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2001年のフィールドノート

11/10

10月の中旬に社員旅行で京都へ行って来た。今年は予算と仕事の都合で日帰りである。京都に住みながら観光地にはめったに行かない。人が多いのが苦手なのである。今回も土曜だったので結構人が多く、普段のフィールドワークに比べると疲れが大きいようである。とは言え若い人達の企画で行くのは新鮮である。毎年「引率」とは名ばかりで皆に連れて行ってもらっていると云うのが本当のところである。京都駅で集合(と言っても全部で5名)し、目の前の京都タワーに登ってみる。観光用としては既に忘れられた存在なのだろうか、ほとんど人は居ない。入場料は700円、カップルなら2名で1000円、私たちもにわかカップルとなって入場する。エレベーターで展望台に上がると「絶景!」である。京都は高い建物もなく盆地で、まわりは山に囲まれているため京都中が見渡せる。100m以上の高さから360度全開の景色が見える。良く晴れた日だったので良く知っているはずの京都市街に見とれてしまった・・・あそこが美術館、ここが東寺、たぶんあのあたりに南禅寺がある、等々・・・。

団体は私たちだけで、何組かの老若のカップルがなにやら京都の景色を見ながら語り合っていた。たぶん将来の夢や過ぎてきた想い出を京都の景色に託しているのであろう。たしかに喫茶店に入る値段でこの景色が見られるのである、観光ルートからは外れてしまったかも知れないが捨てがたい施設である。この組は洛北方向を見ながら寄り添っている。足下までガラスなので少し足がすくむかも知れない。

次にバスの1日乗車券を買い、取りあえず銀閣寺に向かう。京都は最近になって地下鉄が伸び始めたとは云え交通が不便で、バスも観光客や地元の人達で混雑している。道もそれほど混んではいないが狭いため、どこへ行くのも目的地まではかなりの時間が必要である。30分以上バスに揺られて銀閣寺の近くまで来た。そこで降りて「哲学のみち」を歩き銀閣寺の門前町に至る。どうしたわけか河畔の小径である「哲学のみち」を観光客は歩かずに、併行する車道に付属する舗装された歩道を歩く。てんでに今流行の中高年ハイカーの格好をした人達や健脚の若者達なのに・・・ひよっとすると「近代文明」の所産に安心感をもっているのだろうか。私は多少整備された「哲学のみち」を西田幾多郎の事を考えながら歩き続ける。すれ違うのは地元の人ばかり・・・いつものように眩惑を感じる。すぐ右下の歩道には沢山の人が数珠つなぎで声高に歩いているのに、この道は木々に囲まれてほとんど昔日の面影をとどめている。なにか釈然としない気持ちであった。

まっすぐ伸びているのが「哲学のみち」、左は小川が流れていて右下に歩道と車道が併行している。地元のおばあさんが歩いて行く・・・小川に架かる橋の上で観光用の人力車夫がしばしの休憩をとっている。フレームは非情である。これだけを見ると静かな京都のたたずまいを感じることだろうが、フレームのすぐ外側には観光客による(整理に警官まで出ていた)都市の繁華街とそうは変わらない雑踏があるのである。


銀閣寺はよく知られた寺であり、私も何回目かの訪問である。気が付いたことと云えば以前より整理されていて、観光客の滞留のないように順路が一方通行であったり、ロープを張って順路以外に行けなくしてあったり、ベンチがひとつも無かったりと「拝観/お参り」・「寄り集う空間」としての機能はまったく感じられない。情けないことだと思う。心なしか以前より入場者が減ったように思われる。

向こうに見えるのが「銀閣」、といっても銀色ではない。庭園の池のそばに枝振りの良い松が生えていた。銀閣はここからかいま見えた景色が最も良い。28mmなので実際より小さく見えるが、銀閣の上の鳳凰が松の木の間に見え隠れしている。この池のそばで「光」が来るのを30分ばかり待っていたら、観光客・修学旅行生に5−6回も「シャッター押してください」と頼まれた。観光地ならではの経験である。このあと清水寺も合わせて10回以上シャッターを切った・・・少し「芸術的」に撮ったので本人達はあとでどう思っているだろうか。京都の想い出・・・いい響きである。


門前町から境内への誘導路も整理され、まるで欧風の庭園のように木々の壁ができあがっている。演出か偶然か分からないが、映画「去年マリエンバードで」の庭園のように幻視的な空間が演出されている。

角を曲がると誰かが出てきそうな空間、娑婆と彼岸の分かれる場所なのだろうか。この背後には門前町の猥雑さがあり、この先には銀閣寺の山門がある。冥界への入り口、ひょっとすると西洋の庭園にもそのような意味があるのだろうか、アラン・レネのテーマはそこにあったように感じられる。


次に訪れたのは「清水寺」である。外国人観光客のツアーが来ていて、舞妓を雇って一緒に回る光景を見て不快であった。教養のない外国人にとっては未だに「冨士山・芸者」なのであろう。 ここは東山のかなり高いところにあり、観光バスやタクシーは途中まで上がれるが、路線バスの我々は麓から延々と急な登り坂を歩いて上がった。疲れはしたが、それはそれで価値があるように思う。いい写真が撮れたというような感慨ではなく、昔の人がお参りに行くのにどんなに苦しく、しかし足を棒にする価値を感じて上がったのかという気持ちである。ここは流石に銀閣寺の4−5倍の観光客と門前町の賑わいがある。


五重の塔横の藤棚の下で。観光に疲れた人達が休息する。夕方に近づいているため、長い影に軽い疲れを感じている。画面奥からは京都市街が眼下に見られる。構図と精神状態は同一でありたいものだ。


清水寺の醍醐味はやはり「清水の舞台」であった。京都市街を一望とし、緑の東山のただ中で、天に近い場所を感じることができる。1日の終わりで、ようやくプリミティブな宗教的空間を体感できた。人々も必死でここまで上がってきて、この高揚感を味わうことができる。皆爽快な表情に変わる・・・聖地とはこうでなければならない。別に宗教的な理由でここまで来たのではないのだろうが、聖地とはこういうものである。神に近い場所と清浄な空気、香のかおりと読経のくぐもった声・・・ここが世界を見わたせる丘なのだろうか?

「清水の舞台」にて。エルマリート28mm/2ndの解説と同じ写真・・・今回の撮影はすべてM6TTL0.58+エルマリート28/2nd+RAで撮影した。このレンズの逆光時の火線(ゴーストやフレア)の出方には個性があり、1970年代の硬質な味をすべてにわたって具現している。最高に素晴らしいレンズである。


舞台から下を見おろすと一面の森が広がっている。木々の間を抜けて散策路があり、参道とは異なる空間を形成している。地元の女学生が1人石垣に座っていた。舞台の上での人々の高揚感とは別の、森林の中での憂鬱が待っているのだろう。高揚と憂鬱、喧噪と静寂、濃密と空疎、聖と賤・・・色々な対局関係が同時に、しかも隣どうしに存在するのが世界の本質である。決して均質ではないが、定常的であることは明記しておく。
また来年もどこかへ連れて行ってもらおう。

11/6

先々週の土曜に和歌山にカメラ仲間10人で行ってきた。7月の飛鳥撮影会以来である。この間は暑くてばててしまったが、今回は天気/体調共に上々で気持ちよく一日を過ごした。醤油の町湯浅と漆の町海南に行ったのだが、今回は海南の写真を紹介してみよう。

漆職人の町の市場にて。さすがにミカンの産地である。果物屋でもミカンも含む柑橘系が多い。市場全体はやや寂れているが規模は小さな町としては大きい方である。昔は漆器を中心とした商売が盛んで、この市場も繁栄したのだろう。

漆器の町は海辺の町でもあり、ここは入船町と云う。狭い街路と庭のない小さな家々、空が狭く感じられる・・・港町の側面ももっているのである。ここは一軒の家を取り壊した跡地。足下はすぐに車一台通れる程度の道路である。これだけの空間に一家5−6人程度の家が建っていたのである。往時の活気は今は無いが、私には雑多な人々の往来発着する港町の景色が目に浮かぶようである。 データは全てキヤノン7+キヤノン35mmF3.2+RA

10/30

初秋の富山の川景色。9月末の写真であるが、落ち鮎漁を楽しむ人々が集っている。このあとしばらくの禁漁期を経て、サケ漁が始まるのである。富山市北郊の神通川(じんづうがわと読む)中流域の写真。さすがに豊富な流量だ・・・富山の川の多くがダムと農業用水の影響で川石の目立つ河川敷であるのだが、ここだけは昔とは比べものにならないと云えども流れは早く豊富である。水流が瀬から淵へ落ちるあたりがある種のポイントになっている。向こうに見えるのは全国的に珍しい河川敷の空港である富山空港。川に向かって飛行機が突っ込んでくる・・・不思議な光景である。神通川に架かる北陸道にも航空機発着の脇見をしないように異例の表示がある。

M5+DRズミクロン50/2nd+RA

10/28

先週の日曜日、近所を散歩していたら、打田で秋祭りをしていた。観光とは関係なく昔ながらの村祭りである。三々五々村人は集まり、神主や村の有力者を中心にして各々の近況や時事問題まで話に花が咲く。特別な信仰心は既になく華やかさもないが、村人の共同体意識をはぐくむ場にはなっている。子供御輿や供食は、地域文化/社会の次世代への伝世のために特別に大事なことなのである。

キヤノン7+キヤノン35mmF3.2+RA

京都/南山城地方の神社では牛の形をした「牛頭天王=祇園さん」(どうやら疫病の神らしい)が多く祀られている。この日は頭巾をかぶせてもらっている。右の釜で湯を沸かしているのは何だろう・・・勿論神事のひとつなのだが。春には雨乞いの神事も近くの神社で行われており、何か農耕儀礼であることは間違いないのだが、また調べてみよう。

10/25

10月3日、富山/黒部川に行った。7/15の記述の場所から下流側を見た。その頃と違い渇水である。川が良くなる季節の到来である・・・サケ漁はこれから。夏とは風景や空気感が違い、春夏秋冬、月に一度ずつ何度も何度も通っている。これから1年間は毎月である。

ライカM5+ズミクロン35/7+KR。

江戸時代の話。魚津方面から海沿いに通ってきた北国街道が、あまりの急流の黒部川を渡し船でも渡れず、もちろん橋など流されてしまうため、現黒部市から黒部川の左岸の河岸段丘上を上流方向に曲げられていた。そして愛本のセバト(山から平野に出るところで川幅が狭くなっている場所)に小さな橋を架けて、そこを渡り、右岸のやはり河岸段丘上の舟見を経由して、また海岸まで下っていった。明治になっても何度も橋は架け替えられ、黒部川の上流にダムができて水量がコントロールされるようになるまでは、交通の要衝であった。

橋のたもとの愛本の町。往時の宿場町の風情が今も色濃い。これを真っ直ぐ歩くと、黒部市を経由して魚津、高岡、金沢から最後は近江の草津宿まで一本道である。 M5+ズミクロン35/7+KR・・・国産のレベルから見るとフレアが出やすい。

10/10

9月に若狭〜丹後への旅をした。大雨で成果は期待できなかったが、逆に大荒れの山、川の姿が見られて有意義であった。普通は荒れた日は調査も敬遠がちになるので、なかなか洪水や崖崩れなどを観察できないのである。写真は丹後半島内陸部の弥栄町味土野近郊の小河川。砂防ダムの上を激流が越え、道路まであと1mまで増水していた。

M3+ズマロン35/2.8+RA

帰途につく前、ようやく雨が上がり、シーズン終わりのひととき釣り人が糸を垂らす。あまり釣果はなさそうである。宮津市栗田湾にて。

M2+UCヘキサノン35/2+RA・・・限定ヘキサノン35mmは浅絞り時に周辺の光量が落ち気味である。トーンはKM35より明らかに軟らかい。

9/20

私の町の新しい役場の庁舎の工事現場。以前の取り壊された役場の近くに田圃を幾つか潰して建てられた。こんな立派な庁舎が必要か疑問に思ってしまう(約4倍の規模である)。現在は既に完成し、一昨日住民票をとりに行ってきたが、新しくて綺麗な反面、町職員と町民の距離が遠くなったように思われてならない。いままでは目の前すぐに居て、あれこれ話したものだったが、今はカウンターの遙か彼方にまばらに座っている。職員数をあまり増やさず自動化を図り、それでいてかなり広くなったのだから当たり前だが、ちょっぴり以前が懐かしい。

建設中の役場を西側から撮る。かなり広い範囲の田畑を買い取り、今後の発展に備えているようだ。道路も新しく役場専用のものがつけられた。 M2+フォクトレンダーカラースコパー35mmF2.5C+KR・・・日没寸前にKRで撮ったため色が濁っているが、F4でこれだけ写れば上等である。画像を軽くしたため分からないが、ポジでは極めてシャープである。

8/13

夏の終わりを感じさせる景色。今年の夏の前半は体調を崩してしまったが、私の住む田舎町ではそろそろ秋風が立ちつつある。お盆からのリスタートを約束させるもくもくとした雲である。

夕暮れの祝園駅の工事現場にも秋風が立つ。絞りはF5.6半程度だが、ズミタール50/2の線の細さが良く出ている。いつか解説したいが、ピントを少しでも外すと像が弛み、かといってあまり絞り込むと全体が甘くなる。5.6−8位が適度な値だろうか・・・古いレンズは写すだけで楽しい。 M3+ズミタール50mmF2+RA

7/15

次の旅の始まり。

富山県黒部川で、これから2年越しの調査をすることとなった。私も48歳、心してかからなければとの決意で一杯である。予備調査の結果「まだ可能だ」との結論と、その一方で河川文化に関わる学問的な重要性が確認されたのである。

黒部川の長い峡谷が一気に絞られる「セバト」=最も狭くなった所にある堰堤。これより上流は山間部を縫うように流れる渓谷の連続であり、ここから下は広い扇状地に一気に流れていく。日本でも最も急流の大河である黒部川の私たちの旅の始まりである。ここから下のおおむね中下流域の扇状地から河口部での人と自然の営みを記録していきたい。

7/7

先日撮影の仲間の人達と行った飛鳥の橘寺の紹介をしよう。橘寺は飛鳥川から少し西に入ったところで河原寺跡に隣接して建つ。聖徳太子生誕の地と伝えられ、太子創建七ヶ寺のひとつとされている。少し高台に建っており、土塀越しに耳成山や飛鳥の田園風景が眺められ、往時がしのばれる。

さて河原の集落から旧道を東へ(西へ3分で亀石)入り、数分歩くと橘寺の元の門跡である。現在のバス道に面した表門は昔は裏門だったようである。

M3+ズマロン35mmF2.8M3+RA。今回の撮影はすべてこの組み合わせだ。石畳と灯籠、下馬の石造物、門柱が残っている。向こうに見えるの山の左下のあたりに寺の建物が建っている。往時は広い敷地を擁し権勢を誇っていたのだろう。現在はほとんどが民地となっていて、おおむねが田圃である。

少し歩くと龍神王の石碑が田圃の真ん中に建っていて、今も信仰されていることが分かる。画面左の暗い森が上の写真の山である。このように西に向いてかなりの傾斜で下っており、約600m下に亀石が更に西の別の豪族葛城氏の領地を睨んで鎮座している。亀石は橘寺(或いは河原寺)と対になっているもので、別の豪族からの鎮守の意味があったのではないかと考えている。さてこのような急な斜面(雨が降っても傾斜地ゆえ低地へ水は流れ去る)は水田稲作農耕にとって、常に水の確保の問題が生じ、水神(龍神、蛇神など)信仰が厚かったのだろう。しかし洪水の被害や外敵の進入に対しては地の利があり、そこに優秀な灌漑の技術を持った渡来人の活躍の場があったのである。飛鳥に限らず渡来人は灌漑、製鉄、建築などの技能をもって定着・繁栄してきたのである。時に豪族、時に王として、数の上で優位な倭人を支配した由縁である。当然に橘氏も水を治める古い渡来系の氏族で、聖徳太子(朝廷)とも密接な関係があったのであろう。現在行政上、治水/利水は旧建設省(特に河川局)が中心となっており、その予算が圧倒的に大きいことも「水」の管理が今昔を問わずいかに重要かが良く分かるだろう。また水利権は最も強い権利のひとつだということも忘れてはならない。強論すると信仰も支配も「水」が中心だったと云えなくもない。今は田圃の中にのんびりと立つ龍神王の碑にも、権力者の野心と水の恩恵を素朴に喜ぶ人々の心が宿っている。

