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2006年のフィールドノート

12/30   12月の風景・・・尼崎を歩いた。

月に一回尼崎の塚口へ行く。少し時間が早かったので遠回りして近隣を歩いた。まず小学校のグラウンドの端っこへ出る。フェンスのまわりに各種の灌木の植え込みが続いている=たいていは同じ木々が植わっていることが多い=季節季節で花が咲いたり、実が付いたりで趣があっていいと思う。

小学校の向かいには植物公園があって、ここでは春や秋の気候のいい時に時々寄って休むことがある。細い道だが、学校側との間に歩道橋が架かっていて安全に対する配慮がある。単なるプラスチックのボードなのだが午後は光が当たってキレイに思った。ここをやはり夕陽に向かって人が登ったり降りてきたり・・・向こうは公園のよく手入れされた林だ。

植物公園はすっかり紅葉も終わって少し寂しげだが、1本だけ背の高い極端に遅咲きのアオイか何かの花が空に向かって伸びていた。高い空、落葉の木々、白いマンションの壁、そしてピンクの花。これはシンクロさせている。

更に進むと住宅街の中に空き地とも見える場所があり、捨てられた自動車や粗大ゴミ、それらを被うように伸びた雑木が目に飛び込む。閑静な住宅街(元は農村地帯だったらしく大きな農家も混じっている)にポッカリと開いた「窓」のような場所だ。

平凡に見える住宅地にも不思議な空間は「よく見ると」あちこちに見えてくる。ここでは庭にセメントが貼ってあり、素人仕事らしく何度も何度も塗り直されて、川のような文様が見えてくる。そして奇妙な柵、白いばかりの壁、人の気配はない。両隣は普通の住宅だ。

昔からの住宅地を抜けるとマンションなどの建ち並ぶ新市街地は近い。その境にも奇妙な道案内の看板、もちろん手製で近所の人だけに分かるようなものだ。どうやらよそ者(特に車)が入ってくることを牽制しているらしい・・・法的には通行止めとは違う道だ。何とはなしに「旧」と「新」住民に確執があるのだと感じてしまう。

用事を終えて帰り路につく。ここはJR塚口駅前だ。例の大事故のあと地元への配慮があるのか、駅前の整備が進んでいて来るたびに景色は変わっていく。バスターミナルができ(まだバスそのものは少ない)今月には駅前ビルの建設が始まった。最近あちこちで見かける工事現場用のパネルで囲われている。歩道の広さや仕上げもJRの地方駅としては立派な方だろう。

何灯かは分からないが(ナトリウムにしてはオレンジ色が薄いし、白熱灯にしては輝度が高すぎる)明るい街灯も設置されたし、ランドマーク用の木(檜やヒバの系統)も植えられた。その向こうには大型のクレーンが空にそびえている・・・駅前開発より前から近辺の工場街はマンション群に変わりつつあった。

これが元々の駅前の風景。何の色気も感じられない駅前に「たこ焼き屋さん」の軽バンが歩道に乗り上げて商売をしている。まわりの景色が変わっても何らかの既得権があると認識されていて、まったく同じ場所に同じバンが止まっている・・・いずれは排除されるのだと思われるが、今のところ競合の業者も居ないし乗降客もそれほど混雑するわけでもないため静かな緊張感といったところだろう。  撮影はすべてリコーGRデジタル。

12/23

ご存じ近江八幡「たねや」の和食/和菓子の店先で。八幡堀のほとり日牟礼八幡の参道にある。最近はバウムクーヘンで有名になったが、この古商家を改築した店での和食もおいしい。

12/16

ススキ原に1本だけ残された木(ケヤキの仲間だと思われた)と山林パトロール隊。高原の開けた場所に1本残されると、風雪の影響を受けるため枝や幹の傷みが激しい。せめて小さな林程度に植林したらいいと思う。

12/15

曽爾高原のお亀池のほとりで。渇水期のため池に水はない。ここがススキの原っぱで稜線まで続いている。もちろん保全されていて、30数年前に来たときはもっと灌木があり、今のようにススキの絨毯のようではなかった。

12/14

遊歩道から屏風岩を望む。ワイドなので遠いが、実際は断崖絶壁、まさに「壁」だ。現在はすっかり冬景色だろう。ひょっとすると雪が降っているのではないだろうか。

12/13

曽爾高原・屏風岩山中で。自然公園のように「少しだけ」整備されている。だが人里を遠く離れた所でも犬の散歩をしている人がいた。もちろん車に乗せてきた・・・麓の国道からつづら折れの狭い道を上がって。空気は清涼、山並みの向こうは伊勢だ。

12/10

湖北の最後の丸子船船頭・山岡佐々男さんが亡くなった。堅田の丸子船船大工・松井三四郎さんに次いで、また「琵琶湖周航」の主役がウミの向こうへ消えていったのである。冥福を祈りたい、そして本の完成へ力を注ぎたい。

12/9

11月の終わりに曽爾高原へ行ったときの写真の続き。向こうに見えているのは屏風岩や兜岳・・・28mm相当の画角のため小さく見える。空気の清涼な場所が何より好きだ。これから毎日ここの写真をアップしたい。

12/3

また大阪の下町・都島を歩く。立ち並ぶ木造のアパート群にも空き部屋が目立ち、住民も老人ばかりになったようだ。区画整備はとっくになされ、立ち退き→マンション建設とお定まりの方向へ向かうのだろう。何しろ梅田まで地下鉄を使うと15分で行けるのだから・・・工場が郊外へ移転して空は風が強くなくても澄んでいる。

11/25  竹生島への旅*前編...後編は後日掲載。

11/3長浜へ行った。学術的なことを離れて久しぶりに、ほんとうに久しぶりに写真を撮りに行った。天気は快晴、気分は上々だ。朝11時に長浜港へ着いた。どこかの大学の漕艇部が練習から帰ってきた。左に橋が架かり、艇庫のある水路へつながっている。以前は長浜駅のホーム横まで浜が続き、琵琶湖水運は直接線路とつながれていた。向こうに見えているのは長浜ドーム=長浜は人口あたりの文化・教育施設が全国でもっとも充実していると聞いたことがある。

竹生島へ渡ろうと思い立つ。観光船の待ち時間に港を歩いた。港の一番奥で少年がひとり、もくもくと釣りをしていた。興味をもって近づく。竿は2本、どちらもごく小型である。聞いてみた「何が釣れるん」少年「バスや。ワームで釣っとる」、疑似餌に軽い仕掛け、本当に釣れるのだろうか?「ワシぐらいなモンや、小型のバスを釣っては駆除しとるんや」、確かに釣った10−15cmぐらいのバスが彼の背後の草むらで死んでいる。見ていると疑似餌を動かしては引っかけて3−4分で一匹釣り上げる。そして「これでエビが増える」「これでモロコが増える」と唱えながら、次々背後へバスを投げる。「地元のモンか?」「そやで、毎週必ず港へ出ては20−30匹駆除しとるんや」「いくつ?」ちょつとはにかんで「ワシ中2や」、このエピソードも本に書こうと思った。船の時間が来て「竹生島へ行く」と言うと、彼は「フン」とそっけない。必ず再会することを(いつも来ている)念じて船に乗る。

船が観光客・参拝者を積んで陸をあとにする。船は長浜の他、大津・彦根・今津その他から出ていて、琵琶湖のどこからでも竹生島へ渡れるようになっている。地元で「ウミ」と呼ばれるように琵琶湖はほんとうに広い。南や西は霞んで対岸が見えない。竹生島までの30分のおだやかな航海、船に酔う人もなく、乗客は景色を楽しんでいる。

竹生島が目の前に近づいてきた。一階の船室はこの程度の混み方だ。より景色の良い二階はほぼ満席、観光シーズンでも大混雑にはならないようだ。また当然のことながら満席以上は切符を売らないため、立ち席というのはありえない。天井からぶら下がっているスクリーンには歴史解説の映像が映し出されている。

最前列の窓越しに竹生島を撮る。だれでも私の世代なら「ひょっこりひょうたん島」を思い出すだろう。八幡地先の沖島も同じオチャメな形で、ひょっとしたら竹生島からひょうたん島を思いついたのかも知れないと思った。島のくびれた部分にだけ寺と神社、そしてみやげ物店があり、大部分は山林だ。島の港に大津からはるばるやって来た船が入ろうとしている。

上陸するとみやげ物店が何軒か並んでいて、なかなか賑やかだ(食事もできる=島では食事場所がないところが多い)。あちらこちらから船が来るため日中は比較的忙しそうだ。しかし現在は竹生島には寺の住職以外は住んでいなくて、店の人達も陸からの通いである。寺には宿坊があるのだが普段は泊まることはできない。

数軒の店を過ぎるとすぐに竹生島宝厳寺の境内に入る。ここで入山料が必要・・・つまり実質的に船の乗船料と入山料がかかることになる(けっこう高くつく参詣料だが値うちはあるだろう)。ワイドなので広く見えるが、ごくごく狭い局面にすべての施設がある。

宝厳寺から奥の都久夫須麻神社へ渡る舟廊下。たしか国宝か重文に指定されている。屋根が船をひっくり返して被せたようになっている。秀吉の御蓙船を流用したと伝えられるが、それは言い伝えで実際は宮大工によって建築されたのだろう。これを外から見ると清水の舞台のようで、狭い傾斜地の渡り廊下として合理的な造りである。

舟廊下を抜けると明るい台地に出る。正面のお堂からウミに向けて「かわらけ投げ」ができる。2枚の素焼きの皿(かわらけ)に1枚に名前や住所、1枚に願い事を書いて眼下のウミに向いて建っている鳥居へ投げる。それが鳥居の間をくぐったら願いが叶うということらしい。ずっと以前に投げたときはうまくいかなかった。その時の感触を覚えていて=皿なので失速したりフックしたりする=気をつけて思い切って投げたら2枚とも鳥居をくぐってウミへ飛んでいった。願いが叶うこと間違いなし。実際に投げると分かるが、ほとんどの人は失敗する。まさに「勝利のブギウギ」だ!

