top


2003年のフィールドノート

12/29

先週、天王寺周辺に行った。動物園の招待券があっただけだが、これも何かの因縁と思い出かける。丁度1年前に歩いたコースでもある。先々週あたりに天王寺公園の「路上カラオケ店」が強制代執行で排除された。

動物園にて。ほぼ同じペースで兄弟と園内を回った。私は随分ゆっくりと回るが、彼らもなかなかしつこい。そして同じ場所で休憩、彼らはポップコーンを、私はミルクコーヒーを(それぞれ大好きなものなのだ)片手に隣りどうしの岩に腰かける。休日ではあるが冬晴れの寒い日、人は少ない。私は動物園以外も美術館や植物園、和式・様式の庭園、古墳、ボートのある池などの散在するこの公園によく来ていた。公園が有料になってからは年に1度ぐらいだろうか。動物園は10年ぶりだろう・・・随分以前とは異なり、檻や囲いより自然を意識させているようだ。公園のようになって今の方が好ましく感じる。

ヤギの餌売り。ここでは昔風の景色があった。ヤギ・ヒツジが放し飼いになっていて見物人が餌を直接与えるのである。ふたりの古参の婦人従業員が所在なげに座っていた(売れない)。右に見えるのは高速道路で、ここから外が「新世界」である。

新世界。明治の「第二回内国勧業博覧会」の時に開発された「新世界」=ルナ・パークの跡である。ここも以前は地元の人以外は立ち入るのが怖いような場所だったが、随分整備もなされ、ごく普通の観光客も増えた。しかしどことなく「昔の大阪」の印象は残っている。

以前有名だった、新世界の叩き売りの店で。今は安いが叩き売りはしていない。店内外にところせましと既製服が吊り下がっている・・・これを「首吊り」と言った。決してスラングではなく普通の会話である。 elmarit28mmF2.8/2ndの見事な火線が出ている(このレンズを使うときはフードを着けない)。データはすべての写真が、ヘキサーRF+elmarit28mmF2.8/2nd+RA。

新世界の名物「ずぼらや」と「通天閣」人は多い。本当の中心は通天閣の向こう側の商店街なのだが、より新開地の南側が賑わっている。大阪に来た折はぜひ通天閣に登ってほしい。明治と同じ景色ではないが、大阪の街がよく見える。「通天閣高い、高いはエントツ、エントツは黒い、黒いは...」と続く歌があった(もちろんローカルな俗謡)。

新世界の南のはずれにて。ここを右へ行くと西成の街に入る。ここに昔の新世界の景色が色濃く残っている。手荷物預かり所、パチンコの景品交換所、簡易宿泊所、露天...私は何を探しているのだろう。

新世界の商店街の最奥はアーケードで昼間も暗い。そして奥の地下道をくぐり抜けた向こうが上の絵である。街、そして街...また次の探索は続く。西成も1年前と比べると変化が大きかった。古い商店街や長屋町が衰え、マンションに代わりつつある。話を聞いた芸人横町(天王寺村)のアパートの大家さんいわく「ここら辺そら変わったで、昔の賑わいはもうあらへん。そら寂しなったで...」、私「そやな・・・」、おばちゃん「また写真撮りに来て...ちゃんと絵に残しといてんか」、「はい」。ルポの旅は仕事であれ、そうでない時であれ「あるものがどうあるのか」を訪ねる旅なのだろう。

12/12

先々週奈良町へ行ってきた。年に1−2度似たようなコースを行くが、何かしら新しい発見がある・・・道案内は奈良に詳しい友人である。曇ってはいたが比較的穏やかでいい日であった。今回は調べが足りず、奈良の散歩に終わったが、次はもう少し詳しくルポしたい。 データ:M3xスーパーアンギュロン21mmF3.4xRA コニカ・ビッグミニFリミテッド35mmF2.8xRA...さすがにミニルクスやコンタックスT2 よりピントはよく合う。

まず駅前の「例の喫茶店」で落ちあい(京都・交野・堺・千里...色々なところから集まる)コーヒーを飲みつつ話し込む。そして東向商店街を抜けて「猿沢池」に下り立つ。いつものとおりである。今回もいくつかのシーンを撮ったが、スケッチする青年とそれを眺める(知り合いでない人同士)中年女性。春にも感じたが、なぜかここではアマチュアカメラマンより日曜画家が増えているようだ。少し寒くて小雨模様だが皆元気。21mmなので肩ごしに写している。

これも中年女性(私よりはずいぶん若い)が立ったまま小さなノートにスケッチしていた。たたずむ木の枝ぶりがいいので、気になって写真を撮った=21mmなので本当は声をかけられるぐらい近い距離だ・・・でも写真家は何も話さない。

以前にも載せた境内内の茶店。戸外なので概して客は少ない。甘酒を飲んだ女性客を店主が見送る・・・こんな光景も最近は見られなくなった。今回初仕事のビッグミニFリミテッドの測距・フルオートシンクロは非常に高い確率で意図どおり決まる。以前から使ったAE/AFのどのカメラ(ミニルクス・コンタックスT2/G1など)より写真家の意図に忠実だろう。35mmF2.8レンズも悪くない描写である。ボディがチャチなのだけが惜しい。

奈良町の不思議な資料館。どうやら祠(庚申)が発展したものらしい。奈良の店先に(時には普通の民家にさえ)よくぶらさがっている「身代わり猿」が目印である。少し街並み保全された「奈良町」の真ん中にある。保全と言っても観光地と言うほどではなく、ほとんどは普通の民家である。 21mm

餅飯殿商店街。すっかりさびれているが、奈良町の風情はこちらの方があるように思う・・・私は30年前から時々訪れているのである。通り過ぎるのは観光客のみであり、地元の人々は老人が多いように思われる。 21mm

更に歩くと、昔懐かしい模型店と古いおもちゃ屋がある。暗い店内には30−40年前の玩具が並んでいる。京終の近くまで来ると観光客と言っても町を散策する女性が多くなる。ここでもビッグミニは難しいAE/AFの決定条件で意図どおりの働きをする。何が良いかというとAF/AEが中心のスポット近辺で確実に会い、ロックしたままカメラを振って写せることである。手前の人物との遠近競合や露出の競合が起こりにくい・・・カメラを振ると言ってもこの構図のままでほんの少し左へ振って合わせただけである。ミニルクスやミューだとこうはいかない。「高級AF/RFカメラ」の旧ヘキサーにも劣らない。

北へ進路を変えて、まったく普通の下町を歩く。大阪の下町に比べるとたいへん緑が多い。庭が広いのではなく「あらゆるところに」草木が植えられ、しかも整頓された「生け花」のような小粋さがあるのだ。道や家も綺麗に片づけられていて思わず「住みたくなる」ような空間である。 ビッグミニ/デイライトシンクロ(完璧)。

下町の古い床屋。木でできたペンキ塗りの窓枠、昔風の縦縞のテント、派手にグルグル回るサイン、暗い店内・・・静かだ。

奈良の市街地の北外れ(勿論その外側にも新興の住宅街はある)の街。古い家並みで日本建築なのだが、洋館風に建ててあり「江戸川乱歩」の小説に出てきそうな戦前のままの街区である。庭木が道いっぱいに茂っている。地元の少女も妙にロマンティックに見える。 21mm

今回の奈良を歩いて最も私の精神状態を表現できた1枚で締めくくる。JR奈良駅裏の再開発されていない裏町(典型的な昔風の五十軒長屋)にて。昼でも暗く道は舗装されていない。駅からたった5分の場所である。再開発の波は進んでいて、この1年の間にも立ち退きは進んでいる。どうなっているのだろう?人はまだ住んでいるにもかかわらずである。下町も裏町も「保全指定」された場所以外は「つまらなく平凡な」街に変貌していく。そのうちのかなりの部分は半強制的にだ(街が消えていくたびに失望する)。写真家は誠実に記録し、そして将来にわたって証言し続けねばならないと思う。 ビッグミニ/シンクロ・・・背景のボケもかなり素直だ。

12/1

今年も12月になって、昨年何度も訪ねた天保山渡船のことを思い出した。昨年の大晦日に最後の調査をしたのだが、1年は夢のように過ぎ去った。渡し船...また遠からず訪れたいフィールドである。みんなカメラを持って街や野へ出よう。 きのうは奈良の下町を巡った。  LeicaM7xsummicron35mmF2ASPHxRA

11/29

先週、奈良の當麻寺−九品寺−一言主神社へ行ってきた。天気は晴れたり曇ったりでちょうど良かった=時間さえ惜しまなければ晴れた日の絵と曇った日の絵が撮れるし、その中間の画面の一部が陰った写真も撮りうる。 Leica DIII x summaron35mmF3.5 x RA 上から2カット / それ以外 hexer RF x GR21 x RA

當麻寺(当麻寺とも書く)参道での土塀の角に据えられているエビス像の飾り瓦。この他にも大黒天や鍾馗があるが、この魔除・招福の風習はそれほど古いものではなく、昭和初期か大正期に始まったものと考えられる(論考は後日)。当麻寺ではそれ程観光化していないにも関わらず、比較的門前町の雰囲気がよく残っている。

以前に来たときと同じ当麻寺東大門から門前町方向を撮る。今回は左に寄って散りかけた木を前面に出して撮った...今回の撮影で最も気に入った絵である。

九品寺にて。寺そのものは大きくないが山全体が寺域となっており、かなりの高台まで墓地や石仏群が続く。墓地は曇っているが平野部は晴れており、遠くに大和高原、その手前に大和三山(香具山・耳成山・畝傍山)が見えている。このあたり(盆地の西の葛城山麓)は昔葛城氏などの豪族が治めていた場所で、朝廷側の飛鳥の亀石は今もこちらを睨んでいる。この盆地の東側は観光化し、寺なども繁栄しているが西側は静かな村のままである。勝者と敗者の景色だろうか。

九品寺境内にて。今年の紅葉は木や場所によってバラバラらしいが、この木だけが気に入った。リコーGR21mmの逆光性能の高さが分かるだろう。飾りだけのフードは着けていないが、多少のフレアは出ていてもゴーストはまったく出ていない。コンパクトで高性能、レンズ後端の突出もなく、五本持っている21mmの中では使うのには最高である(あくまで総合的な性能)。

山麓を更に南へ行くと一言主神社に着く。ここは村落すら希薄で参道の両側は田畑である。しかし意外にも参拝する人は多く、信仰は厚い場所なのだろう。これは参道から見た北の景色。左奥の柿の木は最後のカットにも出てくる。

文化財に指定されている境内の大イチョウ。幹の途中から根のようなものが下がっており、これが乳が垂れているように見えるためだろうが、子育ての祈願として乳が多く出るように祈るようになったという。これが信仰の対象になっているようだ。一言主とは一言だけ願いをきいてくれるとの言い伝えの神である。天孫系ではなく国つ神(土着神)である。

境内右奥にボケ封じの像があった。なぜか分からないがカボチャを食べるとボケないと言う。昔も痴呆は深刻な問題だったのだろう。左の寄進の札の裏側に「蜘蛛の塚」がある。敗者葛城氏は朝廷側からそのように呼ばれたのである。この神社は当然に葛城氏の氏神であり、建立された塚を隠すように構造物で囲んでいる=塚は神聖なものだろうが、傍らに「蜘蛛塚」と言う石碑が、おそらく明治時代あたりに立てられているのである。日本書紀神武天皇の項に高尾張邑の土蜘蛛という部族が抵抗したが葛で作った網で殺したと書かれている。もちろんそれも文化財なのだから狭い隙間から見ることはできる。

帰り道。参道の陽は陰り、秋の陽はつるべ落とし...もう帰ろう。

11/20

大阪ぶらり見て歩きは続く。だいたいが秋から冬が都会はよさそう。空気の透明感が上がり、重苦しい葉っぱが落ちていく...春には「新緑の息吹」なんて感じていたのに節操はまるでないと自分でも思う。いつでも「今が一番!」これが撮り続けられる秘密なのか?たいして深くは考えない。大阪・梅田=なぜかビル群の真ん中に観覧車が回っている。プラタナスの街路樹の枝は落葉を前に刈り込まれ、残った葉もかろうじて貼り付いているようだ。 CLxsummicron35mmF2/2ndxRA

11/19

大阪・天王寺の阪堺線の駅。チンチン電車の終点である。ここからは見えないが回りは車がブンブン走り、左の建物は近鉄デパートである。が、この塀に囲まれた駅舎の中は別世界・・・昭和30年代そのものである。各鉄道会社ではハイカラな制服になったが、ここだけは「鉄道員」のままである。沿線への旅は一頓挫しているが是非来年は再開したい。 ヘキサーRFxhologon16mmF8xRA

11/15

大阪・桜宮にて。JR大阪環状線のガード下=ここは戦災から焼け残って昔のレンガ積みのままである。道の背後も先も静かな下町が続いている。しかし、道から少し外れると大規模な都市再開発が進んでおり、むしろ昔ながらの街並みは囲い込まれているように見える。

同日、ガード脇の線路の空き地に雑草が生い茂る。おりしも旅客機が飛び去っていった。画面の左側のかなたに伊丹空港がある。着陸よりかなり前から高度を下げていくのである。下町と草木、そして青空は不思議とよく似合う・・・大都市の中で大阪は下町の道路にはみ出した鉢植えや、勝手に線路や土手の空き地に草木を植えている率が最も高いのである...私的な「下町緑地」が大好き。 CLxsummaron35mmF3.5xRA

11/14

やはり秋の日、友人と三人で大阪・船場の繊維問屋街を夕暮れのそぞろ歩きだ。友人は「写真 カドヤ・プロジェクト」を立ち上げた・・・私も注目に値する内容であると感じた。この画面にも1軒の「カドヤ」が納まっており、実に街によく溶け込んでいる。このあと本町の「ポール」でもう一人の友人と落ちあい、レフトバンクならぬ浪花のノイエ・ザハリッヒカイト論議と理想のフォトエージェントについて夜遅くまで語り合った。 充実した毎日である。 M5xCanon35mmF1.5xRA

11/13

秋だ。夕暮れ時、刈り取られた田圃で籾や藁を焼いている。私はこんな所の近くに住んでいる=京都府相楽郡和束町にて。この風景を見て、匂いを嗅ぐと、もう京都の田舎に冬も近い。 CLxズマロン35mmF3.5xRA

11/12

最近の取材から少し=ラッシュ用のデジタル画像から...富山の河川のサケ漁。サケの孵化放流事業は国策として長く推進されてきたが、比較的近年その成功を見、どこの河川でも回帰率は上がっている。サケは少なくとも川においては特別の魚であり、好ましい現状であるが問題がなくもない。機会があれば深めたい。

10/12

先々週の10/3に奈良/般若寺、京都/浄瑠璃寺・岩船寺へ行って来た。私の家からはごく近くてどれも30分以内で行ける。信仰心はないが寺や神社が好きで、花の寺の好きな知人と共にのんびりと秋の寺を満喫するために回った。 キヤノンG1

般若寺にて。奈良と京都を結ぶ街道沿い(奈良坂)に建っている。そよの花の寺と異なり境内全体にまちまちに花が植えられ野趣がある。歩くと花に埋もれ、国宝の楼門も本堂も鐘楼も、そして回りの民家やマンションさえ花の間に見え隠れするだけである。参詣人も確かに歩いているのだが、人の低い話し声がきれぎれに聞こえてくるだけである。この寺は飛鳥時代に高句麗の慧灌法師によって開創された。その後源平の争乱によって灰じんに帰したが、鎌倉から江戸時代にかけて再建され、明治の廃仏毀釈でまた衰えた。そして現在復興が進みつつある・・・多生荒れ寺の雰囲気も残っており、これが咲き乱れる花と相まって「野趣」を感じるのだろう。「自利利他」「栄枯盛衰」これが般若寺の魅力だろうか。

南山城の山中に入ると、平安京の鬼門(北東)を護る八瀬・大原・比叡と同じく、平城京の鬼門を護る浄瑠璃寺・岩船寺へ参る。ここは浄瑠璃寺の本堂前の弁天池(弁財天が人工の島に祀ってある)深い山の中のひっそりとした寺で、観光地とは程遠いが、それが趣を感じさせる。

池の反対側から本堂を見る。全体が木に囲まれた寺であくまでも静寂な雰囲気を持っている。特別な観光資源はないが、この雰囲気が人を参詣せしめるのだろう。

自動車道から小さな門前町(茶店や土産物店が数軒のみ)を経て山門に続く。参道には歩いて行くことになるが両側は種々の木々の植え込みがあり、その向こう側は山や少しばかりの田畑だけである。背の低いヤツデの植え込みがあった。そして萩の花など・・・。

少し山中を移動し岩船寺へ。ここの村邑からは奈良盆地が上から見えていて、事あれば武装した村民(配置された郷士)が都へ駆け下りたことだろう。浄瑠璃寺と比べても更に小さな寺だが、やはり趣がある。ここから京都側へ下った加茂町に広い田があり、25年程度前に撮影に来たことがある。当時は裏作として麦畑になっていて、そこでモデル撮影のロケをした記憶をすっかり思い出した。

境内の水乞いの不動さんが祀ってあり、信仰の一部になっている。やはりお堂は緑に埋もれているようだ。

本堂から狭い庭をのぞむ。浄瑠璃寺より更に参拝客は少なく、おおむね地元の人と中高年ハイクの人々である。ここは重文の素晴らしい仏像が間近に見られ、観光地にはない仏との距離の近さを感じ取れる。特に「阿弥陀如来座像」「普賢菩薩騎象像」は素晴らしい。あとは持国天や十二神将、不動明王など私の好きな眷族の世界の住人が祀られている。

どうしたものか女性の参詣者が目立ち、若い旅行者がひとり、うつむいて境内奥の三重の塔をいつまでも見やっていたのが印象に残った。

門前のちょっとした店。昔より大幅に参詣者が減り、現在は日祝日だけの営業で、それも春秋の観光シーズン以外は仕事にならないそうである。以前にはテレビが取材・中継放送に来るほどの盛況だったようだ。

今日は金曜なので休みだが、近くに住んでいる加減で何となく門前に来ていた。この人の叔父さんが山の村に見切りをつけて、ここを下った私の町へ教師として移住したらしく、私もその先生の名前は聞いたことがある(とうの昔に定年だが)。そんなこんなで私達は昔話に興じた。 じゃ今日はさようなら。