橘寺の土塀の端瓦。波のようにも見えるし、蛇(龍)のようにも見える。どちらにしても水神との関連をみたい。この辺りの古い寺や神社によくあるように境内の脇(この土塀のすぐ裏)、一番上の写真の山の麓に湧き水があり、どうやらこの清水への信仰が根にあるようである。境内にも幾つも由緒ある池がある。

本堂の脇に対である橘紋の石造物。これも形から水(桶か勺)に関係がありそうである。橘氏は契丹系の渡来人、藤原氏は唐の郭務宗将軍の系統との説もあるが、後日藤原氏は栄え、橘氏が衰えたのは事実である。画面の右端に「びんづるさん」が安置してある。密教系の寺に多くあり、私はその由来を知らないが、安寧を求めて民衆がこれを撫でるため、どこでも像はつるつるになっている。

この境内には飛鳥の石像群のうち二面石と三光石があるが、これらは他の石像群と併せて後日の話とする。歴史と民俗=飛鳥は今後も何度も足を運びそうな面白い場所である。

6/18

この春、琵琶湖の湖北地方を回ったときの写真を紹介しよう。毎年、春夏秋冬この湖を訪れるが景色はいつも違って見える。まずは近江八幡市長命寺。港のはずれに灯籠がひとつ建っている。これは湖上交通盛んな頃、ある種の灯台を兼ねていたもので、これの右側にウミを向いて鳥居が建っている。その奥には水上交通の神様である金比羅社がある。長命寺は昔水運の町で金比羅信仰が盛んだったのである。地元の古老に聞くと往時は金比羅講も組んでいて、毎年交代で四国の金比羅さんに参ったそうである。船をおりると信仰も薄れ、今は何人かの氏子が守をしているようである。灯籠も昔どおりウミを見おろしているが、地元の人達以外由来を知る人は少ない。私は30年前に当地を訪れたときから(その頃の方が荒れていたようである)何枚も何枚も写真を撮り続けている。角度が違うので写っていないが、この沖に沖島が浮かんでいる。

M6+カラースコパー35mmF2.5C+RVP   最近少し回りが整備されて、小さな由緒書きの立て札も立っている。この前の浜は今は使っていないが古い船着場である。私には往時の賑わいが目に浮かぶ。

次は湖北の長浜郊外の野地・湿地である。葭原であるが、季節により水没したり灌木が茂ったりする。この時は雪解けの水が出てごらんのとおりである。どうやら魚釣りにはいいようで、釣り人が早春の冷たい水の中で格闘していた。

M6+ズミクロン90mmF2+RVP  湖岸から望む。左右に広く湿地が拡がっている。水没した林の向こうは琵琶湖である。対岸にかすかに見える山並は湖北の山々で、更にその奥山は若狭につながっている。ここから敦賀までは車で1時間もかからない。

琵琶湖最北の菅浦地先での追いさで漁、夕方で綺麗に撮れなかったが、棹の先にカラスの羽根を付けてこれを水中で動かして鮎を脅かし、その先の網に追い込む。最近はめっきり捕れなくなったようで、技術の後継も困難な状況である。しかし当人達は楽しそうである。

M6+カラースコパー35mmF2.5C+RVP   向こうに見える島は、竹生島。最近島の裏側が鵜の糞害で木が枯れて、どうも景観が良くない・・・どうやら住みかを追われた鵜がこの島に集まるようで対策はなかなか立たないようである。

6/13

旧国道307号線にて。田舎の旧街道筋を走っていると、このようなガソリンスタンドがよくある。廃業している所も多いが、農業や勤め人と兼業で事業を継続している店も残っている。ここも人は常駐しておらず、隣の家に声をかけると「はいはい」と云いながら野良着姿のおかみさんが出てくる。かつては枚方(京街道)〜南山城(宇治や木津)から信楽を経由して東海道へ抜ける脇街道筋の、ちょっとした中継地点の村だったのだろう。そして戦前〜戦後にかけては、信楽の焼き物を満載したトラックが大津や京都に向けて走った道なのである。国道にはバイパスができて、この昔からの道は近世以前の情景にもどってしまった。モータリゼーションの発達によってガソリンスタンドは全国にできたが、さらなる道や車の発達でこのような田舎の燃料店は廃れてしまった。もとから営んでいた薪炭の売買はもう忘れられて久しい。地元の農用車の利用と、とっくに減価償却してしまった設備によってコストを最低限に抑えた経営で、専業ではなく細々と続けられている。道は遠くなり、車はその新しい国道を走っているが、バスだけは認可を受けた当時のままこの道をやはりくねくねと走っている。

写真について・・・「世界をみわたす丘」から見える風景。世界を映す窓である。写真機を介して私はそれを写し撮る・・・私の受けた印象にて。しかし同時に私の写真は世界に語りかける。上手・下手の問題とは異なる。流れ流れる時間の一時を、無限に(近く)拡がる世界を一点に凝縮し、また私という堰を越えて時間と空間の彼方へ私の意図とは別に拡散していく。私が撮っても撮らなくても世界は同じ存在だろうか。いや投げられた石は必ず何かにあたるだろう・・・私の意図は理解を伴わなくとも残存し、次の時間や風景に影を落とすことだろう。写真は世界を見る窓であり、私を写す鏡なのである。先日久しぶりに「2001年宇宙の旅」を見てそんなことを考えていた。

信楽の町はずれのガソリンスタンドにて。M6+ビオゴン28mmF2.8T*L改+センシア。ツァイスと云うと「クリアな発色」「スカッとしたコントラスト」というような賛辞が多いが、本当に真価を発揮するのはこのような条件かも知れないと秘かに考えている。派手なことは国産の全てのレンズに当てはまる・・・結論は急がないがT*についてじっくりと考えてみたい。

6/7

日曜日(6/3)琵琶湖に行って来た。NHK−BSの「おーいニッポン!滋賀」に合わせたのか、滋賀県中で各種のイベントが行われた。私は旧東海道草津宿へ行き、そのあと矢橋まで歩き、江戸時代の街道である「矢橋の渡し」を復元して1日だけの大津までの船旅を追った。今回の「おーいニッポン」は滋賀を通る街道を多角的に捉え直すことを中心として構成されていたのである。基本的に生放送であるため、本編では放送されなかったが、NHK以外にも各テレビ局や新聞社が取材に来ていて、久しぶりに浜は賑わっていた。今回は私たちにとってもう一つの意味があった。1992−4年の琵琶湖博物館の丸子舟復元の事業、それ以前からの現地調査での縁で知り合った、中世以来琵琶湖の水上交通の中心として活躍を続けてきた琵琶湖独特の木造和船「丸子舟」の最後の一艘、最後の船頭の晴れの日を見たかったのである。4−5年前まではただ一艘で荷出しに活躍していたが、最近は毎年8月の湖北(西浅井町大浦)で開催される「水運祭り」で動く程度であった。毎年ご自宅に伺うが、齢84歳の老船頭はまだ現役である・・・もう無理かも知れない、でも私たちは活躍を祈っている。

ヘキサーRF+ロッコールM90mm+センシア。矢橋の帰帆島より。大津の市街地を向いて航行する丸子舟。久しぶりに人を満員に乗せて走る。丸子舟は本来荷船で、実際の「矢橋の渡し」の舟はこれではないが、近世の香りを残した最後の本格的な舟である。船名を「金龍丸」といい、100石積み(60kg米俵250俵)の総マキ製の贅沢な船である。船価はだいたい母屋一軒分した・・・船頭にとって大出費である。それぐらい必需の交通手段であったのである。時代を超えて、積む荷は米から瓦土、石材、燃料の薪炭と変遷したが、その活躍をほん最近まで続けていたのである。帆は上げているが、推進はディーゼルである。帆走の丸子舟は昭和30年代までで終焉した。

ヘキサーRF+ヘキサノン60mmF1.2L+センシア  最後の丸子舟船頭、山岡佐々男さん。丸子舟の船上にて。背景は埋め立ての「矢橋の帰帆島」、時代は変わったが船頭は船を走らせ続ける。

5/28

先日(5/15)飛鳥に行って来た。桜井の知人とこの2−3年間続けてきた奈良県への歴史と民俗の旅の一環である。

まずは近鉄桜井駅にいつものように集合である。桜井のK氏が車で迎えにきてくれた。とりあえず近所の喫茶店でコーヒーを飲みながら様々な仕事話や世相談義に花を咲かせる。そののち「今日は飛鳥へ行こう」とおもむろに出発。ものの30分で明日香村の中心部へ着いた。桜井から山中の道を岡寺を越えて行くのだが、ずいぶんと狭い範囲に史跡が点在している。その密度はたいへん高く、8X9kmの範囲にほとんどの飛鳥の史跡が集まっている。現在レンタサイクルや徒歩で散策することを村としても推奨しているが、確かにゆるゆると続く丘陵地帯に見え隠れする古墳や社寺が非常に近い距離に感じ、季節の良いときにのんびりと歩くのが一番だと思った。その昔、20数年前にカメラ片手に何度か歩いたときの事を思い出す。歴史の教授とともに古寺研究の助手として、飛鳥川の畔をレンゲ畑を左右に見つつ先生の鞄を小脇に抱え、首にカメラを下げて寺社を訪ねた記憶が懐かしく蘇る。その当時は今よりもっと田舎で観光客の姿はあまり見えなかったと記憶しているがどうだったのだろう。さて、車でとりあえず石舞台古墳に行ってみるが駐車場が見つからず、そこから東へ走りキトラ古墳へ着いた。今のところファイバースコープで内部を観察しただけで、本格的な発掘はなされていないため何の変哲もない小山である。今は慌てずいずれ発掘・公開されるまで待とう。ここの村には私の友人の実家があるのだがどこだろう。どの家も静かにたたずんでいる。明日香村は全体として史跡の近所以外は総じて観光化されておらず、のんびりとした田園風景が拡がっている。ここを後に高松塚古墳へ回る・・・たった5分である。ここは文武天皇陵古墳や高松塚古墳、同壁画館などが小高い丘に並んでいて県の史跡公園として整備されている。この日も沢山の遠足の生徒が見学に訪れていた。やはり一般の観光客は少ない。

高松塚古墳から北を見る。果樹園、畑、田圃、竹林、のどかな田園風景がうねうねと続いている。昔と全然変わらない景色である。

今回はM3+ズマロン35/2.8・ズミクロン50/7枚後期+センシアで撮影した。両レンズは似た絵を作る。

上の写真と同じ場所から、高松塚古墳の南を見る。要するに古墳は尾根の中だるんだ細い部分にあって、南北に眺望がある場所に立地する。南はやや開けた田園風景で、家並みも遠く近くに見え隠れしている。夫婦はレンタサイクルで駅からやってきたのだろう。地図を確認しながらこのような細い道を進む。車で来るのは無粋というものだ。今度来るときは必ず徒歩かベスパでやって来よう。高松塚古墳自体は国宝に指定・封印されているが、直下に高松塚壁画館が設置されていて、古墳内部が本物そっくりに復元展示されている。単なるレプリカではなく当時の日本画の巨匠/前田青邨、平山郁夫両氏の監修の下、30数名の画家、学者が2年以上の年月をかけて復元したもので、極めて精巧かつ忠実に描かれている。盗掘口のある南壁は不明瞭(おそらく朱雀)だが、北壁に亀と蛇の合わさった玄武、東壁に青龍と日像(雲のかかった太陽)と男女の群像、西壁に白虎と月像(雲のかかった月)と男女の群像、天井に星宿図(何という魅力的な響きだろう=当時の星座図)が描かれている。本来中国の思想に基づく青龍、白虎、朱雀、玄武の四神は仏教における四天王と同じく、東西南北の方位を示すのと同時に鎮護の象徴でもある。そして目立たないが、星宿図には現在の星座とは当然に異なる星座が描かれており、極度に抽象化されている絵に非常に興味を持つ・・・一般的には語られていないが、壁画以上にその時代の世界観を理解するうえで暗示的である。

この丘陵を散策した後、昼食を食べる。去年岡寺を見に来たときと同じ喫茶店に入る・・・それほどに観光的な施設は少ない。ここで飛鳥川定食を注文した・・・川魚(アマゴ)の甘露煮が主であった。そこからブラブラと亀石を捜しに歩いた。

標識などがはっきりせず(明日香ではどこでも標識が不明瞭である・・・あるのだが目立たず、距離など細かいことが分からない)地元の人に聞くと3分で着くと言う。ひょっと見ると田圃の向こうの民家の横に大きな岩が見えた。なんとなく転がっていると言う風情の「亀石」である。写真ではアングルで隠してあるが、左の植え込みの横は民家(しかも現代風の)で、向こう側にはバス道があって自動車や人の往来が多く、さっきの喫茶店もその並びである。右側は田圃を挟んで公民館が建っている。亀石の回りも植え込みがあるだけで特に施設はない。古墳や寺社の大仰さに比べてずいぶんあっさりしている。しかし古跡とは本来このようなものなのだろう。石舞台だって昔は無愛想な場所だった。でも私は飛鳥に転がっている、亀石や猿石、鬼の雪隠や酒船石などの意味不明の石像に関心が大きい・・・いったい何の意味があったのだろう。亀石とて後世の人が付けた名前で本当の意味は不明である。第一亀にあまり似ていない・・・むしろ人間ではないかと思う(兜を被った戦士)。この石はなだらかな丘から下の平地を見ており、石の後方徒歩10分ほどにある橘寺(当然渡来系)の前衛にあるように見える。

石舞台古墳から人工の環壕ごしにまわりの通路を見る。こんなところにも観光地によくある古代の衣装を模した人形がある。ここから顔を出して向こう側から石舞台を背景に写真を撮る趣向である。その前を僧侶がふたり何やら楽しそうに歓談しながら歩いている。この日は平日なので人は少なかったが観光シーズンの休日には観光客が押し寄せるのだろう。私が学生の頃(約27−8年前)に来たときは観光地ではなく、せいぜい近所の小学校の遠足の場だったように思う。回りは田圃と山ばかりの何にもない台地の上に素っ気なく存在していた石舞台だが(誰でも気軽に入れて石の上で弁当を食べたり、子供達が石室の中で遊んでいた)、今は公園として整備され、有料となっていた。当然に今は石舞台で遊んではいけない。整備された公園か、何の変哲もない遺跡か、景観の意味について考えさせられた。

さて、次に石舞台古墳に行ってみる。7世紀初めの方墳で蘇我馬子の墓とも云われている。もしそうだとすれば大化の改新で滅ぼされた蘇我氏の頭領の墓で盗掘のみならず封土まで剥ぎ取られた逆賊の墓として現在の異常な姿が理解できる。玄室(内寸である)の長さ約7.6m、巾約3.5m、高さ約4.7mで30個の岩で組み上げられて総重量2300トンという大規模古墳であることが分かる。相当の権力者であり、それが敗者となった跡だと感じられる。歴史の事は分からないが大きくは外れていない推論だろう。これだけの規模の古墳をここまで破壊するのは簡単ではない。

石室内部が見学できる。観光バスの集団がやってきた。当然ながら石室の石組み以外は何もない。ここまで来ると昔と同じく観光客にとっては所在のない沈黙した時間を経験できる。さすがに遺跡だけに観光用に手を加えることはできない。公園の入り口周辺の土産物屋や茶店とは違ってただただ静かな空間である。石舞台の重量感だけが存在の意志を持っているようである。

5/20

4月の終わり、私の車(アウトビアンキA112アバルト)が壊れた日の写真である。近くの神社に写真を撮りに行っていたのだが、神社脇の駐車場へ止めようとしてシフトをバックに入れようとした瞬間、「コクン」という音と共にシフトレバーがぐらぐらになりニュートラルから動かなくなった。この車はFFのエンジン横置きという特殊なレイアウトなため、シフトはリンケージを介してワイアで引っ張っているのである。このリンケージが壊れてしまったのである。仕方が無くその駐車場に置いたまま、次の日に大阪からこのようなビンテージカー専門のエンジニアに来て貰った。近所のモータースでは修理も部品の調達もままならないのである。

田舎の小さな神社だが森は深い。参道にはずっと寄贈された石柱が建ち並び、木漏れ日に不思議な景観を作っていた。今回はM6+ヘキサノンKM28−35+RDP3で撮影した。

次の日まで置いておいて今日は家に帰ることにした(運良く京都と奈良を結ぶJRのローカル線の駅前だった)。で近所の人に声をかけると、この駐車場は神社の敷地ではなく、個人の土地だという。それでその家の人に断りを入れた。この山城町「棚倉駅」の前の道は旧街道でこの家もそれらしい家であった。どうやら往時は農業とちょっとした茶店か旅籠をしていたように見える。そして写真に見える家の横の森が神社である。神社の鳥居の両脇に居宅と駐車場があり、どうも神人(神社に仕え、様々な雑用や管理をしつつ土産やお札を売って生計をたてていた人々)の家であった可能性もある。まわりはすっかり近代化されたが、この家だけが古風の格式を保ち、私が頼んだこの家のおばあさんにも品位を感じた。結局車は翌日深夜にレッカー回収した。