鳥居の前にはおびただしい「かわらけ」が堆積している。向こうには大津へ帰っていく船が動き始めている。本当にいい日だ。

11/12

先週の日曜に講義の一環として神戸の街を歩いた。テーマは「生活の景色」だが自分の思うまま撮ればいいと思う。機材はデジタルカメラと決めた。たいていの学生は持っているし、持っていなくても大学の備品のカメラがあるため気楽に取り扱える「家電製品」という具合だ。たいていの先生は写真を撮り始める際に「カメラはマニュアル、フィルムはモノクロが基本・・・」などと言うが、私はまったくそうは思わない。すぐ撮れてすぐに見る、デジタルカメラはよりポピュラーでフィルムカメラより優れた教材だと思われる。私たちの写真もポップカルチャーとして考えたい。ここではバラバラに歩いて撮影し、街角でばったり会ってすぐに撮影済みデータの確認とアドバイスをしているところ。街のあちこちで立ち止まり、作品を(しかもコンタクトシートを見るようにスライドショーでシーンの進行や撮影者の心理まで感じながら)見続けた。帰りの喫茶店でも有志が集まり、データをモバイルPCに落としてたくさん見た。次の講義(これは学内)までにCDに焼いて送ってくれることになっている。そしてその次はまた街へ降りる・・・コンセプトは「飛ぶ教室」だ(「点子ちゃんとアントン」でも構わない)。

10/30

昨日「河川探険隊・にしくるーず」大阪市西区役所主催の文化イベントに参加した。西区阿波座から毛馬の閘門までの船旅である。西区在住の子供達や区民40名ぐらいで川を遡りながら、川から見た町の景観を見て、歴史や水防について学ぶクルージングだ。天気予報とは違って空は晴れわたり汗ばむぐらいだった。また参加したい。

10/26

10/23に大阪を歩いた。講義用に買ったリコーGRデジタルに慣れるためである。「写真は才能」ってなことを言ったもののカメラは物理学で動くため多少の習練は必要だ。ただし説明書は最低限しか読まない。多機能を使いこなすことより撮影を多くこなすほうが大切なのだ。これは初心者だった時代から変わらない=機能は必要に応じて自然に会得する。すなわち機能に熟知しなくてもいい写真は撮れるが、熟知したからいい写真が撮れるということはまったくない。梅田の地下街を歩いて1枚撮ってみる。ほぼ問題なし・・・カメラの設定は1.色温度は昼光 2.ノーマルだと少しオーバー気味になるため1/3程度暗くした 3.ストロボは強制発光と発光禁止を使い分ける 4.感度はISO100固定と言いたいところだが自動ゲインアップを選択 5.省電力(バッテリー切れが問題)のためモニターはシャッター半押し時のみ点く ・・・etc/etc。デジタルの場合、あとで画像処理するのが前提なので「やや暗め・やや軟調」が大事だ。

同日、平野区長吉で。国道沿いのファミリーレストランの中で、ここはロゴや店のデザインに面白さを感じている(食べたことはないが、店づくりりのコンセプトがステレオタイプ化されていない)。ここで知人と待ち合わせ・・・変わった店で、店に入らなくても待ち合わせのための短時間駐車を認めている。

9/1  夏の終わりに。大阪市都島区を二度歩いた写真を掲載する。

いつも仕事で行く道すがらのお稲荷さんの敷地に生えているイチジクの木。毎年大きくなっていく。今年は「生り年」らしくたくさんの実がついていた。田舎の親戚の家ではイチジクジャムを作るために山に苗を植えた。うちも1本だけ苗を分けてもらって庭で順調に育っている。栽培品種なので3年で実がなるらしい。時々お稲荷さんの杜の横で昼ご飯のサンドイッチを食べる。どうした訳か倉庫の敷地内に立派な社が建っていて当然に参拝は自由だ。僕の子供の頃から建っていて、今は人気はないが当時は倉庫業も好況で若い衆がランニングいっちょうでキャッチボールなんかしていた。

下町を歩けば軒下に金魚の水槽があった。普通の民家だがきちんと手入れがなされて涼しげだ。炎天下を避けて軒下の僅かな日陰をあるくのが習慣である。私はフィールド写真家でありながら紫外線アレルギーで直射日光にはあたれない。中袖シャツにUVカット手袋・サンスクリーン姿で歩いている。暑さはダイエットのせいで平気になった。

都島の商店街のはずれで。駄菓子屋では氷水とともにたこ焼きを売っている。たこ焼きは年中売れるのである。「たこ焼き屋に倒産なし」というジンクスすらあるぐらいだ(実際事業に失敗した知りあいは「お好み焼き屋」で人生に再出発した=5−6年経つが一応の成功だ)。向こうが商店街のアーケードだ。

商店街へ入る。40年前、私の子供の頃と少しも変わっていない。時間と空間が凍結されたようだ。変わったのは人が1/10ぐらいに減ったことと、店員も客も老人ばかりになったことぐらいだ。私は幼稚園から小学校の間の6年間、人生で最初で最後の下町暮らしを大阪で経験している。「箱」は私設の道路標識だ。下町は土地の人ばかりでほぼ自治的に動いている。画面の奥が都島交差点。地下鉄の駅ができて駅前だけが繁盛している。

交差点を渡るとまったく異なる風景が現れる。下町風情は後退し、区画整備は進んで私の親の住むハイライズマンション・コンプレックスや各種の大規模な公共施設に変わりつつある。画面の右は大阪市バス操車場跡に大阪市医療センターとマンション群、右奥には老人介護施設、左奥は広大な空き地があり、いずれマンション群に変わることと思われる。その向こうは大阪環状線で「内と外」に分断される。

マンション群の中の市民公園。甲子園の季節になると少年野球にも熱が入る。市内もマンション建設のおかげで子供の人口が増えつつあるようだ。だが私の子供の頃と比べても遊ぶ場所が少ないし、たいていが塀やフェンスに囲まれた「管理された」空間のように感じられる。それでも新興の公園の木々の生長は確実に進み、未来は暗くはないと思うのである。

また歩いて環状線の「壁」にたどり着いた。ところどころトンネルはあるものの壁は高く、外と内の格差はハッキリしている。もちろん内側の開発は早く予算も潤沢だ。今も昔も環状線の内と外の区別は続いている。私の大阪下町の旅は基本的に「外の世界」に関心が向いているのである。なぜ?

7/23   先々週に奈良県御所市−橿原市へ行ったときの話。

橿原神宮駅で友人と待ち合わせ(最近は克服できたが、なかなかひとりでは行きにくい)。電車1本早く着き、駅前の植え込みで待つ。土曜というのに人通りは極端に少ない。私と同じように野球部の少年も暑そうに待っていた。

最初の訪問場所は御所の高天彦神社だ。葛城山の麓の丘陵地帯にあり、等高線に沿って一言主神社や高賀茂神社などの有力社寺が並んでいる。どの社寺も由緒古く伝説に満ちている(これは後日書きたい)。葛城氏や加茂氏の本拠地だった歴史が現在もそこここに感じられる。盆地を挟んで反対側が大和朝廷の本拠地飛鳥である。ここの参道は杉の木が並んでいるが、その下ばえに地元の人達が植えたのだろう一面にアジサイの木で埋めつくされている。おりしも満開で、神様(誰なのか?)は私たちを明るく迎えてくれた。花の端境期の今、アジサイは種類も豊富、しかも土壌や開花時期で花の色が異なり、うっとおしい梅雨時に私たちの気持ちを良くさせてくれる。

奥に鳥居と本殿が見えている。元はもっと長い参道だったと推測されるが現在は20-30m程度残っているだけだ。向こうは葛城山系の山並み、峠を越えれば大阪平野だ。曇っていて蒸し暑い。

