーベローズ100mmあり)である。今年の1月に久しぶりに一眼レフを使って、便利な点と「やっぱりレンジファインダー」という感慨の両方を感じた。何にせよなかなか使える「趣味的なカメラ」だ...M42のレンズが新旧内外溢れかえっている現状では、クラシックレンズ好みの人にはうってつけとも言えるだろう=新品で買えるモダンクラシックボディ。

3/31

OSの入れ替え等で更新が1週間できなかったが、何とかセッティングが出せた。また最近迷惑メールが増え、その管理ができないためメールアドレスは当分の間出さないこととした。私のリンクしているサイトのBBS(たまに書いているBBSはよく見ている)で会いましょう...残念ながら私自身にはBBSを管理する力がない。

3/1

今日から3月、あと2週間ばかりで一段落=多忙から解放される。もちろんフィルムの整理にまだまだ時間はかかるだろうが、精神的にはずっと楽になる。4月からまたフィールドワークだ!海辺をかわきりに「桜、桜、桜」そして潟から海、山へ...。毎年だが新年度は旅の新しい展開の区切りである。今年は能登を中心とした野外調査となるだろう。

2003.12.5...七尾湾の真ん中で。能登田鶴浜町のベテランカキ漁師。この町は過疎とは言っても比較的豊かである。しかし町村合併で七尾市に編入されることになり、今は多少の不安と違和感をいだいている。

2/25

多忙につき「開店休業」。年度末なのでフィルムセレクトに没頭している。絵の選択や色味、トリミングなどで神経質なところがあるので、シートごと編集者にポンと渡して「適当に選んでくれ」とは絶対言えないのである。ひとつは今日入稿して、来週にもひとつ送ることになっている。

Leica IIIb x summaron35mmF3.5 とてもいい組み合わせだ。私の持つバルナックボディのうちでは、DIIIに次いで気に入っている。最近の散歩カメラは断然バルナック!

2/10

先日はこのいでたちで日本橋の電気屋街に出かけた。明るいところではボディのファインダーの露出合わせのダイオードは見えにくく、素通しに近いファインダーも距離計と実像の視度の違いで慣れを要することが分かった。スーパーワイド(これはアベノン21mm)に外付けファインダーが使い易いことも分かる。あるオーディオ店の店員さんが一目見て「安原一式なんて珍しいですね」「それはアベノンの21mmでしょ?」参った。オーディオマニアがカメラにも凝り、私が最近オーディオに再度凝ろうとしている...同じようなものである。それにしても離れていた25年の間にオーディオ機器も様変わりしていて、今回は見て聴いて歩いただけであった。

2/8

信楽の友人宅の裏庭。田舎では商家であってもちょっとした畑があり、物干しなども派手に干している。何だか小屋のようだが12mmのパースペクティブのせいで、実際は大きな家である。手前の大きな屋根が倉庫。ウルトラワイドヘリアー12mmF5.6で撮った。F8まで絞っても周辺光量は相当落ちる。F16あたりでだいぶましになるが、割り切って使うかセンターフィルターを使うか(まだ販売されていないが)であろう。コントラストが高く、シャープ感はホロゴンより上だろう・・・それにしてもたいへんなレンズを出したものだ。12mmと15-6mmの差は相当大きい。問題は何に使うかである(雑誌などの作例は、遺憾ながらこのレンズにとって適切なものは少ない)。今の私は28mmが標準レンズになっているので21-24mmがワイド、スーパーワイドとなると12-16mmってことになる(でも相変わらず望遠は90mmだ・・・50mmの出番がめっきり少なくなった)。

2/2

安原一式がやってきた。ずいぶん以前から彼らのサイトとはリンクしていたのだが、1月中旬「閉鎖」の告知があった。数少ない挑戦者として評価していたのだが残念としか言えない。考えてみれば大手のメーカーですら撤退している銀塩カメラの世界である。やむなしとすべきなのだろうか?一式発売の当時質問として「仕事で使えますか?」返事「難しいです。二式をお待ち下さい」・・・とのことで、まだその時存在しなかった安原50mmF2.8レンズを取りあえず注文した。何とか協力したかったのである。だいぶ経ってレンズはやってきた。そして「秋月」の時はお誘いがあったが、電気カメラというのに一抹の不安を感じて少し先送りした(完全に諦めたのではない)。そして今回のことである。なんとか報いたいと思った。保証はないが少し安くも買えた。技術者のハートを感じながらレンズと合わせてじっくり使っていこう。

仕上げや意匠はいまひとつだが(一式という命名にあったような古式のカメラ)充分使えるカメラである。次の「カメラ談義」は絶対これにする=このところ「全然書かない」のでそろそろと思っていた矢先の不思議のカメラとの邂逅である。