間口は狭いが、実際は奥行きはもっと深い。気良く預かってくれて、お礼に信楽焼の湯飲みと小皿のセットを持っていった。田舎に住んでいることは快適なことである・・・相互扶助。私も家の近くで田圃に脱輪していた隣町の人を助けてあげたり、駅から車に乗せてあげたり・・・。

そんな訳で30分に1本の電車に乗って家へ帰る。まずは奈良線棚倉駅から2駅で木津駅、ここで片町線に乗り換え、また2駅で祝園である。4駅(うち2駅は無人駅)190円区間だが実に時間がかかる。でも時間がかかると云うことは写真が撮れるということでもある。気楽に普段乗らない駅を観察してみる。

木津駅。ローカルな駅だが各方面への基点となる重要な駅である。ここに奈良線と関西本線が交差しており、各々京都と奈良、奈良と名古屋を結んでいる。その先には大阪や天理、桜井、和歌山、嵯峨野や山陰方面までつながっている。世間には鉄道マニアがたくさん居るがローカルの駅に立つとその気分もよく分かる。更にこの駅から片町線(いわゆる学研都市線)が発しており、大阪、宝塚、神戸方面に達している。どの線もこのえきからは30−70分間隔と電車・汽車の数は少ないが乗り換えの客は結構多く、旅の風情もなんとなくある。

片町線の発車を待つ。昔は特急や貨物列車も多く止まった駅なのでホームは広く長い。駅のまわりは田園と山の緑が美しい。旅客だけでなく車掌も駅員も旅情を背負っているようで何か胸が暖かくなる。このまま山奥の村まで乗っていきたい衝動すら起こる。

5/12

さて今日は4月の話に戻って書いていこう。私の住む町には「けいはんな学研都市」があり、今や拓殖の日々が続いている。町民として有り難い面もあるが、古き良きものが消滅していきつつあるのも事実で、残念な事態も目の当たりにしている。私はそれら良くも悪しくも進む変化を記録しているのであるが、今日はこれの幾つかを紹介しよう。

旧役場前。すっかり取り壊され以前の田舎町の役場の風情はなくなってしまった。左端に少し見えているのが現役場(4/1より)である。しかし面白いもので役場前の松の木の根方にあったポストだけは残っている。郵政省の管轄なので簡単には撤去されないのだろう。誰も入手紙をれなくなっても立っている姿にいとおしさを感じた。郵政事業の民営化が取り沙汰されているが、私は趣旨には賛成するとしても田舎の小さな郵便局や日に一度しか集められない、それもたいした量でもないポストが無くなってしまうのは寂しい気がする。今は「郵便局をなくすとは云っていない」と云うことであるが、民営化すれば私の活躍する過疎地の郵便局やポストは今のままでは済まされないだろう。それも時の流れと云ってしまえばそれまでだが、賢明な日本人はたぶん過去からそうしてきたように、新しい仕組みの中に一時代前の装置を巧みに残すだろうと希望的な観測をしている。文化は生活の中に残す、それが無理ならある場所(例えば町並み保存や修景)に残す、それも無理なら過去の遺産として博物館その他に資料保存・研究し文献として保存する。この3段階に考えることに必要性がある。ポストと言えば昔の円筒形のものが、最近博物館だけでなく、保全地区や修景された町に意図的に配置されている。喜ばしいことと思う。・・・ただし役場前のポストはこの写真を撮った1週間後撤去された。 回の写真はヘキサーRF+ヘキサノンKM28mm・35mm+RDP3で撮影した。

同じく役場前から。以前に紹介した家の「引き屋」の登場した家が道路から100m以上奥まで引っ込んでいる。おそらく代替え地を貰って移動したのだろう。役場の移転と同時に駅周辺の区画整備事業が進みつつあり、通るたびに景色が少しづつ変化している・・・「開発と保全」そう言う立場に立つ私とて複雑な心境である。この空き地から駅前までの広大な土地は遠からず大きなショッピングセンターとバスターミナル、そしてそれらを縦貫する道路になる予定である。学研都市のお陰で社会資本は整備され、急行が止まるようになり、便利性は高まったが(この田舎町の駅前からディズニーランドや新宿行きのナイトバスが出ている・・・当然ほとんど人は乗っていない。最初はとても奇異に感じた)普通の田舎町のままで居て欲しい気持ちの方が強いのである。人口増加率が関西で一番高い町なのである・・・きっと私の記録が役に立つ日が来るだろう。

駅前から少し外れた農村部の児童公園にて。桜がとても綺麗で毎年ここで必ず写真を撮る。今年は天候が少し不順だったためか百花繚乱と言うわけにはいかなかった。暗示的な事だが不安がよぎる。児童公園から全ての施設が撤去されたのである一月前まではここにすべり台やブランコがあり、子供達が遊んでいたのに今は何もなくなってしまった。それでも桜は律儀に季節が満ちると咲き始める・・・心なしか例年より独特の灰色がかった桜花の色が暗くなったように感じた。私の気持ちは更に・・・ただでさえ憂鬱な季節なのに。結局、この地区の溜め池の権利を道路公団に売却したお金で公民館となるのである。

4/11

先日、奈良の富雄川流域に行ったときの話。目的はこの川を下って(私の家はこの川の上流、水源に近い所にあり「下る」というのが正しい)大和郡山の県立民俗博物館に行くことだったが、川を見ると水運や漁業に関することを調べる癖がついていて、富雄川にもこれらの痕跡を発見した。この川は奈良、大阪、京都の県境あたりを水源として、生駒山系のすそ野の低い丘陵部を縫うように南下して奈良盆地で大和川に合し、大阪の堺市から大阪湾にそそいでいる。大和川の水運は有名であるが、近世まで陸路よりはるかに盛んだった内水面の水運は奈良盆地よりかなり奥地のここまで及んでいたことが分かった。富雄川も下流域は護岸や河川改修で痕跡すら認められないが、本当の田舎の水運最奥の地には痕跡が残っていた。地図を見てみよう・・・場所は国道163号線と富雄川の交差する場所で生駒市高山地区という「茶筅」の生産では全国的に有名な場所である。春には何も植わっていない田に茶筅の材料の竹が干されている。この光景は高山だけではなく、私の家の近くでもよく見かける景色であり、おそらくは高山に卸しているのだろう。確かに竹林が多く、しかも良く手入れされている。

富雄川上流、高山付近。この写真だけでは分からないだろうが、川岸と河畔の家の構造、村の構造で水運の終点の痕跡が分かる。ここから上流は完全な山の川になる。ここから下流に少しだけ痕跡があり、それ以降は完全に街の川になってしまった。 CLE+ロッコールM28mmF2.8+RDP3

高山地区。茶筅の材料の竹が干してある。見たとおり細くてしなやかな竹である。ここは昔から茶筅の産地で、今や普通の品は中国産に押されて国産品は壊滅した...しかし高山では高級品に特化して、国産品の90%を生産している。 M5+キャノン35mmF1.8+RDP3

これは大和郡山市の民俗公園の梅林。梅の花の向こうに人の影が見え隠れするが、不思議なことに概して人は少ない。ここには県立の民俗博物館があり、奈良県の歴史・民俗が紹介されている。勿論、大和川水運のことも展示・解説されており、許可を取って写真もたくさん撮らせていただいた。舟の特徴も完全に押さえて今後の研究におおいに役だつだろう。民家が3軒移築されており全体が公園になっている。いわゆるエコミュージアムのはしりである。私は約20年前この博物館ができたとき来たことがある。ここはあまり変化がなかったが、近隣の開発は凄まじいものがあり、昔の面影はまったくないと言って良い。残念である・・・それにしても近所に住む私から見ると京都側は開発が非常に緩やかである。 CLE+ロッコールM28mmF2.8+RDPV

4/7

今日の話は3/24−25に鳥取の湖山池に行って来たときの話である。今回は地震の影響と年度末のいつもの道路工事によって移動に時間と労力をかけてしまった。行きは国道9号線を走ったのだが、どこでもかなりの渋滞で途中から間道を走って鳥取へ行った。工事現場を見ると、例のIT革命政策による光ファイバーケーブルの埋設工事だと分かったが、田舎にも高速の情報伝達手段をという工事で、一方の重要な物流手段である国道の大渋滞につながっている・・・皮肉な話である。さて湖山池は鳥取市街地の西にあり、日本で2番目に大きな池である。水路で海にもつながっており、以前は潮の満ち引きで海水が流れ込んでいたようである。そのような汽水域の常として漁業は昔から盛んで、今も漁は内水面としては継続されている。とは言え10年以上前に一度来たことがあるが、確実に舟の数は減っている。池の周囲は公園として整備が進みつつあり、船着き場も隅っこに追いやられている印象がある。埋め立てで陸地の中に船小屋だけが残っている風景すら見えた。舟は当然に小型船で大部分がFRP船になっているが、今でもこの地方の伝統的な「カンコ」が残っている。この舟はひとり乗りの大変小型のもので刳り舟系の舟であり、今は板合わせのFRPコーティングの普通の人から見ると何と言うことのない舟であるが、学術的には出雲世界の「ソリコ」「モロタブネ」「トモド」(これも神事に使うモロタブネ以外は消滅し、博物館等に残っているのみである・・・私が調査を初めて行った15年前はまだ民俗事例としてあった)の流れを組む重要な位置を持つ舟である。それというのもこの系統(構造)の舟は出雲世界から点々と残存し、東北の三陸海岸まで分布するもので、かなり古層の舟文化を予見させるものなのである。だいたい出雲−鳥取・因幡−兵庫・但馬−京都・丹後−琵琶湖−愛知・渥美−静岡・浜名湖−諏訪湖−神奈川・三浦−三陸海岸となる(定説となっていないがボウチョウ型とでも言っておこう)。別系統の刳り舟には若狭〜秋田の日本海沿岸の「オモキ造り」の舟と、日本海側の秋田県米代川・太平洋側の岩手県・田老町以北北海道まで分布する「ムダマ造り」の刳り舟、南西諸島に分布する「サバニ」系の刳り舟がある。勿論、各地で独自に短材の丸木舟から進化した舟もあるが、複材の刳り舟のうちハッキリした分布域を構成するほどの発達をみたものは上記のよっつだろう。当然これは民俗から見た分類で考古学や文献史学から見ると別の像が見えてくるのだろう。

地震のあった日、まさにこの撮影時揺れがきた。ここではたいしたことが無かったが、新幹線が止まったため翌日は道路の混雑が予想され海沿いに舞鶴まで行って帰宅した。ここで写っている舟は伝馬型の板舟で「カンコ」ではない。漁場まで船外機で行き、あとは櫓を押しながら小規模な刺し網を刺す。ほぼ淡水化しているとはいえある程度の漁は可能である。左に見える島はヒョウタン型をしていて神聖な場所とされている。右の岸から青い橋がかかっている。人は住んでいないためお参りのための橋である。都市に近い割りには水は綺麗である。橋の向こう遠くに小さく見える白い建物は鳥取大学で湖山池の海に近い岸辺にある。 フジTX−1+45mm+RDP3 やはり青い玉だ。

翌日は小雨の降る山陰らしい天気だった。湖山池から海に通じる水路(川とも掘り割りとも云える)。池の回りにもあるが、ここが隻数の多い舟溜まりになっている。両岸の家から降りてきて舟で出漁である。ここでも少々問題のある河川の占拠が見られるが、これも代々の「権利」であり行政もそれを黙認している。基本的に河川・護岸に構造物は作ってはならないのである。私はこのような人達の側に立っていることは言うまでもないが、常に時代性との「調整」は必要である。向こうが海で、背中側が池である。 M5+ズミクロン35mm/6+RDP3 同じフィルムでしかも曇っているが、6枚玉は素直な色再現である。

左が水路で右が池である。海水の進入を最小限にするため、そして湖山池で放流した魚が出ていかないようにするための「壁」である。池側に長く伸びた先は舟が一隻通れる程度の隙間がある。これも池側だけでなく、川湊側の漁師の権利を確保するための賢明な知恵である。大袈裟な河口堰や堰堤なしでも権利や開発・保全を解決できる見本である。なおこの時の私の背後は大規模な干拓地=農地になっており、淡水化による塩害を阻止できている。漁業だけなら汽水の方が遙かにいいが、時代の要請で農漁業の両立が計られたのである。私は伝統を守る側にいるが、何が何でも開発や改変を否定はしない。特定の人達の権利だけではなく、今暮らす皆の満足を得る、或いは合意を得る。或いは「節度と寛容」を守るとでも言おうか・・・伝統文化は、まずは生活の中に残す努力を、それが難しければ生活とは切り離されるが保存・記録として残す、更にそれも難しければ聞き書きや文献研究などで残す。未来に資する共有知としてどうしても残すのである。私は歩き続ける。 M5+ズミクロン35mm/6+RDP3 

3/19

私の町に流れる木津川河川敷の風景。土手の上から川の方を眺める。と言っても川面は遙か彼方である。河川敷内にこのような大木が生え、その向こうにはかなりの面積の畑がある。更にその向こうに葦や柳の藪が茂り、ようやく川がある。昔から大河の河川敷は耕作に利用されてきた・・・上流から水と共に肥やし気のある土砂が流されて来て、なかなか肥沃な土地なのである。と同時に干ばつにも強く、エジプト文明が「ナイルの賜物」と言うことと同じである。川の流路の変動とともに変動する耕地、まず最初に鍬を入れた者が権利を持つ。しかし川に面した字の地先権の範囲内であることは言うまでもない。従って集落共有の財産と云っても良い。これは魚や流木(以前は薪のために川辺の村では非常に重要だった・・・一般論として川辺には林が少なく、入り会いの薪採りの確保は難しかった)の権利も同じである。そのような理由で大河では川の中心あたりを境にして対岸の村とは権利が別れ、隣の村とは字の耕作地の地先で別れた。ところが対岸とは物理的にもその原理は守られたが、隣村とは往々にして越境がなされる事になり、その度に騒動が起こることとなる。案外対岸の村とは仲良く、隣村とは仲が悪いのが川辺の村の特徴となっているのである。今は一級河川は国有地なので勝手な耕作はできないが、それでも暗黙に地先権は認められていて木津川でもかなり大規模な河川敷や中州の耕作がなされている。

2001/2/11・・・川面は藪の向こうにあり土手からは見えない。河川敷の耕作地の特徴として比較的雑然としていて、農機具小屋もにわか造りのものが多い・・・それというのもいつ出水に流れて元の木阿弥になるかも知れず、通常の畑ほど手はかけられないのだろう。とは云ってもかなり大仰な畑もある・・・それは後日紹介しよう。 CL+M40mmF2(CLE用)+EB・・・極めて線の細い描写である。

3/17

けいはんな学研都市の一角、高山地区の奈良先端技術大学院大学の裏山を少し越えた所にある小さな字の家。昔は山の最奥の僻村だっただろう・・・今でも風景から研究施設を切り抜くとその風情である。私の家の近くにはこのような不思議な光景が随所にある。最先端の学研都市と南山城の山里、森林に囲まれた山中の庵のような農家である。最奥の2軒には車も入らない。私は滅んでいく郷土のムラの記録を続ける。

私の影が落ちている所が唯一の道である。数軒の家があるのだが竹藪と照葉樹林に囲まれて互いの家は屋根しか見えない。これが西日本の原風景のひとつである。農家なのだが何を耕作してきたのか定かではない。耕地は少なく、林業のムラでもないのである。家の構造を見ると明らかに養蚕を行っていたようだが、それも小規模なものだろう。日本の田舎には今の常識で推し量ると理解しがたいムラがどんな山奥にも海浜にもあるのである。ひとえに自然の豊かさに支えられ色々な手段を併せて生計を立ててきたのだろう。 M5+キャノン35mmF1.5+EB

3/16

近所の駅(JR片町線祝園駅、近鉄京都線新祝園駅)の写真。私の家のあたりはまだまだ田舎なので無人駅も多いが、この駅はJRと近鉄の駅舎が一体となっており(線路も、ほん隣に並行して走っている)、役場所在地の駅の体裁をなしている。と言っても特に商店街やターミナルがあるわけではない。私が大人になったころまで木造の典型的な農村地帯の作物の積み出し用の駅だった。今は学研都市が誘致されたおかげで駅前の再開発もゆっくりとではあるが進みつつある。国際会議場や大学、研究所が数多くあるため関西国際空港へのリムジンバスも通っている・・・ほとんど人は乗っていないがそれでも運行されている。駅前からはディズニーランドや新宿行きのナイトバスも通っているのである。不思議な景観を見るこの頃である。実はこの写真は昨冬撮ったもので、現在はここに写っている僅かに残っていた昔のままの駅施設はもうない。すべてならされて何やら近代的な施設に変わろうとしている。それがたとえ緑豊かな公園になろうと、昔を知る者には寂しいかぎりである。寒い田舎の駅と澄んだ空気を感じ取っていただければ幸いである。