梅雨時だけではなく湿度の高い土地柄なのだろう、狛犬も石垣も苔むしていた。観光地ではないため参拝者は少ない。おおむねハイキングがてらのお参りだろう。ご神体は山そのもので高天原とつながっているようだ。ただし本殿の南側に由緒不明の石像物が祀ってあり、山/磐/水の信仰を見てとれる。なぜか狛犬の右の前足に真新しい赤い紐(熨斗に見える)が巻いてあった。

神社の杜に神武天皇の碑が建っていた。ここは葛城氏の本拠地、征服されたとはいえ大和朝廷を顕彰する風はない。撮影はデイライトシンクロだが、この程度の逆光でようやくフレアが出る(ズームレンズとしては優秀)。

さて参道を下ってまっすぐ行くと狭い水田地帯へ出る。休耕地には出荷用の花が各種植えてある。その中にひときわ美しいガクアジサイが咲いていた。栽培品種として改良がなされてきたが、日本原産のアジサイの最高のものは最も野生に近いガクアジサイだと思う。

更に前進すると(おそらく往時の参道はここを通っていた)蜘蛛窟の碑が森の中にひっそりと建っていた。道も荒れた山道で行き止まりになっている。朝廷軍に平定された土蜘蛛の穴とされている。近隣の一言主神社にも蜘蛛塚があり、おとしめられた土着の豪族として祀られている。それでも破壊はされない...菅原道真と同じく祟りを畏れていたのか。碑は昭和9年建立と読めた。

蜘蛛窟の向こうは杉・檜の山を利用した植物苑(説明書とおり)となっている。植林の下を利用して季節の花木が植えられている。今はやはりアジサイが主だ。入場料は100円、入り口に缶が置いてあるので自主的に硬貨を投げ込む。湿度が極端に高く、ここでも苔や菌類があらゆるものに繁殖している。歩いていて快適とは言いがたいが梅雨のせいとしておこう。

苑の中に石で炉を組み、まわりに石の腰掛けを配した場所があった。観光客用ではなく、作業する人が休息したり暖をとるための場所だろう。不思議なのは炉の石組みだ=六芒星形となっている。何のためにこのような意匠としたのか不明。

少し移動し高賀茂神社へ着いた。小さな資料館があり、そこで草の花としては最も好きなタチアオイを撮る.....以下ガイドブック(解説書)が行方不明のため後日の加筆とする。

境内の池。

本殿。

神社の杜のお稲荷さん。

橿原市の「おふさ観音・風鈴祭り」そう広くない境内が風鈴とバラの花でいっぱいになる。バラはとても丁寧に育てられている。

本堂前の庇にたくさんの風鈴を吊り下げている。由来はあまり分からない・・・しかし観音さんということで、子供の平安を祈ることに通じていると解釈。確かに母と子の連れが多く詣っていた。

本堂左に鎮座している「びんづるさん」・・・頭を撫でて自分の身体の悪い部分を撫でると良くなるとの言い伝えで、どこの寺のびんづるさんもツルツルだ。しかしよく見ると怖い顔をしていると感じた。

「仏足石」、びんづるさんの足元に置いてあった。文様に興味があるが理解はできない。何かの護法なのだろう、いつかぜひ知りたい。最近は神聖な(時に忌みの)文様に惹かれている。

本堂右に無造作に転がっていた(ように見えた)「ダルマ」、現在と未来を見ていると直感した。力強い表現がダルマの顔にはある。

「風鈴」...まだ梅雨なのに秋を感じた。季節感が普通とは違うのか、私は梅雨になったら「夏が来た」、お盆が来たら「夏が終わった」と子供の頃から感じている。

本堂前での手作り風鈴の展示即売。なぜそんなことをするのか分からないが、いろいろの綺麗な風鈴に作者と値段が書いてあった。たぶん檀家や近所の子供の作ったものと思われる。奥さん連中がとても熱心にひとつひとつ見ていた。

帰り道のガクアジサイ。近隣は開発ですっかり都市化したものの「おふさ観音」のあたりは昔の風情が残っていて、もう少し涼しくなったら町をノンビリ歩いてみたい。今回は暑さの中での撮影で少し疲れた・・・友人との月例撮影の次回は奈良県天川村とあいなった(とても遠い)。

5/17   先週の土曜に友人に誘われて京都・北山の大田神社へカキツバタを見に行った。全部オリンパスE300で撮影・・・友人「防滴性は?」、私「知らない・・・ライカよりはいいかな?」、大判のハンカチをスカーフとして巻いているので、いつでも湿気はふき取れる(と思っている)。

友人は朝6時に家を出て、誰もいない境内で写真を撮っていた。am8「着いた」とのメールで重い腰をあげて出かける...外は大雨、気が重い。しかし家からは地下鉄の北山駅まで乗り換えなしの一直線、あんがい早くに着いた。

着くとここは京都の北の外れ、北山の新緑が美しい。徒歩20分(さっさと歩けば15分、写真を撮りつつ考え事をし、鼻歌まじりに歩くので遅い)の道のりは、雨は降るものの気分は爽快だ。実は雨降りは大好きで、あまり苦にならない。要するに気分が乗らなかったのは早起きしたくなかっただけだろう。途中の公園では、植木や植裁だけではなく雑草ですら緑に美しい。新緑の頃は何といっても「雨」がいい。

レンズが水滴でおおわれ、ピントもどんどん滲んでいく。滲んで崩れていく感覚に魅力がある。雨の日はピントはシャープでない方がいいし、意図的にボカすのは良いことではない。また道に迷いそうになったので近所の町屋のおばさんに軒を借りて休憩し道を尋ねた...いつもひとりで歩くと迷う(でも気にはしない)。京都はどこでも言葉が通じるので安心感もある。

山の際まで歩くとちょっとした屋敷街となる。どの家も母屋が見えないほど木々が繁茂している。雨の中郵便配達が律儀にやってくる。さっきの軒先でレンズを拭いたのでシャープさが増して少し不満だ(意識して拭き残したのが悪い)。傘に落ちる雨音と郵便カブのパタパタという排気音しか聞こえない。もちろん誰も歩いていない。

さて大田神社に着いた。2時間も友人はここで粘って500C/M+150mmで6本も撮り終わっていた。しかしそれだけしかフィルムを持っていないらしい。さすがにプロ、なんの問題もない。あとはお茶と焼き餅で緋毛氈に腰掛けていた。とりあえず私も休んでぜんぜん写真は撮らない。婦人会の臨時の接待の店で焼き餅(私はヨモギ餅を選択)と熱いお茶を二杯のんで150円だった。婦人会のおばちゃんたちと話す(実際は私と似たような年齢)。地域に埋もれて生きていく、その良さを何度も噛みしめている...本当のところ大学の講義で「地域と文化」を担当していて、若い人に話すのにクヨクヨと難儀しているのだ。観光客はかなり多いが、もともと観光地ではないため混雑というほどではない。人が入れ替わり出入りするので、時間さえかければじっくりと見ることができるだろう。

境内横の大田の沢(1500u=あまり広くはない)の野生のカキツバタは国指定の天然記念物に指定されている(まったく知らなかった=もし友人に誘ってもらわなかったら一生知らなかったかもしれない)。特別に綺麗な花だ...自然系の写真家ではないため、とても実物どおり再現できない。素晴らしいとしか言えない。新緑の緑色の雲の上に紫色の蝶々が飛んでいるようだ。まるでポスタリゼーション処理をしたように浮いて見える。

激しく降る雨、傘の水滴がきれいに見えていた。たくさん傘とカキツバタの組み合わせで撮った。私にとっては大正解、雨の日の雰囲気がかるーく出せた...ネイチャーフォトはとても苦手。

大田神社は近くの上賀茂神社の境外摂社で、婦人会も上賀茂神社の氏子の婦人部ということだろう。雨は降り続き、店も繁盛していた。この店の前で30分も写真を撮っていたら、だんだん慣れてきて話もしやすくなる(もちろん京都弁なので仲間内という感じはある)。「どこから来はったん」「南山城の田舎からやし」「へー初めて来たんやねー」「そーなんや、このお宮さんええなー」・・・低気圧の通過か少し寒くなってきた。

ちょっと奥に簡単な台所が仮設されていて、10人ぐらいのご婦人がワイワイ話しこみながらの作業となる。私も皆んなで暮らしているし、皆も助け合って暮らしている。

ついに仲良しになった。友人はおみやげに焼き餅を買い、私は写真を撮った。また来年も必ず来ることにしよう。

タクシーで北山通りへ戻る。植物園の玄関前のレストランの二階で食事をとる。面白くて趣味のいい店、オープンエアになっている。寒いので道際の特等席は誰も座らない。躊躇する友人を制して私は陣取る。冷たい空気と雨の緑色の湿気が気持ちいい。ちょうどBGMにA.ジルベルトの歌が流れていて、それに合わせて小さくない声で歌った。上等のオリーブ油で調理した特製のパスタはおいしいし、とぎどきウオーターカーテンをあげて走る車の勢いすら私を勇気づける。「おいしかったです、またきます」、家からここまで1時間かからない、またきっと来よう。今度は下鴨神社と植物園だ。デザートブーツの泥を落として龍安寺へ向かう。