ライカMの現代のストラップに変異があることに今日気がついた。他は同じなのだが肩当ての部分の「Leica」のロゴに新旧のスタイルがあるのである。どちらも新品で買ったボディに付属してたものだ。残念ながらここまで意識していなかったので、どれがどうだかは分からない。確かなことはM6TTLの2台(0.85と0.58)は旧ロゴだと言うことである。

2/1

冬の日、尼崎市塚口にて。水路のある工場街の一角で子供達が学校から帰る。このあたりの子供達には昔の下町の風情が残っている。

大阪市都島。廃線となった国鉄貨物線の跡の細長い公園=奇妙な風景である。背後にもこの先にも細長く続いている。鉄道輸送が中心だった頃、長い貨物列車がこんな狭い空間を物資を満載して走り抜けていった。廃線後植えられた木々がこんなに大きく育ってしまったのである。まだ大阪市内には細々とではあるが稼働している貨物線がかなりの距離ある(地図を見てみよう)。

1/26

嵯峨野・落柿舎にて。文化財だが座っても構わない。ここからの柿の木と西山の眺めは最高だ・・・私も俳句をひねりだすか(たぶん川柳か狂歌になるだろうが・・・)。

1/25

今日雪の中「道明寺天満宮」へ毎年恒例の「うそかえ神事」へ行って来た。写真はまた後日「民俗・地理学のフィールドから」で取り扱う予定だが、本日の拵えは絵のとおり「M6xウルトロン35mmF1.7xSRA  ヘキサーRFxelmarit24mmF2.8xSRA」であった。混雑した境内ではワイドほど効果的なので、この組み合わせに割り切って持っていった。これは降りしきる雪の中で大正解であった。ヘキサーのフルファインダーがだいたい24mmに相当し、外付けファインダーが不必要で撮りやすいことと、ホットシューにストロボが着けられるメリットがある(実はこのふたつのメリットのためにelmarit24mmは買ったのである)。勿論オンストロボ/オフストロボでポンポン撮った。シンクロ速度が1/125でAE/自動給送...悪条件下では実に具合がいい。

一方ウルトロンはF1.7と明るく、扱いに面倒な部分(ヘリコイド=これは最新のブラックモデルで改善されている)があるものの開放からキチンと像を結ぶため携行することにした...いつも朝の天候で機材やフィルムを決める。さて絵のようにLeicaE39径のフードが矛盾なく取りつき、最近は国産のフェイク物をつけている。不思議なことに「計ったように」逆向きに取りつけられ(私には意識してE39フードを取りつけられるようにしていると感じられるぐらいである)、フードキャップをすれば携行時とてもコンパクトになる。そして現代のレンズとしてはやや逆光に弱いという風評にも、純正の貧弱なフードより答えられるものだと思っている。それに・・・やっぱり格好がいい!

2004/1/1

昨年は読んでくださってどうもありがとう。今年もよろしくお願いいたします。  nagy

昨年はだいたいバルナック系のライカに終始した(仕事カメラは別)。 今年はどうなることやら・・・。


2003/note

11/25

琵琶湖にて、季節風に揺れる柳。湖周道路ではところどころで柳の並木が植えられている。年中風が吹くと色々なかたちに変化する。風景と一緒に揺れているようだ。今はむこうの山並みから来る比叡降ろしの寒風である。 ヘキサーRFxelmarit28mmF2.8/3rdxRA

11/24

先日ある人の勧めでコニカビッグミニFリミテッド(!?)を買った...ボディ本体はガンメタリックになったぐらいだが、そうとう立派な革ケースと革リストストラップが付いている。ミノルタとの合併が関係あるのか、銀塩コンパクトはもう売れないのか、定価\39000がほんのケース代程度で買えた(ヘキサーRFもボディ・レンズがすべて40%引きで「正式に」売っている)。不思議な時代がやってきたのかな?私は引退まで銀塩で行くことに決めたので、今のところは気楽なものだ。このビッグミニで昨日大阪市内をぶらついた...悪くない。さすがにジャスピンやピッカリでコンパクト業界をリードしてきただけのことはある。冗談半分の購入だったが、まあ瓢箪から駒が出たってところか。AFコンパクトカメラの問題点はピントが合いにくいことと、反対に意図的に外しにくいことである(程度はともかくAF一眼も同じだ)。今度奈良町に持っていく。

11/23

我が町の造成地にて。開発は駅前だけではなく山奥でも進行している(むしろ)。遠くに見えているのは山城山地、今のところ空気はあくまで透明。こちらの山と向こうの山並みの間には木津川が流れている。 M3xスーパーアングロン21mmF3.4(絞り開放付近だとさすがに設計は古く、ピントは全体にピシッとは来ない)xRA

