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「港の景観−民俗地理学の旅」 写真


20年間の時間と若狭湾岸の空間を越えて、旅する地理学の実践を提示した。長いようだが時間や空間に限りがない以上、これから先まで続く旅と定義しておく。時間軸に沿って決まった空間を旅する移動物体。広い空間と長い時間を相手にする以上、視点やテーマ、物語も流転する。そして流転する「港の景観」はフィールドとしてふさわしいものであろう。ブレッソンいわく「側面が大事なんだ。物事の枝葉末節が本題になることが面白い」.....微視的な観察・記録の積み重ねが本質をつくと考えている。詳しくは本をぜひ読んで欲しい。

このページでは 著書『港の景観−民俗地理学の旅』昭和堂 2005.6出版 の写真を順次紹介していきます。本に掲載した写真がモノクロが多いため、オリジナルのカラー写真を見てもらいたいと考えました。スキャンはポジがバラバラになっていて、ポジフィルムシートに入れたまま透過式のフラットベッドスキャナーでおこなっているため、多少の画質低下や埃の混入があると思いますが、極力オリジナルに近い画像とします。勿論「港の景観−民俗地理学の旅」の本とは色やコントラスト、トリミングに多少の差があります。 

第2章−職人の海

第5章−八月は精霊船

第3章−近景の岬、遠景の暮らし

第6章−海辺の老人

第4章−冠島参り

第7章−流転する風景


20年におよぶ年月の中で旅はすでに何巡もした。
そこには、旅の接点でためこまれ、通過した時間と空間、土地の生活者と旅人の視点がモザイク状に交じり合う。
ひとつひとつをとりだせば、ただ、そこにあることを知るばかりの変哲のない旅に始まり、
およそその連続に終始する道行きなのだが、連れ立つなかで、読者もまた、土地の人々や旅の私たちと、
風景の時間をともに旅することになるはずである・・・
本書「はしがき」より

2005.4  舞鶴西湾を匂崎公園から眺めた。表紙カバーの写真から。これをよっつに折り、カバーの内側から表紙、背、裏表紙、更に裏の内側まで回り込ませている。「帯」も同じ写真で、これらにタイトルやテキストがデザインされている。舞鶴の写真の大半がここに見える範囲の狭い局面で写されている。舞台の中心の造船場は真ん中に大型クレーンの見える突堤の付け根のあたりにある。  フジTX−1+30mmF5.6+RA


目次 

2004.9  舞鶴の造船場(左岸)で連絡船の最後の日をむかえた。ここは高野川の川湊。前に見える山の左の肩あたりが桜の名所の匂崎公園である。  TX−1+30mmF5.6+RA

2004.9  上と同じ場所を貨物線鉄橋跡地から(高野川右岸)撮影。右端に見えているのが造船場(市川造船)だ。この背中側をしばらく行ったところに国鉄の貨物駅「海舞鶴」があった。ここから左へ西舞鶴駅に至り、そこから本線にのって全国の鉄路へつながっていた。支線は右へ橋を渡って1の写真の右端まで開通していた。昭和50年代初頭までなんとか動いていたが、ついに貨物線はすべて廃線となった。  TX−1+30mmF5.6+EBX

2003.4  舞鶴西航路の連絡船から湾央に浮かぶ年取島を見る。陸から見ると単なる小島だが、船で接近すると信仰の島であることが分かる。それと関係があるのかどうか、連絡船は往復とも島のすぐそばを航行する。 TX−1+45mmF4+RA


第1章−造船場のむこうは海舞鶴

1998.2 西舞鶴、高野川右岸の連絡船の船着き場から対岸の市川造船を見る。ここは元は河口で、町並みの向こう側は現在は埋め立てられて保税地となっているが、以前は海であった。向こうに見えている山は表紙写真の右側にある山である。山の左が市川造船、右が荻野鉄工。   M6+キヤノン35mmF1.5+EB2

2000.12  国道175号線(広小路)の高野川に架かる新橋の上から川湊を望む。左岸(川の右岸、左岸は上流から見た左右である)に堤防道路があって、そのどん詰まりが市川造船だ。両岸とも今は道路になっているが、もとは河川で建物(多くが海産物の出荷場)から直接船に乗り降りや荷の積み降ろしをしていた。道路は埋め立て地の先まで延びる予定だが、どちらも河岸の使用権や予算の不足により途中でとぎれている。   ヘキサーRF+エルマリート28mmF2.8/3rd+RA