龍安寺山門。雨にもかかわらず人出は多い。今日は仏教系の高校生が団体で来ていた。さすがにまじめに先生(たぶん僧侶)の話を聞いていた。ここでもくすんだ境内に緑色の光の壁が美しい。

有名な石庭。10回ぐらい来ているがいつも表情は違って見える。縁側に腰掛けて何十分もいても飽きることはない。隣の若い娘が熱心に解説書を読んでいた。「解説なんかどうでもいいのに・・・お庭を見続けたらいい」と思ったが声はかけず、ただ写真を撮る。人の肩口からのショットが大好きだ。どうだろう無意識に一緒にいるという感じが欲しいのだろうか?24-28mmの使用が多くなる。

回廊をめぐって裏へ回る。裏山の新緑が人達をシルエットにする。しかも冷たい雨で湿っている・・・どうしても写したい。めいっぱいのワイドで引いて何枚も何枚も撮る。

堂内の不思議な屏風。たぶん偉い坊さんが書いたものだろう(本当は解説書を読まないといけないのだが、最近はすっかり「芸術シフト」なので学者的な発想は湧かない・・・反省)。暗いのでオリンパスE300の自動ゲインアップの機能は役に立つ。写真家が気を遣わずに撮れるのはいいことだ。それでも1/4sec、なんとか1枚だけ止まった。

ラストは龍安寺の売店で。有名な観光地の割には店がクラシックで昔の土産物屋のよう。客も素通りして観光バスとタクシーのあふれる駐車場に戻っていく。立命館の衣笠学舎の近くで不便であることは確かで、「歩いてJR花園まで行こう」と言ったら、友人に「アホなことを・・・」とたしなめられた。駅までタクシーで戻り、帰路につく。今日もいい日だった。金曜に初めて行った関空のサウスゲートホテルも楽しかったし、雨の京都もよかった。今週は大阪・天保山と京都・嵐山へ行くことにしている。そして大学で講義。そして琵琶湖、信楽、また京都。まるでサークルゲーム?

5/9

越後荒川からの報告(5/3-5調査旅行)・・・荒島地先の孵化場にて。育てているサクラマスの実態調査=川のベテラン坂野さんから話を聞いた。今日から大学の講義が本格的に始まって、しかも4月に続き5月もフィールドに忙しく出かけることになるため、当サイトのページ更新はままならない。しかし企画/執筆/制作など次々と固まりつつあり、とても意気軒昂!

4/15   雨の日曜日、近在の桜花の下を歩く。

近所のごくローカルな桜の名所。天井川の堤防にはどこでも桜が植えてある。水と空気が綺麗なためかソメイヨシノも都会より色が冴えていると思う。

やはり井手町で。川は治水とともに景観に対する配慮もなされつつある。柳の新芽も萌えてきた。

宇治田原町の町はずれ。雨は激しくなり私は車窓から川辺の景色を見つつ考え事をしている。晴れた空より灰色の雲が桜の花にはよく合っている。

山城町の不動寺川河畔にて。雨は上がったものの雲はまだ厚い。近所のオジイサンと川面を見ながら昔の近在について話をした。向こうの学校の桜は50年前に小学生が卒業記念に植えたものだという。「あれから50年も経ったんか...ほんきのうの事みたいやねんけどな」、おじいさんと別れて学校の桜を見に行く。

ひときわ立派な桜の大木が数十本も学校の周りを囲んでいた。学校は20年ばかり前に建て替えられた。山城町、井手町の桜はどれも手入れが行きとどいていて毎年綺麗に咲いている。明日も雨模様、やはり近所を回ってみたい。

4/3   春近し、されど冬...2月の写真。CLで撮った2日間の冬の散歩道。 レンズはセレナー35mmF3.5。

東大阪・布施の裏店で。ここではどうしたものか古くからの商店街が入り組んでいる。

布施にて。狭い街路とさらに狭いしもた屋、そして町の祠と露天商。

霧の朝、京都府相楽郡のローカル線の駅からの景色。ホームの横がもう畑だ。

JR和泉砂川駅前。シュールな光と影の塊。

和泉砂川の丘の上。警官と通学の大学生。そしてやはり祠。

和泉砂川の用水。元は農業用水だったようだが(もちろん今も法的には同じ)新興住宅に囲まれてドブと化している。

大阪・天神橋筋六丁目の地下鉄から登る階段。道へ出ると寂れた商店街が続いていた。そして新興のマンションコンプレックス。

大阪ミナミの心斎橋筋、「そごう」が再度開店することとなった。しかし人出は不振だと感じられる。私は昔をよく知っている。

琵琶湖、草津烏丸にて。冬の水上スキーと形ばかりの風力発電。向こうに見えているのは比叡山系。

尼崎市塚口にて。何を相談するのかは分からない。1年前のJRの大事故のことは地元でも話題に上ることはなくなった。これのみsummilux50mmF1.4

3/20    土曜に雨の月ヶ瀬梅林へ行ってきた。  オリンパスE300ですべて撮影。

門前町の土産物屋で梅の加工品や盆梅を販売している。交通の便は極度に悪く、天候も荒れ気味であるにもかかわらず、かなりの人出が私たちを迎えた。月ヶ瀬村は奈良県の最北の山中にあり、三重県島ヶ原村、京都府南山城村と接している基本的に過疎の村である。私の家からはそれほど遠くない。今までは山の中のひなびた山村という印象を持っていて、大昔に一度行ったきりで関心がなかった。ところが友人に誘われて梅林を訪ねると、案外開けていて(もちろんほんの一角だ)京都から伊賀方面への間道の宿場町の風情があった。梅林も最近の観光用に作られたものではなく、伝承によると村の中心の真福寺に1205年に植えられたのが起源とされている。そののち都から落ちのびた園王姫が村民に「烏梅(うばい)」という梅の実から作る染料の製法を伝えたことから盛んに植えられたという。真福寺の小規模な門前町の入り口には大正9年に内務省から景勝地に指定されたむねの記念碑が建っている。以前は更に各地からの梅林詣でが盛んだったことだろう。

ここの梅林は一カ所に集中しているのではなく、あちらこちらに点在している。全体としては1万本と言われている。中心はやはり真福寺の門前町から寺の周辺だろう。梅林の多くは作物として栽培されているために見物しやすいとは言えない。ともかく歩くことだろう。

梅の季節には多くの客が集まり、みやげ物店も繁盛する。普段は梅や山の幸の加工食品、特に漬け物が名物として生産されている。思ったより若者が多く感じられた。

道端には漬け物製造用の大樽が置いてあった。たぶん現在はホーローやステンレスの容器で作られているのだと思われる。

どんどん歩いて登ると、10軒にも満たない店の最後に行き当たる。どうしたものか地元の婦人には綺麗な人が多いと感じた。と言うよりも明るいのである。広い意味で私の地元に近い場所が別天地のように思われた。向こうに上の大樽が見えている。

若者、しかし何十年か前の若者に見える人達が梅を楽しむ...残念ながらまだ三分咲きでキレイに咲いている梅の木のまわりには人が集まる。そうなると私の出番だ。あとは普通の山村の風景が続く。

寺のすぐ前に唯一と言ってもいい食堂があり、店先に盆梅が並んでいる。どうやら名物お爺さんがいるようで、観光客に売り込むのではなく、盆梅の講釈をして、観光客もかなり熱心に聞き入る。私には不思議な光景に映った。ここでおでんを食べた。冷たい雨が降り始めて、おでんは暖かくておいしかった。

食堂にて。先ほどまで満員だった。友人とクドクド写真の話をしているうちに食事の時間は終わり、急に客足は減る。店が少ないために一時は混雑するのだが、基本的にそれほど全体の数はいないためだろう。でも昔の観光地の食堂の雰囲気があって悪くない。

さて中心部の真福寺へたどり着いた。雨が激しくなったせいもあるのだが、どうもひっそりとしている。中では彼岸の法要もおこなっているようだ。

寺の参道に1本満開の梅があった。何枚も撮った。寂しい境内と彼岸、これが印象の中心だろう(絵のキー)。

お山を下りる。雨が降り出し、カメラや写真の話をしている間に人々は散り、露天のにわか土産物屋さんも所在なげだ。 だが「また来たい」と思った。ごく普通の人が集まり梅を愛でる行楽地。惹かれる...なぜか? 今月末あたりが満開だろう。近くの人は寄ってみて欲しい。

2/11   先週、気晴らしに奈良へ行った。まずは榛原の墨坂神社である。古くからの宿場町である市街地のはずれ、清涼な川の脇に建っていた(宇陀川=一級河川)。史料によると日本書紀・崇神天皇9年の条に「赤盾八枚赤矛八竿を以て墨坂神をまつれ」と夢に教示があったとされている。もとは天の森に祀られていたが1449年に現在の場所へ移されたとされている。  データはオリンパスE300+CLE(Gロッコール28mmF3.5xRVP)