9/24

暑い夏を乗り越えて久し振りに一昨日、奈良の東部大和高原の旅をした。山中を写友と共に巡ったのであるが、桜井市の安倍文珠院と笠山荒神社である。今回は銀塩カメラも持参したが、試しにデジタルカメラ(キヤノンパワーショットG-1)でスナップしてみた。使いがってにおいては「充分」とは言えないが「結果」は満足できるものである。ポジがあがったら追加してみよう。

安部文殊院の表門。ここは大化改新のあと左大臣になった安倍倉梯麻呂が安倍一族の氏寺として建立したのが始まりである。その後寂れていたが、近世/近代に至って再建された。門の前は普通の住宅地や農地で古い木の門(朱塗りは最近だ)と「下馬」の脇石が由緒を偲ばせる。地元の人以外はこちらの参道には来なく、彼岸だというのに静かなものである。現在の表は寺域の裏の駐車場側である。

十一面観音像と千体仏。この脇に水を守護するかたちの小さな古墳があり(閼伽井古墳=古墳の中に湧き水がある)、さらに奥には白山神社があって、ここでのもっとも原初的な信仰は山と水だと思われる。また寺域の中心あたりに飛鳥時代の西古墳があり、建立以前から続く聖地としての威厳を保った特異な寺と言えよう。

寺域最奥の山の上から眺める。真ん中の建物は比較的最近できた文殊池(かなり大きな池がある)の浮御堂。右手が本堂で、ここに鎌倉時代の快慶作の重文「文殊師利菩薩像」=これは圧倒的な大きさと獅子に乗った文殊菩薩のリアリティが素晴らしい=や善財童子像が安置されている。これら以外にも見るべき仏像が多く、しかも近くに見られる。「知恵の神様、文殊さん」には日本三大文殊があり、天橋立、奥州亀岡、そして安倍の文殊さんのひとつとして名高い。また最近流行りの「陰陽師 安倍清明」はここの安倍氏の一族で、この寺でも観光資源として活用している(清明堂が平成12年に200年ぶりに復活した)。奈良盆地南部が見渡せ、大和三山(畝傍山、耳成山、香具山)もすぐそこに見える。

本堂脇の小山に小さな稲荷社がある。目立たないがれっきとした「信太の森の稲荷さん」である。比較的小さく、自然のままの寺域であるが興味は尽きない。大小の古墳、白山神社、稲荷、陰陽師、素晴らしい仏像・・・さして観光化されていず立ち寄って欲しい寺である。

本堂から外を眺める。仏像はもちろん撮影禁止だが、外向きには構わない。おうすを飲んで僧の説明を聞く。ここでは仏像は文化財としての正当な扱いを受けており、完全空調の収蔵庫に安置してある・・・しかし本堂奥とうまくつないであり、参詣に違和感はまったくない。

本堂脇の寺務所。と言うより土産物売り場に近い。お札やお守り、絵葉書などが中心だが商売は熱心である。文殊池の畔には土産物売り場がある。私は清明ゆかりのドーマン・セーマンの護符を買った(五芒星形)。最近コスモス迷路を作って集客を計っているが少し陳腐である(堂々と寺の威厳・格式で価値があると思う)。

昼食を兼ねて更に山奥へ分け入り「笠山荒神」へ移動した。ここの門前で笠地区の人々が地元産のソバを扱った蕎麦屋が営まれている。やはり美味しいが普段は素人の地区の人達には手早く作ることが難しいらしく、休日には30分ほど待たねばならない。私たちは平気(カメラの話なんかして気楽なものだ)だが普通の観光客にはストレスがたまるらしく「文句が多い」。 ここも日本三大荒神(三宝荒神の略=かまどの神)のひとつである。ひとつの山が神体で杉・檜の森の中を参道は巡る。それほど大きな施設はないし、観光地でもないため人は少ない。2年前に来たときより少しだけ観光客は増えた=蕎麦が名物として定着しつつある。

山の一角に泉が湧いている。「閼伽井の不動」、水源を守る神である。ここでも地域の人達によって大切に守られている。素晴らしい日本だと思う。これはデイライトシンクロ。

笠地区の田畑地へ出てみた。稲穂も黄色く刈り入れ時が近づいている。今年は異常気象でコスモスの開花期が狂ったようだが、ここでは満開に近かった...もちろん地区の人達が植えて大切にしているのである。これもデイライトシンクロ。

新名物の蕎麦の畑、花が満開である。前回来たときより広くなったように思う。やはりアマチュアカメラマンが何人か来ていた。田園風景というのはこんなことなのだろう。風にゆらゆら揺れる蕎麦の花、大和高原、高い空...こんなところで暮らしたいと写友が呟いた。 今日はさようなら。

8/10

10日ほどまえに東住吉の貨物線の百済駅周辺に行ってきた。昔百済系渡来人が河内内湖の西岸の低湿地を開拓した場所とされ、江戸時代には水運、明治期には貨物駅、戦後はトラック便での物資の集散地として栄え続けた。以前から気になっていた場所だが、今回写友のフィールドワークに便乗して、このあたりの町々を何回か訪れて記録したいと思っている。

桑津の食堂のおやじ、昔をおおいに語る。終戦直後、廃止された貨物駅の前に先代が開業して、往時は運送屋や荷役人夫達でたいそう賑わったようだ。駅が廃止になってからは暇になり、道路の拡張で移転問題も起こっているが、2代目おやじの桑津へのこだわりは強い。

百済駅方向に歩く。「松倉時計店」の看板に「百済時計店」の看板が並立している...このあたり一帯は以前「百済」と呼ばれた地区だが、町名変更で現在は通称となってしまった。しかし駅やバス停、公園や学校には「百済」の名前は色濃く残っている。この店も松倉時計店が百済時計店を買い取ったものと推察される。時計店にすだれが下がっていて、文房具やちょっとした雑貨なども扱っている、いたって下町風の店である。

JRの貨物駅である「百済駅」の正面。駅事務所があり、その向こうは広大なコンテナヤードと引き込み線がある。いまでもここはかなりの荷の集散駅で、人は少ないが確かに動いている。当然一般の列車は止まらず乗降もできない。それでも「通り抜け禁止」の立て看板があるとおり、一般の人達がここを抜けて向こう側へ歩いて行くのである(我々も含めて)。それほど広大な敷地である。通り抜けたすぐ北側に東部市場(卸売市場)がある。

構内にて。土曜なのでトラックの発着は少ないが、荷物はすべてコンテナのようである。業務用の手書き告知板に秋田・富山などと行き先が示してあり、道路とは異なる貨物列車の物流の拠点が分かる。

駅を出ると大通り以外は下町の住宅街が続いている。下を流れる川は旧大和川の支流で、近代まで水運が入っており、左方向が桑津(名のとおり桑の津=川湊)である。いまでも所々に船着きの跡が見られる。

その川にかかる橋にて。このあたりに昔の雰囲気が残っている。コンクリート護岸の下に古い石垣があり、その所々(ちょっとした倉庫や町工場などの場所)に川へ降りる切り欠きがある。ここで川は二股に分かれており、その中州が正面の林である。

桑津方向へ戻る。桑津の廃止された貨物駅跡地にはマンションが建ち景色は一変した。しかし東部市場前駅(これは一般の旅客駅)が作られた。ところどころに往時を偲ばせるカフェーやその他の店がある。なにしろ40年ぐらい前までは大変な貨物の集散地で、物と同時に人の流れも多かったのである。

東部市場前駅の駅前のマンション群の緑地帯にて。緑が色濃い。完全に町は作り替えられていて貨物駅時代の雰囲気はない。しかしこの一角を一歩出れば寂れたとはいえ、昔の景色はまだまだ残っている。

データ: ライカIIIFxM4xcanon35mmF2xRA (今回はボディ2台にレンズ1本という変則的な組み合わせだった)

7/27

先週、梅雨の合間に高野山へ行って来た。春の京都国立博物館での「空海と高野山展」へ写友と共に行ったとき、展示されていた仏像の素晴らしさに心を打たれて、今回の訪問となったのである。勿論今回は「下見」の範疇で、もう少し絞って(勉強もして)再訪したいと思っている。 データ:M7xズミクロン35/6枚玉xトレビ400、LeicaIIcxニッコール35mmF2.5xRA

奈良・橿原神宮から車で野越え山越え、相当走った山奥にいきなり大きな山門があった。高野山金剛峰寺の大門である...ここから神仏、眷属の住む真言世界への旅が始まる。仁王の睨む向こうには道を挟んですぐに絶壁があり、その先は南に紀伊山地の山並みがどこまでも続いている。

門をくぐると本山も含めて数多くの別院が続いている。寺の名前はそれぞれだが、これらを総称して高野山金剛峰寺と云う。ここはビルマ(現ミャンマー)と姉妹提携をしている寺で、今日もビルマ戦線の戦没者の法事がなされていた。門にビルマの国旗、塔からは小旗が連なっている。60年近く経っても遺族は集まってくる。戦争の傷は癒えることはないのであろう。

金剛峰寺本堂脇の楼閣にて。ここまで山奥になると物見遊山だけの観光客は少数派で、信仰を伴った訪問であることが多いと思われる。一人でやって来て何かしらの信心を残していく人もいる。決して休んでいる訳ではなく本堂に頭を下げて小声で教を唱えていた。真言宗とは云っても現実には宗派は問わない寺で、大師信仰・山岳信仰・真言密教など多くの信仰が習合している。

更に参道を歩くと、各寺院に混じって飲食店や土産物店、山岳信仰につき物の漢方薬の店などが並ぶ。人々はここでも整然と歩き、店で墓に供える「高野槙」の枝を求める。槙の木は腐りにくく淡水の木造船には最高の良材とされ、槙の樹皮(マキハダ)はほぐして繊維状にすると船の水密材として重宝された。吉野の桜と同じような意味で高野山には槙が神聖で大切な木なのである。

ほどなく奥の院への参道に入る。あたりは鬱蒼とした杉林で樹齢数百年の木も珍しくない(もちろんこれらも文化財で保全されている)。この2kmほどの参道の両側におびただしい墓がある。中世から現代までの墓があり、国元の墓とは別に大名や江戸時代の豪商などがこぞって建立したのだ。現代もクボタや松下、住友などの有力企業の社墓が建てられている。画面奥の人の固まりは有名な墓のガイド付きのツァーの一団である。

いよいよ奥の院への参道である。ここからは撮影禁止となる。すぐ近くなのだが杉林のためほとんど先が見えない。奥の院の裏に空海(弘法大師)の入定・即身仏となった庵があり、高野山第一の聖地となっている。興味深いことに空海の納経所の隣に稲荷の祈祷所があり、眷属との関わりが暗示されている。高野山では普通の寺に多い観音や如来より、より下位のの仏(多くが古くからの土着信仰やヒンドゥーの神)が目立っている。つまり王部や天部などに属する四天王や童子、神将などの活躍する世界である。これらの仏像が素晴らしい。

奥の院の隅の無縁仏のストゥーパ。たくさんの石仏で円錐形の集合暮が作られており、宗派を問わない無縁の仏が祀ってある。実際はこの暗い空間の奥は見えるのだが、見ない方がいいと思って暗く潰した。そういう世界だろう。

墓群のひとつに「写真業」のものがあった。タイルに写真を焼いてあって、これが三面ある。写真家ではなく、写真関係の業者(材料の製造・販売・流通)の団体のもののようである。写真は怖い...永遠に写真の向こうで微笑み続けるのである。私はポートレートを好まない。

7/6

先週、通称「矢田寺」に行ってきた。ここはアジサイ寺として有名で、本来の名前は金剛山寺(1300年前に開基)と云い、元は観音信仰、現在は地蔵信仰の寺として親しまれている。矢田寺とは既に奈良時代より呼ばれ「矢田の里にある寺」という意味である。当時から親しまれた俗称を寺でも充分認め、拝観券にも矢田寺と記されている。境内付近一帯は、県立矢田自然公園に指定されており、矢田丘陵ハイキングコースとして親しまれていて、私もここの近くの奈良県立民俗博物館にはお世話になっている。

金魚の生産とお城で有名な大和郡山市街地から西へ農村地帯を抜けて丘陵地帯に寺はある。普段はごく地味な寺で観光地的なものはまったくないと云っていい。画面奥の村はずれまでバスが来ており、そこから炎天下を歩く。休耕田などを臨時の駐車場に転用して呼び込みをしていた。アジサイの季節だけの晴れがましい喧噪であろう・・・参道にはにわか造りの土産物屋や茶店が開いている。しかしほとんどは普通の農家であった。やはり地蔵信仰だけあって圧倒的に中年の女性が多い。向こうに見える奈良盆地の端に、空気が透明な日は奈良東大寺の大仏殿が見えるらしい...アジサイの季節は湿度が高く、晴れても靄がかかったように霞んでいる。 

今年は開花がやや遅く、6月末でも満開である。様々な種類のアジサイで境内は一杯である。品種が多いのと、同じ木でも開花期とその日の天候で色が変わるので余計に派手である。かなりの人出だが、アジサイの背丈が高くて歩いている人は大部分が隠れている。 アジサイは日本が原産地の花木で野生のガクアジサイから品種改良である。西洋アジサイとして売っているものも昔ヨーロッパなどに輸出されたものの改良品種で、いわば里帰りと言えよう。私は原種のガクアジサイ(ヤマアジサイとも云う)が一番好きだ。

本堂で。かなり寺域は広いがアジサイをはじめとして木が多く、建物は概して少ない。本堂も含め地蔵菩薩立像など重要文化財も多く歴史的/文化的価値は高いのだが、今ひとつ「アジサイ寺」から脱していない。がしかし単なる観光用のおもねりとは違い、ここも含めて日本中の寺に色々な花が植えてあり、ずいぶん昔から信仰と花は切り離せない存在なのだと思っている。ここに限らず田舎の寺社は、整理整頓された京都の寺より好ましいと思っている。

参道の隅のアジサイの下で寺の出入り業者らしき人がしばしの一服をしていた。観光客だけにアジサイは咲かない。梅雨の合間の気分のいい日、アジサイは花の少ない季節の彩りとしての貴重な意味を持っている。

寺域のアジサイ園。自然の山の地形を利用して、散策路のあちこちにアジサイが濃密に植えてある。よくあるバラ園などと違って普通の木々の下生えとして自然な雰囲気にしている。最盛期なので観光客は狭い散策路に数珠繋ぎになって歩いていく。なかなかいい雰囲気だ。 ここには大門坊という国民宿舎もあり、旅で来るにはノンビリできるいい寺だろう(午前中は観光客は少なく、アジサイも元気である)。 この日は晴れていたが、今度来るときは梅雨らしい雨のしとしと降る日に来てみたい(まことに勝手な写真家だ)。  今回のデータ : M7/CL+summicron35/2ndxRA

6/15

能登での木造船建造作業。昨年秋からちょくちょく訪れて記録している。すでに全国的に木造和船の建造は終焉期を迎えていて、技術の伝承者の高齢化が進み、博物館や寺社、映画用の船すら建造に支障が出てきている。私の仕事はこのような伝統的な技術や生活を記録・研究し、後世に残すことである。この船も博物館に収蔵されることになっている。

6/5

5/17に京都・高台寺へ茶室の写真を撮りに行った。その行き帰りの話である。目的地はあってもいつでも寄り道して、あちこちの小路や裏町を歩いていく。今回は四条京阪で降り、四条通から花見小路へ折れた。ここは街並みを保存していて(祇園の中心)撮影には不向きである。ぶらぶら南下すると建仁寺に突き当たる。この寺の壁際の小道を歩くと、なぜか小さな屋台が出ていて祭りの準備である。町会長の家の前に近所の婦人が集まり、何やら準備か井戸端会議が分からないような賑やかさである。京都では観光とは関係なく町々に祭祀があって、ガイドブックにも載っていないため歩いて確かめるしかないのである。路地の行き止まりは建仁寺の塀である。 今回のデータは、CLExキヤノン28mmF3.5xRAである(すべて画面の左右をトリミングしてある)。

東に進路を変えて、また少し歩くと暗い神社の境内に出た。安井金比羅神社である。金比羅さんと云うと航海の神さんだが、併せて商売・技芸の繁栄を祈るものらしい。しかしここは祇園、特徴的な信仰が色濃い。縁切り・縁結びの信仰であった。この画面以外にも数多くの絵馬が掛かっていて、「縁」しかも男女の縁について祈願されていた。少し読んでみると(本当はいけないことかも知れない)圧倒的に縁切りの祈願が多かった。しかも女性が男との縁を切る、あるいは自分の旦那の不倫相手の縁切りと云うことである。見てのとおり絵馬は新しいもので、古いものは順次処分しているのだろう。それでも大変な数になっている。私が居た20分ほどの間にも何人もの女性が訪れていた。暗い境内にカラコロと下駄の音が響く。

境内の一隅にお札の返納場所がある。これにも縁切りの祈願が書かれているのだろう。おびただしい数である。神社自体は社務所もあり、別棟に絵馬の展示館もあって、狭い割には繁栄しているように見えた。細長い境内を西へ抜けると、急に明るい東大路通に出て、高台寺への参道が目の前にあった。

清水寺へ登る坂道より1本北の道だが、やはり清水坂より人は少なく店の雑踏もない。歩き始めて1時間半、そろそろ休憩と思っていると坂の左に「文の助茶屋」があったので入った。決して古い建物ではないが、古い町屋風に改装してあり、門前町の風情を演出している。私は氷アズキ、友人はあんみつを注文して、こ1時間もの間、世相談義(とは云え写真家同士、写真やカメラの話になる)、その間に私たちも含めて4組しか客は入らない。こんなに快適なのに不思議なことである。若者が店の外の席で熱心に語り合う。内容は分からないが「語り合うふたり」の姿はいつも微笑ましく思うのである。

茶店を出るとすぐに「二年坂」に出た。ここを左折し降りていく。急に観光客が増えてきた。私たちが来た方からではなく、坂の上の清水寺方向からやってきたのだろう。そして登っていくのだろう。修学旅行の生徒、僧侶、CIA風の男、外国人、老若男女・・・とにかくあらゆる人達である。

二年坂の中程から見上げた。初めて見たが「京占い」なんてのがあるらしい。やはり中年の婦人が熱心に見ていた。私は星占い、手相、骨相学、八卦、コックリさんから血液型占いまで、まるで信じていないが、それらをどこかから見物している神様は多少信じている。寺や神社の裏山あたりに座って酒でも飲みながら娑婆を眺めているのだろう。