2000.12  5の場所のすぐ先で右から静渓川が合流してくる。合流点で高野川右岸の堤防道路はとぎれる。静渓川を渡ったところに住吉神社があり、その境内から市川造船方向を見た。境内といっても鎮守の森があるわけではなく鳥居、小さな社などがあるだけで、海産物の加工場や釣り船の発着所があるぐらいである。それでもここは川湊の守護神で18世紀中頃から正式に祀られているようである。もちろんそれ以前から信仰はあっただろう。   TX−1+45mmF4+RA

1998.2  高野川左岸の堤防の先、「とぎれた堤防」である。ここに市川造船があり、当然に船の上げ下ろしがなされている。その営業のために道路の延伸は阻まれたのである。ただし本当の理由は、江戸時代から八代続く造船場の営業権を尊重したものか、単に移転費用が計上できなかっただけなのかは分からない。昭和40年代から道路は突きあたりのままである。以前はここを左へ折れて狭い街路に抜けられたが、数年前から土地の持ち主が駐車場として貸して抜けられなくなり、ほんとうの「とぎれた堤防道路」となってしまった。舞鶴の冬の景色はどんよりとして、積雪は少ないが湿度は高い。   M6+ズミクロン50mmF2/3rd+EB2

1987.1  1の写真の右端の海辺が貯木場のある喜多地区である。ここは輸入材木の集散地であり、この写真の当時は木場職人が活躍していた。現在は当時より埋め立ても進み、ほとんどの作業は機械化されている。    キヤノンT90+FD80−200mmF4+KR

101999.7  吉原の裏山から1の写真の山の麓から。手前の海は吉原入江で、本来の吉原は一番奥あたりである。やはり埋め立てで突堤は長く伸びている。吉原入江の向こうが伊佐津川、その向こうが高野川の現在の河口である。突堤の根元は昔からの港町、それより先は保税地や漁連、運送・貿易会社などとなっている。大阪のウォーターフロントと似たような構造になっているが、港町の風情は舞鶴の方が私たちに訴えかけるものが多いと思われる。   M6+GR28mmF2.8+KR

111990.1  舞鶴市竹屋町の市川造船事務所にて。船大工和田さんと隣の鉄工所の荻野さん、そして私たちで港談義に盛り上がる。造船場の中二階の作られた二坪ばかりの空間で、春夏秋冬話は尽きない。初めて訪問したときは「何も話すことないわ」と突っぱねられたが、20年近くも足しげく通ううちに「なんやら分からん」我々の研究の趣旨はともかくとして、仲の良い遠くの隣人となった。海や木造船への思い入れの強さでは皆同じだ。  マミヤM645+55mm+PKR

122001.4  造船場の裏手にある稲荷社での氏子による花見。昔は河口の最先端にあったが、今は埋め立てのために、だいぶ陸の中に入ってしまった。本来は鳥居の向こうに浜があり、背後と左も海だった。それほどたくさんの桜ではないが、氏子にとっては花見と同時に年に数回の寄り合いでもある。境内をウロウロしているうちに花見の輪に入れてもらったのである。  ヘキサーRF+GR28mmF2.8+E100VS

132004.12  舞鶴貨物線の踏切跡地で。12の稲荷の鳥居のすぐ北側で、ここから向こうが埋め立て地(現在は保税地である)で、線路のすぐ先が高野川、その脇に市川造船がある。廃線後40年近く経っても線路や踏切の跡地は随所に残っている。往事は貨物列車がここから舞鶴の本線につながり、道は背後の国道につながる、物流の中心のような場所であった。今は線路の上には畑ができ、線路と道路脇の交差する「一等地」の家も廃屋となった。ここに廃線跡の細長い空き地を港湾周回道路とする計画もあるが、予算の問題や立ち退き等の解決がつかず、ほとんど進んでいない。もし開通すれば、現在西舞鶴を東西に貫通する1本だけの国道175号線のバイパス道路となるのである。しかし少し前は渋滞した国道も景気低迷と関係があるのか、あまりひどい混雑はなくなったようだ。ほとんどの人は湾岸道路を特別に期待しているわけではない。つまり今のところ招致運動も反対運動も見えてはいないのである。  ヘキサーRF+エルマリート24mmF2.8+RA

142000.12  高野川河岸の竹屋町の広小路より南の通りは、かつて舞鶴随一の商店街で、ここをまっすぐ抜けると遊郭街もあった。農村には遊ぶところはないが、全国から人や物のあつまる港町には、それらの人の懐をあてにする商売屋が発達している。しかし繁華街は駅前に(ここから見て10時の方向)移動し、現在は店も少なく、歩く人もまばらである。それでも写真の背後の港の前線(今風に言えばウォーターフロント)に働く、職人達や漁師、港湾労働者はここの得意先である。  CL+ロッコールM40mmF2+RA