ここでも川の水運はあったようで、その喉元を押さえるように立地している。川に山が迫り、その山を神体として川と町屋を見おろしている。

本殿は当然のように天孫系の神が祀られているが、ここでも水神(川を治める)と山神(山を治める)が大切に祀られていて、天孫系以前から重要な祭祀権があったことを物語っている。

竜王宮の神体は自然石と山から湧きだした泉である。裏は全山が神体の大山祇の世界が広がっている。崇神といえばハツクニシラススメラミコトと言って、皇統の最初とされている(それ以前は神話)王で、何やら深い意味がありそうだが、歴史家に怒られそうなのでそこまでは立ち入らない。

さて山を下り、今度は八木の「おふさ観音」(観音寺)へ立ち寄った。寒冷前線が通過しつつあり、朝よりも寒くなって北風も強い。7月の観音祭にはそうとうの混雑があるらしいが、本質的に観光寺ではないので静かである。ぼけ封...昔もそうだが、現代はなおさら切実な願いだろう。

壁の隅々に鍾馗さんが立っている。これの製作者(鬼師)と琵琶湖で会ってから、どこへ行っても気になってしようがない。この寺はバラの植栽も有名で、今は春に向けて手入れに余念がない。ぜひ季節には信心とは別にしても参られたい(バラは日本の気候に適応して春秋二度の花の季節が楽しめる)。

寺の境内右側を見ると、いつも寺へ行くと気分の滅入る一角があった。水子観音である。おびただしい量のおやつやオモチャが供えられている。そして千羽鶴...子供のいない私だが自分のことのように胸が痛む。ここだけは一年中参詣が絶えない。さよなら赤ちゃん。

上の観音様の横に不動さんが立って、子供達を守護しているのか、それとも俗世に睨みをきかせているのか、怖い顔で私を見おろす。この背後に泉があり卒塔婆が流されている。

寺の奥に庭園があり、公開していたので入ってみる。季節には茶席も設けられるらしく、ぜひこの次はお庭を見ながら茶を喫したい。池の鯉も半分冬眠状態で寄ったまま動かない。灯籠に昨日降った雪が残っていた。

本堂の軒下から。空は冬空、水子観音を見たせいもあるが、気晴らしに来た割にはあまり明るい気分にはなれない。しかし確実に春は近づいていて、どの木にも小さな芽が見えている。

鐘楼から外を覗く。古い町屋が続き、旧の街道が走っている。すぐ向こうが県立病院だ。

おふさ観音を出ると川があり、川筋に稲荷や川灯籠が建っていてねやはり水運・水害と切り離せないようだ。こんな内陸まで...と思うだろうが、昔はほとんど分水嶺近くまで水運が通じていたのである。そして川の際に商店や食堂が今もあって、ここでなら「今を見つつ過去の生活世界が組み立てられそうだ」と考えている。生活と景観は切り離せず、時間と空間も切り離せない。写真家は今しか見られないが、過去の視点、未来の視点を持つことが可能で、未来から今を見通すことも、今を見つつ未来を見通す(これは土門拳の立場)こともできる=写真家を「時空移動物体」と定義づける由縁である。

1/27   先日(1/21)四天王寺の「初弘法」へ行ってきた。関西では京都の東寺のものが有名な古来から続く市である。毎月21日に空海(弘法大師)の威徳を称えるために善男善女が参集する。一応は真言宗となっているが、現実には無宗派の仏事である。この日に各地から露天商が集まり市が立つ。特に12/21を「仕舞弘法」1/21を「初弘法」と言い習わして、格別に盛大に賑わう。  データはM6チタン+eimarit28mmF2.8/3rd+RA。

卒塔婆流し。今年は寒さのせいか、天気の悪さのせいか人出が少ないようだ。それでもここは混雑している。線香の匂いと呼び込みの喧噪、すべてがお堂に吸い込まれていく。

卒塔婆流し。これはGRデジタルでの撮影。歪曲がなくいい28mm(相当)レンズだ=しかし遠距離の描写に甘さがある。

境内のところせましと露天が立ち並ぶ。以前のような「香具師」の雰囲気とは異なり、感じとしてはスーパーの特設店のように思われた。もう少し怪しげな感じだったのだが・・・。

六時堂前の古着屋で。アメリカ村のジーンズの古着とは違う、中老年向きの古着というのは珍しいものだ。

六時堂前の重文「舞臺講」の舞台で。ここでも各地の公園と同じでハトに餌を撒く人がいる。

六時堂。なんと言うこともないが人々の祈りには真剣なものを感じる。現代は無宗教的になっているように思っているのだが、私の感覚とは異なり神仏への畏怖心は思ったより大きいのかも知れない。

たくさん並んだ弘法大師。こういうのはポップでミニマルなアートを感じさせて大好きだ(バチアタリか?)=量的記号としての仏像=安倍文殊院の観音様を思い出した。もちろん一体一体が喜捨によって立てられているのである。

弘法大師像の前で。祈りと般若心経の場であった。これはシンクロさせている(GRデジタル)。

何と呼ぶのか忘れたが一回まわすとお経を一回あげたことになるようだ。門の左右にふたつずつ付いていて皆が回すため銅がピカピカに光っていた。向こうは五重塔、遺骨が安置され中に入ることもできる。文化財としての塔は本来の意味を離れて一般の人が入れないようになっている所が多い。

門の外側に鳥居が建っていて典型的な神仏混交の場である。都市の古刹として門前町は繁栄していて、特に薬屋が目立つ。この辺に聖域(仏教以前からの)の成立を読みとれるように思われる。場所は神武軍を長脛彦が破った難波の津の上である。これを右(西)へしばらく歩むと夕陽丘の崖があり、その昔は崖下が海であった。更にここから北へ行くと農人さん(少名彦名命)が鎮座していて(これが薬の神様=仏教の薬師如来とは違う)今でも薬問屋が多い。今度は京都の東寺へ弘法さんを訪ねたい。

1/7  昨年の研究プロジェクトのひとつ「船をつくる、つたえる」和船建造技術を後生に伝える会(日本財団研究助成)から、掲載の写真とキャプションを紹介しよう。氷見市北大町の船大工番匠氏の船大工人生と、平成15年氷見市鞍川D遺跡より発掘された井戸枠転用の丸木舟(12−13世紀の船と推定)の復元記録に参加したときの記録を載せる。本文は長いので図書館で参照のこと。

987年10月、灘浦の庵にて。初めて見た「最後の氷見型ドブネ」であった。この頃は原型をとどめていて、船小屋も含めて周りの景色も漁村の香りがいっぱいであった。この後1998年に消滅するまで何度も見たが、少しずつドブネも景観も崩れていった。

1994年3月、はじめて番匠氏と会った。この頃わたし達は木造船技術の分布調査で北陸一帯をまわっていた。右は番匠氏を紹介してくれた氷見市博物館の学芸員の方、撮影の私も含めて、当時も熱っぽく木造船の話を語り合ったことを思い出す。皆若かったが今も情熱は変わらない。さらに今回若手の研究員2名が加わったことは、海の地域文化研究を継承していく上で大きな進展である。

2002年8月、番匠氏による久しぶりのテンマ型木造船製作の現場に立ち会った。道具、板図、そして技術が残っているため、いつでも造船は可能である。このときの「木の仕事は楽しい」番匠氏のことばを思い出す。

2004年6月、今回の井戸枠利用の丸木船の模型の製作を開始した。昔ながらのマサカリやチョウナを中心とした道具による方法で、想像するより早く確実に仕上がっていく。マサカリを振るうたびに木っ端が飛び、木の香りが造船場を満たしていく。

2005年2月、ほぼ完成に近づいた。ここでは木口のノコギリ跡の復元に挑んでいる。雪の日、はだか電球をぶらさげての以前と変わらぬ造船風景である。電球は蛍光灯と異なり、光の直進性が高く木肌の少しの凹凸も浮き上がって見えて、作業上便利だとのことである。

2005年2月、作業のほぼ終わった造船場の雪明かりの射しこむ窓際で。今年から入れた薪ストーブを囲んで昔話に花が咲く。船大工の生活から、船の変容、氷見の今昔まで港談義は尽きることがない。頃合いをみて船造りの端材や削り屑をストーブに放り込む。調査報告書の本は5月に完成した。

2006.1.1

さて今年の始まりだ。


2004年のフィールドノート

11/3

10月の終わりに京都・東福寺へ行って来た。毎年秋になると、しばしば京都の町を歩く。これから毎月1回程度、来年6月ぐらいまで続くだろう(夏に行かないのは単純に暑いからだ=かなりの距離を歩くので難しい)。信心深いわけではないが、どうしても土地柄で寺巡りとなりやすい。ここは京都駅の南東、東山の南のはずれに近く、観光地としてはそれほど知名度はない。しかし臨済宗(禅宗の一派)の総本山であり、小さな寺院や僧坊が集まって五万坪の広大な寺域を形成している。全部歩くと、それだけで2−3時間はかかり、我々のように写真を撮ったり、庭園や仏像を拝観しながらだと1日では回れないだろう。 さて修行僧が行く。土塀は落書きだらけで相当傷んでいる。寺域といっても普通の境内と異なり、一般の人や車が行き来し住宅や店舗も多く存在している。