11/21

外を眺める。窓の外はジャングルに近い。太陽高度が下がって部屋に陽が差し込むようになった。これから葉は2/3が落ちて、寒くはなるが明るくなる。ブラインドに木漏れ日が複雑な模様を映し出す。 LeicaM5xcanon35mmF1.8xRA

11/17

半月ほど前の我が家の近所の景色。これは画像加工の色ではない。本当に一瞬だがこのような色に染まったのである。通勤の車を停めて慌てて撮った。いつもカメラを持っていると「たまには」こんな機会に恵まれる。向こうは生駒山、手前は我が地区の唯一の自動販売機。 CLxsummaron35mmF3.5xRA

11/9

またまた多忙は続く・・・当然のようにカメラは増加する。仕事用にTX-1用の30mmF5.6を買ったが素晴らしいものだ。そんなのとは別に、ごく偏狭な趣味としてベッサフレックスを買い求めた。たまに使う先行のRFベッサシリーズと同じ使い勝手の一眼レフで「多少の下心」もある。使ってみるとさすがに良くできていて、往年のペンタックスSPを軽薄にして性能を上げた感じである。タクマーレンズと完全にコンパティブルである。たぶんSPを基準に作ったのだと思っている。もとよりM42マウントレンズに深い関心がある訳ではない。ライカと持ち替えて違和感の少ないマニュアル一眼レフとしての意味がある。少しチャチな反面、私が現在持っているコンタックスRTSIII/STやニコンF3/FM3Aより気楽に扱える。どうしてもRF機のサブカメラとなるので軽くて簡単なのがいい。実際の解説は後日として取りあえず良いカメラだと報告しておく。

これは今回これと合わせて買ったロシアンレンズ「インダスタール50mmF3.5」である(新品で\5000 !)。ライカマウントの同名レンズとまったく同じモノで鏡胴を切り捨てている......それでパンケーキレンズとなった。テッサータイプレンズはレンズ後端からピント面までの距離があるため、無理をせずに薄くなるのである(コンタックスもニコンもパンケーキはテッサータイプ)。絞りによるピント移動の不安はあるがヌケはいい。 今のところ以前から持っているタクマーレンズが35mmF3.5/135mmF3.5がある。あと20mmか24mmタクマーが欲しいと思っている。

10/29

本当に忙しいこの頃である。なぜか取材が集まり、人と会い、頻繁に撮影に出ている(そしてその編集作業)。 少し息抜きにフルチューンのDIII(III型ともF型とも言われる)を手にした=段々古くなる。何と1934年製である。シャッターのテストデータでも完璧な値を出しているし距離計も完全に見えている(OHモデルなのだから当たり前と言うなかれ=一般的なカメラでは不可能な年代物なのだ)。これよりあとのライカとメッキの色と質が異なる(ニッケルメッキだろう)。そしてブラックペイントはネットリとした光沢で劣化を感じさせない。レンズは「新しい」ニッコール35mmF2.5だが、その気ならコシナ=フォクトレンダーの最新レンズだって着けられる。そして最新の画像が得られるのである。

このカメラより更にライカの歴史を遡ろうかどうか少しく悩む。もう限界か? ...距離計連動のライカはあとDII(II型ともD型とも言われる)のみである。

10/6

昨日の続き...鞍馬にて。本堂より南東方向を見る。詳しくは後日(かなり多忙なので次の連休)述べるが、本堂の前に「魔法陣」がある。以前に訪れたとき不思議な印象を持っていて再訪した。今回は奥の院から貴船まで歩き、色々なことを体感した。

鞍馬寺本堂にて撮影中の私。上の写真を撮っている場所である。持っているのはM6クラシックB+キヤノン28mmF2.8...一緒に行った写真家の友人が撮ってくれた。

10/5

一昨日奈良の般若寺へ行った。この日は京都の岩船寺・浄瑠璃寺と3ヶ所(どこもごく近所である)回った...新しい写真表現との邂逅を求めている。訪問のルポは「民俗・地理学のフィールドから」で後日報告するが、この秋は色々考えることになるだろう。昨日は京都・鞍馬山に行って来た=秋はそれでなくとも忙しい。

奈良と京都の県境の旧街道=奈良坂往還に面して立地していて、花の寺として有名である。ここはコスモスを中心として様々の秋の花が背丈ぐらいまで無造作に伸びていて、野趣満点の古寺の趣味に好感が持てる。町中に居るのに、ほとんど周囲の民家やビルは見えない。参詣の人達も花の間に垣間見えるだけである。 キヤノンG1

9/28

昨日訪問した岸和田にて。友人の家の裏の景色・・・まるで30年前の風景のようだ。ここはもと毎日牛乳の搾乳場の跡地である。広い敷地の周囲には木が育ち、舗装のない場所には草がむす。廃屋であっても秋の空はあくまで高く、私の心を和ませる。この周辺は(そして泉州の古い町・村には)古式の近郊農村の風景が濃厚で、ぜひともゆっくりと歩いてみたいところである。だんじり祭りと組み合わせた昔語り、そして現在の語りに興味が湧く。 キヤノンG1