152000.12  13の踏切跡から高野川堤へ出た。この盛り上がったところに線路が敷かれ、この先に上下可動橋が対岸まで昭和47年頃まで架かっていた。使われなくなってから撤去までに時間差があるので、47−48年の間であることしか今は分からない。対岸に見える1本の大きな木の左を汽車は走り、その木は住吉社の唯一残っている神木である。この土手の右の4軒ほど向こうが市川造船で、ここに架かっていた鉄橋をくぐって船が行き来していたのである。  TX−1+45mmF4+RA

161998.10  高野川右岸にあった貨物駅「海舞鶴」のとなりの製氷所の氷の保管庫、氷屋の主人は初対面の私たちに、舞鶴の今昔、海舞鶴駅の昔話、そして氷屋の仕事まで丁寧に教えてもらった。私たちも商売で研究しているのではないが、損得抜きで話を聞ける人々の存在がフィールドワークによる調査・研究を成立させていることに感謝したい。それぞれの郷土の光や伝統、個々人の歴史を記録し、まとめて本にすることでお返ししたいと心から思っている。  M6+GR28mmF2.8+EB2

171998.10  氷屋主人。戦前に富山大学を出たインテリで、戦争に翻弄されて富山の氷屋に流れてきた。地元出身ではないが、地元の会社を継いだのである。港の住人はそのほとんどが他から流れてきて、才覚を発揮しここに定着した人なのである。ここでダメなら他へ行くし、さていつまで居るのかも分からない、それが港の前線というものだ。 この小径に見える通りが貨物線のあとで、右が自宅、左が工場である。往時、汽車は奥に見える漁連の魚の揚場からこの狭い空間をゴトゴト走り、主人の立っているところが駅の端、ここで氷を貨車に積み込み鮮魚の運搬におおいに繁盛した。  EOS1+24−85mm+EB2

182000.12  17を反対側から見た。ここも踏切の跡がはっきりと残っている。氷屋を抜けた向こうが明るい空間になっているが、そこに海舞鶴駅はあった。現在は運送会社の広い駐車場になっている。氷屋の自宅は儲かった時代のなごりだと思われるが、昭和初期の洋館造りの建物で、当時の港の賑わいによく似合ったに違いがない。現在は代替わりし自宅はプレハブの今風のものに変わっている。  M5+ズミクロン35mmF2/3rd+RA

192000.12  貨物線跡地。敷地は国の所有地ばかりではなく、国鉄が民間から借りていたものもあり、鉄道が撤去された今、その利用は簡単ではない。私有地では家が建っている場所や畑に変わっている場所もあり、立ち入りを禁じている所もある。ほとんどの線路跡は徒歩や自転車での通行を黙認しているが、これらの様々の問題を解決して貫通道路とするには相当の時間と予算がかかるだろう。  ヘキサーRF+エルマリート28mmF2.8/3rd+RA

201999.2  17の写真の奥に見える元漁連の倉庫である。さらにすぐ裏が魚の揚場となっている。ここまで鉄道は伸びていた。最盛時の賑わいはないが、それでも漁港としての格式は残っている。この建物も、現在は骨組みはそのままだが外壁は防火材に変わっている。  M6+キヤノン28mmF2.8+KR

212000.12  高野川左岸の住吉神社の境内を貨物線跡の微高地から見た。境内と言っても何度もの水害のせいか鳥居がいくつかと小さな社殿や倉庫があるのみで、現実は川辺にある広場のようである。この頃はここで簡易な設備で水産加工が行われていたが、現在は社殿も綺麗になり境内は片づけられている。上の何枚かの写真でもそうなように、変わらないように見えた港の景観も、10年を単位として見れば微妙に変化している。  ヘキサーRF+エルマリート28mmF2.8/3rd+RA

222004.4  さらに境内から下がると、線路脇の空間に畑が続いている。線路跡は少し高く道のように見え、左に見えているのは境内に残った唯一の高木、線路の先は可動橋の跡である。  ヘキサーRF+eimarit24mmF2.8+RA