広い面積が寺ばかりのためか、食料品を満載した行商の車がいた。買い物をしているのは寺の関係者である。確かに寺域の外でも店舗は少なくて買い物は不便そうである。トラックでの行商だが、さすがに大音量のスピーカーは使わない。決まった時間に決まった場所に駐車して、客が集まるのを待っていた。暇なのと客が常連さんだけなので、買い物ついでの世間話に花が咲く。なんともノンビリとした光景である。

東福寺内の霊雲院の庭園に入る。ここは明徳1年に僧岐陽方秀によって開かれ、はじめは不二庵と称していた。その後、七世庵主の湘雪和尚が熊本細川家から禄を与えられることになったとき「禄は参禅の邪気なり、庭の貴石を賜るなら寺宝とすべし」と答え、これが「遺愛石」と銘され須弥台となって今も庭の中心に据えられている。石庭としては南禅寺や竜安寺に比べると荒いように思われるが、観光地でない分のんびりと庭や石と対峙でき、私たちも庭を見ながら30分以上語り合うことができた。

さて東福寺の本堂や回廊を巡った。ここは紅葉の名所として有名で(もちろん植樹している)、見えている木々の大半はカエデである。ここが11月の中旬以降真っ赤に色づく=今回は下見と云うわけではないが、この景色を見て、今年の紅葉見物はここと決めた。ここでは外国人観光客が目立つ=おそらく国内ではそれほど観光宣伝をしていないが、外国人ツァーでは有名なのだろう。

江戸以降あまり災害にあっていない。東福寺には古い建物が多く残っていて、多くが国宝や重文に指定されている。ここは法堂の庭。京都の寺には観光客が休む席があまり備えられていないが、ここでは建物の階段や縁側を開放している。良いことである=本来は民衆に近い存在だったのが、多数押し寄せる観光客から料金は取っても、施設を痛められたくないという矛盾した寺が多くなっているのが現実である。東福寺の最も奥まった場所ですぐ裏が東山の自然林である。数は少ないが歩き疲れた観光客がここで休んでいるのが印象的である。休むと「携帯メールの着信確認」これはかかさない。昔の民衆もここで休んだに違いがないが、その時はなにをしていたのだろう。

洗玉澗の庭園にて。紅葉を待つカエデ林、ほとんど人は歩いていない。苔に覆われた地面は美しく、木漏れ日の色も綺麗な緑色になる。紅葉する木の葉は緑色も美しいのだと思っている。

カエデに埋もれたような回廊。写真は具象的な表現方法だが、現実の世界は抽象的な景観を持っている。写真は「そのままを写す」のではなく、「意味性」を求めて、時間と空間を厳密に定義し、その意味とフレーミングを記録することが肝心だと信じている。さては紅葉の時期が楽しみである。

塔頭のひとつ「芬陀院」(雪舟寺)の庭と茶室。ここでは雪舟の設計とされる石庭を眺めつつ回廊を巡り、庭の奥に侘びた丸窓の茶室がある。庭も僧坊も回廊も、茶室もすべてが小さな完成された空間を形作っており、往時の絶対的な抽象空間を私に伝えてくる。ここでお茶を喫し、拝観に2時間を費やした。それほどに素晴らしい寺である。もちろん観光的には不適当と言い切れる。  データ:キヤノンG−1(デジタル)...これのフィルムカメラで撮ったカットがあるので来週にも紹介しよう。

芬陀院で茶を喫す。これがTC−1+RA-III(どちらも初めて使った)の絵である。センシアはIIからIIIとなり、色乗りがコッテリとして私の用途には使いにくくなった。新ベルビア100(あるいはコダックの新しいいくつかのフィルム)も全体に派手でコントラストが強く、どうもいけない...需要の希望が変わりつつあるのだろうが、またしても古いEPRやEPP、EPNを引っ張り出さねばならないのだろうか?少し失望...TC-1は希望どおりコンパクトカメラとしては最良の部類と言えるだろう。ただし、まだ慣れを必要としている=イージーなはずのカメラが案外癖があるのは面白い。

9/21

残暑の街を歩く。東大阪市布施の裏町にて。路地の奥が私有地となっていて「通行禁止」の看板がある。もともと通路だったので誰も気にしてはいないが、私有地は通さないという意識が出つつあるようである。もちろん所有者は土地の人ではなさそうである。 データ:ヘキサーRF+CS28mmF3.5+TREBI 400 

私の事務所の窓。ある日いきなり人が下がってきた。定期的に窓ふき作業があるのだが、いつもぎょっとする。向こう側は最近できた高層マンションである。だんだん空間が狭くなってくる。家でも事務所でもブラインドが好みである=薄暗いのが落ち着くのである。

JR茨木駅前の路地。駅前はほとんど再開発されたが、この一角だけが昔のままだ。人がすれ違える程度の路地で、頭を打つような低い看板の向こうにも店があり、その向こうは人がようやくすり抜けられるほどに狭くなっている。路地の入口にデスクひとつのちっちゃな自衛隊の事務所があり、何をしているのか分からないが職員が常駐している(親しいわけではないのに、ここでかなり立派なカレンダーを毎年貰っていた)。

JR大阪駅にて。向こうが大阪のカメラ小売業界を席巻した「ヨドバシ」である。大阪中で坪当たりのテナント料金が最も高いのがここになったらしい。それだけの集客力があり、勝負はついてしまったと感じている(私は入らない)。

東大阪市布施にて。このあたりは最近ひんぱんに来る。表通りは近代化しているが、一歩裏へはいると昔のまんまである。そして人口の割に商店街が異常なぐらい発達している。お屋敷もまだ残っており、敷地の一部は駐車場に改造している。地元の人に聞くと、本業は大学教授だと云っていた。

布施の駅前から南北に大通りがあり、そこから東西に何本も商店街が延びていく。そしてそのはずれあたりに元地主の屋敷と古い住宅地が広がっている。早い時代に農地は宅地へ変わったのだろう。現在は田畑は見られないが、街を歩けば以前の郊外の田舎の雰囲気は残っている。ともかく電車で都心まで15分で行けるのである。

昔の「新興住宅」木造モルタル塗りのアパートや文化住宅、小さな一戸建てが並ぶ。やはり高齢化したとはいえ大きな商店街を支える人口があるのだろう。木の扉からおばあさんが出てきそうだ。遠くのマンションのあたりが駅である。住宅は密集しているが、高い建物はないため日当たりはいい...どこでも草木が狭い土壌から繁茂している。

やはり旧地主宅の前で。紅い花がくすんだ景色のなかで異彩を放っていた。 夏を終えてこれから秋になっていく。秋から冬には例年のように撮影に出かける機会が増えていくだろう。毎年自分に言い聞かせているが、51歳これから何年できるか分からないが、元気にフィールドへ立てるかぎり旅を続けたいと思っている。

9/20

台風18号の来た日、奈良の桜井へ行ってきた。1ヶ月前からの予定だったので、諦めきれず心配しながらも朝まで待った。幸い風は強かったが天気は晴れており、おそらく夕方の来襲までの覚悟で出かけた。ここは途中の近鉄平端の駅、車内放送で「今後の台風接近で、都合により運転を見合わせることがあります」と、不安をあおる(私にはチャンスと聞こえたが)。

さて晴れたり曇ったりの中、最近コスモスと安倍清明で有名な「安倍文殊院」へ来た。コスモスはまだちらほらだったが、ここでも台風対策のために、庭師達がコスモス畑に網をはって風から守ろうとしていた。その後の被害はどうだったのだろう。

文殊院の池(もとは農業用の溜池だった)のほとりに立つ桜の古木に地衣類がびっしりと生えていた。古い木や岩に宿る植物のような菌類のような、不思議で綺麗な生き物である。

境内の奥に新しく(私は年に1度は来る)弘法大師の石像ができていた。まだ正式に開眼されていないため、白い布で覆われて梱包されていた。クリストを思い出す。

本堂前に団体がやって来た。ほぼ全員が年金暮らしの人々だったが、観光バスの添乗ガイドさんは底抜けに明るい。「こちらで記念写真」「これから僧坊で昼食」と、ひとりで50人ぐらいで案内し、2台のバスで来ていた。食事の後は本堂でお茶を喫するのだろう。ここのお茶は美味しい。

やはり境内の一角に十一面観音像が建っている。毎回いろいろな角度で撮るのだが、今回は後方からシルエットで見てみた。回りを馬蹄形に囲っている壁にも、小さな観音像が無数に透かされている。観光バスの団体以外はほとんど参詣人はいない。台風はそれたのか、風も弱まってきたようだ。