9/26

大阪の阪堺線沿線。数少なくなった生き残りのチンチン電車である。大阪の下町、天王寺・恵美須町と堺・浜寺公園とを結んでいる。

ここは大和川に架かる鉄橋上・・・渡りきった堤防上に無人駅がある。複線で本数はかなり多く、今も住民に愛されている。ワンマンカーで電車は古いが、新しい車両も増えつつある。

堺側の宿院駅。駅と言っても道路の真ん中に停車場があり、ベンチが幾つか並んでいるだけである。ここで降りて名物の蕎麦屋へ行く(ただし純良だがおいしいとは言えない)。この長い沿線を一日かけて小旅行してみたい。1日乗車券もあるがビックリするぐらい安価である。「阪堺線」で検索されたい・・・有名な場所は浜寺公園と住吉大社ぐらいだが下町の撮影には絶好の地域を縫って走る電車である。

9/14

南山城村山中(私の住む相楽郡の中でも最も過疎の村)にて。人里離れた深い山中に谷をひとつ切り開いて韓国系のお寺があった(もちろん新しい)。広大な敷地(まだ空き地が多い)に宿坊や駐車場、鐘楼、本堂などがあり、施設の建設はまだこれからだろう。それでも何組もの参拝者が訪れている。同じ仏教とはいっても日本とは趣が異なり、かなり派手に見える=日本でも昔はこのようだったはずである。

9/10

下の空き地で今日不発弾か何かが見つかった。えらい騒ぎである。やはりマンションの建設は始まっていた。

9/3

大阪市天王寺区上本町にて(知人の事務所の窓から)。ビルの谷間の地上げ跡の空き地。コイン駐車場にしているところが多いが、ここは空き地のままである...しかし整地がなされ草も刈り込まれた。ご多分にもれず、近々マンションとなるらしい。上町台地は大阪市内で最も地盤が固く、高台の好立地条件のため、規制のゆるんだ昨今建設ラッシュが起こっている。私の事務所のビルの前も後も同時に建設中である。おかげで駐車場が減ってしまい、一時は納まっていた大阪名物の路上駐車が増えているようだ。

9/1

昨日はまた大阪の下町(桑津)へ行って来た。短い時間だったがいいシーンに恵まれた。とても整頓された町の景色で気持ちがいい。来週はようやく舞鶴へ行くことになる。

全然関係ない写真だが、昨年初秋に吉野へ行ったときのカット。上市付近の吉野川である。本流から向かって左を低くし(自然ではなく川を作っている)流れをそちらに落としている...ここへアユが落ちてくる。岩の上に少し見えているが縄で仕掛けを作り、落ち鮎をドウか刺し網で捕っている。左岸(右側)の河川敷に青いビニールの小屋がけをして、ここから時々舟で仕掛けの所へ行って活けのまま持ち帰る。当然だが鑑札がないと行使権はない。これはアベノン21mm、順光ならなかなか現代的な描写で最新レンズにもひけをとらない。

8/24

富山から帰還。今回は氷見においての出土遺物の検証と庄川・小矢部川での資料収集が目的であった。前者は見るべきものがあり良かったが、後者はフェーン現象のため熱い空っ風が吹いてフィールドでは仕事にならず、図書館に詰めて文献集めとなった。ところが省エネのためか図書館でも冷房はあまり効かず、熱が身体に貯まって疲れ切った。おまけに車検時の整備が悪かったらしく、車まで不調を訴えて早々に撤収した。しかしあと1回の予定だった富山行きを、あと2回として資料収集の助けとすることとした。10月と11月である。

小矢部川河口部の「如意の渡し」昔からあったものだが現在は行政の補助により民間が運行している。もちろん赤字であるが沿岸住民にとって大切な「足」であり、意地でも運行は続くだろう。

8/21

明日から二日間久し振りの富山だ。昨年秋以来能登へはしばしば行ったのだが、富山へ夏と秋に一度ずつ行って資料収集の旅である=残念ながら写真は従だ。

カワガニかご漁へ向かう富山・小矢部川の川漁師。ここの舟溜まりの人にはほぼ専業の漁師がまだ残っている(全国的にも川の専業漁師は数少なくなった)。川では波が低く、川船が軽くて細長いため(船の速度は幅と長さの比で決まる)エンジンを付けると非常に速い。