ようやく高台寺の寺域。これは東山山中にある傘亭と時雨亭という茶室・・・利休によるデザインの茶室であり、伏見から移築したものである(どちらも重要文化財=しかし少し傷んでいる・・・修復の必要を感じる)。あまり観光客は来ない。男女ふたりの学生アルバイト(たぶん仏教系大学生)が所在なげに、若者らしい(しかし歴史的建造物にはふさわしくない)たわいもない話題に興じていた。若いことはいいことだ。あたりは緑に包まれ、木の葉越しに洛中の景色がちらちらと見える。1時間座っていても飽きないだろう。 ただし茶室としては山門から入ってすぐのところに建つ「遺芳庵」のコチンとした侘の方が好ましく思われる。

傘亭から下ると綺麗に手入れされた竹林に入る。かなりの急傾斜だが竹林の直線的な風景の向こうに垣間見える新緑の広葉樹の景色が重なって、心を奪われてあっと云う間に下ってしまって、慌ててまた登り、今時は味わいつつゆっくりと下る。旅行の娘達も坊さんも竹林の暗がりに吸い込まれていくようだ。なんとも幻惑的な場所である。10年ばかり前に来たときは運悪く豪雨で、ここまでは登らなかった。そう言えばここの寺では植木や建造物の職人達が目立った。充分に手入れがなされている。 ここをあとに帰宅した。これからも京都へは時々来ようと思う。今までは近いこともあり、あまり足しげく通わず、遠くへの旅ばかりであった。

5/28

5月18日に奈良へ行った。今回は新緑の奈良の町をブラブラするのが目的で、たくさん歩いて暑さもあり、結局38カットしか撮れなかった。

友人達と奈良駅で待ち合わせ、しばし歓談したあと奈良公園に入る。まずは猿沢の池だ。花の季節もいいが、木々にモクモクと新緑が萌えたつ季節もいい。池の周りは絵描きやカメラマンがたくさん集い、あーでもない・こーでもないと賑やかである。ここ以外にも風景画を描いている人達が目立ち、今まで数が多いと感じていたアマチュアカメラマンが減ったように思われる。私も池畔のベンチに座って、しばらく近所のオジサン(先代からのライカファン=ご本人70歳と云っていたのでライカの戦前からの年季となる)と語り合った。私はライカM6改+ズミクロン35mmF2/2nd+RVPである。

綺麗に刈り込まれた草っ原に名もない地蔵が不規則に並んでいる。どれも顔が判別できない程度に古いものだが、赤いよだれかけは新しいものもあり、誰かが世話をしているのだろう。場所は上の池畔の林の中である。ベルビアの発色が晩春の景色によく合っている。

奈良の下町を歩いていると不思議な場所が多くある。誰のものとも分からない道や空き地があって、細い道を歩いているとどこかの庭になってしまい、そのまま歩くとまた別の小径へ出る。誰かが木を植え、ちょっとした菜園にしているかと思うと、やはりそこは道や崖地、小さな水路の川肩であったり・・・田舎の神社の敷地のように無縁の土地がたくさん残っているように思われる。この小径も向こうに見える小路と背後の小路を結ぶものなのだが、右の家のものではなく、左のフェンスに付属するものでもない。かと云って公道ではさらさらない。足下の鉄板の下は何かの用水路(下水ではない)であり、家(廃屋=たぶん何かの工場)の中から出てきて、もと工場のこぼった跡地へ伸びている。そして草むらに隠れて見えないが小さな地蔵が祀ってある・・・これも誰かが守をしている。道そのものは町内会が管理しているらしく簡易な門扉があり、夜には道を閉ざしているようである。

奈良の町を抜けてJRを西へ渡る場所。ここもまったくの無縁の場所で、かなりの面積に何もなく踏切と頭上に高架道路がある・・・あとは草原。そして回りは田畑が市街地から取り残されたように広がっている。つまり左は旧市街、ここより右は新市街=都市開発が進行中=である。両者をつなぐ道は極端に少なく、夜に歩くのは怖いような道である。この電車は奈良から大阪方面へ向かう関西本線だろう。

帰路に就く。まず奈良(10分待ち)から各駅停車でふた駅の木津駅へ。ここは相楽郡の郡役所のあった町で、いまでも警察・裁判所など南山城の行政の中心地である。しかし開発は遅れ、駅の周辺は田畑と山が大半の景色である。私の好きな駅でもあり、木造の駅舎、回りののどかな風景、そして関西本線・片町線・奈良線(後者ふたつは単線)が乗り入れており、いずれもローカルながら奈良、大阪、京都へ真っ直ぐ行ける。人影はまばらだがキヨスクはあって、中年の婦人が所在なげに店内に座っていた。ここで15分待ってふた駅先の我が町へ帰った。我が家に戻った時には(全部でたった四駅だが1時間近くかかった)奈良で別かれた大阪在住の友人が先に帰宅していた。

5/24

京都へ「高野山展」を見に5/3に行ってきた。展覧会は大変な混雑でじっくりとは見られなかったが、いくつかの仏像に魅力を感じ(これらは適切な照明と近い距離で見たので寺で見るより観察は細かくできる)仏像そのものもそうだが、それらを取り囲むお山の世界を訪ねてみたくなった・・・今回共に行動した写友と近日中に行くことになったことは言うまでもない。高野山の話は後日のことにして博物館への行き帰りの道をルポしてみよう。  データ:M6+ヘキサノンKM35mmF2+RA

京都駅に降り立ち、普段とは違う場所から京の街へ出ていった。伊勢丹とは反対の八条口から出て、東へいったん歩いて跨線橋をまたいで七条方向へ向かった。ここら辺は今は再開発で半分ぐらい(特に通りに面した場所)は今風の町になっているが、昔はドヤや労働下宿、それらを相手にする零細な商売屋が建て込んだ下町/裏町であった。大阪駅で云えば駅の北側にあたる中津や天六あたりと同じで、現在の姿から云えば町の玄関口である駅の隣接地域がスラム化する傾向がある。ひとつには鉄道がついたときには町のはずれの場所が多く、その後の開発で都市化した場所なのであって、ここへ全国から大量の労働者が流れ込み建設・土木の仕事に従事したものである。別の話として(各地での聞き取りによる)明治期には鉄道の駅が来ると無宿人や疫病が入り込み町や村の風紀や秩序が乱れるというような意見が支配的で、町中や隣接地ではなく、少し離れた場所に駅は誘致されたのである。もちろん交通の至便や流通の発達は歓迎されたので鉄道そのものが拒否されたわけではない。都市では駅は市街に取り込まれたが、地方では依然として不便な場所にある場合も多い。そもそも都市とは昔から政治・経済の中心であったが、そこで働く労働力は村から出てきた無産の次男三男と女子達であって、その中にも立身して官吏や商店主になる者もいたが、零落した人達もいたことは当然のことである。 ここは跨線橋のたもとの古い下宿の庭に生えた木越しに京都駅をみたところ。

跨線橋から裏町(上之町)に入った。家の外に簡易な水道と洗い場がある。大部分は傾きかけた平屋建ての木造だが、画面の奥の青いフェンスは京都市に買い取られた土地である。町のあちこちにこのような行政の押さえた更地があり、よけいにうらぶれた雰囲気となる。要するに立ち退きが前提の再開発であろう。すでに大きな市営マンションが町の周辺部から建ち始めている(大阪の日本橋の裏あたりも同じである=日東小学校と愛染橋病院だけが残っていてあとはフェンスに囲まれた更地、そしてマンションが建ち始めている)。

裏道を歩いていくうちに鴨川を渡って三十三間堂に着いた。ここからはたくさんの観光客と合流することになった。混雑はしていたが長い堂内いっぱいに安置された千手観音の群像や国宝級の仏像を堪能できた。ここでは主とした仏像に丁寧な解説が付けられていてなるほどと思われることも多々あった・・・多くの寺では宗教上の解説は書いてあっても学術的な話はあまり重点を置いていないことが多いのである。 堂内は混雑しているが境内の他の場所は人が少ない。日の丸を見て今日は旗日だったと思い出した。

三十三間堂の表門の筋向かいに京都国立博物館がある。明治の古いレンガ造りの堂々とした建物で以前は時々仏像を見に来たものだ。あまり人の居ない場所なのだが今回は違う。「空海と高野山展」のために入場制限をするほどの混雑である。ここのミュージアムカフェで軽食を摂るために15分待ち、館に入るために10分待った。そして中でも大混雑でなかなかじっくりと見ることができなかったが、私たちはしぶとく順を待って見るべきものは見た。特に空海が唐から持ち帰ったと云われる「諸尊仏龕=しょそんぶつがん」と運慶作「八大童子立像」が良かった。期待していた俗称「血曼陀羅」は退色が著しく残念だった。でも今回の見学で「吉野から高野山への」道が具体的についた。次は高野山の土を踏もう。

博物館をあとにして京都駅まで表通りを避けながら歩いた。鴨川を四条と七条の大橋の間にある正面橋という小橋で渡ったところ。川の向こうは明るい東山、背後は夕暮れの五条楽園。川の護岸の上に色々な箱を利用した植木鉢が並ぶ。夏になったらここに花が咲いているのだろうか? このあと東本願寺まで歩き、寺で1時間ほど過ごして帰宅した。お寺の話はまた後日としよう。

5/10

サイト上の上梓の順はまちまちだが、今年行った桜の旅の最後である。ここは京都府相楽郡山城町の蟹満時である(私の家の近所=何度も書くが田舎)。データ:M6xキヤノン35mmF3.5LxRA(最後の写真のみE100VS)

蟹満時の裏の神社。本堂は左手の小さな社だが、このように色々な神様が合祀されている。右の牛は牛頭天王(祇園さん=インドの神)でこの地方では必ずと云っていいほど祀られている。そして本当の神は石碑のように見える遙拝所(ここで祈る)の向こうの山そのものである。更に云えば蟹満寺も同じであるが、治山・治水の信仰である。すなわち古代稲作が入ってきたとき、最大の問題は水の確保であり、山国の日本では水は山からもたらされるものと認識されていたのである。 氏子の人達が当番で境内の掃除をしていた。

同じ位置から振り向くと、階段の下に蟹満寺の甍が見える。この地方の神社では必ず鳥居とは別に柱の間に綱を渡し、種類は分からないが葉のついた枝を何本も下げて鳥居と同じ形にしている。境内全体は深い照葉樹に覆われている。

さて蟹満寺に入る。脇堂に寺の縁起を表した絵額(観光用ではない)がかかっている。蟹が蛇を挟んでいる姿で、蛇(水神)を蟹(ここを支配した豪族)が制しているものである。寺の看板のようだが、案外このような仏教以前からの由来のある紋章を持つ寺は珍しい。たいへん小さな寺だが格式は高く、本尊釈迦如来座像は白鳳時代のもので国宝に指定されている。寺側では多少の努力をしているのだが、ほとんど観光化していない。地元の人達が中心に訪れていて、その数も多くはない。

*蟹満寺縁起(蟹満寺発行の「蟹満寺緑」より引用・編集)  大昔、この寺が創建される前は、善良で慈悲の心の深い夫婦とひとり娘の3人家族の農家があった。この一人娘は特に慈しみ深く常に観音経を読踊して観音菩薩を信仰していた。ある日外出すると、村人が蟹をたくさん捕らえて手足をなぶっているのを見かけた。娘はいきものを慈しむよう頼んだが聞き入れられなかった。そこで村人に金を与えてその蟹を買って草むらへ逃がしてやった。すると蟹は嬉しそうにガサガサと何処へともなく去っていった。その後父が田を耕していると蛇が走り出てきてガマ(カエル)をくわえ、今にも呑み込みそうだった。父はガマを救ってやろうとしたがどうすることもできない。そこで蛇に向かって「もし汝が蝦蟇を放すならば、我に可愛い麗しい娘があるが汝に嫁がせよう」と云ったのである。すると蛇は直ちに蝦蟇を放った。蝦蟇は一命をひろい逃げ去り、蛇もどこかへ隠れていった。さて蝦蟇の命は救ったものの憂苦になった父は耕作する気力を失い、鍬を担いで帰宅した。家で妻と娘にその話を語り不本意を悔いたのである。娘はただちに自室に引きこもり、観世音菩薩に一心に祈った。さて日没に近づくころ門前に衣冠を着けた紳士が現れ、田圃での約束を迫った。父は日限を附して再約し、その場は逃れたが、方策はなく、ついにその日になって、紳士は再訪した。父は雨戸を堅く閉ざしたが、ついに紳士は蛇の姿に戻り、家の回りを廻って娘の居間に入ろうとして荒れ狂った。その時大慈大悲の観世音菩薩が両親の眼前に彷彿としてお姿を現し「汝等よ決して恐れることなかれ、汝等は慈悲の心深く善良なり。汝等の娘は我を信じて、我を念ずる観音力はこの危機を除くだろう」と告げて姿を消した。両親は自然に合掌して「南無観世音菩薩」と何度となく念踊した。さて如何なる事か先刻まで荒れ狂っていた音は絶えて戸外は静まりかえっていた。外を覗くと、目に映ったものはすでに鋏切られた大蛇の片々と数万の蟹であった。蟹も蛇との格闘によりたくさん死亡していた。三人はこの有様を眺め観世音菩薩の守護を感謝し、娘の身代わりとなった蟹を痛く悲しみ「南無観世音菩薩」と何度となく念踊した。この蟹と蛇の死骸を集めて丁重に葬り、その上に御堂を建てて聖観世音菩薩を祀り、蛇と蟹の菩提を弔った。たくさんの蟹が満ち満ちて恐ろしい厄災を救われた因縁で「蟹満寺」と名付けた。

寺が建立される前の大昔、蟹と蛇、そして蝦蟇、そして農民・・・それらの水にまつわる伝説に、後日仏教の権威が乗って説話としてまとまったものである。

寺の一番奥には中世の欧州の地下墓地を連想させるような巨石を刳りだした上に更に石碑を積んだ岩山のような拝所があり、その右には水子地蔵、現代の信仰としてはここが拝む対象となっている。向こうに見えているのは上の神社の鳥居である。

治山・治水にまつわる話をもう一つ。寺のすぐ近くを京都・奈良間を結ぶJRの単線が走っているのだが、寺のすぐ脇を流れる天神川が天井川で、川の上から撮影したものである。つまり線路が足下の川の下をトンネルで抜けて走っているのだ。平地より河床は10m近く高いところにある。 *天井川 :この地方の山はおおむね風化花崗岩で(マグマが地下でゆっくり固まると花崗岩になる=火山国日本では多い=荒く結晶した石英・長石・雲母が風化するとボロボロに崩れる)、上流から大量の砂を流し出し、更に燃料として山の木を燃料として刈ることにより、その作用は助長される。花崗岩質の土壌は痩せているのとすぐに崩壊をしてしまうため植物の育ちは悪く、明治の初めには近辺の山はほとんど禿げ山で、豪雨が降ると洪水を引き起こし、それがまた砂の流失と山の土壌崩壊を進める・・・悪い自然の循環となっていったのである。川の堤防を高くしても砂で河床が上がり、また堤防を継ぎ足す、その繰り返しで高い川(天井川)の景観が作られた。  明治期に有名なオランダの土木技師デ・レーケ(長良川の治水工事でも著名)が淀川水系の治水のために、ずっと上流にあたる山城町の河川に日本で初めての砂防ダムを造ったのも治水と治山が同じ行為だという当時の欧州の考え方を具体化したものなのである。現在も当時のダムは河川公園の一部として保全されており、デ・レーケの偉業は恩義に近いこととして顕彰されている。古代から現代まで続いている水との闘い・・・蟹満寺はこういう場所に立地しているのである。

寺の近辺には広い土地がなく、少し離れた国道沿いに駐車場がある。しかし寺の思惑とは別にあまり入ってはいない(ほとんど寺横の15台程度の駐車場で充分)が、回りに桜がかなり植えてあり綺麗である...桜と田園風景、その向こうに南山城の山塊。寄席文字で「蟹満寺」なんて粋な坊さん達である。どこかとぼけた田舎の由緒正しいお寺であった。

5/5

少し前になるが4/9に大阪・奈良の県境の信貴山・朝護孫子寺へ行ったときのレポートである。どうも桜の季節は忙しい。何度かこのHPにも書いたが、桜は自分の人生を考えさせられる花なのである。若い頃「あと何回見られるのかな?」と考えて、数えるとそんなに沢山の場所に行けそうもないことに気がついたのである。そして今は50歳、あと僅かが現実のこととなりつつある。今年は信貴山・仁和寺・蟹満寺・吉野の桜を見ることが叶った。来年3月までは桜のことは忘れていよう。 

張り子の虎が神格化されており、沢山奉納されている。寺の由緒は古く、聖徳太子が信貴山に毘沙門天(福徳海運の仏)の出現を寅年、寅の月、寅の日、寅の刻に見て創建したとされ、現在でも縁日は寅の日で、張り子の虎はお守りとして売られている。この虎は山門から入ったすぐにある。

朝護孫子寺自体は信貴山の尾根筋広く展開されていて、たいへん寺域が広い。参道をぶらぶら歩くと桜のたくさん咲いている中庭のようながあった。小さな谷の源頭で、回りの尾根上に色々な堂が建っているのである。初老の紳士が八分咲きの桜をスケッチしていた。いい気候、香の香り、静かな山の空気、そして桜花の下で...贅沢な趣味である。私もあと10年ほどしてフィールドで写真を撮ることが難しくなったら、若い頃折った絵筆をもう一度とって、また描きたいと考えている。

本堂へ辿り着いた。吉野と同じで、尾根筋の道なので高度差の割には楽な道のりである。観光シーズンで、都会にも近いにもかかわらず観光客は想像していたより少ない。本堂脇(この絵では右側)に霊宝館があり、有名な「信貴山縁起絵巻」が所蔵されている。これは朝護孫子寺を中興した命蓮上人の奇跡談の絵巻物で、源氏物語絵巻・伴大納言絵詞・鳥獣戯画巻とならんで四大絵巻と云われている。

本堂にて。清水寺と同じで高いところに本堂があり、奈良盆地の南域が眼下に広がる。この寺には寺院の荘厳さより、天界を歩くと云ったふうな軽やかさがある。人の少なさもあってか何時間でもとどまっていたくなるような気分になる。