ライカM6+ズミクロン35mmF2(7枚玉)+センシア

消防訓練。木造家屋や森林の多い地方では消防団の存在は大きい。小さな消防署しかなく、その管轄範囲も広いため、初期消火に自衛消防団の必然性があったのである。私も消防団に入り簡単な訓練もして免状も貰った。そして毎年のように訓練は繰り返される。大きな消防署のできた今でも防火に対する備えは衰えず、かなり大規模な訓練となる。地方の自治というけれど「自律自営」の精神が必要であろう。単純に権限を地方自治体に移すだけでは、お上が国や県から役場に変わっただけであり、「あなたまかせ」ではない住民の意識の向上が求められるだろう。都会では自治意識は希薄だが、どっこい地方には未だに大昔から連綿と続く郷土意識が根付いている。地方分権を言うときやはり伝統的な地域文化を考える必要があるだろう。

京都府精華町、消防訓練にて。大部分の人は民間人である。火事の際には実際に出動する。各地区で組織されている。 ライカM5+ズミクロン35/8枚玉+センシア。

木津川河川敷での合同訓練。町中の消防団員と消防署員が参加する。 レチナVC+クセノン50mm+ベルビア

いわゆる引き屋の話。昔からこういう職業があることは知っていたが、初めて実際に見た。祝園駅前の整備に伴った道路拡張のために道端の家を移動する際に、家をバラスのではなく、そのままの形で土台ごと移動するのである。今はこのように住宅を数十メートルの範囲で移動するだけのようだが、以前は船に乗せてかなりの距離を動かしたり、もっと大きな建物まで引いたようである。職人がまだ残っており、事業として成り立っているとは思わなかったが、身近な話や調査地での話にもしばしば登場する「引き屋」の話である。

ヘキサーRF+ズミクロン35mm/6+センシア

私の住む町の最も山方のムラ(京都府相楽郡精華町東畑地区)の春祭りである。

ベッサL+スナップショットスコパー25mm+EB2

山間部のムラではあるが、特に深い山ではない。典型的な里山を後背地に持ち、その谷にひらけたムラである。谷を下ると田畑が拡がり、京都や大阪へ出荷する近郊農業が昔から盛んである。JR祝園駅も片町線を使って大阪に農作物を運ぶための集荷の駅として、この辺では数少ない有人駅である。現在は苺を特産品としている。東畑は山を下った木津川近辺のムラからの移住者でできたムラであるとの伝承もある。昔は研磨剤になる鉱物が出て、このムラ独自の賑わいもあったようである。当時はもっと山深い場所だったことは容易に想像できる。京都(山城)、奈良(大和)、大阪(河内)の三国の国境の地域で開発が簡単ではなかったのである。現在でも自然林が多く存在し、交通に便利な割には伝統的な生活や美しい自然が残っている。このムラでも観光とは全く関係ない春祭りが行われている。裏山の氏神様の神社(やはり農耕に不可欠な湧き水を中心にした神社である)で紅白の幕を張り、村人達だけで今年の豊作と家内安全を祈り、そのあと宴席を設けて歓談し、村人相互間の連帯を確認する。一時は祭りそのものが絶え、最近復活したと聞く。全部で20−30人程度の小さな規模の祭りだが、隣村から来たよそ者の私も暖かく迎えてくれて、人間が少ないほど個人の価値が問われるということを感じた・・・「人恋しい」過疎の地域を旅する私にとってよく分かる気持ちである。私も隣の地区の自治会の役員をしていて、ここの人達と町の今後について色々な話をした。この町は決して過疎地ではないが、国境の町としての寂しい空気は今もある。人口がここ10年程で倍になったとはいえ、まだ一万数千人の町である。そのような地域だからこそ学研都市の構想に合致したのであり、現在は京都府下で最大の人口増加率となっている・・・今後失われるだろう伝統的な文化や景観を記録する覚悟である。なにしろ自分の町内なので便利である。まさに地を這うような調査をしてみたいと思っている。

ベッサL+スナップショットスコパー25mm+EB2  空からの光でフレアが少し出ている。周辺光量の低下も見られるが、思ったより少ない。条件を整えると案外シャドウのディテールも出るようだ。

3/15

季節の話をひとつ。今年の節分の日、近所の神社に足を運んだ。田舎なのでどの字にでも大小の差こそあれ神社はある。それに私の住む京都南山城地域は今でも神々の座を守り敬っている・・・私もそうである。神の存在を信ずると言うよりも、地域文化のよりどころとして大切にしているのだろうと思っている。節季の到来の度に近在の神社を訪ねているが、節分の日もやはり人気のない社に(このあたりの神社はそのほとんどが無住である)豆が供えてあった。山の頂に近い場所で四方を眺められる場所にあり、観光とは無縁ながらいつも掃除がいき届いている。私ももう少し俗から離れた生活を始めたら、ぜひとも大昔神の降りた山々の社を鎮守したいものである。宗教とは関係ない。森林に育った私たちの文化の拠り所は、やはり山とそこから湧き出ずる川、そして野を越え海に注ぐ・・・また岬を巡りて次の浜へ。そしてその向こうに見える岬を目指す。そのようにして先祖達は日本中の山野や海浜に暮らしの域を広げていったのである。山に神社があり、その裏に川の源頭があるのは必然的なことなのだろう。勿論それとは違った意味で河原や海辺にも杜がある。景色は私たちの内にあり、外に向けて投影されたものなのだろうか。私の内面と外に見える景観は切り離せない。神社の照葉樹の森を歩くと藪をかき分けて私の先祖が表れるような錯覚・・・緑夢がある。山を歩くのは大好きなのである。

節分の日の神社にて。M5+キャノン35mmF1.5+EB このレンズは開放からでも使える・・・とても軟らかなトーンが出せ、ズミルックス35と同じくミステリアスな味を持っている。

2/17

先日カメラ好きの知人達と大阪の大川の淀屋橋付近を撮影散歩した。都市の川には自然川とは異なる川辺の世界がある。鉄の矢板とコンクリートの3面張りの川なれど人々の暮らしはある。川は昔から無縁の世界であり娑婆の普通の生活とは切り離された存在であった。無宿人、遊芸者、聖賤合わせた異民のより集う場所で、現在でもその雰囲気は残っている。法的には1級河川は国が、それ以下の川は府県、市町村が管理しているのだが、現実は河川や河川敷を生活の場にしている人々は多く存在している。不法占拠に近いと言ってしまえばそれまでだが、事はそれほど単純ではない。関係機関としても法的な整備のなされる以前からの慣行や権利を認めざるを得ないのが実態である。私は彼ら生活者と自治体との間の立場でものを考えているので、いつも「共生」を考える。片方には「節度」をもう一方には「寛容」を求めたい。川は今や「皆のもの」で自治体のものでもなく、地元の人達のものだけでもないのである。川は誰のものか・・・よく考えてみよう。

大川を御堂筋に架かる橋の上で下流側から眺めたところ。右岸に(画面では左・・・河川の岸は上流から見た左右となる)水上生活者の生業の施設が点々とある・・・貸しボート、ボート免許の教習、屋形船など。その外側には中之島公園が広がる。左岸は鉄の矢板を打ち込み、コンクリート護岸との2重構造になっていて、すぐビルの壁面になっている。表側は大通。すでに水辺に背を向けた街である。しかしよく見ると桟橋があり、有名な大阪市経営の「水上バス」の乗り場となっている。ここから天満橋、桜宮を経て毛馬の閘門脇の友渕まで、小規模ながら現代の渡し船が通っている。ただいま大赤字、通勤の定期券は1名のみと聞いている。あとは季節の良いときの観光・・・船遊びは昔は最高の贅沢であった・・・用に運行している。画面中央が水上バスで、今方向転換しているところである。船の転回は見たことがあまりないだろうが一度見てみると良い。船は橋の下を潜るため低い構造で、雨風を防ぐためフルカバードになっている。これと同型の船が東京にもパリ・セーヌにも航行している。

右岸の貸しボート屋。公園のソテツの生い茂るところにあった。これだけの隻数で生計が成り立つのかどうか分からないが「権利」はある。いつまでも公園を歩くアベック(なんというロマンチックな響きだろう)のために営業を続けて欲しい。小屋の傍らにベンチがひとつ、缶コーヒーの自動販売機が一台。小屋自体は川に浮いており、細い吊り橋で岸とつながっている。 今回の撮影は、フジフィルムTX−1と45mm、新プロビアで撮影した。

2/11

冬の旅−3−これで終わり。その日は雪が激しくなり、とても撮影どころではなくなったので、少し早いが宿屋へ向かう。寒冷前線の接近でとても寒くなってきた。民宿のコタツに入り、エアコンも動かして暖まる。2時半ごろから夕方までとりとめのないカメラや仕事の話が続く。外は増々雪が大風とともに吹き付けてきた。「また明日天気になったら」と強がってみるが自信はない。さて今夜はカニ料理と温泉だ。去年もそうだったが田舎町で雪見をしながらカニを食べつつ温泉につかる・・・何とも通俗的で楽しい。年に何回もない遊びの旅行である。旅行社で無理を言ってひなびた漁村で温泉の湧くところ、そしてカニ尽くし料理の注文・・・でも親切に相談に乗ってくれ、パンフレットに無くても民宿に連絡を取って交渉してくれた・・・近畿日本ツーリストのKさん有り難う。民宿は木造の3階建、予想よりひなびきっている。なんだかドカドカ歩くと揺れるような気がする。実はこのところこの周辺で頻繁に地震があり、この時も地震だったようである。さんざん話をしたのち料理の出来上がりを知らせてきた。別の部屋で2時間程度かけてカニを食べる。ゆでガニ、焼きガニ、刺身ガニ、カニすき、等々・・・最後にご飯と卵でカニ雑炊。あまり酒を飲まないので、またくどくどと仕事の話、写真の話をしながらのんびり食べる。なにせ食べきれないほどの量なので「無口になる」ことはない。昨年は一生懸命食べたので最後は嫌になったが、今年はゆっくりと食べたため、ちょうど食べ終わっておなかがいっぱいになった。風呂好きの友人は3度温泉に入った。温泉なのだが彼は不思議なことを言う「普通の風呂だった」。よく聞くとどうやら家人用の風呂に入ったようである。それで温泉に入り直し、また朝に入る・・・とぼけた人物である「才能の人」。

宿屋の窓から。吹雪で近くの山もおぼろげである。看板にも雪は吹き付けられ固まっている。友人曰く「北海道へよく行くが、こんなに吹雪くことはない」との話。雪の量はそれほどではないが、北西の季節風の激しさがよく分かった。

次の日起きるとやはり雪が積もっていた。それでも風で吹き飛ばされるせいか積雪量は大したことがなく歩けないほどではない。朝ゆっくり目に村へ出る。しかし少し写真を撮るとまた降り始め、観光ホテルのロビーへ避難するとまた止み、歩き出すとまた降る。今回は記録的な雪だったらしくルポルタージュどころではなかった。まずは予備調査としておこう。街の構造や地理は分かった・・・次ぎに訪れるときに役立つだろう。

浜に山が迫っており、町中も坂道が多い。外から来る人は雪道で転ばぬよう気をつけたい。大過なかったが私も一回滑って転んでしまった。しかし地元の人はさすがに慣れていて早足に歩いていく。中には雪が凍結した道路を平気で自転車に乗っている人もいる。写真の道は除雪車が出て積雪は少ないが、本当は40cm程度である。

また昨日の浜に出てみる。吹雪くため視界が悪いが、だいたいの町の景観が分かるだろう。たくさんの民宿と何軒かのホテル、砂浜の立地・・・夏は海水浴場である。既に沿岸漁業は衰退して久しく、観光に頼る町である。砂浜には漁業資源が元々少ない上に冬場の操業は不可能なのである。カニ漁も底引き網船でかなり沖合まで出る。民宿・旅館の多くは「船買い」をして一回の出漁を幾らで買うのである。漁がなければ大損の博打的な仕入れである。しかしそうまでしなければ観光で生き残れない。輸入物も増え流通も良くなった昨今、旅費や宿泊費を考えるとかなり割高になり、観光客は来ずに都市のカニ料理屋で食べることになるのである。「新鮮」だけでは私たちのような好き者以外は足が遠のくのである。現に高速道路の伸延で日帰りのバスツァーがむしろ主流となりつつある。これでは料理で稼げても宿泊で稼げない・・・都市の料理屋と違って季節だけなので深刻な問題である。また過疎が進むのだろう。

浜で観光客が雪だるまを作っていた。砂浜は地面が軟らかく平坦で滑らないので、観光客にとってはいい遊び場のようである。若者達が波打ち際の雪のないところを散歩していた。灰色の空と海、激しい風と波。誰でも経験があるが若いことは無条件に良いことだ。

あるホテルのロビーから。ますます雪は激しくなる。昼前にここに休み、友人はここの温泉に入ってしまった・・・無類の温泉好きである。私は所在なく、自分のM6と彼のM4−Pとレンズを掃除しておいた・・・こういう悪条件での撮影では特に雪(水分)に注意しないといけない。ライカは想像より防水性・防塵性が悪いのである。そうこうしているうちに観光バスで日帰りカニツァーの人々が大挙してやって来た。大阪から3時間、カニを食べ温泉に入り、そして夕方に帰っていく「締めて8千円」のお手軽ツァー。そう言えば泊まりの観光客は夕方4時頃やって来て、次の朝10時には帰っていった。なんとあわただしい旅である。雪の中をどうして歩かないのだろう、どうしてひなびた漁村を歩かないのだろう・・・人々にとってそれはつまらないことなのだろうか?

今回は色々と観光について考えさせられた。寂しい日本海側の漁村にとっては夏の「海水浴」、冬の「カニと温泉」はかけがえのない観光資源であり、夏の2ヶ月、冬の3ヶ月は「華」の季節なのである。単に生活のためだけではない。跡継ぎが残るかどうか、町とつながる鉄道が残るかどうか、なにより町としての存続が安泰かどうかの瀬戸際の現実的な問題なのである(現実に丹後の山村では離村・廃村が相次いでいる)。また来年も僻村の冬の旅に出かけよう。決して助けようというのではない・・・目撃者として、後世への記録者として。

最初の計画では3時頃までここで写真を撮って夜に京都へ帰るつもりだったのだが、そうもいかなくなった。雪が更に激しくなり撮影不能の事態となっただけでなく、帰れなくなる可能性まで考えなければならなくなったのである。1時半の便に飛び乗り、特急自由席に座り、福知山で大阪行きに乗り換える。自由席は満席だったのでグリーン車に乗って帰った。15分の遅れで済んだが、夕方の便は1時間以上の遅れになったようである。雪は福知山まででそのあと少し走っただけで嘘のように雪は無くなり、丹波篠山では降った痕跡すらなかった。帰りに駅まで送ってくれた民宿の主人の「福知山まで行ったら雪はないよ」と言う言葉がよく分かった。毎年のこの冬の差は何十年も過ごすと大きい。グローバリゼーションという一般化はあてはめてはならない。すべて地域は個別にしかも影響を与えつつ暮らしを立ててきたもので、生活の一元化により便利になったかも知れないが、伝統は忘れ去られ都市への憧れがつのるばかりである。現地調査をしていてよく聞く「昔は良かった」という言葉があるが、その反面「そりゃ今の方がいいさね・・・」と付け加えられる現実もある。私たちは都市と地方の格差と伝統について、もっとよく考えなくてはいけないだろう。地方分権と最近よく語られるが、地域文化についてはなかなか及ばないことが多い。社会の一元化は危険な考え方であると思う。

2/7

冬の旅−2。川沿いの堤の上に歩を進める。橋があって道が交差し、私はそのままこの川沿いに海まで進むことを選択し、友人は集落のなかから海へ向かう。いつもそうだが、一緒に行っても一緒に写真は撮らない。お互いの姿勢が異なるためであり、撮影現場を共有することを好まない。海での再会を打ち合わせて・・・当然に地図はもっている・・・この橋のたもとであっさりと別れる。更にこの土手の道を川に沿って進む。河口が見えてきた。何軒かの旅館と民宿が見えてくる。温泉の泉源からのパイプが川をまたいでいる。道はますます狭くなり、雪深くなる。