8/18

IIIFが戻ってきた。前に持っていたときは「まるで時代遅れ」と感じて、1度テストで使ったきりで20年近く保管庫の隅に入っていた。今から6−7年前に世話になった友人に無期限で貸していたものだが、彼も結局使い切れずに置物になっていたのである。それがふとしたはずみで戻ってきた。これでバルナックは3台となった(IIIa/IIc/IIIf....どれも快調)。ペンタックスの古いタクマー35mmF3.5を変換リングを介してつけてみた。やはり大きくなってしまう...距離計には連動しないし、ワイドと言っても一眼レフ用レンズは大きく重いので実用性は低いとみる。もし実行するとしたら最新の20-28mmレンズだろう(レトロフォーカスと言っても、最新のレンズは性能的にRF用のレンズを凌駕している)。

8/9

2003年、都市の新緑=6-7月の撮影。        ライカIIIFxニッコール35mmF2.5xRA

JR大阪駅前の大阪中央郵便局前。高層ビル(ハイライズマンションかも知れない)の工事現場だが、もとからあった大木を囲むように建設は進む。ここのところ市内の空気は浄化されているのだろうか?以前より木々が青々としているように感じる。都市を歩くときも常に緑を見ている。

上と同じ日、横断歩道を渡ってヒルトンホテル前にて。更に緑は深い。一階のカフェテラスはいい雰囲気だろう。

別の日、大阪市東部市場前にて。以前は貨物運送・物流の中心として繁栄した町だが、貨物駅の跡地にマンションが建ち並び、それに付属の緑地に植えられた木々も大きくなった。この近辺は再訪していずれ紹介したいと思う。 これのみキヤノン35mmF2。

8/7

若狭・小浜湾に面した仏谷地区。右の島の向こうの対岸が小浜の市街地である。ここはチヌダイの釣り場として有名で湾内にはたくさんの釣り筏が浮いている。もうひとつ案外知られていないがカキ養殖の産地でもある。手前がカキ養殖の作業場。ここに今年の春まで複材丸木舟が残っていた。16年前にここへ調査に来て船の学術的な価値を説明して帰った(当時は4−5艘残っていた)。今年初夏に訪ねたとき、小屋にいたおばあさんが「15−6年前に学者の先生が来て、貴重な船なので残しておくようにと言ったのでずっと残していたんですが、このムラの大型ゴミ処分場が移転するので春に仕方なく処分したのです」とのこと。勿論毎年1回程度訪れていたが、1艘また1艘と減っていくのに心を痛めていた。そう15−6年前に来た学者とは私たちのことなのである。その時おばあさんとは会っていないが、その息子や仲間達の人にまさにこの小屋で熱心に話したことを思い出す...ストーブをガンガン焚いた真冬の室内でカキ剥きの作業中で、レンズが曇って仕方がなかった。15年に渡る若狭の港の景観の記録の本がようやく8月中に脱稿となる。出版は来春だろう。              ヘキサーRF+ホロゴン16mmF8G改L+RA...ホロゴンの描写には強烈な個性がある。性能だけならコシナ=フォクトレンダーの12/15mmが上かも知れないが「質」に独特なものがあり、どうしても1段上の風格がある。

8/3

ようやく新規「カメラ談義」が書けた。予定とは大幅に異なり、キヤノン7となった。どうしても現在関心のあるものしか書けないのである。

8/1

ようやく梅雨が明けた。気象庁はまだ「冷夏」とは公式に認めないが、どうやら10年ほど前の冷夏が再来したようだ。米騒動があり、外国米の自由化に拍車がかかったことを思い出す。私は農家から直接米を買っているので、あまり米相場には明るくないが、何とはなしに憂鬱な気分である。前の時は米どころ新潟での河川調査をしていた...「飢饉の時は鮭が豊漁」つまり寒いときには寒冷系の魚・鮭の上がりが多く、価値の高い銀毛の鮭も多くなるのである。

兵庫県JR尼崎駅にて。夕方の通勤時間帯なのに人は少ない...この駅が好きだ。駅前再開発で大きなマンションが建ちつつある。ここから私の家の駅まで直行便が走っている。快速電車で1時間の長旅である。

7/26

大阪環状線尻無川鉄橋にて。1年ぐらいかけてJR大阪環状線を回る旅をしていきたい。ここは海に近い大正区・港区・西区の境界のあたりである。護岸堤が高くて覗かないと川面が見えない。今日は昼からJR百済貨物駅周辺の探索である。 ヘキサーRF+CS28mmF3.5+RA

7/22

私の部屋の東向きの窓から(ベンチに寝ころんで)梅雨の合間の晴れた空を眺めている。灰色の空もいいし青空も美しい。細いブラインドのブレードが光の干渉で縞模様を作る。光にはいつもマジックがつきまとう。

7/13

能登での和船建造記録(千路舟)のプロジェクトが終わった。昨年7月の予備調査から、11月の船木の伐採、4−7月の建造記録と、延べ15日間、1年間にわたる調査・研究であった。私たちも船大工達も一艘の古式の木造船(すでに現存船は数艘で、これらも破船同様)が造船記録と共に博物館に保存されることになって、取りあえずホッとしたと言うのが率直な感想である。事業は7月中の進水、8月の移送・展示で完了する。