本堂から右を見ると寺の諸堂が尾根上に連なっている。宿泊施設も完備しており、少し滞在して小説でも書きたくなる風情である。山の向こうには大阪平野が広がっていて、柏原のブドウ畑が眼下に見える。

ここのちょっとした名物、千体地蔵。子安子育ての願いがこめられている。もうすぐ水子地蔵の上に桜の花びらが散りかかるのだろう。美しいが凄惨な光景で、親の心を想うとあまり見たいとは思えない。

山を下りて参道の終わり付近で。若い修行僧が携帯電話をかけていた。なかなかお寺の中ではできないのだろう。でも彼も大学出の現代の若者、灯籠に片肘ついてブランドカバンを斜めに掛けて、友達としばしの歓談・・・どこかのお寺の子弟なのだろうが、僧侶といえど若い内は世俗を眺めるべきということなのだろう(眉をひそめてはならない)。やはり参道にも人は少ない。

門前町。立派な旅館もあり、かなりの規模の門前町を構成している。しかし往時の話であって、現在人影はまばらで、桜の季節というのに開店している店は少ない。京都や奈良、飛鳥の寺とは異なって、観光コースから離れてしまったのだろう。以前は信仰と結びついた観光だったものが、現在は信仰から離れてしまい、寺巡りの選択肢も変わっているのだろう。私はぜひまた訪れてみたい寺と思った。   データ:CLExGロッコール28mmF3.5xRA

4/26

今回は桜の写真だけである。4/13に京都・御室仁和寺(おむろ・にんなじと読む)を訪れた時の写真だ。今年の京都では昨年から「花だらけ」の絵が作りたかった。前日吉野へ行って、天気が良くなかったのと何しろ大木ばかりで(それにヤマザクラは近くへ寄ると花はまばらに咲いている)望みは叶わず、天気の回復した京都で達成された。京都の北部の仁和寺を選んだのは遅咲きザクラで有名だったからで、有名な「オムロザクラ」はまだ3分咲き、その他の桜は満開だった(京都の中心部より1週間遅い)。 

仁和寺隣の「蓮花寺」にて。僅かに10メートル離れているだけだが、観光地として開放されていないため静かである(自動販売機ひとつ置いていない)。何種類かの桜が一面に咲いており、その真ん中に何十体もの石仏が並んでいて、この手の写真の好きな人にはお勧めの場所である。人が居ないので存分に撮れる。

仁和寺境内にて。25年前に来たときは、皆に開放されていて沢山の人が宴会を開いていたものだが(特に在日朝鮮韓国人の人達の団体が民族衣装と楽器を用いて賑やかに春を祝っていたことが鮮明に思い出される)、今ではずいぶん「管理」されていて寺域に入るのに、この季節だけ有料となっていて、さらに「おむろざくら」の宴席は一人300円の有料となっている。見て歩くだけの場所もあり、そこは無料だが立ち止まることはできない。私たちはここの席を借り、近くの茶店から出前できつねうどん(京都ではおあげさんのキザミうどん)とお寿司(当然関西なので、サバ寿司、巻きずし、箱寿司だ)花見団子と桜餅を持ってきてもらった。縁台に座ると回りはよく手入れされた桜に囲まれて、観光客の雑踏はまったく見えない。席料をとることには抵抗があったが、これだけノンビリできればそれもいいかと勝手な考えになって、1時間ばかりかけて食事を終えた。おむろざくらは遅咲きの独特の桜で、土壌や気候の加減で2m程度までしか伸びず、これに花の玉のように濃密に咲くのである。花は一重と八重があり、色は白色が勝っている。次は1週間遅らせて満開時に来ようか。

仁和寺本堂前の門の前にて。「おむろざくら」は三分咲きで惜しかったが、門の前のシダレザクラ、ソメイヨシノ、その他の桜が満開であった。アマチュアカメラマン諸氏もたくさんここに三脚を据えていた。私は当初の目的通り桜の中に入って門の方向を撮った。枝が低くて理想的なセチュエーションで、別テイクの写真も沢山撮った(別テイクの写真=真ん中の人物が、もう少しできあがったオジサン=を四つ切りに焼いて送った...関東のカフェKに展示されるらしい)。視差があるためライカの場合こういう撮り方は難しい。つまり画面を花だらけにして、少しの空間を空けて向こうの人間を撮るってことだ。ファインダーでは真ん中の人物はかなり左に見えている。特に手前の桜と向こうの人物の距離が大きいので簡単にはいかない。反省点は本当は桜をもっとボカシたかったのである(ピントは当然人物に合わせている)。これはF8だが、思ったよりズミクロン35の深度が深くて意図どうりにはいかなかった(昨年の「民俗・地理学のフィールドから」の京都の桜を見て欲しい=この時から考えていた絵なのである)。また来年にどこかで実行しよう。話は変わるが今年はカメラ付携帯電話で撮影している人が非常に多い(この絵の人もそう)。そう云えば毎年多い「ちょっとシャッターをお願いします」が少なかった。

色々な事情で、地面にゴザを敷いての花見風景は見られなかったが、そこは広い境内、そここで宴席は設けられていた。満開のミツバツツジ(落葉性の山ツツジの一種)が綺麗に咲いている下でのピクニック、松の木の暗い林の中での野趣のあるツツジの花と静かな宴会、背後では華やかなシダレザクラに観光客が群がって・・・私には不思議な景色に映った。   データ:M5+ズミクロン35/7枚玉(一番上のみズミクロン50/3rd)+ベルビア

4/25

先日近所の京都府八幡市・石清水八幡宮へ行って来た。淀川水系の河川文化調査の予備的な訪問であったが、暖かくうららかな春の陽は気持ちが良かった。 それにしても北陸や山陰などとは異なり、近くのフィールドは身体も心もラクチンである。

これは時代劇に頻繁に登場する「流れ橋」である。河川敷の低い場所からの角度でカメラを回せば高堤防のせいで、あらゆる建物・構築物は見えなくなる。こちらの八幡側(木津川左岸)から対岸の久御山町を見たところ。橋の管理は久御山側の責任となっていて、洪水で流されるたびに2−3千万の費用をかけて架け直すそうである。そもそもが多くの昔の橋がそうだったように、流されることを前提に簡単に丸太や板を簡単に組み合わせて造っていた時代のなごりである。若い頃よく渡っていた頃はもっとガタガタで橋の隙間から足の下に川が見えていて、歩くと揺れる怖い橋だった。今は随分しっかりしていて、こんな天気の良い日はハイカーが多く渡っている。以前はタヌキの出そうな草茫々の河川敷で歩いている人など見かけなかったものだが・・・ここでも橋の右側では河川公園の工事が始まっていて(ここは一級河川なので国の管轄)八幡側の背後には「流れ橋記念館」などもできて、流れ橋を中心としたちょっとした観光地のようになりつつある。伝統的な行事としては、この橋の袂からお盆には精霊が流される(地元の人達の行事なので、静かに遠巻きにして眺めたい=先祖を川から迎え、川へ流して帰すのである)。

さて、京阪電車の八幡市駅からケーブルカーに乗って男山に登る・・・山頂あたりに石清水八幡宮があるのである。観光地としては峠を越したようで客は概して少ない。しかし両側には素晴らしい眺めがある。

ケーブルの駅である。店や遊園地はない。観光地と言ってもここは信仰の場所なのである(麓に門前町があり、往時は相当に賑わっていたようである)。休日の晴れた日だが1回の発車で10人程度が精一杯である。あたりは静かな森に囲まれている。

石清水八幡宮の本殿(重要文化財)境内も広いが、山域全体が神体なので非常に大きな面積を持つ。観光客とは云っても比較的地元に近い人が多いように感じた。この宮は昔源氏の氏神でもあったのだが、ここへ登るとすぐに意味が分かる。京都盆地と大阪平野の境にあり、淀川が最も狭くなった場所の山の上にあるのである。そして真下に桂川(京都市街へつながる)、宇治川(琵琶湖までつながる)、木津川(伊賀上野までつながる)の三河川合流点があり、そこから下流が淀川なのである。水運が中心だった頃、ここを押さえるのは経済を押さえることになったのである。桂川は京都から更に奥地の丹波地方、そして日本海側の由良川水系ともつながる流通のラインで、戦後まで筏流しによる材木・薪炭の流通で栄えた。宇治川は琵琶湖につながるが、あまりに急峻な地形で流通よりも水利のために重要な役割を果たした。木津川は最も水運が栄え、やはり薪炭・材木の他、お茶や米も運ばれ、伊賀上野・名張から陸路伊勢湾にまでつながった道である。古代から水を制したものが支配するのが常であった。

山頂の展望台にて。ここにだけ茶店があり、なかなかの風情だ。眼下に左に見えているのが三河川合流点である。大きく広がっている平地は、元は三河川合流のためにできた広大な湿地で「巨椋池」のあつた場所。今は埋め立てられ、農地としての価値も少なくなった現在、高速道路の交差点となっている。第2名神、京滋バイパス、京奈和自動車道、第2京阪がここで交差する。工事は他地域の遅延とは異なり、ほとんどできあがっている。第2京阪国道と京滋バイパスはつい最近開通した。第2名神は左の山崎までつながっている(営業は先の話)。昔は船、今は自動車が狭い京都盆地で東と西の世界を結んでいる。若いふたりも景色を道連れに将来の夢を語り合っているのだろう・・・USJや街の映画館で語り合うのもいいだろうが、たまにはこんな場所で過ごすのも良かろう。  今回はデジタルのキヤノン・バワーショットG1で撮影した(フィルムカメラでも撮ったが、あえてデジタルでまとめた)。

4/20

前の土曜日に「花の吉野」へ行ってきた。昨年来、高田の蓮舟の由来から吉野山に何度も登り、景色と人の営み、積み重ねられてきた歴史について考えてきた。ここは蔵王堂を中心にして山域全体が中世の頃より聖地とされ、時の帝や貴族も京都から1週間もかけて歩いて詣でたものである。現代に至っても吉野詣では盛んで、ほんの麓まで鉄道が走り、そこからバスやケーブルカーですぐにお山の中心部まで行けるのである。ここの数万本の桜も自然にではなく、長い時代を通じて植林されてきたものだ。伝承によると開祖役行者が桜の木で蔵王権現を刻んだとあり、神木として保護され信者からの寄進というかたちで植え続けられたのである。いつか私も「花のある景色」についてまとめてみたいと考えている=もちろん吉野というだけではなく、桜というだけでもなく、日本中で大切に育てられ、多くの人に時代を超えて愛でられてきた花(紅葉や新緑を含んでもいい)のある生活とその景色についてである。水辺の景色と奥山の景色はどうやらつながっているようである。

中千本の如意輪寺付近にて。まず8分咲きというところだろう。ここの桜はソメイヨシノではなくヤマザクラなので花で埋め尽くされるようなことはない(多くの桜の名所では華やかなソメイヨシノが主流)。しかしこのような風に霞たなびくような軟らかな咲き方が好ましく思われる...私はヤマザクラとシダレザクラが好きだ。小雨混じりの悪天候ながらシートを広げて桜見物である。しかし都会と異なり、このようにノンビリとしたものである。全体としてはかなりの人数なのだが自然の大きさは人々を飲み込んでしまう。4月の上旬から下千本、中千本、上千本、奥千本と約1ヶ月かけて咲いていく。ぜひ一度ならず2度3度と行ってみて欲しい場所である。

*吉野山は大峰山脈の北端の8キロあまり続く尾根を指し、6世紀「役行者」が金峯山寺(この中心に蔵王堂がある)を開き、その後修験道(古来からの山岳信仰に仏教や道教などが混淆したもの)の聖地となり、南北朝時代は南朝の中心となった。

4/11−12は花供会式で、氏子が講を組んで運営している。観光地とは言え吉野ではのんびりとしていて1時間近く行列は遅れている。毎年のことだが講の人達は心配そうで、蔵王堂から行列のやってくる方向を見ている。

行列がやってきた。最初は大名行列のように足軽が毛槍や鋏箱を持って現れ、稚児(稚児が蔵王堂に桜を供花する)や僧侶、武士などがあとに続く。行列を守るのは山伏の一団で、老若男女が半僧半俗の独特の山伏姿で式典をすすめていく。天候も回復してきたようだ。

すべての行列が蔵王堂内に入ると、一般の信者(観光客さえも)が入り交じって狭い堂内で印を切り読経を始める。決して華麗ではないが古来からの信仰のありようを実感できる。

*蔵王堂(金峯山寺本堂)は蔵王権現を本尊とし、正面5間、側面6間の檜皮葺・重層入母屋造で、木造古建築としては奈良の東大寺大仏殿に次ぐ大きさである。 JTB出版事業局「奈良」より引用。

蔵王堂傍の茶店にて。祭りの進行の合間に氏子が世相談義。酒の勢いもあってか祭りの盛会に表情も明るい。狭い尾根に立地しているため店の奥は急斜面になっており、緑の山が深い。

蔵王堂正面。このヤマザクラは満開である。この花のありようが風雅さをもたらしている。花供会式のクライマックスは、夕方からの大護摩焚きであり、この桜の前でとりおこなわれる。今年は残念ながら時間がなくて夜まで居ることができなかったが、来年はなんとか最後まで参加したいものである。               ヘキサーRF.M6+トリエルマー+RA.トレビ400で撮影した。

吉野山の奥千本に西行庵があるが、その西行法師の歌を紹介しておこう。

「吉野山 こぞのしをりの 道かへて まだ見ぬかたの 花を尋ねむ」

1/29

今は少し風邪で出ていないが、この冬は12月から毎週のように撮影に歩いた(仕事半分・遊び半分)。12/31天保山−1/2京都−1/4琵琶湖−1/11*12山陰久美浜−1/18大阪市内。 少し休憩としよう。 さて今回は1/11−12にかけて行った山陰の旅のレポートだ。毎年友人の写真家と冬にカニと温泉、そして冬の日本海を満喫するために1泊2日で旅をしている。天橋立.竹野.網野.香住についで今年は久美浜である。地図で見るとすぐに分かるが、久美浜は京都府最北部(私の家は最南部)の町で、S字形に日本海から隔てられた久見浜湾(湾と言っても実は砂嘴によってせき止められた潟湖=一部が海と繋がっている=日本海側にはよくある地形)を取り囲み、その周りを山が囲んで、他の土地から隔てられた静かな町である。今は僻村と言ってもよかろうが昔日は冬場でも穏やかな海況の内海であるため、北前船の避難港・寄港地として賑わった場所である。今は最南部の久美浜の街並みに往時を偲ぶことができる。山をひとつ西に越えた兵庫県豊岡市や城崎、東に越えた網野や宮津と異なり観光化はあまり進んではいない。 しかし海辺の過疎地の常として海は埋め立てられ、観光施設ができつつある。今までは山陰随一の長さを誇る湊宮の外海側の砂浜を利用した海水浴場に頼ってきたが、交通網の発達で日帰りで充分になり、他の浜でも同じように商売としては斜陽傾向である。 そこで湊宮に温泉を掘り当て、温泉と海の幸、東側に久美浜ゴルフ場、西側にリゾートマンション...景観はぶち壊されたが観光化は進みつつある。私は観光化も地元に資するものとして否定はしない。いかに伝統や地域文化を守ろうと霞を食べて生きては行けず、まして僻地の不便さの進行は覆うべくもない。 私の仕事は少しでも行政その他に働きかけて反対運動ではなく、開発と保全(地域性)の両立を計ることにある...捨て去るものと保存するもの、そして生活に残されるもの、それらの選択は簡単ではない。しかし小さな力でも実行されねば「何もなくなってしまった」である。1952年生まれの私は少し古い時代と現在を知っている...そして自由人。それが武器なのだろう。 そんなことを考えながら久美浜の海を眺めていた。

1/11、久美浜駅を降りて浜辺を歩いた。たった2時間程度で全部回れる程度の小さな町だったが、それなりに昔の繁栄は感じ取れた。ここは南の山から久見浜湾に流れ込む栃谷川河口から奥を見たところ。古い時代に開削されており、船が河口から少し入った両岸の船着き場(左右岸の石垣の切れている場所)から海産物を荷揚げし、まだその雰囲気の残っている水産物の加工場...奥に見えている橋が街道で、そこまで建物は続いている...で加工し、陸路や水運で各地へ送ったのだろう。現在は操業もしておらず、地元のアマチュアカメラマンが撮影していた。「どちらからお越しですか」「京都から...」どうやら地元の学校の先生らしく、郷土の伝統的なものを記録しているようである。続けて欲しいと思うし、できればその記録をまとめて後世に残して欲しいとも思った。

上の景色の橋のところへ行ってみた。川で地元の少年が船を漕いでいる。話を聞くと貝を捕りに行くつもりだとのこと、渇水で川が浅くなり、これ以上下れないと陸へ上がってしまった。しかし家の前の船着きから100mで海に出て、おかず取り程度の漁ができる水質と魚介があることだけでも羨ましいと感じる。それに子供の時から船を操り、生活の糧を得るすべをこころえていて、人間の生き方を改めて考え直すことも必要ではないかと感じた...偉そうに地域文化を語る私も幼い頃田舎での生活は経験しているが、実際にこのようなことはできはしないのである。右の白壁の家が上記海産物商の表となっている。

更に川を少し遡ると河畔に水神様が地蔵と共に祀ってある。綺麗に化粧(何かの顔料が塗ってある=このあたりでは普通に見かける)をしてもらい、清掃されてお供えもされている。川の水は増水すると枯れた草のあたりまで来るという。この裏のちょっとした川の窪みが少年の家の船着きである=河川管理者も護岸の時には古くからの権利(この場合繋留の地先権)は認めているのである。さらに上流を見るとまた荷揚げ場の跡があり、建物はすでにないが古くからの海産物の集散地のひとつであったことだろう。人の姿はあまり見えない。