空は雪雲で暗い。川にかかっているのが温泉のパイプで、右の雪原に泉源がある。高台の旅館は一階が船の形をしていて面白い。村の中で一番高い場所で、おそらく往時は魚見−或いは日和見の山だったと推測される。どの漁村でもそう言う場所があるものである。

更に歩くと、ついに道は無くなり、河口近くにかかる橋のたもとから道へよじ登ると海だった。この川は木津川と言い大河ではないが海に真っ直ぐにそそいでいる。河口部の砂の堆積もあまりなく、河口では冬の季節風による風波と川の流れがせめぎ合っていた。この橋の向こうは砂丘地帯である。

この段階では降雪はなく、天気の割りには視界が遠くまできいた。

河口からついに海に出た。それまでの閉塞された景観が一度に開ける。そのかわり人の気配や生活の景色はなくなる。自然とは残酷なもので人間の進入を拒む存在に思える。日本海のこのあたりでは磯と砂浜が交互に存在する。北西の季節風と風波で岬の表側は浸食され荒磯となり、その裏側では砂が堆積し砂浜と砂丘を形成する。どちらにしても冬場は人間の介在を拒むように荒れる。冬中一方向から吹く風を遮るもののない砂丘・・・夏の海水浴の浜と同じ場所とはとうてい思えない。

雪の砂浜。美しいと感じる人がいるだろうか?それとも何もかもが吹き飛ばされていくこの世の彼岸を感じるだろうか。地平線に少しの明るさを感じた・・・雲の向こうに太陽があるのだろう。

波打ち際まで降りてみる。遠くの方は激しく雪が降り始めて見えなくなった。さっきの川の分流が浜に沿って流れている。砂浜の真ん中に突然の川の出現である。河口付近に砂が堆積(上流からの土砂の流下と、季節風によって海からの砂が寄る)し、河床が上がり川の水が海へ出にくくなると(これに風波と満潮の圧力がかかるとなおさらである)このような現象が起こる。左も砂浜、右も砂浜、そして10m向こうに海がある。より低い場所を縫って数百メートルも蛇行しながら流れ、私の立っている付近でようやく海にそそぐ。流れはとても速く、砂地なので落ちると海まで流されるかも知れない・・・海へ押し出されるとまず自力では助からない。陸側から見ると流れの穏やかな川に見えたが、海には別の魔物が住んでいる・・・私の現場である。過剰と思われるぐらい「カメラ談義」に繰り返し撮影リスクを要件にカメラの評価をしてきたが、これにライカの必然性があるのである。

2/4

冬の旅。1月日本海側に大雪の降った日、私たちは丹後網野町にいた。毎年恒例の写真家の友人と共のカニと温泉と冬景色を楽しむ旅である。宮津の天橋立、但馬の城崎〜竹野の旅に次いで3回目である。さて毎年のように京都駅に9時集合。何度も来ているが京都駅は不思議な構造と景観を持っている。モダンな都市の駅としては最も好きな駅と付属の建物である。

駅ビルは建設の時、景観論争が起こったところだが私は良いと思う。東寺の五重塔と京都駅ビルはマッチしていると感じるし、それが今必要な古い物と新しい物が交錯する「現実」の世界であると思う。鴨川に「ポンテザール」が架かろうとしたが市民の反対で中止となった。では義経と弁慶の登場するような意匠の現行の橋は良いのだろうか?ステレオタイプ化された「京都」の印象は、他県から来る人にはどう映っているのだろう。私は伝統的な事物を大切に考えているが、鉄筋コンクリート製で中世的な化粧を施された三条大橋はそのような事とは次元が違うと思う。

細いパイプと複雑で非対称の構造物を組み合わせた巨大なモニュメントである。駅ビル内の美術館に行くとき、伊勢丹に入ったとき、歩きにくいことこのうえない。建物が不整形なので方向感覚を失うのである。しかしこの眩惑は快さを不思議とかもし出してくれて好きなのである。わざとぐるりと構内を一周して正面の改札(写真右下)から入る。京都駅は大きく、32番線から丹後行きの特急は出るらしい。とても寒く、天気予報でも雪を告げていた。友人と落ち会い汽車に乗る。彼は首からライカM4−Pをケースに入れて下げていて、荷物は何も持っていない。上着のアノラックのポケットにレンズ1本、フィルム数本と一泊程度の旅行用品をねじ込んでのいつものスタイルである。昨年と同じくズミクロン50mm.35mmで、1年前のまま持ってきたようだ。普段はニコンF4とハッセルとペンタ645程度しか使わないが、私との旅の時だけはライカを持ってくる・・・しかも露出計の入らないライカである(実はM6も2台持っている)。前回は勘だけで露出を決めていたが、今回はセコニックの30年位前のセレンメーターを持ってきた。ただし勘の方が合っていることは間違いない。私はM6TTL0.85にコシナ・フォクトレンダーのCS35mmCとCH75mmを持ってきた。フィルムは彼がE100S、私がアグファ・スカーラ200(モノクロリバーサル)である・・・両名とも昨年の結果を踏まえての選択である。実は友達同士のカニ三昧旅行だけではないのである。カメラやレンズを限定して写真の勝負を賭けている。昨年は彼は同じ構成、私はM6−0.72にズミクロン35mmASPH、Mロッコール90mmCLE用+KRであった。結果は引き分け・・・フィールド写真は私に一日の長があるが、フィルム選択を失敗して私の絵ではなく「藤原信也」調になってしまった。天気がどうせ悪く、しかし全体に真っ白なのでフレアの多いライカレンズは避けて「切れる」コシナにした、そしてどうせ色よりトーンなので思い切ってモノクロにしたのである(雪中のカラーでコシナは真っ青になるのでよした方がいい)。汽車の旅は楽しい。色々な話をしながら町や村、野や山を越えて、あっという間に3時間が経ち海辺に着いた。

12時に木津温泉駅を降りるとき、私たち2人だけだった。駅長に聞くと「今の季節はカニを食べに来る観光客だけなので、夕方にならないと来ないのです」。どうやらカニを食べて温泉に浸かって帰るだけのようだ。こんなに素晴らしい雪景色と冬の日本海があるのに。食事後海に向かってぶらぶら歩くと小高い山の上に学校らしき建物がある。下に川が流れ、林の向こうにフェンスが見える。今は寒々とした風景だが春には緑豊かな景色になるのだろう。雪を踏みしめながら歩を進める・・・あとは次回。

2/3

1月中旬、大阪ドームへ恒例の「テーブルコーディネイトフェア」へ出かけた。私の知り合いの信楽の窯元が毎年出店しているため、今回で3回目の訪問である。なんだか景気の悪化を反映しているようで年々客の出が悪い。しかし全国から陶磁器、漆器、ナイフやフォークの類、果ては米や和菓子などの食品まで良質の製品が集まってなかなか楽しい。昔の「市」の風情はこんなものだったのだろう。てんでに人が集まり、市の期間が過ぎるとまた元の広場(昔は寺や神社の境内や河川敷などの無縁の場所、ここでは野球場)にもどる。そのような所に町ができたのだろう。この場所も今は埋め立てで陸の奥へ入ったが、少し前までは海から少し川を遡った河畔に立地している。あたりは水運を基礎とする工場や倉庫群が今でも稼働している。

少し客が減ったとはいえ結構繁盛している。結局売上は昨年並みだったようだ。客層は圧倒的に若者・中高年を問わず婦人が多かった。

ドームの客席側から撮った。グランドいっぱいに簡易店舗が建ち並び、軽食や喫茶店まである。全体を見渡すとやはり客は減っている。完全空調、照明・雨よけ付の現代の「市」である。

ドームの2階から大正橋方向を撮る。次の写真も含めて、暗い近景と明るく輝く遠景に私の写真家としての距離感・遠近感を見ている。暗い木立と明るい街。

ドーム脇の川。今でも水運は続いている。川沿いの工場や倉庫には直接荷揚げできる施設を持っているところも多い。川から都市は発達し、今は忘れ去られているが都市で最も広い空間を持ち続けている場所である。この写真を撮った後、後ろを向くとカモメが岸壁に並んでとまっており、人を恐れないのか1mまで接近できたが、フィルムが「終わり」撮れなかった・・・カモメは助かった。切り捨て御免の写真の世界である。写真は時を止めて対象は永遠に記録されるが、それは瞬間瞬間の死の記録でもあり、常に酷薄な不吉さを伴う・・・私は写真に撮られるのを極度に嫌う・・・特に人を撮るときは慎重になる。それでも写真を、人と自然の暮らしの景観を撮り続ける・・・楽しくも気の重くなる作業。

撮影データはすべてCLE+キャノン28mmF3.5+EB2である。久しぶりにこのところCLEを使っているが悪くない。どんなカメラも触ると良いものだ。このカメラのAEは平均測光なので(そしてAEロックがない)ヘキサーRFより露出に気を使うが、実際はカメラの指示どおり撮っても90%正確である・・・あまり気にしないことだろう。

1/28

琵琶湖の話の続き。船大工M氏のご自宅に行き、連年のようにカモ鍋をご馳走になった。琵琶湖博物館の丸子舟復元以来6年間ほど正月に訪問し、カモ鍋をつつきながら世相談義と昔話の数々・・・付き合いは復元の時を含めると9年に及ぶが話が尽きることはない。琵琶湖の民俗調査を始めて16−7年、丸子舟復元を機に1冊の本になったが、それで終わるのではない。時間は前に流れていき、琵琶湖とそれを取り巻く人の生活は存在し続ける。続けられる限り調べ、記録し、発表したい。私が「いい写真を撮りたい」ということはそういう事柄なのである。写真家として生きることの証なのか・・・。さてカモ鍋(ちなみに琵琶湖ではカモ鍋は2種類あって、ここでは「ジュンジュン」と呼ばれるすき焼きの事である)のカモが今年は少し小さい。しかし身が締まっておりいつもより美味しい。12時頃から始めて4時頃まで続く。食事と琵琶湖話が一段落し、舟屋(造船場)へ行ってみることになった。様々な木造船とその模型を見せていただく(毎年その時の仕事を見る・・・これも調査のひとつである)。次のプロジェクトについても色々話し合う・・・単なる調査者とインフォーマントの関係では既にない。そして雪が激しくなってきた。ふと舟屋の庭を見ると、なんとカモの小屋があるではないか・・・今日のカモはこの中の1羽を絞めたものなのである。どうりで美味しいと思った。昨年30羽ほど飼って、もう10羽ほどしか残っていない。明日もお客さんが来るのでこれが出てくるのである。前にも鮎の季節に、舟屋の桟橋から投網を打って捕らえた鮎を佃煮にして食べた記憶がある。自然と隣り合わせの幸せな生活である。昔と違い田舎暮らしは過酷ではなくなった。文明を享受し、自然をも楽しめる環境が整いつつある。今田舎に残っている人々はやむなく残った人と、残りたくて残った人ばかりになっていて、何れも地域文化(分かり易く言えば田舎暮らしの知恵と伝統)を意識している人々なのである・・・田舎暮らしを楽しんでいる人達。どこへ行ってもその感想は変わらない・・・まことに良きことである。「また来年も来ておくれやっしゃ」88歳の老船大工と別れて激しくなった雪の中を帰路に就く・・・私の家まで1時間半。

浜に貼り付くように建っている堅田の舟屋(造船場)・・・その向こうは琵琶湖。昔はこの2階に一家は暮らしていた。左は川ではなく琵琶湖から入る掘り割りである。今はないが往時は船だまりで湖岸の田畑へ通う田舟や漁師の小舟などが係留されていた。左岸を回ったところに浮見堂があり、湖岸は葭原が残され保全されている。 CLE+アベノン28mmF3.5+EB2

1/18

今日、京都亀岡の親戚の家に行ってきた。京都駅から電車で30分いつも車で行き、遠く感じていたのだが案外近い。私の家は京都の最南端、亀岡は70kmぐらい離れている。どうしても町中を通り抜けるため2時間半もかかってしまう・・・電車だと2時間以内なのと車窓の風景が美しい。京都を出ると梅小路の電車区(ここに鉄道の博物館と移築された旧二条駅舎がある)があり、次いで新二条駅に着く。ここは木造の屋根の造りが新鮮で、鳥羽の「海の博物館」の建物を思い出す。更に進むと太秦の東映映画村が見えてくる。たくさんのスタジオが線路沿いに並んでおり、往時がしのばれる。駅舎も昔の国鉄時代そのままだ。そして保津川下り。荒々しい渓谷と激流が線路の右になり左になり眼下に見える。下っている船も見える。ここの川下りは伝統的に川人が組合を作り運営管理をしている。観光資源として重要で何百人の組合員がいるそうである(ここら辺の話は後日)。この谷を抜けると亀岡盆地に入り、京都のベッドタウンとして街並みはずいぶん昔と変わったが、やはり駅は昔と変わらぬ国鉄の駅のままである。このように僅か30分で幾つもの異なった景観に恵まれた路線なのである。さらに旧山陰本線はトロッコ列車が走っており、それで走ると更に風情は変化に富んでいる。仲間内の日帰りの撮影旅行には最適だろう。行きは汽車、帰りは船で下る。上流の亀岡には「湯ノ花温泉」、下流には「映画村」「嵯峨野・嵐山」があり春夏秋冬を問わず川辺の景色や人々の営みが見られる。汽車の旅はいいものだ。今回はニコンS2で撮った。

山陰本線の二条駅前(2003/1でも変化は無かった)の再開発の風景。バスターミナルを作るのだろうが、人の姿はまったく見えない。とおりいっぺんの駅前再開発はなんとかならないものだろうか?ステレオタイプ化した町づくりには幻滅を感じる。2軒残った古屋に頑張って欲しいとも思われる。さほど遠くない背景に京都西山の連峰が見えていて気持ちの良い町である。  ニコンS2+35mmF2.5+EB2 とても軟らかいレンズである。

1/16

琵琶湖の話。瀬田川から湖東を湖岸道路で走る。ヨシ原を過ぎ、守山市地先に辿り着く。ここは琵琶湖が最も狭くなる場所で、当然にここに琵琶湖大橋がかかっている。ただしそれだけではない。もともと狭くなったこの場所は舟による対岸との物資や人の移動があり、その両岸には切り離せない相互関係があったことも見逃せない。つまり自然地理的な必然性と共に文化地理的な必然性もあったのである。さらに遡れば対岸の堅田は湖族と言われた人々が暮らし、琵琶湖の制海権を持っていて、通行税を取り、現代で言えば行政の一旦を担っていた時代もあったのである。それも「地の利」である。ある意味での海峡の町と云えよう。現代まで琵琶湖水運の中枢を担い、船大工も多くがここに存在した。昨今大きく語られる「環境」「経済効果」以外にも、開発計画に歴史や文化を無視しない方法が望まれる。私は子供の頃からまず自転車、次ぎにオートバイ、そして汽車や電車、自動車で繰り返し琵琶湖を訪れてきたのだが、近年「琵琶湖総合開発」によって大きく変貌した。勿論悪い部分と良い部分があることは間違いない。湖東側は水田地帯で琵琶湖が淡水であるため水辺まで田がある。そのため湿原のように水路が入り組み、田舟で田んぼへ通う生活であった。大規模な水郷地帯である。ここも「内湖」(いつか解説する)と共に埋め立てられたが、完全にはなされず、湖周道路は陸地の少し沖を埋めて作られている部分も多く存在する。従って景観も昔の舟から湖岸を眺めるような所もあり、左右がウミ(琵琶湖ではウミと言う)の不思議な風景も見られる。琵琶湖博物館もそのような埋め立て地にあり、博物館と淡水魚の水族館(日本最大)と植物園が併設されている。博物館の隣接湖面は広大な淡水性の植物の湿原が保全されており素晴らしい景色である。ただし一般の人は入れない。また博物館には船便があり、大津や堅田から直接舟で博物館脇に来られる。ぜひこれを利用されたい。さて琵琶湖大橋の開通で両岸の町は変貌とあらたな繁栄を見ている。湖周道路沿いにはレストラン、喫茶店、ホテルからリゾートマンションまで建ち並び、特に堅田側では以前の風情は感じられない。高校生の頃サイクリングで堅田を通過したときは昔風の茶店があって、そこでヨシズの下、縁台でコーヒー牛乳を飲んだ記憶がある。家は当時もあったが多くが湖岸を向いており、街道側はひなびた農村風景で、喫茶店どころか僅かに商人宿や茶店が何軒かあっただけである。今は昔の物語である。しかし街道から一歩入ると、どっこい湖族の生活はある。琵琶湖大橋の上から見るとよく分かるが、湖岸は昔どおりの町と湖のせめぎ合いのような水辺の風景が、戦前どころか江戸時代の絵図と変わらぬままに残っているようである。中心は言うまでもなく浮見堂で湖との付き合いは薄れたかも知れないが、湖と共に生きる生活は残っており、ここに船大工も商売を依然として生業せしめているのである。