左から、70代の棟梁、その息子(と云っても40代=彼が技術の伝承を計る)、そして棟梁の1歳年下の職人さん、皆さんご苦労様でした。また仕事の段取りを記録日程に合わせていただいてありがとうございました。

滅びゆく伝統技術を保全するには、まず「発注」がないと不可能で(現地ではすでに20-30年前にプラスチック船に替わっている)、そこから木の調達(これも材木屋にはない=建築用材とは寸法や木の質が異なる)、木どり、墨打ち、建造と一連の流れで伝承されていく。もちろん手取り足取りではなく、以前からのしきたりどおり先輩の技術を盗み、仕込まれるのである。もとより図面などはなく、経験と勘に頼っての修行なのである。特にこのような「刳り舟」系統の船は特殊性故に伝承は非常に難しい。立ち会えたことを誇りに思っている。

7/10

街を歩く。仕事の都合で毎日のように町を歩く...田舎だけでない。カメラを持たずに外へ出る日はない。そんな道のつれづれに写真を残す。私の眼そのものだ...特に発表するでなし、毎日の練習としては熱心すぎるのである(毎日色々なセチュエーションで撮り続けるおかげで、どのカメラにも慣れきっていることは結果として事実)。

梅雨の晴れ間に駅で電車を待つ。夕陽に染まって家族に電話する若い父親...携帯電話が普及して家族への電話やメールの光景が増えた。尼崎/JR塚口駅にて。 CL+セレナー35mmF3.5+RA  このレンズは味がある。独特の色の浅さがあり、像にも甘みがある=ピントそのものは少し絞れば悪くない。

7/9

また今週も能登へ出仕だ。和船建造の記録なのだが、ついに次回で終わる。あとは博物館に収まって、皆が木造船のことなど知らなくなっても保存展示されている。それに船の全盛の頃の息吹を、そしてそれを造った人達の技を形や文章で残す。そんなことのために日本中を廻っているのである。民俗学とは人々の生活の成り立ちを考えてみる学問である。

作業風景、74歳の棟梁と73歳の職人の名コンビ、彼らは50年以上の間に何百艘も造ってきた。今回の調査・研究はいずれ内容を整えて本になるだろう。次はどこの地域へ行くのだろう。

7/1

今年の半年が過ぎた。私のサイトのカウンターも明日あたりに20万を超えるだろう...3年半、長かったような短かったような。 多くの人達と知り合い、楽しいことであった。 これからも暫くは続けていこうと思っている。 今度は久し振りに「カメラ談義」の新版を書こうと準備している(ここのところカメラ/レンズよりルポに関心が行っているのである)。

  ご存じローライフレックス3.5Fである。フィールド用としての中判カメラはとても選択が難しく、今は匙を投げた状態であるが、気を取り直して試してみよう(多忙につきテストは難航)。

6/26

何人かの読者から「緩まない紐の結び方」について問い合わせがあったので紹介しておこう。 船頭や水夫が船や海具を舫ったり、縛ったりするのに使う方法の最も簡単なものである(海技ではKNOTと云う)。もとより何百もあるうちのふたつである・・・ストラップ程度ならこれらを組み合わせれば充分である。こんなのはボーイスカウトやヨット・登山経験者なら誰でも知っているので紹介するのも気が引けるが、とりあえず書いておくことにした。

左がREEF-KNOT=2本の紐を結び合わせる。右が8-KNOT=いわば緩まないダンゴ結び。本当は結ぶ手順もあり、ムービーで見せれば簡単(ひとつ結ぶのに3秒)なのだが、ともかくこの形を覚えて欲しい。あとは形を崩さないように締めればいい・・・カメラの重量で締まり、緩めるときはループの一方を引っ張れば比較的簡単に外れる。

6/23

 スチール製の保管庫(写真左)からずーっと昔に入手していたフロントコンバージョン・フィッシュアイレンズが転がり出てきた。レンズのフィルターにねじ込んで使うもので絞りもついている。レンズの焦点距離で写る範囲が決まり、標準レンズだと円周魚眼になる。解像力が極端に悪く使い物にならなかった、ある種の「インチキ商品」、昔はこれ以外にもたくさん実用にならない製品が色々なメーカーでもあった(サービス判程度なら何とか見られる)。さっそくデジタルカメラに着けて自分の部屋を撮ってみた。WEB上なら使えそうなのが不思議である。魚眼と云っても少し奥目のレンズなら周辺がケラれ、だいたい150度程度だろう。カメラ内蔵ストロボを発光させているのだが、突出したレンズで光が遮られて画面下半分が暗くなった。 この白木のベンチでよく昼寝をする。足下に散らかっているのは写真関係の資料、右の机上にはビデオテープが山積みだ。本棚は天井まである図書館用のスチール製である。画角外にPCと別の本棚があり、カメラは意外にも少ない(ここに置いていない)。