移動して、最北端の久見浜湾に面した湊宮の漁村へ出た。ここは現在は珍しい昔の漁村の景観が残っている。つまり築港を作って船を集めて、居住地には高堤防で囲うという方式ではなく、さすがに昔の砂浜のままではないが、各家々の前の浜にてんでに船着きを造り、繋留してある。この光景が延々と2km程度続くのである。まだ他の浦に比べると盛んな方だが、すでに専業漁師は少なく、町中を向いた各家の玄関には「民宿」の看板が多くかかっている。みたところ一応賑わっているようである...夏の海水浴(+温泉と海鮮料理)と冬のカニと温泉。こちら側は内湾のため実に穏やかに凪いでいる。堤防も跨ぎ越せる程度の高さに抑えられている。手前は小型漁船に取りつけられた集魚灯(概ねイカ用=夕食にも新鮮なコウイカが出た)である。天気は概して曇っていて、今年は比較的暖かく時には陽もでてきた。家並みの向こうは砂丘で、10分も歩かないうちに日本海に出る。つまり民宿から歩いて海水浴場まで行けるのである。

砂丘を越えると山陰一と言われる長い砂浜が一望できる。向こうの端が2年前に行った網野の浜である。夏は程々に賑わう浜も今は人気はない。長さは長いが浜の幅は短く、すぐに松林になってしまう。勿論いまは冬、波が荒くて砂は吹き上げられて狭く、しかも高くなっているのだろう。ずっと続く電柱は夏の様々な臨時的海水浴用の施設のためのものである。右の松林の中に今日の宿があつて、窓からこの景色が見える。潮騒より季節風の音が大きかったぐらいである。土日での旅だったが、泊まり客は私たちとあと1組だけである。湊宮で一番大きな旅館だがそんなものなのだろう。夕食には例によってカニ三昧と地元の魚料理と満足できた。温泉も私としては珍しく2度も入った...友人は例年通り3回も温泉に浸かり、風邪をひかないのだろうかと思う。

夕方になって晴れてきた。海と湾を結ぶ水道に舟溜まりがある。ここで3人の地元の漁師と語らう。何十隻もあるが、ここでも専業漁師は3人程度で、あとはサラリーマンや民宿経営と兼業でなりわっているようである。最大の売り物は湾内のカキの養殖で、他の産地に比べて育ちが早く、しかも味もあっさりとして好まれていると言う。話している間にもその内のひとりが漁場に出かけてすぐに戻ってきた(この人が専業で頑張っているひとりである)。内湾のこととて実に簡単に行き来する...今回はボウズだったようである(だいたいが刺し網漁)。さて宿へそろそろ入ろう。

翌日も曇り時々晴のまずまずの天気だった。湊宮から丹後神野まで色々探索し、駅に着いた。汽車は出たあとで、あと1時間半近くの時間ができた。神野の町を歩いてみる...友人は暖房の効いた駅舎で居眠りである。駅からまっすぐ海に出ると、たった1本の桟橋があり、たった1隻の漁船がいた。神野はどちらかと言うと農村部で、海に面してはいるが漁業はおかず取り程度なのだろう。従って護岸工事も完璧でずっと南まで階段状の堤防が整然と続いていた。船はこれ以外は1−2艘見えるだけである。やはり海岸には水産物の加工場の跡の廃屋はあるが、ずっと以前に衰えたのだろう。と村から人が出てきて漁船に乗り込んだ。このあと鏡のような湾内を、左奥に少し見えているカキの養殖棚へと消えていった。船が見えなくなるほど遠くへ行ってもディーゼルエンジンのこもった排気音は聞こえていた...それほど静かなウミなのである。正面に見えている山の右に落ちたところが湾口で、そこから右に延びる平地が砂丘の、一名「小天橋」である。天橋立と同じく陸から長く延びた砂嘴であり、天に延びる架け橋との意味である。左の山のてっぺんから見ると、たぶん天橋立より勇壮な景色となるだろう。ひよっとしたら、それあたりが今後の観光的な売り物になるのかも知れない。

旅の終わりの帰りの丹後神野駅で。完全な無人駅ではないが、各駅停車は70分に1本しか電車は来ず、電車の来る少し前に近所の嘱託の職員か駅にやってくる。本数が少ないため、ある程度の人数が乗っている(とは言っても1両編成の電車に満席にはならない)。近所のおばさんが2名、地元の高校生が4人、そして私たちふたりのホームである。もうすぐ電車がやってくる...宮津まで約50分の汽車の旅が始まる。そこから特急に乗り換えて京都へ戻る。1週間前に降った雪がまだ多少は残っていた。  データはすべてベッサR2+カラースコパー35mmF2.5C+RA

1/24

先週、友人と大阪の「知らない街」へ行ってみようということになり、幾つかの候補をあげたのち「芦原橋〜大正橋〜弁天町」を選んだ。少し大阪環状線(省線)をめぐる旅に出かけようと思い立ったのである。ある町(点)から川沿いや鉄道沿線(線)へ、そして地域(面)を概観的に見渡したい。私が国内の主として北陸を中心に「地域文化」を歩いたが、地元である京都.大阪.奈良の地域としての景観把握を少しづつしていこうと考えている・・・水フォーラムを通じて「大阪の渡船」「桂川上流域」を歩いたのがきっかけである。

芦原駅からJR環状線を西へ歩く。線路の下はずっと店や倉庫、果ては住宅までが延々と続く。現在は新規での入居は制限しているものの、いくら電車の通過時賑やかでも安い家賃と至便性で、まだまだ賃貸は続くのだろう。ここは浪速区木津川1丁目、右手に歩くともうすぐ川に出る。電車の鉄橋はあるが人馬の通る橋はなく「どんづまりの街」で、概して人や車は少なく静かな場所である...川が荷役の主流だった頃の近辺の賑わいの跡は多少感じられる。

木津川を遠回りして渡り、大正区に入る。川伝いに大正橋の上に出て川の合流点を見る。写真の右からは道頓堀川(そうこの奥に戎橋がある)が左は木津川本流、そして右の後方向へ木津川本流が、左後方向へ尻無川が流れる重要な川の(換言すれば水運の)交差点なのである。この交差点の西南に工場・倉庫・荷役場を整理して「大阪ドーム」がある。橋の上には新しく碑が建ち、まわりに植えられたサザンカが満開である。

大正橋を西に曲がり、尻無川ぞいに歩く。ここは大正区三軒家西、高堤防が川から人を隔離する...この向こうの対岸に大阪ドームがある...川沿いに遊歩道があるのだが鍵がかかっていて入れない。ホームレス対策なのか、それともホームレスが住みつき、それが対岸の大阪ドームから見えるのを嫌ったものか分からないが、私の払った税金で整備された公園に私が入れないのには疑問を感じる。堤防の壁には近隣の小学生の書いた壁画がかなり綺麗に配置されている。狭い歩道に歩く人は少ない...左は寂しい車道。向こうに見えているのはJR環状線の尻無川にかかる鉄橋、ここを渡れば西区千代崎に入る。

西区を少し歩くと港区南市岡へ入る。だいぶ日が暮れてきた。と忽然と下町に線路が出現した。大阪港から大阪市南部を横断し、平野区から東部市場のある東住吉区百済貨物駅まで延びている貨物線である。往時は大阪港で荷揚げした物資は、この貨物線で市内を経て百済駅から分岐した城東貨物線その他の線路で大阪の各地へ運ばれたのである。今もその沿線には卸売り市場があって物資の運搬がトラックに変わった後も盛業である。市場は水運、鉄道、トラックと移ろっても同じ場所にある。反対に言えば水運で栄えた町はその後も代替えで陸路の中心でもありつづけたのだろう...もちろん徐々に寂れていくことは致し方ない。城東貨物線は廃止となったが、ここ臨港線は僅かだが息をしている。日に1−2本しか通らないため線路の敷地内も子供の遊び場や犬の散歩道と化している。 しばらく歩いてJR弁天町駅に着いて、ここから環状線に乗って帰路についた...駅でふた駅、4つの区をまたいで歩いた。この次は弁天町から歩き始めよう。    データ/CLE+CS28mmF3.5+RA

2003/1/22

今年の始まり。12月−1月にかけてすでに何度も撮影に行っている。 今回は1月2日に京都へ行った時のことだ。古くからの友人と共に時におり「撮影」と言うほど大袈裟にでなく、近畿の各地へ行っている。彼の提案で初詣がてらに京都へ行ってみようということになった。泊まりがけとは違って、日帰りはいたって簡単、よいしょ!で出かけられる。 私はM7+ズミクロン35/7枚玉とCL+40mmの組み合わせで、彼は何とEOS−Kiss+24−85mmズーム(このところ仕事以外では常にこの組み合わせである)で始まった。 京都駅で待ち合わせ、地下鉄で一度乗り換えて東山の「蹴上」へ。琵琶湖からの疎水(琵琶湖疎水のことは後日詳述しよう)の流れてくる場所である。ここから少し歩くと南禅寺の境内に入る。正月と言うのに参詣の人は比較的少ない。以前はそんなことはなかったが、最近は平安神宮や清水寺、金閣、銀閣寺、八坂神社などに集中する傾向にあり、初詣までがステレオタイプ化してしまったかと感じた。さて南禅寺というと疎水から分かれたレンガ造りの上水道が境内を抜けている図で有名だが、今回は初詣、取りあえず寺に入る・・・昨年来それまで関心の少なかった寺や神社へ足が向くようになっている。

ここには一名「虎の子わたし」という有名な庭園がある。広い砂利の敷きつめられた庭に少しばかりの植え込みと幾つかの岩が配置されている。これは水辺へ虎の親子がやって来て、子の虎に水を飲ませている情景を象徴していると言われている。広い玉砂利の空間と、東の方向から延びている岸辺、そして二頭の虎、東は東山の深い森にそのままつながっているようであり、水は御所のある京の町へつながっている。 折からボタン雪が降ってきた。人々の押さえたトーンの呟きすら雪の深々と降る空気に吸い込まれていくようである。 庭は回廊に沿って色々な角度から眺められ、必ずしも正面のこの角度がいいとは言えない。わたしはむしろ画面左の陸がせり出している隅から見た方が趣があると感じたのである...この次にはそれも紹介しよう。

寺に入りお茶をたててもらった。何組かの人々が東山を向いた非常に寒い部屋の緋毛氈に座って、やはり静かにこちらは自然の地形を利用した庭を前に考え事をしているようである。禅寺なので修行と言いたいところだが、私たちは座ってお茶をいただきながら30分あまり、低い声で「お互い、写真家になって本当に良かった」などと話し合ったのである。彼は56歳、私は50歳、ようやく写真やカメラではなく「写真家たること」について話せるようになったのだろう。どうやら修行僧もそうなように寒くて静かな場所にいると考えることも秩序的になるのだろうか。

南禅寺前にて。近頃京都市内の観光地では人力車が目立つ。話を聞くとある種の組合があって、タクシー会社のような組織で運営されているらしい。名所回りも、少し先まで行くのもお好み次第、一人乗りでも二人乗りでも可能な、粋で気楽な移動である。タクシーに比べると少し割高で、居住性も良くないが、京の町にはよく似合う...中には少し強引な客引きもあるので注意も必要。ただし料金は取り決めがあり、ふっかけられるようなことはない。

さて南禅寺をあとに、東山に沿って北行する。やはり疎水の分流が北へ流れ、洛中の中心部への用水が流れている。これの堤防上の道が、有名な「哲学の小径」である。これを辿れば銀閣寺から西行し、京都大学のある吉田山付近につながっている。その昔京大の西田幾多郎とその門下生が、哲学を政治を語りながら歩いた道とされている。今は整備がなされていて、多くは無いがある程度の人が歩いている。かなりの道のりなので観光客の多くは最後まで歩かず、中途で左折し山を下りる。そこは京都の町屋が並んでいて、その風情も悪くないのだろう。 この付近は最も山方なので地元の人の散歩コースとなっている。 右は東山、左は木の間越しに眼下に町屋が見え隠れしている。

銀閣寺に着いた。ここはさすがに人が多くて「初詣」という雰囲気ではない。一昨年社員旅行で訪れたときと同じで人は一方行へ流れ、立ち止まることもままならない。前回と同じ場所で同じ松の枝越しに銀閣の鳳凰を撮った。この日は晴れたり曇ったりで、時に時雨れるという変化の多い気象だった。そのためこの場所で30分あまり粘ってテイク5までほぼ同じ構図で写してみた(光の当たりと陰り、雲と青空の位置・・・その他)。今回は陽が当たって松の質感の出たものはやめて、シルエットになったものを選んだ。 松と鳳凰に距離の差があるので「視差」に注意しないと枝の間の思った位置に鳳凰を配することが難しい。一眼レフなら視差は無いが、RFの場合ファインダーでは鳳凰は左の枝にもっと近く見えている。

喧噪の銀閣寺をあとに、吉田山に向かった。ここの吉田山神社はやや寂れているが、それでも正月には地元の人中心に参詣が多い。どういうものか神社につきものの照葉樹の並木に裸電球がいくつも下がっていた。夕方近くなって空は晴れ渡り、何やら神様が灯した明かりのようで不思議な景色であった。

京都大学。正月なのだが何人かの学生が出入りしていた。大学正門につき物の立て看板の素材がトタンか何かのようで、夕陽に光って見えた・・・主義主張とは別に光そのものを見てしまう「写真家の癖」のようなものだろうか、何が書いてあったかは定かには分からない。本当のところはフォルムと内容の一体化は必要だと思っているのだが、散歩写真では簡単ではない。ここで言うフォルムとは形態・色彩・陰影・質感・構図など対象物の持つ外的属性の全てを指し、内容とは意味・思想・歴史性・風土・経済・・・対象物の持つ内的属性の全般を指す(そして撮影者の持つ全てが関わっている=簡単な話ではない)。 ここから鴨川の出町柳へ出て本日は終わった。


top


2002年のフィールドノート

12/30

11月に続いて奈良の金峯山蔵王堂に同じ写友と共に行った。寺は数々あれど何か心に引っかかるものがあるのだ。今回は前回より更に天候が悪く、冷たい雨が降り続いていた。ここは吉野、日本でも有数の多雨地帯で、更に冬の時雨が加わっているのだろう。 そんな訳で現地には2時間程度いただけだが、前回と異なり蔵王堂周辺だけに絞った撮影とした。かの写友も腰を落ち着けての撮影で、いい写真をものにしたようである。私は堂内に入り、ここにある寺宝=特に江戸初期の「渡海船大絵馬」菱川師宣作を見た。ここにあるのは知らなかったが前回来たときに貰った寺のパンフレット(お守りを買った)にこれのことが記してあり、奈良盆地の「奥田の蓮舟」との関わりといい、日本最大の奉納船絵馬の存在といい、山奥の寺と海や湖沼との関係が興味深い。当然寺の公式の説明文に詳しく書いてある訳ではない。7/7の神事までにもう少し調べてみたいものだ。絵馬は普通にあるものではなく、渡海船(当時の大型の荷船)での荷の積み込みや船頭や船主の風俗などが細かく描かれた、航海安全の奉納船絵馬とばかりは決めつけられない魅力と歴史的価値がある=縦2.89m.横4.74m、国指定重要文化財。 これは撮影不許可なので見て、絵葉書を買っただけだである。 この日はどこかの寺からの講で沢山の信徒が参詣に来ていた。私も熱心だが彼らはもっと熱心で、私も彼らにくっ着いて護摩焚きと説法に付き合った。いい空気である。おかげで写真はすっかり撮れなかったが気持ちは満たされた気分である。今度は春にくだんの写友と共に訪れよう。 掲載写真はすべてヘキサーRF+キヤノン28mmF2.8+トレビ400で撮影=初めて使うこのフィルムのテストも兼ねていた。

冷たい雨の中、護摩焚きの時間を本堂の軒下で待つ。この間も小声で般若心経を唱え、堂に山に祈りを捧げていた。本尊は蔵王権現なのだが、仏に名を借りた「カミ」への祈りなのだろうか?不思議な空間と時間を共有しているように感じる。

山は深く、雲の中にある。下に見えるのは宿坊で急な階段を下ってたどり着ける。その向こうには更に強烈な階段が谷底までつながっていて、そこにある脳天神社に達する。

本堂正面から参詣の人々が列をなして本堂に入ろうとしている。観光地の寺と違ってざわつきもせず、黙々と入堂する。これは修行なのだと実感した。私は写真家としてどう対処したらいいのだろう。記録.報道.作品?どれも適切ではない。ゆっくりと考えてみることにした。

12/23

昨日琵琶湖・堅田の船大工の造船場で「現役最後の丸子舟」の修復を終え、湖北の薪舟から観光船として蘇った。20年ほど前に最後の一艘となって就航を続けていたが、船頭の高齢化により、廃船寸前まで来てしまった。しかし篤志家(琵琶湖で観光船の船長だった三上氏とその家族)の出現により、また更に現役船として来年3月から雄琴港を母港に観光船として活躍することとなったのである。普通20tあまりの観光船の進水式にはこれだけの人や報道陣は集まらないのだが、文化財的な意義と「最後の丸子舟」が地方的の「郷土の光」として捉えられているのである。ちなみにNHK.関西テレビ.あと地方UHF局、朝日新聞、その他のクルーが来ていた。今日の朝日新聞朝刊の関西地方版には絵入りで紹介されていた(私も画面の隅に居る)し、今日の夕方5時54分から関西テレビで流された。たぶんNHKの地方ニュースでも放映されただろうが私は見ていない。私と言うとある財団の船大工研究の一環として、古くからの付き合いの松井造船へ調査として行ったのである。この船(元は金龍丸と呼んだが今回丸子丸と改名した)とも調べ始めて15年来の長い付き合いとなる=ある人の手から次の人の手へ修理され用途をたがえて生き残る。そんな船との付き合いは過去・今・将来を通して私の生命の続く限り続くのである。現在の私の写真の仕事は船を中心として海や湖、河や水路などの水辺の文化と文化財の調査・研究・記録の一助をなしているのである。もちろん報酬を貰っている以上ボランティアとは違う=逆にそれだけのオブリケーションが求められ、何より後世への責任を深く感じている次第である。このHPも駆け引き抜きで一人でもこのような世界へ入いって来る人への助けになればとの考えが第一の目的として立ち上げたのである。

造船場から琵琶湖へ進水する。関係者と報道陣の見守る中、静かにこの季節としては珍しい凪いだウミへ乗り出していく。新造後54年、とっくに耐用年数の終わった船が、今回の大改修(新造と同等の金額がかかる)でまたこの先何十年かウミを渡る。私も関係者と共にこの船の行き先を思い、心から祈りたい気持ちで一杯である。なお丸子舟は滋賀県立琵琶湖博物館に博物館から1992年に発注された新造船が1艘、湖北の西浅井町の丸子舟資料館に修復された古い船が1艘、同町に露天小屋がけで1艘保存されている。