守山側から琵琶湖大橋を望む。堅田側の観覧車が景観の一部となって久しい。向こう側の山は比叡〜比良の山並みで「比良八荒」として冬の寒い風で有名である。この日はこのあと激しく雪が降り、帰りは雪景色であった。その景色はまた後日紹介しよう。その後忙しくカメラにフィルムがまだ入っており、未現像なのである。 フジTX−1+45mmパノラマ+コダックEB 初めてフジのパノラマを載せられた。私のスキャナーでは24X36mmしかスキャンできないので知人のスキャナーを借りたのである・・・度々は無理なのだがまた紹介しよう。この画像では分かりにくいが自然な距離感で広い範囲を撮る・・・好ましいと思う。


フィールドノート/2000.4-2000.12

2000.12/31

ついに今年最後の野帳である。 さて11月中旬、友人K氏と奈良県当麻寺(當麻寺)に行ったときの話。紅葉と歴史散歩を兼ねての小旅行だったのだが、残念なことに冷たい小雨の一日であった。その代わり観光客もほとんどおらずゆっくりと歩けた。この寺の縁起は古く612年に用明天皇の皇子麻呂子王により河内の国に建てられた「万宝蔵院」が681年に、その孫當麻寺国見が現在地に移して、この地方の豪族當麻氏の氏寺として整備したと伝えられている(當麻寺縁起による)。古代の河内と飛鳥をつなぐ街道(地図を見ると両側を高い山地に挟まれた地溝帯の奈良側であることが分かる)の喉元を押さえた重要な場所であったのは一目瞭然だが、朝廷(天孫系)と地方豪族(国ツ神系)が同じ系統とは矛盾があり、この言い伝えは後世の創作であろう・・・或いは別々の事実を親族関係に意図的につないだのだろう。ともあれその後弘法大師により真言宗の寺となり鎌倉時代に浄土宗の霊場とされ、現在は真言・浄土両宗を並立した珍しいありようとなっている。さすがに歴史ある門前町を擁し、昔日の面影がしのばれる。

山門前から、徒歩で7−8分先まで門前町が続いている。右の茶店で昼食をとった。 M3+ズマロン35mmF3.5M3+センシア、極めてシャープな絵が撮れる。

くるりと背を向けると山門である。両側に阿吽の仁王が立っており、その向こうに広大な境内が拡がる。さらにその先はみはるかす自然の要害たる山並みが煙っていた。 撮影データは同じ。

この寺所蔵の多くの仏像や建造物、梵鐘などが国宝・重要文化財に指定されており、どれをとっても見ておく価値はある。特に金堂の弥勒菩薩、四天王像は震えが出るぐらい素晴らしいものだった。写真撮影は禁止なので(たとえ可能であっても実際に見なければ理解できない)見せられないが、ぜひとも奈良に来られる折は見ていただきたいものである。私は仏教美術には詳しくないが、それでもその価値は充分理解ができる。

境内内にある茶室の庭園の低い塀。角かどに飾り瓦があるが少し変わった物で、猪や蛙などの意匠である。 撮影データは同じ−仕事に使うのはどうかと思うが、M3は愛すべき機械である。

門前町の電気工事。伝統的な街並み保全のために少しの工事にも気を使っている。しかしその面倒さにも官民ともに慣れと理解が生まれており、守られるべき伝統は確実に残っている。保全だけでは成り立たない。ある部分の開発は認めて、その代わり保全すべきを客観的な判断で選び、そして完全になされなければならないことがコンセンサスとなりつつある。 撮影データは同じ。

この寺の奥の院の更に裏山は最近庭園として開発された。昔の深い森の方が良かったが、これも止むなしとしよう。どこの寺や神社でもあることだが、古くからの遺産を守るための最低限の観光化と考えるようにしている。當麻寺も含めて古い寺では檀家をほとんど持たず、補助金・寄付金や観光収入によらなければならないのである。

11/23

すこし前になるが、我が社の社員旅行で(今年は様々な事情で日帰り)大阪のウォーターフロントへ行った。午前中大阪天保山の海遊館に行ったが、ひと頃の活況に比べて観覧者の動員数は減っているようである。博物館や水族館、美術館などでも同じで、一度は行くが反復的に来て貰うのは難しく、いつとはなしに来館者は減っていくのである。これは最近各地で、次々閉館−縮小をしている遊園地やテーマパークと同様の問題である。完全な民営組織は欠損が大きくなれば必然的に廃業・倒産となるが、公的なものはそうはいかない。赤字でも続けなければならないのである。営利目的ではないという大義名分があるため、あまり「商売」を前面に出せず、各種補助金も簡単に得られるご時世ではない。入館料も最近は以前より高くなったとは言えそれほど高くはとれはしない。まとまった形で一般の市民に文化の啓蒙をしている背景に、そのような脆弱な基盤があるのである。海遊館も(少し後、TVのニュースでも報じられていた)最近はめっきり入館者が減って困っているようである。館の前の広場でアメリカ人の大道芸をして客寄せをしていた。本人に聞くと契約して事務所まで借りて演じているようである。大道芸は町の一角を借りてさせてもらうのが普通だが、ここではして貰っている・・・不思議なことである。

割りに有名な大道芸人と聞く。海遊館前広場にて。M5+S35ASPH+センシア  実はこの周辺は大阪市、サントリーミュージアム、国土交通省と三つの官民の協力で生まれた比較的希有な例なのである。徒歩で5分の範囲に海遊館・美術館・ホテル・大阪市天保山渡船・四国などへの航路の船着き場・海上保安庁や水上消防署の係留場・浚渫船の舟溜まり・その他の施設が共存している。

午後はニュートラムで海底トンネルをくぐり、舞洲に行く。ここも新しい埋め立て地でATC(アジアトレードセンター)やホテル、その他本格的な港湾施設があり、活況を呈している。ATCはアメリカの大きなショッピングセンターと良く似ていて、まだまだ店としてはこれからと思うが、人は多く集まっている。これらの買い物と観光の施設のすぐそばで、荷役などの港湾作業をしている風景は違和感があるとも見えるが、陸と海の接点として、昔から賑わってきた港町の新しい風情とも言え好ましいと感じる。近現代、港と街は少しく距離をとりすぎていたとも思うのである。古くからの都市はほとんどが海と陸と川の接点である河口域に立地し、水運を通じて発展してきたのである。つまり海運で荷が集まり、河川水運で奥の土地へ物を流して来たのである。勿論、その逆に山や田の産品を川から下し、港町で積み替えて全国へ送ったのである。都市と川、海は今より不可分・必然的な関係があったと云える。その意味でウォーターフロントの景観は私には好ましく、力強く見えるのである。そんな港町の歴史を紹介する博物館「なにわの海の時空館」がATCの近くに(いや近くに見えたが何もない埋め立て地を歩いて10分はかかった)大阪市の企画(経営は財団)でこの夏開館した。館のホールに入るとまずエレベーターで地下まで降り、海底トンネルを歩いてくぐり(何カ所かトンネルの上に小窓があり、海をしたから眺められるようになっている・・・魚も結構おり、案外汚れていない)、エスカレータで上がる。つまり海の上に建っているのである。館本体は前面ガラスのドームになっており、風景の良いことこのうえなし。展示の目玉は今回原寸大復元された江戸時代の海運の花形である、千石積み「菱垣回船」。この事業には少しだけ関係して、復元委員の先生の助手として福井県越前町や石川県の大聖寺の北前船の資料館に古い弁才船の模型や松右衛門帆の調査に加わり、この船(浪華丸)の進水式や実験航海の見学にも参加した。有り難いことである。船の復元には関心があり、手弁当でも参加したい特別の事なのである。この辺の事情は稿を改めるが、ともかく今回久しぶりにこの船と再会した・・・なんとなしに感動。展示の中身(勧められる内容である)は私のリンクにあるので見て欲しい。また行ける人はぜひ行って欲しい。。港町の文化や歴史に触れることの大切さもさることながら、ここの営業的な成功が更なる展示や研究の進展につながるのだから・・・。「港の景観」は去年、今年、来年のテーマであり、まるで今回は私のための社員旅行だったようである。海や川、湖のほとりに居ると子供のように楽しくなる。

*注 「菱垣回船」「北前船」「千石船」「弁才船」などと色々な呼び方をするが、概ね同じ船で航路や積み荷などによって呼び方が変わるのである。ここの船は弁才型の千石船で菱垣回船という意匠をもつ大坂−江戸間の荷船というのがほぼ正しい言い方になる。このタイプに限らず、船の呼称は複雑なので別稿とする。

ATC前の広場−護岸も兼ねている。ラテン系のジャズバンドが演奏をしていた。港と異国の音楽、合うものだ。異国の文化が入り続けた港町、洒落たコンサートと向こうに見える荷役の施設も何ら違和感なく受け入れられる。なんでも受け入れ、そして移出していく。「流転」が港の文化を支えてきたのである。

時空館にて。ガラス(或いはアクリルかポリカーボネイトかも知れないが=経年変化を考えるとガラスだろう)張りのドームなのだが、輻射熱対策としてパンチングメタルを内側に張ってある。ビルの高さで4階建て位である・・・上下左右360度全開の景色は爽快さを感じる。老夫婦が並んで神戸の方向を眺めて何か語り合っていた。海はいい。 

写真は2枚ともM5+ズミクロン35mmASPH+センシアである。逆光時のハレはまだ残っている・・・国産のレンズではこのようなことはまず無いだろう。これもライカの「味」と言ってしまえばそれまでのことである。

11/20

伊勢湾旅行の最後の話題。長い海岸線の旅の果ては、悪名高い四日市の石油コンビナートで海は切り取られて終わった。松阪からずっと長い砂浜が続き、人の生活と自然が出たり入ったりの、よく言えば調和のとれた(悪く言えば寂れた)海辺の景観があり、都市からそう遠くない地域によくここまで残ったという率直な感慨を持っていたのだが、鈴鹿川を挟んで全く別の世界があった。この写真の地点の背後には湿原が広がり、自然の風景と人々の生活が確かにあった・・・これほど寸断された海岸線は見たことがないとも云えよう。そもそも海岸線は国有地であり、つまりは皆のものである。つまり本質的に誰のものでもなく、人の立ち入りは一定の既に存する権利(漁業権、浜の利用権など)の侵害をしないかぎり勝手なのである。そのため人は海岸線を移動し、ムラを造り、釣りをし、桟橋を造り、物資を上げ、港や漁師町は出来上がってきたのである。江戸時代の話を蒸し返すつもりはないが、河川敷や海岸は本質的に「無縁」のもので、利用するものの勝手次第の自由さが保証されてきたものである。それが漁業や水運の発達を促してきたことを忘れてはならない。四面環海の日本にとっては当たり前の論理である。それが残念なことに工業地帯の多くでは立ち入ることもできず、地図上では存在していても、そこの企業以外の人にとっては無いも同然、環境破壊(景観も含まれる=環境基準値だけが問題ではない。私たち皆の海なのである)を考えるとマイナス面しかないとすら感じられるのである。11/23記述の大阪のウォーターフロントでの試みを見ても分かるとおり、人間が必要なのである。経済効率優先の海岸の利用は考え直さねばならないと思う。しかし、全体を見渡すと伊勢湾の海はよく保たれており、今後の人と自然の関係の研究の対象としての価値は充分あると思う。いつになるか分からないが考えてみたい。

四日市の大コンビナートを前にして、鈴鹿川河口から。ここから先は海岸線には近づけない。そして私の背中方向には伊勢まで長い砂浜が続く。ここから10kmの間、海は人間から切り取られる。ヘキサーRF+トリエルマー35mm+E100VS

11/19

さて伊勢湾を更に北上する。砂浜の長い海岸線の尽きる頃、最近はたいへん珍しくなった海岸性の湿原がそこここに見えるようになってきた。南の海ならマングローブになるのだろうが、このあたりでは葦原になっている。場所は少し湾になって、遠浅で川の水が流れ込む汽水域である。地方によっては「やち(野地)」と呼ばれる。鈴鹿市の海辺に多く、写真のように自然のままの場所もあれば、水田のように畦のような形に区切って養魚池のように利用しているところもある。正面に見える建物は河口にあるヨットハーバーとその付属施設である。その岬を巡ると四日市のコンビナート群が見えてくる。そのすぐ近くにこのような自然が残っているのも不思議である。いままで日本海側を中心に旅をしてきたが、ここでは異なった海の景観がある。京都から2時間のここに見るべき海があった。継続的な調査をしていこう。

ヘキサーRF+ズミクロン35mm/6+センシア  鈴鹿川派川河口にて、ヨットハーバーに植えてあるフェニックスが陽炎のように揺れていた。下の沈胴ズミクロン50mmの描写と比べて見て欲しい。

11/18

松阪を出て、その夜は津市の海辺に泊まった。潮騒のせいで寝つけないかと思ったが、久しぶりに何時間も休みなしに歩いたためかすぐ眠りにおちた。それにしても普段日本海側に多く行くため、太平洋の波はけた外れに大きく力強い。冬の日本海は北西の季節風のせいで波も激しいが、太平洋側は海が大きなピッチでうねっている。翌日、天気予報は外れ、朝から雲ひとつない快晴である。湿度が高い目なのか水平線方向はモヤモヤして空と海の区別がつきにくい。ここから工業地帯である四日市までずっと海辺の堤防上の道を走り、所々で立ち寄り写真を撮る。天気が良かったせいもあるが、のんびりとした砂浜がどこまでも続き、気分は夢のようである。海はいい・・・ずっと思い続けてきたことである。どこの調査地でも、地元の人達に「どうして遠いところからやってきて、商売でもないのにこんな話を聞くのか?」と問われる。私も大儀としては研究であるとか記録のためなどと答えるのだが、それ以前に「好き」なのである。愛する麗しき日本の民俗や景観を忘れ去りたくないのである。「好きだから」と答えると、「そうか、自分が川が好きなのと変わらないな・・・」と安心して仲間になれる。決して計算ではない、お互いに学問や生活や趣味と趣旨は違うが、根にあるものは「好き」なのである。そして愛する川や海を守(もり)するのである。方法は皆が違う・・・それでよい。北海道から種子島まで全国を回ってきたが、いつも旅の終着点は海、湖、川であり、車で走り辿り着いたとき、思うことは「海(川)はいいな・・・」である。仕事の性質上同じ場所に何度も行くが、いつも目的地に着くと同じ場所で車を降り、川や海を眺めて景観の変化を見る。安心と失望・・・そしてまた仕事である。私は研究はアマチュアでしていることだが、それだけに楽しみとできる。

さて写真は津市の浜の景色だが木を中心としたゴミがうずたかく積まれていた。さては不法投棄か?と思ったがどうも変である。浜で海を眺めていた老漁師に聞いてみると、今年の名古屋の水害で陸から流されてきたゴミが浜一面に堆積し、それをブルで寄せて積み上げているとの事である。木曽三川の河口からの距離を地図で見て欲しい。自然の力は絶大である。その後も伊勢湾を北上したがそこここに積み上げられた木の山があった。まだ撤去の目途は立っていないそうである。要因のひとつに川を直線的な構造(流路の直線化、高い堤防、河床の浚渫、砂州や中州の撤去、河川敷の木や竹の撤去など)にし、山や平野部に降った雨を急速に海に排水する機能を優先させてきたことにある。洪水は減った、それは高く評価せねばならない。しかし現在行政も変わりつつある。心配御無用、私は小者だがたくさんの知恵者が共生を考えている。敵対ではなく協力が必要な時代なのである。海や川が人口の1−2%になってしまった漁業者や水運業者だけのものではなくなった今、皆のものとして新しい価値観で見なければならないことになったのである。