裏山に登ると、稲荷神社があるのだが、それに至る坂道の紅い鳥居が何基も傾いていた。18号より前の台風にやられたのか、2度の大きな地震の影響か(奈良は震度5)土台がしっかりしていないので、倒壊しそうな不安がある。真下はみやげ物屋と休憩所がある。高さがあるため遠くに吉野・大峯の山々が見えている。ここの稲荷はどうも信太の森の狐と関係があるらしい。

さて少し足を延ばして聖林寺へ立ち寄る。雲の流れは速いがまだ大丈夫だろう。寺自体はあまり有名ではないが、ここの国宝「十一面観音像」は素晴らしい。観光地ではないためじっくりと姿を見ることができる。そして回りの景色もすがすがしい。門から北方を眺めると、大和高原と三輪山がよく見える。なんでも観光化計画が進行しているらしい。ここの静かな田園風景もあと何年かすれば変わるのだろう。

本堂から大和高原を眺める。ここの廊下に座ると山の風が吹き抜けて爽やかな気分になる。古来の参拝者もここまで歩いてきて、ここから眼下を見ながら一息入れたことだろう。仏法の難しいことは分からないが、山の神との一体感は充分味わえる。午後二時半、そろそろ風も強くなってきたのでもう帰ろう。  データ:ライカM7+ズミクロン35mm/6枚玉+RA(センシアはIIIになったので、IIを大量に仕入れたが、在庫はそろそろ底を尽きつつある)

9/11

9月末、友人が東京から来た。京都駅にて待ち合わせ=ステージではフラダンスのコンテスト、私はここで友人と会った。地方からやって来た旅行者が、古都の前衛的な建築物に心を奪われているようだ。京都に住む私は、どうしたものか寺社より京都駅ビルを皆に見せたいと感じてしまう。

暑いので京都駅から最も近い(徒歩5分)東本願寺へ行った。門前に「はとまめ屋」が出店を開けている。売り子がいない・・・誰が商売をしているのか疑問符。正面が本堂で仏さんの前に大広間がある。そこでは朝から夕方まで開放されており、私も京都撮影の帰りに時々ここの広間で休むことがある。今日は法事をしていて座敷では寝ころべなかったが、外の回廊部分で1時間も座って話しただろうか。現在修復中。

本堂から。空間が広いので風は吹き抜ける。京都の都心は大阪や東京とはわけが違う・・・これからも守っていきたい。ただし反対運動で頓挫した「鴨川にポンテザールを計画」は支持したい。コンクリートの五条大橋が弁慶が出てきそうな意匠にしているのは陳腐だと思うのである。古い建築物や街並みは保存されるべきだが、新しいモノを古式のフェイクで作っているのは単なる厚化粧にしか見えない。

帰りの京都駅。友人達は満足してくれただろうか。京都案内などは私には不向きなことで、ただ洛中をブラブラ歩くのが好きなのである。歩く先に新幹線の窓口がある。 M6TTL0.58xcanon28mmF2.8xRA

9/5

お盆に行ってきた「ほうらんや」は奈良県橿原市東坊城町で行われる、豊作祈願や無病息災の祭りで、県指定の無形文化財である。8月15日に、近鉄坊城駅の北の春日神社で午後1時から、南の八幡神社で3時から始まる・・・ただし祭りは町の人々のためのもので、段取りよくはいかない。毎年遅れに遅れるようである。
町内の5−6ヶ所からたいまつが来るらしいが、全体の数とどの字かは分からない(今回初めての参加=以後何回か行きたい)が、聞き取りによると5ヶ所ぐらいの字はどちらにも参加し、各々の神社1ヶ所だけの参加の字もひとつずつあるらしい。松明の大きさは高さ3m、直径1.5m、重さ400kg程度と云われているが、見ただけでも大きさにある程度の差がある。今回のレポートはより素朴な春日神社での祭りを中心にしたが、*マークのカットは八幡神社での模様である。

村の中を歩いていると12時20分、中途半端な時間にサイレンが鳴ると、各字の詰め所からてんでにたいまつを担いで春日神社へくり込む。4−500年も続く伝統的な村祭りで、参加者も多い。地方によっては神輿の担ぎ手がなくなって他村や町からアルバイトを雇って続けているところもあるぐらいだ。もちろんそれもならず廃絶となった所は更に多い。聞くと坊城では担ぎ手同士で顔を知らず、「おまえどこのもんや?」「OOんとこの孫です。じいちゃんに云われて大阪から来ました」先代や先々代が他の地方へ出ていても、祭りを目指して帰ってくる、そしてムラの仲間になる。そんな関係があるようだ。そう考えると田舎の成人式が果たしている役割もまんざら捨てたものではないと思われる(荒れる所があるため、最近では不要論すら出ている)。

*このカットは八幡神社のものだが(どうも角度の加減で春日神社では気に入った写真がないため)、神社に練りこくだあと神主によって神事がなされる。村人の声「神主の大山さん幾つになった?」「90近いらしいで」「毎年祝詞に時間がかかって練りが遅れて・・・」、普段は無住の神社で近在から毎年やってきて神事を坦々とつかさどる。御幣の回りを囲んでいる各字の代表に向かって、突如「あんたらそこどいて。私は神さんを拝むんやさかい」、村人は慌てて後へ下がる。

対して巫女さんは評判がいい。神事に参加するおっちゃん達も神妙にお祓いを受ける。玉串奉納とお祓いが各地区単位で順におこなわれるため、確かに時間はかかる。定刻より1時間ほどだろう・・・毎年のことなのと村人たち中心の行事のため、いたってノンビリと進行する。

さて火入れである。神から頂いた神聖な火を麦わらに移す。ようやく真剣な空気があたりに流れる。

火は大たいまつに移され、ここから祭りは村人の手に委ねられた。たいまつは麦わらとナタネわらで作られている。これらの作物は以前から当地で栽培されており、現在も自作されたもののワラを使っている。

各地区順番に境内を練り歩く。乾いたワラはどんどん燃えていき、担ぎ手も観客も暑さと灰と煙の中で異世界へ入っていく。

春日神社境内を時計回りに練るのだが、境内の北東と南東の隅、そして南の鳥居前で止まって激しく練り上げ、差し上げる。何か特別な意味があるらしく、そこだけ鎮守の杜の木が刈り込んである。これを2周回る。

長老達は直接担がないが、祭りの進行を監督し、事故や火事の用心をしている。と同時に普段は会わない他地区の長老格の人と顔を合わせて、しばしの歓談や情報の交換をしている。もちろん祭りの話とは別にである。祭りとは「まつりごと」として、ある種の地域政治の役割を果たしていたなごりが読みとれる。観光化していない当地ではなおさらの事である。

鎮守の杜の中をたいまつは行く。この祭りではハッピや半纏ではなく浴衣姿で担ぐのだが、この頃になると汗と灰かぶりと砂埃でドロドロになってくる。

二周回るとちょうどたいまつの先端部が燃えて、胴の部分へ燃え移る頃である。かなりの重さと速度で回るのと、熱気のために限界はきているが、神の力で動いているように見える。私も取り憑かれたようにシャッターを切る。

*巡行を終えたたいまつを降ろす。担ぐときは大人数だが、降ろすと小人数で火の所へ寄せる。すでに沢山のたいまつが燃えているため熱さは格別である。

回った後は境内中央に安置され、あとは燃えるにまかせる。そして次の地区がたいまつの巡行にかかる。進行にしたがって燃えるたいまつの数が増えるため、更に境内に熱気と煙は充満して「神懸かり」の雰囲気は私たちを古代の世界へ連れて行ってくれるようである。祭りの終わり...また来年も必ず来よう。   ヘキサーRF+トリエルマー+RA、キヤノンG1

7/4

ひょんなところから春の写真が転がり出てきた。南河内の山中にある弘川寺である。行くのが少し遅れたため、かえってシダレザクラなどのソメイヨシノ以外の桜が見られた。これは山門を上がったすぐの鐘堂横の八重のシダレザクラで「まだ」観光化の進んでいない境内に色を添えていた。向こうの村は過疎の山村で観光施設はこれからであろう。この寺は京都の現西行庵に住んでいた西行法師が、旅の途中で客死したとされる寺である。それまではごく普通の山寺だったのが、学者の文書解析で「西行終焉の地」となって、がぜん脚光を浴びることとなったのである。最近は「世界遺産」登録など研究や教育的啓蒙活動によって観光地になることが普通になってきた。

なかなか改修しにくい境内より先に、裏山に観光的な庭造りが始まっている。現在は桃や桜などを中心とした植裁とトイレと駐車場だけだ。この木は花桃で新緑との対照でたいへん綺麗である。観光開発と云っても裏山の一角であたりの山はまだまだ深い。

寺のすぐ外で。もと畑だったところを村人が整地していた。簡易なゲートボール場のようだが、あるいは観光施設になるのかも知れない。満開の桜の下にはベンチが据えてある。段々畑の上の段は梅の果樹園である。この左側が弘川寺、またいつか観光化の行方を訪ねて来てみよう。 Leica M7 x summicron35mmF2/3rd x RA x Canon G-1