11/27

11月初旬に吉野へ写友と共に行った。紅葉には少し早かったが、それでも1/3程度は色づいていただろうか? 金峯山蔵王堂から始めて、最後は奥千本まで行った。そのあと吉野川流域を少し眺め、最後は大和高田の奥田へ寄って蓮池や役行者生誕地などを巡って、夕方大雨が降り始めたのを期に撮影を終えた・・・運が良かった、だいたいの目的は達成されて「あー疲れた」で、「早く帰りなさい」との天からの声であった。今回は紅葉よりも、奥田(ここが役行者生誕地)の蓮池の蓮切りの神事と吉野蔵王堂の「蛙飛び神事」がつながっていて、それがどうやら古代〜中世の治水に起源があるように思われ、これの下調べの行脚であった。この話は来年の神事(7/7)の取材まで待とう。今回は吉野で撮った「坊さんが走る」の写真である。 データはすべてライカM7+ズミルックス35球面+RAである。

金峯山寺蔵王堂(本堂)の正面に大きな提灯が下がっている。左に寺務所(お札などを売っている)右に本尊の蔵王権現が安置してある。修行の寺らしく、何をするにも若い僧侶が絶えず走っているのが印象的である。権現信仰や密教の信仰、土俗の古い信仰など混淆がいちじるしいが、中世においてはこの金峯山全体を極楽浄土とみなす風潮があり、京都平安京からの貴族の参詣も多かった。現在もかなり大変な道のりだが、当時は京都からここまで1週間をかけて歩くのである。藤原道長の有名な紀行日記が残されている。今回はそぼ降る雨の中、蔵王堂−吉水神社−竹林院−水分神社−最奥の金峯神社とその時代の道長の道程を辿る、少したいへんな行脚であった。しかし季候の良い日のハイキングとは異なり、ある種の先人の聖地への畏怖といったものを感じることができように思う。

般若心経を脇堂であげる。たったひとりで入堂し、時々小型の釣り鐘を叩きながら一心に祈る。私には信仰心はあまりないが、一切無心に祈る僧の、大きな読経の声と凛としたその姿には感銘を受けた。

蔵王堂横を般若心経をあげた修行僧が走る。読経を20分ほどで終えると脇堂からすぐに飛び出して寺務所の奥へ消えていった。動く修行僧を写真に撮るのは簡単ではない・・・とても速くて、しかも鋭角的で隙のない動きなのである。丁度訓練された水兵のように追いかけてもすぐに視野から消え去っていく。これもM7でなくては撮れなかっただろう、ピント合わせが精一杯の瞬間であった。

紅葉の写真を1点だけあげておこう。ここは奥千本の西行庵の前である。これだけはアベノン21mmF2.8で撮影した。

10/30

先週富山に行って来た。趣旨はやはりサケ漁の調査なのであったが、大阪でも渡し船のことを調べている関係で、富山の渡しを覗いてみた。渡しは高岡と新湊、新湊と富山方面と海沿いに2個所残っている。前者は如意の渡しと言って、昔から続く由緒ある渡しで両市の境の小矢部川の河口近くに就航している。これのことは後日の報告として、今回は以前「放生津」と言っていた潟(潟湖=海沿いの内湖で、湾が川からの砂や北西の季節風で吹き寄せられた砂で湾口が狭まり、ついに汽水の湖になったもの=多くは一部で海とつながっている)を20年ほど前に浚渫・開発して富山新港を作った際に、水害で落ちてしまった湾口の橋(道路と鉄道)の代わりに県営で渡し船の航路が開かれた。道の延長という考え方なので、無料で、かつ一晩中動いている。地図を見て欲しい。この渡しに興味を持ったのは、県東部の氷見の船大工からの聞き取りである。つまり彼の息子は10年ほど前にJR氷見線で雨晴海岸を経て小矢部川河岸の伏木で降り、そばの如意の渡しで対岸に渡る。そこには加越能鉄道のチンチン電車が走っており、これに乗り換えて新湊市内を走り抜けて、終点の越の潟駅でおりると、先の放生津の渡しの乗船場となる。これで潟を越し、対岸にある商船高専にバス通っていたのである(以前は当然学校の近くまで電車は走っていた)。相当の距離であるが、ローカル線を2本、渡し船を2個所、そしてバス・・・ずいぶんと変わった通学路である。しかし行ってみると案外速く、しかもバスや列車のダイアと渡船のダイアが連絡しており、時間は思ったほどかからない。それと言うのも距離が最短のところを通っており、すべての乗り換え点が近くて連絡していることである。なかなか別々の会社・行政がこのようにはできないものである。いかに地方の公的交通網の重要性が大きいか知る事ができよう。都市では色々な移動手段があり、このようなことはあまりない。大阪でも多くの渡船が現存し、住民や労働者などに重宝されているが(対岸へは舟なら2分、ぐるっと回れば1時間)このような各機関の連携はなさそうである。渡し船が残ったのも単なる郷愁ではなく、利用の価値とそれを推進する力である。

堀岡側の落ちた橋の跡。対岸が越の潟、こちらが堀岡。近日中に新しい橋が20年ぶりに架かるそうで、渡船の命脈に暗雲が立ちこめている。ただし近隣の人も船の乗組員も継続を希望しており、私の観測でも規模は小さくなっても残る可能性が高そうである。なぜならここは富山新港であり、大型のタンカーや貨物船が通るため、橋は非常に高いものか、可動橋と言うことになり(これはこの距離を考えると無理である)、大阪での渡しと同じく橋ができても橋の上に上がるまでに15分、渡るのに20分、下るのに10分ととんでもない時間がかかることになる。大阪でも橋はできても渡しは残った。現在架橋のための浚渫が始まっている。 M7とSRMですべて撮影した。これはズミクロン35/7枚玉。

現在は潟ではなく完全な湾なので対岸は遠い。客はそれほど多くはないが、通勤・通学の時間帯では相当混み合うようで、船は渡し船としては大きく、バイクのまま乗ることも可能である。 ズミクロン35/7枚玉。

堀岡側から見た。これが渡船の船である。浚渫船や大小の船が行き交う。 テレエルマリート90mmF2.8/1st。

越の潟側で。フェリーの小型のような構造になっている。大阪のような浮き桟橋ではなく、専用の少し引っ込んだ船着き場になっている。夕方も遅くなる頃、高校生や中高年の婦人など自動車に乗らない乗客が増える。すぐ向こう側を外国の大型タンカーが行きすぎる。こういう場合、大きな波が立つため少し発進を遅らせる。左のポールの上の白い点は満ちつつある月である。夜こそ港の風情は大きくなり、旅情をかきたてる。乗客は地元の人達で、すぐそばの対岸へ渡るだけなのに、皆デッキの手すりからてんでに水面を、水平線を眺めている。物思いにふける時間があっていい。こんな通学があっていい。私も子供の頃、近くの川で対岸まで自転車ごと渡し船で通う高校生の姿を覚えている。ほんの少し前まで日本中にこういう光景はあったのだろう。  ズミクロン35/7枚玉=SRM(粒子が粗いのが欠点=使いにくい)はこういう状況で不思議な色を出す。

10/23

京都へ木村伊兵衛展を見にいった後、久し振りに京都の町をぶらぶらと歩いた。東大路、四条大橋、京極、錦小路、なに昔から見慣れた景色ばかりである・・・しかし「写真を撮ろう」という気持ちを持たずに見ると、なにやら変化が見えてくる。

京都駅ビル。変わった構造になっていてビルの側面に階段がずっと上まで続いており、その途中に簡易なホールがある。半オープンエアの階段がにわか客席になり、少し広めのピロティがステージに変わる。「学生フェスティバル」なる催しが行われていてブラスバンドあり、創作舞踏あり、なかなか賑やかだ。京都駅ビルという立地や観覧無料ということが重なって、いつでも盛況である。駅/伊勢丹の通路でもあるため、混雑回避に整備員まで出ている。写真を撮ろうとしてウロウロしていて何度も注意された・・・これもいい経験である。普段フィールドでは、多少乱暴に撮っているので窮屈に感じたが、それが普通であって「切り捨て御免」が普通じゃないのだろう。田舎ばかりじゃなく都市の写真も悪くないかな? ニコンS2+コシナ=フォクトレンダーカラースコパー21mmF4+RVP たまにはライカ以外で撮影行だ。

琵琶湖疎水が流れ込む白川・花見小路付近。川の水が綺麗である。下水の整備で町中の川も綺麗な水が流れている。私の若い頃はこの川で染め物を晒していたし、子供が水遊びをしていた。実は今もそのような場所が残っている・・・。修景がなされて川面に風が渡り、水草が美しい。太鼓橋、柳並木と水鳥・・・箱庭のような京都である。以前は古いばかりでこんなに明るくはなかったように思われる。 一人旅の若い婦人が、イオスKISSとペットボトルをそばに置いて何やら考え事をしていた。 これも21mmである。

白川南通。たくさんの警官が急に出没した。防弾チョッキを着ており、何か刃傷沙汰があったようである。歩いている人が職務質問をされていた。しかしそこが京都、何だか間が抜けていてノンビリとしている。自分で言うのもなんだが相当怪しい風体の私達は、なぜだか完全に無視されて、現場付近をブラブラと写真の撮り方の解説を相棒にしながら通っていった。そして何枚も写真を撮ったが咎められることもない。ひょっとしたら写真家は透明人間なのかも知れない。カメラを隠し、カメラの影に身を隠す。居合いの極意やろね。この写真も間が抜けているが、まさにこの雰囲気、警官のピクニック。自分で言うのもなんだが、京都は大好きなのである。 これも21mm。

四条通の喧噪を避けて、京極から少し裏店の並んだ路地に入る。人間がようやくすれ違える程度の小道だが、京都にはこのような小路がたくさんある。ここは繁華街から続きの小さな飲み屋などの街である。昼間は店は閉まっていて、夕暮れ時、そろそろ開店の準備がはじまっていた。「グリル まこ」も何とはなしに京都風である。 ニッコール35mmF2.5で撮ってみた。コシナに比べてコントラストが低く、やや抜けが悪いが、ねっとりとした色乗りは悪くない。50年前のレンズだが、描写はシャープで鏡胴にもガタひとつなく、ライツライカにひけをとらない品質である。時々ニコンのRF機で歩いてみよう。実は翌日の神戸への散策もニコンで押した。

9/24

沖島は昨年秋以来3回目の上陸である。これで秋・春・夏と行ったことになる。さて冬にも行きたいものだ。かなり気温は高いが湖上のことゆえ微風が吹いていて、木陰での休憩はいい。静かなウミとさっぱりとした空気(海辺の汐の香りのするねっとりとした空気感とは全然違う)、写真も調査も関係なく、水辺の景色を堪能できた。そもそも水辺が「好きで」歩き始めたのである。確かに岡に生きてはいるが「海はいいな」から始まったライフワークで、今は充実期であって「研究・調査」に心血を注いでいるのである。いつか歳を重ねた後は水辺の東屋でのんびりと暮らしたいと思っている。もちろん実現はいつでも可能である。

渡船に乗る人々。観光客と地元の人は半々ぐらいだろう。せいぜい10−15名だが田舎の渡船としては多い方である。地元の人は本土側の港に車や自転車・バイクを止めていて、朝港へ渡り、そこから通勤・通学に出発する。船は沖島町の区営(すなわち民営)である。乗船時間は5−6分だろうか。 M6+カラスコパー28mmF3.5+RA

お盆のおつとめなのだろう、浜を歩く僧侶。町は狭いがすべてを一人で回らねばならずなかなか大変である。遠くに比叡の山並みが見える。 M6+CS28mmF3.5+KR それにしてもKRの発色は良くない。どうなったのだろう。

昨年と同じ場所で撮る。やはり昨年と同じおばあちゃんが魚を干していた。カラースコパー28はさすがに現代のレンズである。ほとんどフレア・ゴーストは出ない。昨年のエルマリート28/2ndとは大違いである。条件やフィルムが違うので、その他の描写比較はできないが予想は可能である。ただしどちらもいいレンズであると明言しておきたい。

沖島の漁業以外のもうひとつの産業であった石切場の跡地。不自然に山がえぐれて段々になっている。ただしここは町の共同作業でなされてきた。皆で石を切り出し、丸子舟で八幡や彦根に運び、皆の共通の財産として取り扱った。町の現在の豊かさは漁業の伝統と共に石材産業にも支えられてきたのである。その跡地は僅かな地価で島民各自に割り当てられ、狭い耕作地の拡大に役立った。ただし石切場のあとなので、耕し施肥し皆で育んでようやく維持しているのが分かるだろうか。自立の気風の強い沖島ならではの光景である。 カラースコパー28mmF3.5+KR

村の西側の浜で中学生ぐらいの男女の若者達が泳ぐ。さすがに「ウミの子」である、1時間以上同じ場所で泳いでいた。この日はかなりの波があり、地元以外の人は早々にウミから上がっていた。この島では案外島に残る若者が多く(と云っても跡継ぎが残る程度)子供の姿も多い。辺鄙な漁村としては珍しいことである。さらに淡水魚の漁家の村として専業的な生業が成り立っているのは国内では珍しいことである。

帰りの船上にて。沖島は大きな島なのだが、左の小さな山と右の大きな山(右に長く続く)に挟まれた狭い平地と、浜沿いのごく限られた平地に家と畑がある。あとは全島自然林に覆われている。島の夕暮れはいつでも侘びしい。「別れ」...ウミが内的世界と外界を隔てているのである。また来よう。 キヤノンT80+FD24−35L+KR どうしたものかFDの方がKRとの相性が良いようだ。

9/16

これも調査の合間の一コマ。川に見えるが、近江八幡近郊の琵琶湖の内湖(手前)から琵琶湖への水路をのんびりと釣り人が一人乗りの軽いボートに乗ってバス釣りの糸を垂らしている。天気は上々、暑い空気と凪いだ水面。ブラックバスの違法放流やそれによる生態系の崩れのことは今日は忘れてもいい、そんなのんびりとした1日だった。このあと沖島に渡った。

スキャナーで読み込み、HPに載せるのに苦労するほどコシナ=フォクトレンダーCS28mmF3.5はマイルドな絵を造る。見かけ上のシャープ感には欠けるが(当然印刷原稿にも適さない)愛すべきレンズである。沢山のレンズを楽しんでいるが、目的により限られたレンズを使うようになり、しかしどのレンズにも愛すべき性質を見いだせるようになった。レンズ遍歴の唯一の成果かもしれないが、充分に楽しんでいる。  ヘキサーRF+CS28mmF3.5+RA

9/14

河川文化調査の一コマ。富山県庄川中流域にて、夏の若鮎の投網(トアミ)漁。舟の舳先で身体の反動を使って8−10m径の網を投げる。裾には沈子が付いていて、遠心力で丸く大きく広げる効果と、そのまま川底まで沈み、引き上げるときに網の口を締めて魚が逃げないような役目を持っている。ただしアユはたいてい網に引っかかっている。今年は水量変動が大きく、アユが増水したときに海の方まで流され、不漁だとのことである。趣味の釣り師は友釣りが一般的だが、商売の漁師は投網が中心である(勿論、鑑札の種類が異なる)。上に見えるのは北陸本線の鉄橋である。橋桁の下は流れが変わり、淵や瀬ができて漁場として良いのである。自然と相手の稼業であるが、人工物にも漁の適応はなされていく。9月は落ち鮎漁を調査する。これは期待できそうである。

河の名人、扇一氏の投網。身体があり怪力であるため、反動は身体だけでとる。多くの人は舟も揺らして反動を得る。アユの他、ウグイやタナゴも入るが、これは食用としないため河へ戻す。 ヘキサーRF+GR28/2.8+RA

9/12

8月の終わりに富山の氷見市を訪れた。下記の「雨晴海岸」に続く氷見の海岸に出た。今回は船大工の実地調査であったが、昼食がてら少し海の景色を眺めた。ここも海水浴の名所だったが年々客は減っているようである。夏の終わりのゴミと無数の足跡だらけの砂浜。人が少なくなって静寂を取り戻した。しかし観光に資することのなくなった浜は、次の利用のために埋め立てられ、道路や工業用地に変貌するのだろう。氷見海岸の市街地に近い所ではすでに埋め立て−人工の海岸に変わっている。しかし埋め立て地は荒れ地のままで茫漠とした景色だけが広がっていた。

遠くの町並みが氷見の市街地付近。7/19の写真のあたりである。その後背地に能登半島の山並みが見える。そしてここは海水浴場の端っこで、ここから右方向(南)から松林が8/8の写真の高岡の雨晴海岸まで続いている。夏の終わりとは言え、たったひとりの地元の中年男性だけが海へ向かっていた。 久し振りにKRで撮影したが、色が不自然になってしまう。長く愛したフィルムであるが既に10年近く前からE−6系のフィルムにしてしまっている。 リコーGR28mmF2.8で撮影したが(F8程度)どうも周辺光量落ちが著しい。それも右側が大きい。このカットだけの不思議な現象である(これはスキャナーの不調で光のムラがあったためと分かった)。 さて9月はまた中旬に富山を訪れよう。庄川においての落ち鮎漁の見学と船大工の再度の訪問である。そして10月からは昨年に続き「サケ漁!」だ。

8/8

先週また富山に行って来た。今回は県西部の小矢部川と庄川のアユ漁の調査である。天候は晴れたり曇ったりで撮影には良い条件と言えよう。関西よりは涼しいとは言え、やはり今年は暑い。残念ながら根気が一日もたない。日没より少し早めに切り上げて、この地の名勝地「雨晴海岸」に寄った。高岡市の海岸部で磯浜が少しあって、それより西方は氷見までずっと砂浜が続く。氷見の浜は埋められて惨憺たる景色になったが、ここは富山でも有名な避暑地・海水浴の浜として栄えてきたのである。長い松林と砂浜向かいには能登半島が遠望され、それは静かで凪いだ海である。しかし近年寂れてきていて、今回もシーズン中であるにもかかわらず、人影はまばらである。民宿も1軒しか営業しておらず、それも泊まり客がないためか、小母さんが所在なげに箒で玄関を掃いていた。浜にずらりと建ち並ぶ海の家もたった3軒しか店をあけていない。なぜ寂れてしまったのだろう。私たちの泊まった海岸を遠望できる山の上の宿屋でも、古くからの客と女将が「なんでやろ、人が来んようになったがです」と盛んに話し合い、首をひねりながら昔の夏の混雑を懐かしがっていた。その宿も高岡市立の施設で夏の客で以前は満員だったようである。今回は私たちも含めてたった3組(7人)の客だった。この「なぜ?」をまた考えてみたい。地域文化を考える上でひとつのキーになる話だろう。