232004.4  22と逆方向から。22の右の桜の木の下あたりから撮っている。奥に見える黄色いかたまりが22の菜の花だ。レンズの焦点距離が違うので距離感も異なる=概して24−35mmのワイドレンズを多用するため、現実の空間より全体に広く見えることだろう。これでみると線路と民有地の間の狭い旧国鉄の敷地に畑が作られていることが分かる。もちろん勝手に使っているのではなく、緩やかな許可をとって耕作しているのである。国鉄時代はじゃまにならない程度に畑を作り、作物を年貢のように国鉄職員に渡していた関係で、ある種の「権利」が認められているし、そののちは僅かだが賃料も支払っているところが多い。線路隣の土地はおばあちゃんの家の持ちもので、線路が道路になれば便利になるし、土地の価値もあがると楽しみにしているが、30数年そのままのため「当分は無理」と根気比べの覚悟ができている。このまっすぐ向こうが西舞鶴駅につながり、右手に住吉神社の新しくなった社殿の一部が見えている。  ヘキサーRF+エルマリート24mmF2.8+RA

241999.8  12の稲荷神社の狛狐(?)ここも小さな稲荷だが歴史は古い。あきらかに海や川の信仰になっているのだが、それが稲荷というのは珍しい。ただし伝統的な信仰の問題は門外漢なので定かなことは何も言えない。  M6+GR28mmF2.8+KR

251987.6  現在も景色はあまり変わらないが、漁師町の吉原の景色。正式の漁港には中大型船が停泊され、小型の船は各家の裏に係留され、直接家から乗り込めるようになっている。この堤防の低さに洪水の危険を感じるが、波の穏やかな舞鶴湾では、それほど頻繁に浸水することはないようである。もちろん安全というには程遠い。2004年の台風では床上浸水した家も多く出た。現在はなくなったが、手前に泊まっている船が若狭湾全域に存在した伝統的な丸木船系の「トモウチ」である。これから何度も登場する。  T90+24−35mmF3.5+KR  

262001.5  13の左見える広大な埋め立て地(保税地)に積まれた丸石。輸入されたものか、これから輸出されるものか不明だが、各石に竹とんぼのような識別カードが付いている。保税地と言っても柵や監視塔があるわけではなく、歩いていくと自然に入り込んでしまう。おそらく警備は厳重になっていくのだろうが、本当のところは広大な敷地をカバーする予算がないのだろうと思われる。立っているのは踏切跡の近くだが、遙か向こうまで埋め立てられ、左も山まで埋め立て地なのである。  ヘキサーRF+GR28mmF2.8+E100VS

272004.4  25を撮った吉原入江に架かる水無月橋から海方向を撮った。右の森が海神を祀る水無月神社の森で、もとは入江がここから先に広がっていた。ここも埋め立てで水路のようになってはいるが、家並みは何とか昔の姿をとどめている。現在はすべてがFRP船である。  ヘキサーRF+エルマリート28mmF2.8/4th+EBX

281999.2  13の踏切跡から背後(西)を撮った。埋め立て地の真ん中を線路が伸びていく。線路の左右は一応開発され、保税地や官公庁や民間の建物が建ち、それなりの港の前線を形作っている。しかし線路跡はナンバーを外されたポンコツ車の置き場と化している。もちろん不法投棄ではなく輸出用の車の置き場所として利用されているのである。そして売れにくくなって行き場を失っているのが現状なのだろう。どうしても娑婆に無縁となった場所に無縁のモノやヒトが寄りつくのである。これも「港の景観」のひとつの点景として目になじむ景色となっていくのだから不思議である。どこの港でも事情は変わらない。  M6+GR28mmF2.8+EB2

292000.12  国道175号線(広小路)に架かる新橋脇に残った回船問屋の倉。すぐ右に8の堤防道路がついている。元は道路は川で、ずらりと並んだ倉から川へ直接荷物の上げ下ろしがなされた。そのような土壁の倉も年々減少し、簡易な倉庫や駐車場に変わってきている。  ヘキサーRF+エルマリート28mmF2.8/3rd+RA

302004.12  こちらは旧国鉄用地の浜側に残された畑。ここも以前から耕作していた「権利」を認められての現状である。現在は国・京都府(港湾)の管理となる堤防上の敷地で、こちらでは完全に借地料を支払っている。左は民有地で、最近トタンの丈夫な塀で囲われた。2004年の台風で高潮により水がつき作物は全滅である。海からあがって堆積したゴミをようやく片づけ少しずつ燃やして、来年の耕作に備えている。消防署がうるさいので一気には燃やせない、そして潮があがったための塩害があるため、燃やした灰や石灰を施すことができる仕事なのである。このような狭い畑の収穫でも家の食用には大切で、漁や海産物の加工などとあわせて暮らしを立てている人もいるのである。  キヤノンG1デジタル  

*目次と第1章はこれでおしまい。以降(7章までと、終わりの頁)はページを改めて秋の間にすべてを紹介したい。


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