津市の海辺にて。この流木の山は小さい方である。高さ5mぐらいのものも鈴鹿の海辺にはあった。  M6TTL+ズミクロン50mmF2(沈胴、ナンバーから見ると1953年となるがMマウントなので本当の最初期のレンズである)+センシア これがズミクロンの初期型の描写である。温調と言ってしまえばそれまでだが極めて低いコントラストとグレースケールの階調性の豊富さ(色再現はこれが当時の限界と割り切らなければならない)、線の細さは、当時世界を席巻したことが良く分かる。思うところがあって50mmズミクロンのすべてのタイプ(些細な仕上げの事ではなく、レンズ構成その他描写に関係あると思われるもの−6本・・・程度の良いものを集めたので高くついてしまった)を揃えた。ライカは伝統的に標準レンズを中心に(どこのメーカーでもそうだったが今は違うし、往時もライカは特別に力を入れてきた)レンズシステムを構築してきたが、その粋を見てみたいのである。予測として私の絵にとって役立つと考えている。ノクチもズミルックスもエルマーも50mmはMでほぼ全てが手元にある。ズミクロンは当然にその中心なので慎重に扱ってみよう。ここでは最初期のモデルの素晴らしさを堪能した。細かな話は「カメラ談義」にいつか書くとして、注意点だけ書いておこう。何よりコーティングのかなり剥がれているものは避けた方がいい。フレアが出るし、見た目には出ていないようでも逆光での画質の低下が心配である。フードも必要。それからめったにないそうだが、沈胴部のガタが出ているとピントに影響が出るので避けるべきである。

11/14

松阪市内を歩いた。城下町の風情の残る静かな町である。複雑に道が入り組んで方向感覚を失う。勿論、偶然ではなく防備の上での街並みの配置である。重要な街道筋の宿場町などでも一般的に見られる。遠くから見通せないようにわざと道や町の地割りを曲げ、外部から入ってきた敵を攪乱し、其処ここに待ち伏せる。逃げるときも同じで、土地の人間には土地勘があるが、侵入者には混乱を招くのである。私も町を1時間ほど歩いていて何度も方向を失った。曇っていて太陽を目印にできなかっただけではない。ひとつ筋を間違えて真っ直ぐ行くと段々道は離れて、しかもそれをつなぐ道はない。ここで右へ入ると元へ戻ると思うと全く違う道へでる・・・。方向に疎いのを露見したが、目眩を感じてしまった。道とは別に用水も張り巡らされ、これも町の地割りの重要な境界をなす。人の暮らしに(特に都市において)水の確保は不可欠である。町々の裏には必ず用水があり、一見ただの小川かドブに見えるが、本当は上水と下水が厳格に管理され大切にされてきた。現代も地下に埋設されたとは言えそれらは存在して人々の生活を支えている。忘れてはいけない・・・人と水の文化と言ったときに美しい川や緑の湖畔だけを考えてはいないだろうか?原生林の渓流や深山幽谷も悪くないだろう、しかし人の暮らす場所には水との付き合いが必ずあることを。それを効率的に維持することの難しさも・・・。

不思議な光景である。どうしたものか町の裏の用水端には、しばしばこのような亜熱帯性の樹木が植えてある。松阪市同心町付近。 ヘキサーRF+ズミクロン35mm−6+センシア

11/11

伊勢湾の旅、せっかく松阪に来たのだからと城跡公園に行った。松阪城をつごう三回りし、近辺の神社や街並みも少し回った。3時間も歩きどおしでなかなか疲れた。建物は全く残っていないが石垣や地割りは当時のままで、全体が公園のようになっている。松阪ゆかりの本居宣長の記念館と移築された宣長の旧宅、民俗資料館が建っており、あとはほぼ散歩道のようになっている。あまり観光化させると市民から遊離する傾向があり、ここの城跡公園のありようは共感できる。城の外側には昔の武家屋敷が残っており、今も人が住んでいる。その中でも下級武士の長屋は街並保全がなされており、ここでも観光地としてさりげないたたずまいを見せている。ありがちな土産物屋や飲食店が建ち並ぶのではなく、やはり人が住んでいるのである。城山の隣接の丘の上に松阪神社と本居宣長神社があって、ここも鬱蒼とした森の中に稲荷、少名彦名(農人)、宣長、その他の神々が合祀されている。もとは別々に祀られていたのだが、明治の合祀令でそうなったのである。大昔から祀られているように誰でも感じるが、時代時代の事情によって変化しているのである。したがって寺社の縁起・歴史は良く読んで、最初に祀られた神や仏を知ることは大切なことである。どうでも良いことのようだが、宗教的事物は古風を温存しやすく、その地の民俗や歴史を知る上で重要なことのひとつなのである。

本居宣長旧宅。ご覧のとおり城山は緑が一杯残っており、それほど観光化されておらず、散歩にはうってつけである。ヘキサーRF+ズミクロン35mm−6+RDP3にて撮影。 それにしても新型のプロビアはシャープ(高コントラスト、微粒子)である。曇った日でも必要以上に青くならず、私にとっては使えるフィルムである。しかし晴れるとコントラストが上がりすぎて使い方が難しいかもしれない。今度は晴天時に実験してみよう。

11/1

久しぶりにペンをとる。今回は去る9月、奈良県櫻井市の山中にある笠山荒神を訪問したときの話である。いつものように自動車で櫻井市の友人と共に山道を行く。山中を抜けるとポコンと高原の風景の場所に出た。櫻井市笠地区である。この山方に「笠山荒神」がある。勿論、神社であるが、その山全体が神域とされている。この山に入ってみる。鬱蒼とした森の中の参道、山岳信仰にあるべき山道小道の参道である。ただ山道と違うのは両脇に様々な時代に奉納された石灯籠が並び、木漏れ日の其処ここに見え隠れしていることである。この道を左に高巻いた所に急な石段があり、石の鳥居をくぐりつつ上に上がる。少しの広場があって神社の建物がある。観光地ではないため参拝者は少ない。ほとんどが地元の人であろう。境内の掃除を終えて、そこのベンチで一休みをしている老人に話を聞いた。80歳代半ばのきわめて明晰な人で、この地の歴史について多くを語ってくれた。笠村に古くから伝わる伝説の語り部である。天孫系の神が大和を席巻する前から存在していた神のまおす山なのである。そして笠は古い時代の王の村であるとの伝承である。卑弥呼の国「邪馬台国」の地であったと信じられている。卑弥呼の話はあとでくっつれられた事だろうが、大和朝廷が建てられる前にあった王の支配地であったことは想像でき、荒唐無稽な伝承ではけっしてない。私は伝承の真偽より、その伝承が現代まで語り継がれ、土地・村を守り、神を祀る生活が残ったことに注目したい。このところ1年ほど2ヶ月に一度のペースで大和高原の各地を歩いて様々の勉強と思索をしてきた。ようやく少しの方向性が見えてきた。これからも視点を定めて、やはり10年程度かけて、たいへん古くからある人と信仰について考えていきたいと思う。つまり仏教伝来や天孫降臨より前の日本人の精神性についてである。もとより歴史学者でも宗教学者でもない。現代に生きる人々の精神性についての論考である。

この老人は村の有力者でもあり、同行の友人K氏の親戚でもあることが分かった。昭和56年に「笠山秘話第1部」を刊行し、平成10年に「第2部」を刊行した。今手元にあり、内容のこの地での古い伝承を読み進めつつある。いずれこの内容も紹介したい。もう少し長生きをしていただいて「第3部」も見たいものである。

M5+ズミクロン35mmASPH+センシア

神社自体の神体はこの地方に普遍的な山と湧き水である。稲作農耕に必要な水を制する者が神たりえたのである。笠山の中腹をぐるりと参道は巡り、所々に寺や天神があり、眩惑的な空間を形作っている。その聖なる山の麓に一軒の祖幇家がある。ここが友人K氏の生家である。家の裏は笠山で庭には神社が祀ってある。神域への入り口に穴太流の石組みの上に建っていて、往時は神域を守った家なのだろう・・・神主ではないので有力な神人の末裔なのだろう。K氏も私も何時とはなしに引き合った間柄で、なにやら大きな強い縁(えにし)を感じる。

同上。K氏の生家。

近くのそば畑。ソバの花が満開である。ソバは成長が早く、また寒冷地ややせた土地でも育つため山間部では昔から栽培されている。ここでは失われた習慣であるが、昔は日本中どこでも焼き畑で作られたものである。今は九州の椎葉村や四国の祖谷、北陸の白山麓のそれもごく一部でなされているのみである。私も椎葉と白山には行ったがあと5−10年で絶えてしまうことだろう・・・。いつも写真を撮るときには「沈む夕日を追いかける」ように走りながら撮り続けている。「今が最後」を目撃し、記録するのである。私の事などどちらでも良い。動ける間旅をして、目撃し、終焉に立ち会い、証言を後世に残すことに意味を感じる。最後に全フィルムはある博物館に寄贈することにしている。

M5+ズミクロン35mmASPH+センシア  笠村での満開のソバ畑で写真を撮る、アマチュアカメラマン。夫婦でこの地を訪ねたのである。誰にとっても写真は良いものだ。

10/15

越後・荒川へ行って来た。今年は夏の暑さのせいで「落ち鮎」が遅れて、禁漁期も延びた。都会の人々にとっては鮎と言えば夏の若鮎だが、産地の川ではそれに加えて産卵のために下流に降る「落ち鮎」も秋の風物詩である。味は確かに夏より脂が落ちて旨くなくなるが、逆に子持ちになって独特の風味が加わるのである。漁の方法も夏の友釣り(漁協組合員には投網なども許される)と異なり、「ゴロビキ漁」という一種の引っかけ漁となる。瀬に付いた鮎に鉤と重りのついた釣り糸を流し、当たりがあったところで引っかける、友釣りほどの技術・原価が要らず、漁の豪快さも楽しめる漁の方法なのである。鮎の落ちてくる9月下旬から10月上旬にかけては、毎年たくさんの人々が集まる。しかし資源の保護・増殖のために採卵〜孵化・放流、そして自然産卵のために一定の禁漁期を設けて規制しているのである。釣り人は釣り券を買い、一定の方法で釣りを楽しむだけだが、それを支えているのは漁協とその組合員なのである。時として密漁を見かけるが、悪質なものと同時に軽微なこと(罪の意識がないためこれが困る)も含めて厳に謹んで欲しいものである。つまり禁漁期、禁漁区、漁法、魚種などの規制を守ることである。孵化・放流、他河川などから稚魚を買っての放流などは、おおむね漁協の事業で、実態は半ば組合員のボランティアに近い労働に頼っており、すべてかかる経費は漁券収入と組合費、それで足りない分は県からの補助金で賄っているのが現実である。そして河川の改修、道路・橋の整備は国や県の支出である。釣り人が支払う漁券だけではなく多額の税金が投入されているのであり、それらによって資源が確保され、環境も整備されているのだと意識されたい。川で時々聞く「金を払っているのだから・・・」と云うお客さん意識を持つ言葉があるが、それはとんでもない間違いなのである。川へ入る人は川や魚を守る義務も持っているのである。川はみんなのものである。

ともあれ荒川にて禁漁期が延びたおかげで、川原には所在ない釣り人が集まって宴会をしていた。大部分地元の人達で組合員でもある。釣りとは不思議なもので川で知り合い、そのまま仲間となることが多い。この人達も元々の友人も居るがシーズンになると川に集まり、詳しい人が初心者に場所や技術を教え、皆で楽しむのである。昔なら排他的でよそ者に交わることなどは考えられないことだった。川は地先権が優先し「おらが川」の意識が強かったのである。いまは人心も変化し、川で生計を立てる人も居なくなって、川人にとっても川の賑わいは忌避すべきものでないことが常識となったのである。過去から何度も荒川に来ているが、今回自称「荒川の会」の人々と相まみえて感慨が深い。11年前始めてこの川に来た当時とは隔世の感がある。そのころ古参の川人が「10年も経てばすっかり変わるさね」と云っていたのが思い出される。まさにこの10年は、そして次の10年は荒川にとって大きな変化の時代なのである。それに立ち会ってきたし、これからも立ち会って行く末を見届けたい。そしてそれを記録し、後世へ語り継ぎたい。

9/30

残念だったが、9月は忙しさと夏の疲れでフィールドワークが結局できなかった。そのかわりこの間はレンズとボディのテストをより入念にできた。手段として写真を撮る以上カメラの研究は(勿論テーマとして「目的と技術」は忘れてはならない。カメラそのものの研究をしているのではないのだから=趣味としてのカメラはあっていいし私も好きだが、主客を転倒しないように戒めなければならない)不可避である。10月は越後・荒川へ春に続いて旅をする。今度はサケ漁とカモ猟の取材である。1989年から続けているフィールドだが終わりはない。人と自然の営みが続く限り、フィールドへ分け入ることが私の人生なのだろう。今後は若かった今までのように全国・周辺アジアを巡ることは難しく、幾つかの地域・定点を定めて長い時間をかけてつき合っていくようにしたいと考えている。

8/23

舞鶴市小橋地区の精霊船神事。8/15お盆に迎えた先祖の霊を送るための神事。精霊流しは全国にあり、先祖の霊は海からやってきて海へ戻るという海洋民族の伝統の残存をうかがわせる。日本の主流を占める農耕民は神は天におり、霊は天に行くことを信じている。きっと農耕に重要な雨や日照・雪や霜が空からもたらされる事と関係があるのだろう。さて、ここのものは本格的な竹製の船を作り、供え物と一緒に西の方へ流す。手漕ぎ・帆走の昔はそうだったが、船のスクリューに巻き込むことを嫌われ(勿論、先祖の霊を巻き込むことを忌んだのである)、今は沖合のやはり神の住む島「冠島」の近海に沈める。また昔から神事は子供組がとりおこなう事となっていた(これも古い信仰に子供を神聖視することがある)が、過疎化の影響で子供の数が減り、今年はたったの5人になってしまった。昨年村の小学校も廃校となって子供達は山越えをして通学することになった。近年は老人会他が助けて行うようになっている。それでも毎年実施され、今年もたくさんの海水浴客の見守る中で本当につつましくとりおこなわれた。さすがに観光客も村人と共に浜に並び、海の彼方に消えるまでいつまでも精霊船を見送っていた。

7/21

ライツミノルタCL+ズミクロン35mmF2+センシア 松坂近郊の漁村にある祇園社の神の憑代の岩。不思議な形をした岩は信仰の対象となることがよくある。

7/19−20と三重県松坂〜伊勢、鳥羽に行って来た。今年の初めに松坂の宝塚一号墳の造り出しの付近から発掘された「舟形埴輪」を見学するためと、鳥羽の「海の博物館」における海の日記念の講演に参加するためである。とにかく暑かったが無事に成果を上げられた。ついでにこの地方最大の造船所の街「大湊」の街並みも調査した。今は衰えているが、昔日の繁栄の光景が思い浮かべられるような港町の景観はそこここに残っており、11月にまた来ることになるだろう・・・上記埴輪に関するシンポジュームが11/3に開催されるため、この時また来てみよう。

7/11

今回撮影したフィルムが上がってきた。ローライ・プラナーのピントに僅かだが、しかし全体にずれあり、今回アグファのE6リバーサルを使ってみたのだが、どうもこの120フィルムの裏紙に問題があるようである。いままでコダックEPPを中心に使ってきて、このようなことはなかったため、そう判断せざるを得ない。紙の厚みか、それとも質に問題があってフィルムの平面性が損なわれたようである。弁護する訳ではないがフィルムの色彩や粒状性に問題があるわけではない。私の好みではないが、やや重厚な色彩で悪くないだろう。そしてロッコールG28mmLはやはり風景向きではない。周辺と中心の描写に差があるのと「青い!」=UVで紫外線カットしてもまるで追いつかない。中心部に点景を持ってきて、周辺から視点が誘導されるような構図に向くので、28mmのパースと相まって「街の写真」だろう。街へ出てみよう・・・。ここでもリコーGR28mmの優等生ぶりには舌を巻く、と同時に鼻白んでしまうのは矛盾だろうか?私は作家ではないが写真家である。少しは使いこなしの楽しみも欲しいのである。同じ意味で、愛しつつどうしても使う気になれないのがヘキサノンKM28mmである。こいつもGRとは全く異なる絵を作るが、やはり優等生・・・。

7/10

7/8−9で兵庫県竜野から揖保川を下り、海岸沿いに「室津」へ回り、相生から赤穂、岡山県日生へ抜ける旅をした。駆け足の旅程だったが、暑い中(2日とも雲ひとつない晴天であった)充実した内容であった。装備はライカM5、ヘキサーRFにGR21、GR28、G28、S35−1.4、S35−2、NC50、CH75、H90、TE135のレンズ(中身は想像力)とTX−1、ローライ3.5Fプラナーである。面白いことに主に活動している日本海側では、TX−1のパノラマ撮影が効果的だったのだが、瀬戸内では局面が小さいせいだろうか馴染まない。6X6cm以外はほとんど24X36mmのライカで撮影した。やはり常に引きがないせいで28mm−50mmでほとんどの撮影である。これは予測して、特性の異なる28mmと35mmを2本ずつ持っていったのが正解であった。風景は日本海側や、私の住む京都の田舎と違い、濃密な照葉樹林がどこまでも続く海岸線であった。暗くて光沢のある山の景色、下生えも濃密な藪になっており、向こう側が見えない。やや寒冷な地方の軽い緑の木の葉と、木立の間から見える遠くの景色・・・。どちらも素晴らしい自然である。そこで暮らす人々も異なった生活をしているのだろうか?それとも・・・。ここには思ったより自然が残っており、そこに伝統的な漁村の生活も感じられた。フィールドとしてものにできるかも知れない。夜も更けた・・・ここからはまたいつか書こう。