夕暮れの雨晴海岸。今回は湿度が高く、対岸の能登半島は霞んでいる。しかし半島に波を遮られてトロンと凪いだおだやかな海である。画面の左手は寂れた海の家が松林の中に並んでいる。人は5−6名しか見えない。それも観光客ではなく近所の人が散歩しているのである。夕方だからと言うのでもない。昼間でも数えるぐらいの人が泳いでいるぐらいだ。 M7+ズミルックス35+RA

8/1

場所を変えて、私の家の比較的近くの奈良公園へ行ってみよう。これは春の絵である。鹿煎餅を東大寺の境内で売っており、友人が買うとあっと云う間に若い鹿が集まってくる。半野生なのでなかなか荒々しく煎餅の袋を狙って迫ってきた。近づくと人間と変わらない大きさで、たちまち煎餅は取り上げられてしまう。この煎餅の売り子もどうやら寺の許可となわばりがあるようで、塀に自転車を止めて売っていた。カメラを構えると、どうしたものか塀の影へ引っ込んでしまった。こちらも少し粘って彼女が塀から覗いた瞬間にライカのシャッターを落とした。煎餅売り・・・かなりの数がいるが、なんとも不思議な商売である。

ライカM5+ズミクロン35mmF2/7枚玉+KR  時々奈良には足を運ぶ...家から30分である。

7/28

ATCの地上である。港湾は本来は猥雑な混沌とした世界なのであるが、ここでは単なるトレードセンターではなく、街路樹が植えられ、公園のように整備されている。かなりの人出があり、ちょっとした観光地のようである。今回は港湾調査で来たのだが、次はカメラをぶら下げて、この新しいスタイルの海浜をのんびりと歩いてみるのも悪くないだろう。

街路樹の木陰で過ごす子供達と整備された遊歩道。その向こうに船着場、そして遠くに大規模な工場か焼却場があり、その沿岸には大小様々の工場や倉庫が建ち並んでいる。各地の海辺を巡ってきた私にとって、不思議だが新しい港の景観である。 M6/0.72+トリエルマー28mm+RVP

7/27

大阪ベイエリアのATC(アジアトレードセンター)より夕方の神戸方面を眺む。 ATCの高層階は港湾・水運・貿易関係のオフィスが入っている。ある事務所からの景色である。神戸の街のあたりの空気が黄色く淀んで曇っているのがよく分かる。上空の大気は美しい。少し霞んでいるが六甲の山並みも昔のままなのだろう。それまで漁村の風景のつながっていた浜に、幕末〜明治の開国の時に作られた神戸の街は狭苦しく感じる。しかし異国の文化を早々に取り入れた進取の気風は今も変わらない。住む人には住みやすく、住まない人には入りにくい街である。

眼下には次の埋め立てが始まっている。海はどこまで狭められていくのだろう。いつも海辺に立つと自然に「海はいいなあ」と呟くのだが、さていつまで続られるのか。  M6/0.72+トリエルマー35mm+RVP

7/22

5月の雪解け水が轟々と流れ下る黒部川愛本地先の堰堤下から下流方向を見る。本年度も7−8回は行くことになる富山の河川への旅である。この季節、何が釣れるのか分からないが、地元の釣り人が糸をたれる。このすぐあと水かさが増して(雪解け水なので朝は少なく、気温の上昇とともに増え、夕方に最大となる)左右のコンクリートの部分まで水没し、その直前に人気はなくなった。地元の人以外の川の脈動を知らない釣り人は、危険なのでこのような事はしてはならない。扇状地の源頭であるここから下流方向を眺めると斜面の向こうに富山湾が見える。その向こうの山並みは能登半島である。ちょうど7/19の氷見海岸での写真の逆から見た図である。急勾配の扇状地なので海まで一直線に見える(地図で確認されたい)。この日は天気が悪かったが、その分富山湾の水蒸気が少なく、空気の透明度が高いのである。

昔、治水・治山技術者のデレーケが「川ではない、滝だ」と言わせしめた富山の河川である。私は諸問題はあるものの水力発電に期待をしている。問題の解決はコストはかかるだろうが現在の科学技術で可能だろう。やみくもな「多目的ダム」には賛成しかねるが、充分にコントロールされた発電用ダムには一考の余地があると考えている。資源量の限られている火力発電は問題外としても原子力発電の危険性=充分にコントロールすれば事故は防げるかもしれないが、結果としてできてくる放射性廃棄物の処理には安全・確実/本質的な策が見いだせていない。放射性物質の半減期は長く、何十−何百万という途方もない将来を予見せねばならないのである。現在は「見切り発車」で将来の科学の発達を前提に、とりあえず埋設しているのが世界の現状である。かといって風力や波の力での発電はコストと安定性の点で見通しはまったくたっていない。日本の場合、豊富な降雨量と川の高勾配を利用した水力発電が適切と思うのだが・・・もちろん現に私たちが行っている「河川文化の保全」や環境保全は、水源開発と両輪として機能させ施策することが条件であるが。 ヘキサーRF+ズミクロン35/7+RA...水平線が曲がり、歪曲収差があるように見えるが、これはフィルムのカールのせいである。 

7/20

大阪市中央区船越町にて。ここは大阪市の山の手上町台地の上に建つ小学校である。梅雨の合間の今にも雨の降り出しそうな夕暮れ、何だか私も学校からトボトボ帰る昔日を思い出した。昨年、都市再開発でマンションが多く建ち、中央区の人口が久し振りに増加に転じたという。この学校も廃校寸前を救われたのだろう。大阪市は真ん中の南北に上町台地が走り(最北端に大阪城がある)、その東西は低く、出水が多かったようである。従って昔の重要な建物はこの台地上に建てられ、低い部分に下町があった。近世には低湿地に道頓堀を初めとする堀/水路が開削され、埋め立てと相まって大阪湾方向へ市街地を延ばしていった(大阪駅のある梅田は埋田から転じている=以前は最も低い場所で低湿地であり、そのため駅を初めとした新地が形成されたのである)。さて船越町の由来も台地の左右が低湿地で舟運が盛んであり、少し低くなったこの地を荷車に船ごと(或いは荷駄だけ)積んで反対側へ運んだ場所なのである。全国にある「船越」と言う地名は大部分が舟運と関係のあるものである。古来から明治の終わりまで運送の主な手段であった舟運のなごりはたくさんある。これも私のライフワークである。

小学校の写真から話は大きく飛躍したが、古都である京都/奈良とは別の意味で「町」を考えさせられる大阪はいい所だと思う。少しばかり大阪を歩いてみようと思う昨今である。 M5+シュタインハイル・オルソチグマット35mmF4.5+RA  なかなか味のあるレンズである。こういう撮り方だと周辺光量落ちは目立たず、なかなか滑らかな絵となる。

7/19

先週訪ねた富山県の氷見海岸にて。元は広い砂浜だったのだが埋め立てで普通の土が入り、浜は人を遠ざけてペンペン草が生えている。盛り土のせいで見えないが一段低いところに少しだけ砂浜が残っている。南北に延々と砂浜である。昔訪れた時にはもっと美しい浜だったように思われる。婦人が一人浜を歩いていた。頭が少しだけ見えているように盛り土は1m数10センチの高さがあった。本当の浜が見えないのである。撮影ポイントの40m向こうに海岸線があり、後ろ50mに新道を挟んで昔の船小屋がある。つまり幅100m、長さ数キロの白砂青松があったのである。氷見海岸は「名勝」のひとつになっているが、それも今は昔語りということである。

「素晴らしい雲」/富山湾を西から見る。向こうに見えるのは立山連峰で、谷筋や奥山には7月になってもかなりの残雪がある。蜃気楼で有名な富山湾だが、梅雨の合間の透明な空気が対岸をすぐそこに見せている。 日本海の水面は晴れていても灰色、冬に限らず雲は重苦しい。そんな北陸が大好きで自分のフィールドに選んできた。  ヘキサーRF+トリエルマー50mm+トレビ100

7/17

豊中の江の木公園付近を歩いていた。このあたりは少し前まで農村地帯であったが、千里ニュータウンや万博公園の整備により、地下鉄御堂筋線や新御堂道路の周辺沿いに急速に拓けた。結果として旧村(まだ田畑が残っている)と安アパート群や町工場、近代的な高層マンションやオフィスビル、そういう雑多なものが混在するバランスの悪い町となってしまった。でもこんな妙な町に惹かれる。友人の開業している町であり、時々そこへ行くとき駅から歩いて20−30分もあるのに、バスやタクシーにも乗らずにカメラ片手に歩いてしまう。炎天下でも梅雨の時でも木枯らしの風の中でも歩き続ける。「写真は芸術、それとも記録」などという議論には興味がまったくない。自分の歩いたあとは写真だらけなのである。仕事とは別に毎日のように歩いて歩いて撮り続ける。

左は江の木公園=緑の少ない新開地を、少しでもいい環境にしようと田圃を緑地化したものである。右は古くからある町工場と防火用水の桶。現在の工場と違って住み込みの形式をもっている(今は住んではいない)。道路の舗装も何回もの改修/拡幅の跡を物語っている。その向こうのマンション群から日傘をさした婦人が歩いてくる。概して人通りは少ない町である。  ヘキサーRF+ロシアン・オリオン28mmF6+トレビ100  オリオンは暗いが良く写るレンズであった=開放では周辺に難があるが半段絞ってF8で撮ると充分な画質になる。このような条件でのトロンとした描写には好感すら持てる。何事も過度な期待を持たないことが肝心だと思う。

5/4

少し遅れたが春の便りである。毎年桜の季節になると何となく歩き始める。冬の停滞期を終えて気分が高揚するのである。昔、師に言われた「春が来たから春が来たではダメなんだ」ということを毎年思い出しつつ、しかもずっと若い頃から、年に1回見るとしても、あと何回見られるのだろうかとも感じて足が向くのである。そもそも桜を代表するソメイヨシノは薄いピンクと薄いグレーがかっていて、とても難しい花だと思っている。少しオーバーになると白く飛んでしまい、少しアンダーとなるとグレーに濁る。 そして昔から墓場につきもので庭木にはしない不吉な花と教えられてきた。花見の乱痴気騒ぎを無意識に忌むのかも知れないが、どうもソメイヨシノには品がないように思われる。それでも惹きつけられるのが桜の魔力と言えようか。 今年は京都と琵琶湖、少し遅れて奈良に行って来た。今回は京都への小旅行を書いてみよう。

今回は京都の北側の船岡山から金閣、紫野、大徳寺あたりを散策した。ここは北大路の島津製作所の工場裏の下町である。ソメイヨシノを始め何種類かの桜や桃が咲いていた。昔の工場は敷地内にこのように植木や広場を持っていて、その下で労働者達が昼のひととき弁当を食べたり、バレーボールやキャッチボールをして過ごしていたものである。そして下町にはあまり庭はないが路上にたくさんの花を植えていて、都市の緑の数パーセントをしめるまでになっている。下町の影で郵便局員と土地の人が何やら歓談していた。京都や奈良のような古い町の下町・裏町は心地よい・・・静かな空気と重厚な空気が渾然一体に存在し、いつも何か町のそこここに「つぶやき」が感じられる。人の歴史の気配とでも言おうか。読者も旅行する機会があれば都心から一足伸ばしてこのような町を訪ねてみるのもいいだろう。どこでも地方都市と呼ばれる規模になれば存在している。 ここの敷地内に紫式部の墓所を偶然発見した。回りは工場だがキチンと手入れされていて、そこだけ静かな中世の雰囲気があった...観光化していない。この日の撮影はヘキサーRF+エルマリート28/4th+RVPである。別のレンズも持参したが結局ほとんど使わなかった。

京都洛中のふたつの山の内のひとつ、船岡山にて(もうひとつは吉田山)。山の東域を占める、信長を祀った健軍神社の参道から撮る。小さな山だがすり鉢のような京都盆地を眺めるとかなりの見晴らしである。木の間越しに見える甍が京都らしく、向かいに東山の大文字が遠望される。ここも観光化されていないので人は少ない。地元の人達が静かに散歩しながら花を楽しんでいる。また門前の町には昔の職人の家がかなり残っており、時間の都合であまり歩けなかったがいつかまた来てみたい場所である。

神社境内の稲荷廟奥まった場所にあるため訪れる人とてない。眼下に京の町が望まれるが下界のざわめきとは切り離された空気が流れている。しばしの休憩としよう。

地下鉄の「鞍馬口」から「金閣」に向いて大通りを避けて歩いて来たが、途中また観光地ではない寺に寄ってみた。ここは桜が満開で(今年は異常気象でソメイヨシノとシダレザクラが同時に咲いた)とにかく派手である。やはり地元の人が花見がてらのそぞろ歩きである。シダレザクラは外から撮ることが多いが、今回は枝垂れた桜の中に入って「桜だらけ」で写真を撮ってみたらまるで絵にならない。撮っているときは回りを桜の花に囲まれて酔いそうな気分で撮ったのだが、その精神状態がどうも出ていないように思う。28ミリなので中央の花はかなり近く顔のすぐ前だった。F8程度で撮ってみたが、ボケた背景の描写にヒントを得た。来年の撮り方だ(と応用編だ)。ベルビアを選んで良かったと思っている。

と、同じ寺の墓地の脇に突然地蔵・石仏の山があった。何だろう、昔からここにあったものではなく、また5百羅漢のように統一された石仏群ではない。首の取れたものや摩滅したものまで、様々のどこかしら傷んだ石仏である。今度調べてみたいが、どうやら各地から集められてここに安置してあるようである。

今回の目的の「金閣」(金閣寺は俗称で使わない旨寺側が言っているのでそれに従う)は混雑していてどうも苦手で早々と退散して、また裏通りを歩いて(行きは北大路の南側で下町、帰りは北側で山の手屋敷街であった)大徳寺へ寄ってみた。ここは多くの別院が集合して全体を大徳寺と俗称している。その一つで今だけの特別拝観をしていたので入ってみた。やはり信長の菩提寺で木造が安置してある。

年に2回の公開で説明の人にも力が入る。大徳寺も大徳寺納豆(発酵させた大豆の加工品で味噌や醤油の原型)以外はそれほど有名でなく、観光シーズンの春でもたくさんの観光客はいないのだが「特別拝観」の文字に寄せられて20人程度の人達が集まった。とても丁寧な解説とお茶を振る舞われて、さっきまでいた金閣の雑踏と俗な雰囲気とはまったく異なる気持ちになった。手前ミソだが「京都はええなー」である。

同じ寺で説明の人が観光客を連れて回るときにふと満開のボケの木を見つけた。私の家にも何本もあり好きな花木なのだが手入れが違う、これほど立派に花を咲かせるボケは初めてだ。花のある生活、私のひとつの理想としておこう。そう言えば春には私の庭も花が咲き、新緑が萌え出す。執筆の今はもう初夏の林になっている。大きな花木がたくさん生えているのである。ここでもエルマリート28/4thは優しい絵作りを手伝ってくれる。買って始めて使ったテストを兼ねた日だったが充分に期待に答えてくれた。エルマリート28は2/3/4とみっつのバージョンを持っているがどれも個性が異なり、とても好ましい印象である。昨今35mmから28mmに主として使うレンズが移行しているのもライツ−ライカも含めて、各社の28mmのレンズが開発への力も入っているのか、どれも好印象を持てていることにあるのだろう。

4/22

少し前に伊賀上野へ行って来た。ここは藤堂高虎の城下町で、伊賀地方の中心の町でもあり、何とはなしに格式の高い雰囲気を感じる。今回はここの高校に行っていて、後に大阪へ出て商売をした人と同行し、この人にとっての50年ぶりのセンチメンタル・ジャーニーでもあった。 やはり今も高校の見える城山に登ってみた。あらゆる風景が昔と変わらず「そこに」あり、「石垣の向こうにグラウンドがあるはずや」との話で、覗いてみると、やっぱりあった。城山には今も数は多くないが人が集っている。昔の歌を想い出した「流れる雲よ、城山に登れば見える君の家・・・」私にとっても2度目の伊賀上野訪問である。25年前に来たときも上野城であった。

城跡のベンチに中年女性が座って西の山並みを眺めている。すぐそこが石垣の端で、遙か下には掘り割りがあり、その向こうに高校のグラウンドが昔と同じにまだあった。 現在は復元された城があり、一般に公開もしている。

石垣の角に照葉樹の大木が育っていた。その向こうに上野盆地が広がっている。夕暮れの町、それも城山のある町には惹かれる。何か心の奥深くに訴えるものがあるのだ。戦国時代から江戸時代の武家の文化がそこここに残っているのだろうか。

M5+キヤノン35mmF1.5+RAで撮影。

3/5

冬だから仕方がないが、少し暗めの写真が多かったので、今回は昨年の秋に黒部川へ旅したときの写真である。真ん中にうねうね続く土手は「霞堤」と言い、川の氾濫の被害を少しでも緩和させるために考え出された堤である。これは最も古いもので、堤の防備のための松並木もよく残っている。左に少し見えているのが本流の堤防の土手である。上流から多量の水が流れてきたときに堤防の低いところから水を故意に溢れさせ(この画面では左手前)、画面奥の方向へ広く水を流す。両方の堤防の間とその先が遊水池となり、霞堤の外側を守る仕組みである。別に江戸時代の話ではない。近代まで国や自治体によってなされた工法なのである。その後上流のダムやその下の堰堤、高堤防、川の直線化など、別の治水が実践されてきたのである。ここ黒部川では古い時代に発電用の大規模なダムが建設され、水量のコントロールがなされたため古式の霞堤が数多く残ったのである。 遠くに見える山並みは立山連峰である。晩秋、すでに冠雪しつつある。

ライカM6+エルマリート28/2nd+RA

3/4

2月に飛鳥での撮影会に行って来た。寒い日で、更に時雨れていたため、条件としては良くなかったが、それはそれで楽しんだ。こんな日は撮影会としてでも出なければ、絶対写真を撮ろうとは思わないだろう。天気の悪い日の撮影はとても難しく、風邪気味であったため多くは撮れなかったが、この次の悪天候時での撮影には活かせる久々の経験であった。