6/17

最近はこの手のカメラを持ち歩いている(これはIIIa)。仕事を離れての散歩写真は不効率だが楽しさは倍加される。戦前のカメラとは思えない性能である・・・勿論フルチューン版だ。とにかく古いライカは調整で何度でも立派に蘇る。レンズはニッコール35mmF2.5、これと古いキヤノン50mmF3.5沈胴あたりの組み合わせで楽しいトラベラーセットとなる。ストラップはトレッキングシューズ用の靴ひもだ(紐の縛り方に緩まない方法がある)。今度高野山にこいつを持っていこう。

5/30

奈良の写真をアップした。5/17の京都はあとになる。本当は今日「高野山」へ行くつもりだったのだが、台風のため断念した。京都では風は強いが晴れていた・・・しかし和歌山の山中では記録的な雨が降ったようだ。

5/17

今日は京都へ撮影に行って来た。茶室で有名な東山の高台寺である。来週アップしよう。明日は奈良に行く・・・何を撮るのかは明日考える。

5/11

カフェKで紹介されていた写真(東京の友人の話だと額に入って展示されていたのではないらしい)。「民俗・地理学のフィールドから」での別テイクと比べてみるとよい。京都・御室仁和寺の本堂への山門前にて。仕事を離れて来年も桜の季節はたくさんの写真を撮りたい。  データ:M5xズミクロン35mmF2/7枚玉xRVP

5/10

守口市滝井の関西医大の近所の公園にて。以前友人の(そう私のライカ3Fを預けている医師)町医者で病気の疑いがあると診断されて、医大を紹介してもらい、精密検査のあと結果を聞くまでの間、ここの公園のベンチで暗然とした気持ちで座っていたことを思い出す。少しの覚悟を決めていたのである・・・結果は特別なことはなく放免となったが、命について下町の公園で考えることになった。3年ほど経ってたまたま公園の横を歩いていて、その頃の気分が蘇ってきたのである。周辺は何も変わっていなかったが、私自身は随分変わったのだろうと思っている。  CLExキヤノン28mmF2.8xRA

5/8

大阪環状線沿線の芦原橋駅近辺の労働下宿にて。今年も昨年に続き大阪の下町を歩くことになりそうである・・・昨年は「渡し船」、春の多忙さで今年はどうするのか未定である。共に行動する友人は街角でのテーマは決まっているようであるが・・・ここは日雇い労働者の住む貸し切りの木賃アパートである。廃屋に見えたが確かに人は住んでいる。昔より労働者も業者も数は減ったが、まだまだ残っている。  キヤノンパワーショットG1・デジタル

5/2

今日、1年前に注文の「形式的に」カタログに載っていたズミクロン50用のメタルフード「12585」がやってきた。もちろん\10400の旧価格である(料金改定で\22000となるらしい)。 どうやらMP−6用に作ったズミクロン50/1stの復刻版用に再生産されたフードらしい(推定)。 実際に触ってみるとやはり昔のフードとは微妙に異なる。私は1988年以前のオリジナルとライカAGになってからのものと、今回のものと3個持っていることとなるが、最初の二つはほとんど同じものなのに対して今度のものはフックボタンが大きくなり、少なくともボタンは違っている。ボタンを両方とも押してみると今度のものがストロークが大きく、交換時に操作がし易くなっている(これは改良か?)。

左オリジナル、右今回のもの。ボタンの突出が大きくなって形も角ばったためにかなり大きいように感じるが本体は同じ規格と考えてよい。それより不思議なのはフードの側面に彫り込んである文字である。3個のどれもが1988年以降使えなくなったはずの「 LEITZ WETZLAR GERMANY 」その裏に「 1:2/50 1:2.8/50 1:3.5/50 12585 1:2.8/35 1:3.5/35 」と全く同じ古いスタイルの表示が彫り込んである。 デッドストック品ではないことは写真のボタン以外にも違いがあり確かなことである=彫り込みの深さや丁寧さが異なる。フードキャップは「LEITZ」「Leica」と明確に時代を区切っているのだが、本体は昔のまま...ライツ家にある種のフィーを支払っているのだろうか。それとも何か別の理由があるのだろうか? 実際に望遠用の12575だと明らかに時代により異なる。

このふたつには20年の時間の開きがある。

見たとおり左が新、右が旧である。1988年以前の12575は12585と同じような意匠だが、新しいものははっきり「LEICA」と彫ってある。ワイド用の12504でも同じように新しい意匠に変更している。 結局のところ理由は分からないが12585は特別な存在であることが分かる(必然性は何も感じられない)。長いことライカとつき合っていると色々な疑問が湧いてくる「不思議の国のライカ」なのだろう。