ライカM5+ズミルックス35mmF1.4(球面タイプ)+センシア 室津の回船問屋の二階の窓から港を望む。過日、海の向こうからやって来る積み荷を満載にした回船を待つ窓の景色である。

7/5

今度の土日で瀬戸内へ行く。室津から相生、赤穂、日生の旅である。比較的山陰〜北陸のフィールドを多く踏査してきた私にとっては近くて遠い場所なのである。実際私の先祖伝来の故地は赤穂にあり、親戚縁者の多くもこのあたりに住んでいる。子供の頃、休みの都度田舎に帰って過ごしていたことを思い出す。今回はやはり港町の景観と変遷についての予備的調査である。今回は気楽に行こうと思う。早くも夏ばて気味の今日この頃である。

6/3

冠島−老人嶋神社神事。 ヘキサーRF+トリエルマー35mm+PKR

6/1京都府の冠島に行った。前日の夜、今年の祭礼の中心となる三浜の民宿に泊まる。まだ観光シーズンの前で私たちだけである。15年以上の付き合いとなる舞鶴の船大工さんの紹介で、昨年から計画している冠島の祭礼に参加できることとなった。この島は古来より海民の信仰の対象となっており、今も厚い信仰によって守られている。天然記念物のオオミズナギドリの繁殖地ということもあって上陸は原則的にできない。信仰、学術、緊急避難だけが例外である。勿論、その場合でも舞鶴市への許可、届け出が必要である。6/1が毎年祭礼の日と定めてあり、この島の管理をしている舞鶴市三浜、野原、小橋の3地区が毎年持ち回りで取り仕切っている。6/1とは云ってもおおむね若狭湾の西半分(丹後半島の東海岸の村々〜若狭福井の高浜近辺)の人々、そしてこの地方出身で他に住む人々、その他海の信仰を持つ多くの人達がこの地へ参るため、6月中程度に各々船を仕立てて上陸する。6/1は先の3地区以外に丹後半島方面から来ていたようである。

前日は低気圧の接近で雨が激しかった。夜着く。宿の主人と遅くまでこの地の歴史や風土の話をする。私は低気圧の通過後、一時的に冬型の気圧配置になるため翌日の波浪が気がかりだったが、雨は寝る頃には止んで、宿の部屋のすぐ前の砂浜にうち寄せる潮騒の音を聞きながら眠った。あさ五時頃から漁師の生活は始まる。漁に出る準備の音で目が覚めた。窓の外を見ると船に祭礼の旗がすでに立っており、風はなく、波もややある程度で安心してまた眠る。朝9時の出港なので7時に起きだした。桟橋まで行って様子をみていると小型の漁船数艘に大漁旗や祭礼の旗をたて、太鼓を積み込む作業をしていた。8時半頃だいたいの準備ができ、乗員が集まり始める。全体で100人位か、昨年より少ないそうである。だがこの頃から北西の風が強くなり始め、波もそれに伴い高くなりつつある。そして各船に分乗して出港。行く人、残る人手を振って挨拶をしながら湾内を一周する。浜に村人が出て手を振り続ける。お祭りの日なのである。古来より海は男だけの世界であり、島での祭礼も同じく男だけに許されたものだったのである。勿論、現在は女人禁制ではなく外部から来る人々にはかなりの女性も混じっている。しかし村の女性達は浜で見送る。漁のときもそうだったように無事の帰還を祈りながら・・・。

船で40分程度の行程なのだが、湾を出たあたりから本格的な波、しかも正面からの波との格闘となる。船頭さんは慣れているので平気だが、乗客は大変である。漁船なので屋根や椅子がある訳ではなく、大波が来ると頭から海水を浴びる。私は船上でのスナップを撮るべく、ヘキサーRFにトリエルマーを付けて首から下げていた。波のことは計算に入れていたので、頭からスッポリとポンチョを被り、その下に下げていたのである。しかし判断を誤った。撮影不能となる時点でカメラバッグにカメラをしまえば良かったのだが、過去の経験で(冬場の日本海=富山で沖の定置網の作業を見に小舟で行ったこともある)大丈夫だと判断して、そのままでいた。ところが強烈な風波にさらされ、間断なく波を被る状況になった。こうなるとカメラバッグを開けることも不可能である。どうしても機材を守らなければならない。座ったまま傘を広げ、懐にカメラバッグを抱え込み(下に置くと海水が床からしみ込んでくる)傘の影に隠れる。そして手でポンチョをつまみ上げテントのようにヘキサーに接触しないようにする。これは雨の日にテントで寝るときも同じである。水は大部分流れるが、一部はしみ込みそこに接触しているものを濡らす。若い頃登山をしていたことが役に立った。ポンチョを着ることも同じである。バッグの上から着られるため水から荷物を守れる。今回も小さな方のバッグ(ちなみにライカのセットケース=調査にはコンパクトになるセットケースがお勧めである。ライカ・ハッセルの物しか知らないが、驚くほどコンパクトに納まる)は斜め掛けし、ポンチョの中の背中側に回していたためほとんど濡れなかった。では波に背中を向ければ良いではないかと云うことになるが、木の葉のように揺れる船の中では、体を確保することがもっと大切なのである。体とカメラなら濡れることなら躊躇なく、カメラを優先するが、海へ落ちたらそれでお終いである。約15分間耐えて、ようやく島に着く。空は晴れている。慎重に上陸し(桟橋などない。船から直接板を伝って降りる)、まずポンチョを脱ぎ、ヘキサーを確認する。大丈夫、濡れてはいるが僅かなものであった。タオルで海水を拭き取り(まず顔を拭いてはいけない=顔なんかどうなっても良いのだ=塩分の付いたタオルで拭くのは避けたい)、細かな部分まで丁寧にティッシュペーパーやクロスで拭く。この時少しでも湿気を残してはいけない。ヘキサーの防滴性能がどの程度か分からないが(推測だが、趣味的なカメラと思っていたことを反省する。結構プロユースでも行けそうな耐候性を確信した)カメラ内部に入らないようにせねばならないのである。特に海水は錆・腐食の原因となるので要注意である。レンズも全く問題ない。やはりフィルターは必需品である。画質の低下を云々されるが、少なくとも私の実写テストでは問題は出ない。それならレンズ面をガードすべきだろう。ここで気をつける事−湿度の極端に高い場所にて、温度が下がると水蒸気の結露でレンズやフィルターが曇ることがある。今回も体に抱えて高温多湿の状態になり、外へ出て気温が下がり(低気圧の通過後、気温が下がる)曇った。一眼レフなら覗くとすぐ分かるがRF機だとそうはいかない。先ほどのヘキサーへの信頼はここで言える。レンズは曇ったが(これは海水ではない、あくまで水蒸気)ファインダーは曇らなかった。気密性の高さと判断するのは早計だろうか?

5/18

「カメラ談義」の中でも述べたが、フジのTX−1はフィールドワークで大変役に立った。新潟にはライカとローライ3.5Fを中心に機材を選んだのだが、川の広い場所を撮るのに好都合という動機でTX−1を持っていった。当地に着いたら、いつもの場所で知り合いの川漁師が河岸の近くでイサザ(シロウオあるいはシラスとも言う)漁の仕掛けを作っていた。土手の上からそれを見て私も川へ降る。まずはローライとヘキサーRFに28mmをつけて行く。しかし近寄ると仕掛けの全部が写り込まず、背景の川のあちこちに点々とあるマス捕りの仕掛けが小さくなりすぎる。ワイドにすると当然パースが強調され、前景は良いが遠景は小さくなりすぎ、表現としてはそれでもいいとしても、距離感が人間の眼とあまり大きく変わると客観性が損なわれることになる。過去はズーミングでフレームを決めていたのだが、もう一歩学術的に踏み込むとワイドは35mm、望遠は90mmまでに、可能な限り限定するのが良さそうである。主として近景から遠景までの距離感(勿論、パースとボケ具合)の自然さがポイントである。しかし長い物が(主に横長)近景にあったり、広い範囲を写すときに困る。引きがあれば都合がよいが、フィールドではそう簡単ではない。普通川辺では草や藪、葦や柳が多くあり、少し距離を離すとそれらが邪魔して細かい部分が見えなくなる。また実際はインフォーマントと漁や川の近況を話しながら、さらに作業の手順を追いつつ撮るので離れているわけにはいかない。よし!と思い、土手に上がってTX−1を持ってくる。そうすると2−5mの距離でこういう撮影と調査が同時にでき、かつパノラマモードにすると距離感を損なわず、しかし広い範囲を写し込めることが解った。10枚ほど撮る内に今までもどかしかつた、この手のセチュエイションでの撮影に最適であることが解った。45mmでのノーマル撮影とパノラマ(画角では25mm相当)での撮影の切り替えで、近距離での聞き取り・撮影の80%が可能である。ライカだと28−35−50mmの3本が、或いは28−50mmの2本が必要で、かつ半分水の中に立っているような危ない場所でのレンズの交換は(しかも話をしながら、そしてローライもとなると絶望的である)難しいので二台に28と50を付けたままの撮影になる。今まで使いたくても中判を併用できなかったのもこのあたりであろう。トリエルマーは便利だが、残念なことに描写が単レンズより甘く(いやいや、そう云うほどではないが・・・)、代用レンズの気分になってしまうのである。これは言い過ぎとしても、さっきの距離感の相違の問題があり、かつ24X36のフレームだと35mmよりワイドになると空や地面、あるいは水面が写りすぎ密度が下がることとなる。決定的なことは明言できるはずはないが、TX−1(45mm.90mm)+ローライフレックスの6X6(真四角のフォーマットは構成的に別の意味で有利である)で印刷原稿も含めて90%可能になる予感すらある。TX−1のカメラとしての不完全さは覆うべくもないが、今後を期待しよう。そして調査には必ず持っていくだろう。そしてライカはM6TTLの0.85か、M5に割り切って良いだろう。サブカメラでヘキサーRF・・・当分さようにしてみよう。

  ローライフレックス3.5Fクセノタール(左)プラナー(右)

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話の続き。私は水辺(海・湖・川など)の人と自然についての研究・写真をライフワークとしている。それで旅はいつでもそういう場所である。今回、新潟県下越地方に行ったのも越後荒川の春マス漁についての調査のためである。10年以上行き通しのフィールドでもある。ここで言いたいのは、やはり気長にそして確実にそのフィールドに入り、人と知り合い、そこの自然や社会の地理に精通していく中で良い研究・撮影ができるということである。これを読む読者はどう考えているか分からないが、近年、著名な写真家が何週間かフィールドに入り(彼らはロケとかルポルタージュと呼ぶ)集中的に撮影し、「・・・紀行」などと題して発表しているが、学問的にみると稚拙な観察と主観的な結論ばかりが目立ち、私には批判的な見方しかどうしてもできない。確かに写真はうまく、写真ドラマとして良くできているものもあるが、もう少し勉強して欲しいと思う。・・・昔の「岩波写真文庫」シリーズは良かった・・・。学術写真に限らず、情熱を忘れずテーマを追求して欲しい。また書くが、重装備で乗り込んで大量に写し込んで、いっちょう上がりというのは止めて欲しいと思う。良い題材がいたるところにある。それを見る目と確実に表現できる技術を養い、毎日考え実践して欲しい。私は毎日必ずカメラを携行している。それは偶然のスクープを狙っている訳ではない。また日常のスナップを楽しんでいるのでもない。あらゆる条件で毎日撮影し、レンズの性格を確かめ、ボディの機能を検証し、体と頭に馴染ませているのである。そしてなにより、撮影するということを日常に取り込み、誤解を恐れず言うなら「カメラに隠れ、カメラそのものを隠す」のである。

学術雑誌「ナショナル・ジオグラフィック」を購読されたし。良質な写真と報告がたくさんある。

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さて話の続きである。4/15に訪れた室生大野寺(伝、役の行者の開基)での例。場所は奈良県、南大和山中の宇陀川本流と支流の合流点の、規模は小さいが氾濫原に立地し、付近は多少の耕作地と伊勢街道の宿場町・門前町となっている。川の合流点付近の山が川にせりだした先に建っている。対岸の垂直の30m位の崖に13.8mの磨崖仏=弥勒菩薩(仏像自体は11.5m)があり、信仰の対象になっている。その川向かいにこの寺があり、磨崖仏と寺は一対のものと認識されている。ここまでは普通のガイドブックにも書いてあるが、ここから先が大切なことである。寺の境内のいちばん隅に対岸の磨崖仏を拝む拝所がある(当然、川にせり出した岬の先端部)のだが、ふと背後の山側を見ると「皇太子殿下記念植樹」(現天皇)の立て札があり、1本のスギ科の木が植わっている。本堂の裏側の目立たぬ場所で疑問を持った。その木の横に人ひとりが歩ける程度の細い、とても急な階段があり、これを上がってみた。上には(勿論、山の中)無銘の小さな祠があり、そこから対岸の磨崖仏を真正面に望めた。今は境内と違って木が茂っているたが、元はこの場所から拝んだのであろう。磨崖仏は北向きで少し西を向いており、夕日に美しく浮かび上がったに違いない。そしてその小さな祠の更に裏をみると大きな岩があり、この岩(或いは山そのもの)が神の降りる神体であったのだろう。つまり仏教の信仰は後から盛んになったもので、元は川を祀り、鎮める信仰の対象であったのだろう。河川は下流に川幅の狭くなる渓谷のすぐ上流は増水すると下流に水の流れが滞り、氾濫する。そこに氾濫原が育ち、耕地ができ、村ができる。そして氾濫すると耕地は荒廃し、しかし上流から肥やし気のある土砂を運んでくる。つまり川の氾濫の繰り返しは村にとって恵みと災いをもたらす存在で、川の最も狭まる所は川を鎮め畏怖する、古代から続く信仰の対象であることが多いのである。アニミズム=自然信仰である。そのような場所に祠ができ、磨崖仏が彫られ、社寺が建立され、今に至っているのである。もとより全ての社寺が、古代から続く自然信仰の場であると言っているのではない。しかしかなりの蓋然性を持っていると言って良い。特に神社はそのように言えよう。このような背景で「皇太子記念植樹」はそのような場所になされたのである。

社寺の写真を撮るときには、まずガイドブックや説明書を読み、周辺地域の地理的条件を考慮し、一度その周辺を回り、よく観察してみよう。それから写真を撮っても遅くない。できたら宮司や僧侶、近所の古老に話を聞いてみるのがよい。どうだろうか?

2000/4/30

4月中に始めると言う約束なので、重い筆をとった。カメラやレンズの話は時間がかかったとしても、それ程難しくないだが、このコーナーは結構たいへんなのである。と前置きして、今日から5/3にかけて寺社における撮影のポイントについて語ろう(今日は時間がなく触りだけになるが・・・。私は忙しい上に疲れやすく、たくさん、そう・・・7−8時間寝なければならないため)。昨年秋から奈良の友人の招きで三回ほどその地の寺社に参る機会を得た。季節のうつろいや人々の景色にも興味はあるが、寺社についてはとくに注意するべき要素がある。昔から聖なる場所としてあったし、今は解らなくともその存在の意味は、しかも重大な意味があったことは知るべきである。観光ガイドだけでは不足で(観光用の話しか載っていない)様々の歴史・民俗・建築の資料はできるだけ調べておく事である。ただし現況ではインターネットでは不可能。「勉強」である。他のページでも書いたが、私にとっての写真は織物のような物で、縦糸に目に映る季節や景色を、横糸に歴史や民俗の景観を、そして時間の流れを織り込むことに意味を持たせているのである。とは言っても勉強には何年も何十年もかかる。ポイントだけ述べてみよう。聖なる土地はどこでも古い根本的な信仰の原点とでもいうべき場所を内包している。奈良で訪れた「壺阪寺」(涅槃の大釈迦像が良い)「談山神社」(紅葉の美しい景勝地である)「室生大野寺」(しだれ桜がとても綺麗だった)でもそうだが、本堂や本殿は当然に後世の建造物で、探すと(どの寺社も立地は裏に深い山、眼下に里を望む場所)裏の山に水の湧き出す大岩。そしてそれは下の田の豊穣を約束する水の源流となる岩で、かつ山から(天から)降る神の憑代とも言える岩で、稲作を持ち込んだ人々の神と自分たちを繋ぐ神聖な場所なのである。以下は明日の話。

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