この神社は飛鳥川上流にあり、長い階段の上に建っている。山頂の近くに本殿があり、この地方としては比較的珍しく、山を神体(憑り代)とする天孫系の神社のようである。この季節に咲くヤツデの葉が冷たい雨にうたれて薄暗い境内に僅かな精彩を与えていた。 ライカM5+キヤノン35mmF1.5+RA

2/11

先日知人が亡くなった。田舎の通夜は親族や縁人などたくさんの人が集う。そして葬儀社の段取りではない、昔ながらの死者を送る儀礼の始まりである。残念ながら葬式には参加できなかったが、今でも野辺送りは行われている。私が幼かった頃、叔母さんの死で、葬列が稲穂の揺れるあぜ道を一列になって墓地まで歩んでいったことが今でも想い出される。悲しさより美しさの印象が強い。真っ青な空の下、青く揺れる見渡す限りの稲穂、その中を坊さんを先頭にした葬列が手に手に棺や傘、その他の法具を持って、ゆっくりと一列に歩む。杉木立の中のお墓の前から私はずっと見ていた。5−6歳の頃だったろうか。

訃報の入ったあと私は通夜に出かけた。その道すがら晴れていた空から突然に黒い雲が下がってきて、あたりを覆ってしまった。廃棄された電柱が不吉の前兆。

田舎では通夜も葬式も自宅でおこなう。家の中に入りきれない人たちのためにテントが建てられる。非常に寒いので火は絶やせない。新築されようとする家は主を失ってしまった。

母屋の襖を取り払って祭壇を据える。しめやかだが沢山の人に心からの送別を送られる故人はまだ幸せなのだろうか。都市の多くの人たちの葬式のようにセレモニー化された簡単なもののほうがいいのだろうか。

*撮影はすべてキヤノン7+カラースコパー35mmF2.5P+RAである。

2/7

京都府和束町の山の分校。信楽に通うとき山越えで通り抜ける山村である。冬の日ふと車を止めて学校のない日に校庭に入ってみる。木造の校舎、回りを山に囲まれ、空気は凛としている。昔田舎の学校の校舎をテーマに写真を撮っていたことを思い出す。今は廃校になるか、残った学校は近代的なたたずまいに変わっているかだが、ここは昔のままである。当然に二宮金次郎は柴を背負って勉学に余念がない。台座だけは新しくされているようである。その前後の道は拡幅されているが、この集落だけは昔の奈良から大津、信楽〜東海道/水口へ抜ける裏街道の趣が残されているようだ。開発を拒んでいるのか、それとも開発者の意図によるものか、ここだけでなく各地の田舎には同じような光景が見られる。私は勿論残す側の人間である。単に懐古趣味でもなく、ナチュラリストなのでもない。日本の伝統的な文化を遺産化したくないのである。少なくとも次の世代へ残して、その文化の意味について考える機会を残しておきたいと思うのである。

回りの民家も昔と同じ作りである。ここの集落には古いものがたくさん残っていて、おいおい紹介していこう。 M5+ズマロン35/2.8+RA

1/29

今回は昨年11月、何人かの写友と共に琵琶湖/沖島へ行ったときのことを紹介しよう。沖島は世界でも珍しい、人が定住する湖の島である。基本的には漁業の村であるが、以前は良質の石材(切石)が産したために、村人共同での石材の切り出しと丸子船による運搬で財をなし、対岸の八幡市切通に田畑を購入しての出作りが盛んであった。ある意味で豊かであったため排他性があったことも事実で、島人の通勤/通学用に対岸の長命寺との間に定期便が1往復あるのみで、釣り客以外の訪問は少なかった。しかしこの2−3年、若者や子供を中心として、外の世界とのつながりを求める機運が高まり、ついに昨年切通から日に8往復の定期便が通るようになった。未だに民宿が2軒程度あるのみで観光化していない、昔日の琵琶湖の湖岸の村を彷彿とさせる景色・人情が残されている。遠くない日に民俗調査に出かけたいと考えている。今回は写友の呼びかけでの渡海となったが、私にとっては貴重な予備的な接触となるであろう。 

近江八幡国民休暇村の浜より沖島を望む。朝は「アサアラシ」と言って、陸と海の比熱の差で琵琶湖のどこでも緩やかに風が岡から海に向いて吹く。冷たい風の吹く湖の浜は海とはまた違う空気感がある。大部分は山で、画面には出ていないが左側の低い場所に人が暮らしている。撮影はヘキサーRF+エルマリート28/2nd+RAですべて撮影した。

上陸して最初にあったおばあさん。不思議にカメラを意識しない。元は浜に直接家が建っていたが、護岸で少しウミと距離ができた。これは道に見えるが護岸の上である。てんでに物干しや船着きに利用している。おばあさんも何やら魚の干物を扱っている。広いウミ、まさにウミの景観であるが、やはり淡水の景色である。凛とした空気や水の透明感がある。湖面の光にも海とは違う固さがある。私が内水面にこだわるのもこの辺であろう。画面の奥に霞む山は比叡の山並みであろう。空の絹雲は24時間後の低気圧の接近を暗示している。 エルマリート28/2ndの特徴の火線がやはり出ている。水平線を見ると少しの歪曲も感じる。

島唯一の港の埋め立て地を利用したゲートボール場にて。やはり多くの田舎にありがちな老人の町である。今は壮年の人たちも多く、湖魚の漁もそれなりに盛んであるが、いつまで続くのか気鬱になってしまう。定期船の開通で訪問する人は増えるが、それが町の活性化につながるかどうかは分からない。よその地方でも繰り返された、少しばかりの活況のあとの荒廃が訪れないことを願わざるを得ない。今のところ静かな景色である。

浜の道を外れて、本当の昔からある道を歩く。家々は浜沿いに連なり、その間を狭い道が細々と続く。勿論車はおろか自転車も通れない。背負子に野菜を背負った健脚のおばあさんが家に帰り始める。かなり遠くに畑があるのである。平地が少ないので港近くは家が建ち、浜沿いに畑がある。淡水なので塩害がないため、浜の小さな平地でも耕作は可能である。昔の人たちの生活の柄が見えるようだ。  やはりエルマリート28/2ndのフレアは好ましく光を溢れさせる。

浜沿いの畑の上から湖面を眺める。夕焼けの湖上に港へ帰る漁師船が何艘も通り過ぎていく。私も舟影を見て帰り始める。子供の頃、遊び疲れて暗くなったとき牛を引いたおじいちゃんの姿を見て、帰ることを思い出したものだ。「カエルが鳴くから、かえーろ・・・」島をあとにして堀切の港に帰った頃にはあたりは真っ暗になっていた。また来よう。 エルマリートの色再現は彩度の低さを感じるが、絞り開放でも極めてシャープである。

1/13

次の街角シリーズである。普通に道を歩いて撮る写真・・・散歩写真。いつでも懐中にカメラを忍ばせているので、ほとんど毎日(と言っても普通は1−3カット程度)道すがらに撮っている。歩く道はいつも似たような場所なので、力が入ることもないし、光の状態が悪くて「惜しい」と思っても「またこの次」で済む気軽さがいい。別に仕事でもなし、コンテストに出すわけでもない。「記録/軌跡」と言うほどの劇的な気分でもない。好きで撮っており、強いて言えば、とっさの時に準備する(タイミングや距離、構図、露出など)訓練なのだろう・・・たいして考えはない。

大阪市都島区。下町や昔の町工場、倉庫がかろうじて残っている。ここは大きな敷地に木造の古い倉庫が残っており、昔よくあったように今も敷地内にお稲荷さんの祠がある。今度行ったときに撮ってこよう。これは事務所。木造の古い建物をトタンその他で補修し、なんとか営業を続けている。 M2+キヤノン50mmF3.5+RA。

上の倉庫の近くの文化住宅。隣の建物が取り壊されて壁面が見えるようになった。広い壁に窓はひとつしかない。このような老朽した住宅にはすでに居住者は少なくなっている。たったひとつの窓に干されたメリヤスのシャツ2枚、秋風に揺られていた。天気のいい日は気分が良くて、何枚も撮影してしまう。陽の光は万人に平等なはずなのである。 データ=上記と同じ。 1/9にも書いたとおり、このようにして撮られた写真も、何かの縁で私のカメラに入った情景である。埋もれさせないで、このHPに上げていこう。

1/9

街角の写真である。いつも街を歩くときカメラを下げている。もちろん村を歩くときにでも・・・カメラを真ん中にして私の内面と外の世界が接している。カメラという窓から外の世界を眺め、そしてその世界は無限に拡がっている。カメラは同じように私の内面世界を写す鏡である。内なる世界もまた識域下の無限の世界が拡がっている。街を歩きながらそんなことを考えている。

大阪府茨木市、JR茨木駅にて。夕方のふとした瞬間、ホームには私と競馬新聞に読みふける老人しかいなくなった。次に私は階段を上がり友人の歯医者を訪ねる。振り向くと老人の姿も見えなくなった。  CL+Mロッコール40mmF2QF+RA

大阪市都島区の駄菓子屋。店はとっくに閉店している。しかしそのまま何年も建ったままである。下町には今も放置された店や家がたくさん残っている。 CL+ズミクロン50mmF2/2nd+RA

大阪市天王寺区上六交差点。私の事務所はこの近くだ。なぜか交差点付近には大木が何本も立っている。不思議なことに夏の暑い日には木陰で涼む人たちが集う・・・昔の街の景観のように。 CL+Mロッコール40mmF2QF+RA

また時々、考え事をしながらの散歩写真を載せていこう。

2002/1/6

さて年は変わったが、ノートは去年の続きである。フィルムスキャナーの調子が悪く(実は機械ではなく、ドライバーの一部が壊れていた)次がなかなか書けなかったのである。今回は昨年末に行った、友人との恒例の「カニと温泉と冬の町」の旅の報告である。今回はM6TTL/0.58+トリエルマー1本しか持っていかなかった(フィルムはRA)。雪や時雨でレンズ交換がままならなかった去年の反省のためである。 前回、大雪で撮影どころできなく、雪景色をモノクロだけでまとめたのだが、今回は雪はまったくなかった。いままでは京都駅からの旅立ちだったが今回は大阪駅から出発した。またまた車中でのカメラや仕事、世相談義にいたるまで、話は尽きない。彼は広告写真家でかなり一線で仕事をしており、私のところと規模としては同じぐらいで、気が合うだけでなく、同じような立場でものを考えているのである。あまり一緒に写真を撮る機会はないが、年1回の旅行以外に、これからは撮影に出かけることが多くなるだろう。友人というより盟友とでも言っておこう。 しかし今回は私に限って言えば、写真としては低調であった。12月はとても忙しくて疲労のせいだろうが、何かに「憑かれる」ように写真に取り組めなかったのである。カメラを抱いて現場に立つとき、美神にとり憑かれたように夢中で撮るとき良い写真がものにできるのだが、残念ながら今回は食欲のみに終わったようである(ただし次のいつかのために予備的な調査はできた)。

カニの名所、香住駅に2時頃着くと、やはり人が少なく寂れている。夏の海水浴のシーズンはもう少し人が多く来るようだが、冬はカニ料理と言っても観光バスの日帰りツアーが一般化していて、駅と駅前はもう表玄関ではなくなったようである。明治・大正期に表玄関だった港が(江戸時代は北前航路の寄港地として栄えた)、鉄道によりさびれて、100年の後自動車に後塵をはいして、今度は駅が寂れている・・・同じ国策の転換で、たった100年の夢であった。そしてその度に町は過疎が進み、昨年は町のスーパーが倒産した。

紅いサザンカの花が色っぽい。 28mm   1日目は天気が比較的良かったので、駅から港までをのんびりと歩いてみた。港町としては大きく、以前の繁栄が偲ばれる。とある旧家の塀の上に猫が1匹ひなたぼっこをしていた。妙な猫で眠っているわけではないのに逃げる様子がない。昔、猫を飼っていたので嫌いなわけではない。話しかけながら撮影をした。これは彼が私の「ここの家の猫か?」との問いかけに「ミャー」と頷いたところを捉えた瞬間である。この家も左に見えている家も古い宿屋の風情である。いまは営業していないが、往時は船の乗組員や山方から積み荷を買い付けに来る商人、季節的にやってくる船大工や網屋、鍛冶屋などの渡り職人、港の繁栄をあてに集まる様々の行商人などが泊まったことだろう。今は海岸の埋め立てや護岸工事で海はだいぶ先に行ってしまったが、港町の風情満点である

港町の景観は素敵だ。 28mm   さて海岸まで出てみると、またまた港町らしい景色に出会った。これはゴミ捨て場ではない。廃品の回収業者の地所なのである。半分は不法占拠になるのだが、港町には必ずこういうものがある・・・漁村ではない証である。港とは海を通じて(のちには海と鉄道をつないだ)時代ごとに様々な交易がなされ、ここの場合水産加工業のような、土地に応じた産業が移植されてくる。そのために色々な産業/家庭用(栄える所の家も進取の気風がある)の廃棄物が大量に出て、ゴミと言えどそれで仕事になるのである。かすかに往時の港町の猥雑さが感じられる場所であった。田舎だからといって「清く、正しく、貧しく」ではないのである。現代は都市が優位にあるが、昔は田舎が裕福で、食い詰めた者が都会へ出て賃労働・・・そういうものだったのである。その廃品回収業者も屑鉄を持てあましているようで、この看板が出されている。ほんの少し以前まで、ゴミはどんなものでも小さなお金になったものだが、昨今はお金を払って持ち帰ってもらうようになった。リサイクルの運動が都市では盛んであるが、どうなっているのだろう?

少年時代〜結婚後まで住んでいた家の庭にもヤツデがあった。 35mm   駅前の宿屋に戻る途中で。この小屋は家大工の作業小屋で、引退した大工は正月の注連縄作りに勤しんでいた。昔は皆自分で作ったらしいが、昨今は人に頼んで作ってもらうようになったらしい。それでも地元だけの消費なので職業とまではならず、手の器用な人がいわばアルバイトで少しだけ作っているようである。モチ米のしかもやや青いめの藁が上等で、なかなか藁の確保もままならないようである。つまり機械で刈り取った藁は使えず、手刈りできちんと乾燥させたものでないと適さないようである。親戚や友達の農家から辛うじてわけてもらっているのが現状である。ここでは出さないが製作の写真も撮らせてもらった。明日は精米をするので見に来たらいいとの話で、来ることを約束した。その小屋の角にヤツデの木があって、だんだん曇ってきた光に存在を主張していた。消防団の赤い箱が引き立たせたのかも知れない。ボーッと見ているとおばさんが自転車でやってきて、思わずシャッターを落とした。道の真ん中には融雪用のバルブが並んでいて、木壁の家並み・・・港町の景観である。偶然だが今回の旅の写真では最も気に入っている。今後も偶然と幸運に支えられて生きていく。

作業の合間、昔話に花が咲く。何十年もの付き合い。 28mm−電球の左下に電球の形をしたゴーストが出ている・・・これは珍しい(心霊写真ではない)。    さてその晩はカニ三昧の料理を楽しみ、友人はお風呂に2回も入ってのんびりとした。10時間ぐらいも寝て、また朝ご飯でカニご飯を食べて、また風呂に入って、ようやく10時頃宿を出た。今日は朝から時雨れていて寒いが、雪に変わることはなかった。その足で昨日の大工さんの作業している村持ちの精米所に行った。かなり広い建物で、昔は米俵が積み上がったものである。今は週に1回か10日に1回、当番を決めて必要分だけ精米することになっている。昔ながらの精米機も1台になってしまった。これが修理不能なほど壊れたら閉鎖するしかないそうである。昔、私も田舎で精米所におばあちゃんと行ってはこの機械の動きを熱心に見ていたものである。実は子供や孫をそういう場所に遊びがてら連れて行って、自然に操作方法や意味を教えていったのである。核家族化のなかで、そうした慣習は滅んでいくのである。田舎の生活に関することは両親からは学んでいない(両親は戦後に都会へ出て立身出世した)、行き通しに帰る田舎で、祖父母に学んだのである。私は田舎が大好きで、今は田舎に住み、田舎のことを研究している。香住の片隅ではなんとか昔の「結」の慣習が生きていて、この精米所は大工を引退した人が責任を持って維持している。たいていの人は専業農家ではなくなって、勤めや商売をしているため誰かに託すしかないのだが、昔からの秩序が維持されているのである。注連縄の件も同じである。もちろん単純な奉仕ではない。ほんの心付け程度の謝金は出る。しかし根底には相互扶助の原理は生きている。今の管理者がもっと老人になれば、次の退職者で元気な人が後を継ぎ、その伝統を守るのである。それは単なる因習ではない。このような精米機でついた米は確実に美味しいのである。最近のコイン精米機では時間と場所の節約のため、かなりのパワーをかけて精米するため、熱を持ち、ひび割れが多くなり、結果として味が落ちるのである。私自身も未だに知り合いや親戚の米を買い、旧式の精米をしてもらっている。

天気が悪いのでほとんどの写真は絞り開放である。    28mmあちらこちらとかなりの距離を歩いたが、今年は雨にたたられ写真はもうひとつ撮れなかった(数はある程度撮った)。暗すぎて絞りとシャッターのコントロールがうまくできなかったこともある。寒いので暖かい資料館/喫茶店に入ると出にくくなる。かなり遠くまで歩いて海事の資料館に行った。喫茶室で飲んだコーヒーは美味しかった。見学後戻ろうと思うと、そこからのバスがほとんど無くて、タクシーで駅まで戻ることになった。宿屋に借りた傘を返して、時間も2時になったので、昼ご飯用の弁当を買おうと思ったが、それがない。たぶん買う人がいないからないのだろうと納得して駅に入る(駅弁もない)。帰りの特急が入ってくるが、やはり人は少ない。でも田舎への旅は仕事を離れても楽しいことに変わりはない。来年はどこへ行こうか。いままで宮津、竹野、網野、香住と来たが、次は越前あたりか・・・。  追補/車内販売でカニ寿司が買えた。来たときも車内でカニ寿司、カニ料理だけの二日間だった。


copyright nagy all rights reserved

top

inserted by FC2 system