4/16

JR祝園駅と近鉄新祝園駅を結ぶ通路。どちらもローカル線だが、地元にとってはかけがえがない(人口が増えたとはいっても人はまだ少ない)。毎日の帰宅時に夕陽が見えるような季節になった。友人の詩に「黄昏に還る」というのがあったがこんな景色だったろうか?家に帰るのはいつでも嬉しいような楽しいような・・・詩は日本一周の自転車旅行から戻るとき、福井から山越えで琵琶湖へ降りていくときに見た夕陽を詠んだものだった。

4/15

1月に訪れた尼崎・塚口の精機工業。1月とは反対の方角から撮っているが、ご覧の通り工場はすっかり取り壊されていた。大きな敷地のため町全体がブルーのシートに包まれて、クリストの「梱包」を思い出した。すでに跡地にできるマンションのモデルルームができて予約も始まっている。来年の3月の竣工らしい。

3/16

世界水フォーラムが開幕した。私の仕事としては終わったが、ぜひ関心を持って欲しい。色々なセッションが行われ、TVでも特別の番組放映が始まっている。水問題は世界的課題であり、オリンピックや万国博覧会より重要な今日的問題であると考えている。単なる仕事ではなく、ほとんどボランティアに近い形で関わったのも河川文化研究者としての生き方である(実際問題として生活のために仕事をしていない)。

どこの川か今は分からないが、1974年に東京の友人の下宿に転がり込んだ時に歩いた町の、ある川での写真(まだまだ艀は木造船が残っていたのである)。工場の煙突からは煙がモクモクと上がり、川の水は暗灰色でドロドロに濁っていた。現在はおそらく水はかなり澄んで、この川にもボラの大群が遡上しているのだろう。 ポジの退色があり、スキャン=色補正の過程でどうも不自然な色になった。 ミノルタSRT-101xMCロッコール28mmF3.5xフジクロームR100

3/6

久し振りに「カメラ談義」を新しく書いた。カメラやレンズの隗集に少し興味が薄れ、なんとなく仕事とは別に写真を楽しんで撮れるようになってきたのである。そうなるとパルナックライカはまさに「掌の上に乗る宇宙」であることがよく分かる。決して実用的ではないが、手に馴染む感触は愛すべきものである。

2/16

風邪と多忙のせいで長く更新できなかった。ようやく風邪は克服できて(しかし多忙さは深刻化している)写真そのものも昨日久し振りに撮ることができた。年度末でもあり、各種の報告書や写真のセレクトに追われる毎日である。 

今日は朝から雨模様。二階の自分の部屋から庭を見おろすと、満開に近い八重の花梅が目に映った。先週風邪で寝込んだときにちらほらと咲き始めていたが、季節は間違いなく進んでいる。毎年のことだが春を待つ気持ちは変わらない。これはデジタルカメラで撮影(真上から撮っているので不自然だが、私はいつもこの角度で庭の低木を見ている)。

1/22

先日尼崎市塚口へ行ってきた。工場の多い街だが、最近は立ち退き後の跡地にマンションが建ち始めている。ここ精機工業はこのあたりとしては大きな工場だが、ついに移転が決まったようである。どこかの工業団地へ行くのだろう。すでに主力は移ったのか人影はまばらである。そのせいで周囲の工員相手の飲食商売もあがったりである。

ミニルックス+RA このカメラ/レンズは使える。ギリギリのピントは多少甘めだが、好みの範囲と割り切れるレベルだろう。描写には格調があるように思われる(T2と比べて)。ただしピントの歩留まりは程々と言ったところで、時々外れるのは仕方ないと思われる。使い勝手・合焦速度という点ではT2、写りはミニルックス、ピントの歩留まりは似たようなもの...今のところはそんな評価である。

2003/1/1

明けましておめでとうございます。新しい年の船出である。本年最初の写真は冬の天王寺公園からの始まり。ここは天王寺博覧会以降誰でも入れる公園ではなくなった(有料化)...詳しくは後日。 しかしそれでも一角にはまだ人々の集まるスペースは残っている。冬晴れのとある日、ここに立って写真を撮った。久々に訪れたとは言え、私にとっては30年も前からの馴染みのある場所だ。

天王寺公園の南東の角にある入口周辺。右手のゲートから入場券を買って入る。広く見えるがホロゴン16mmF8L改で撮っているからで、実際はもう少し狭い。そこに1本の大きな照葉樹が枝を広げていた。この木の下、やはり人は集う。おそらく春から秋は沢山の人達で賑やかだろう。勿論ホームレスの人達も多いが、地元の年寄りも混じっての世相談義、彼らの脇で聞いているととても面白い話である。  ヘキサーRF+トレビ400(補正なしのTTL/AE)


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