6/27

先日、大阪市旭区太子橋の知人宅へ見舞いかたがた1年ぶりに行ってきた。帰りに近くの今市商店街を抜けて駅まで歩いた。古い町で(京阪電車の滝井や森小路へ抜ける)商店街もそれなりに繁盛していたらしい。今は他の町の市場と同様衰退の一途をたどっている。不景気のせいもあるが、人口もそれほど減っていないにも関わらず、少しずつ少しずつ衰えていく。売り手と買い手の商売の方向が変わってしまったのだ。

国道一号線に面した商店街の入口。「スマイルタウン」と少し前の商店組合が命名したのだろう。店は8割がた閉店しており、歩く人も一号線のバス停か地下鉄の駅からそれぞれの家へ向かう人が通り抜けているだけである。確かにアーケードがあり、雨の日やカンカン照りの日などは歩きやすいだろう。店もついでに寄る程度なら入るだろう。住民も町の過疎とまではいかないが高齢化が進んでいるのは間違いがない。通りすがりの人、老人達を相手の細い商売を続けているのである。こんな町でもバブル期には交通の便の良さで地価は高騰した。踏ん張って地上げに対抗して残ったのが良かったのかどうなのか...都市再開発の機運はまだまだ届いていない。

商店街の真ん中で。古い商店街の案内地図がまだ残っている。看板の向こうは駐輪場で、立ち退いた商店の跡地を利用して「ようやく」できたものである。駐車場が必須の時代に、自転車の買い物客に対応するのが精一杯の時代感覚が、地元優先の大儀のもと退潮を招いたと思われる。その裏には伝統的な地主と家主、店子が別々で、複雑な権利関係が交錯して、大胆な刷新が不可能という理由もある。商売の衰退は単純な因果では語れないことを分かって欲しい。私は記録することと同時に、少しでもこんな店でこんな商店街で買い物をしている。もちろん郷愁だけではない。

商店街から一筋出た住宅地で。向こうに見えているのはアーケードのテント。隣接した町も人こそ住んではいるが、老人世帯が多くひっそりとしている。大抵は木造平屋の瓦葺きで、20−30坪といったところだろう。極端に言えば「亜熱帯」的な大阪では放っておくと植物が繁茂し、家も庭も板塀ですら、それほど多くない時間の間に木々に埋もれていく。ここから地下鉄で大阪の中心梅田まで20分かからない。残って欲しいような気もするし、適切な再開発(救済に近いものになる)が必要な気もする。ともあれ大阪の下町風情の探索は続く。  CLE x canon28mmF2.8 x EB-2

6/3

さて4月に続き、5月に大阪市大正区の西部へ行ったときのレポートである。さすがに暑くて前回ほどのロングウォークとはならなかったが、それでも体力の続く限り踏査したつもりである。まずはやはり大正駅、友人と待ち合わせる少しの時間の間に駅の東端の木津川に架かる鉄橋を覗いた。大阪環状線(別名・省線)の象徴の赤い「国電」が天王寺駅方面へ走る。最近は白や青のお洒落な電車も多く走るが、やっぱり「国鉄環状線は赤やな...」今では順法闘争時代のノロノロ運転も懐かしい。この頃京橋駅で暴動が起こったとき、たまたま現場にいた。私ははっきりと覚えている...地肌が見えないほどたくさんの各派のビラの貼られた電車が止まり、国労と動労の組合員がスクラムを組んでスト破りをくい止め、革マル派の隊列が構内で渦を巻き、一般乗降客は暴徒と化し、投石と怒号の中で深夜まで全面的に電車が止まった。大阪へ遊びに行った帰りの出来事である。残念ながら写真を始める前の事でカメラは持っていなかったが「現場に立ち会う」ことの重要性はその時初めて感じたものだった。今でも同じ電車が走っていることが不思議ですらある。そしてドブ川となった(これでも随分ましになった)木津川を相も変わらず船は走る。この川の最上流に私の家はある...船で漕いでいけば家に帰れるのか、それは無理でも川沿いに歩き続ければ、いつか京都の家に帰れることは間違いがない。

大正駅の西へ5分の裏町へ入る。ここはまだ未舗装の道がある。と言っても遅れているわけではない。要するに誰の土地かはっきりしていないために市も手が出せないでいるのだろう。古い町にはこういう道が所々に残っている。大正を訪ねようとしたきっかけも、私の知り合いの今年90歳の船大工が、戦前に大正の造船所に渡りに来ていた話を聞いて、70年前の足跡を見て回りたかったためである。ついでに70年前のライカを持って。

更に尻無川の方へ進むと町は少しずつ、裏町から下町へと落ち着いてくる。たぶん戦災で焼けた後、区画整備されたのだろう。本当に狭い地面から生えたバラが家全体を覆うぐらい元気に伸びている。下町とはいえ人は少ない。以前は大阪における沖縄県人の最大の居住地で有名な町(泉尾)なのだが、どうやら人口は減っているように思われる。もちろん駅周辺の再開発のマンションは建ち並び、全体としては増えているかもしれないが・・・。

若い頃船大工が「ちょっと路地を抜けたところのタバコ屋の二階にに下宿してた」を思わせた。ここでも木は狭い路地を塞ぎかねない勢いだ。しかし住む側は適当な木陰を作り、小鳥なども寄る木立を大事にしている様子である。これも植木鉢程度の土地から生えていて、回りは舗装されている。たたずむのは道づれの友人、到底写真家とは見えない出で立ちでの撮影行である(私もどっこいどっこい)...町に溶け込む。

尻無川に出た。この家並みのすぐ裏が川である。以前は川から直接荷揚げし、ここから陸運であちこちへ物資が運ばれた。その名残のバラック倉庫群である。オジサンに聞き取りすると、30年前ぐらいまではたいそう盛んだったようだが、今はほとんどなくなったようである。それでも倉庫の間から川へ出ると、まだ荷物の積み降ろしはなされているのが見える。緑の鉄骨は尻無川に架かる環状線の鉄橋で、少し「お洒落な」白い電車が見えている。その向こうは大阪ドームと隣接したビルである。その向こうに大きな遊郭街があって「大阪は日当が良かったけど、ガスタンクの向こうに遊郭があって、稼いだ分全部つこてしもた」と言うことである・・・たぶんこの道を歩いていたのだろう。当時は造船所、回漕屋、倉庫、人夫溜まり、彼らを支えるメシ屋や飲み屋などがひしめき合い、とても盛況だったに違いがない。

さて川に出た。ここはだいぶ下流に下って臨海道路の橋の下である。道ではなく、すでに堤防上を歩いている。船からの積み降ろしは下流ではまだ盛んで、右の鉄骨は船が着くと、クレーンが走ってくるレールである。川から眺めると陸の世界とは別の都市の一面が見られる。もう少し下ると「甚兵衛渡船」の発着所だ。船大工はここから渡しに乗って右岸の港区側に面した造船所に勤務していたのである。当人に「まだ甚兵衛は動いているよ」と言うと、ヘェーと感心していた。この渡船は現在8ヶ所ある大阪市渡船の中で、発祥を唯一江戸時代まで遡る渡船なのである。30年くらいまえまで櫓を押していた。

渡船の発着所に着いた。次の出航まで15分、船大工もここで一息ついたに違いがない=なかなか長い(徒歩で30分程度)下宿から職場までの道のりだった。今日の旅はここで終了。渡船の写真はこの次で、また今度の下町の旅からで紹介する。  Leica III a x canon28mmF2.8 x elmar50mmF3.5 x RA

4/29

4月中頃、大阪の町を歩いた。町の桜を見てみたいと思ったのである。コースはJR環状線の大正駅で降り、そこから大正橋を渡って東へ5分ほど歩いた。ここにまだ残るチンチン電車「南海汐見橋線」の始発駅があって、ここから西成区津守で降りて、川へ出る。ここから落合下渡船で大正区へ入り、埋立地の千鳥公園、そして公園内の標高30mあまりの昭和山へ登った。桜見物というと名所・観光地が脚光を浴び、極端な混雑があるが、ごく普通の町や田舎の桜も同じように咲き、春ののんびりとした気分はむしろこういう所がいいのではないかと考えたわけである。 データはM7+summicron35mmF2/6枚玉+EB-2とキヤノンG1である。

さてJR鶴橋から環状線に乗る。一時は地下鉄に押されて乗客は減ったが、国鉄の民営化後徐々に環状線沿線の開発が進み(例えばUSJやOCATなど)、特に休日は人出が多いようである。私の隣りに立っていた青年が、今どき珍しく雑誌のクロスワードパズル(なつかしい響き)を熱心にしていた。さて今日は暑くなりそうだ。

大正駅を降りてブラブラと汐見橋まで裏道を歩いていると不思議な光景に出会った。町の小さなお稲荷さんの前でたった3人の信者と山伏姿の老人と、どうしたわけかジャージ姿の神人が何かの宗教儀礼をとりおこなっていた。御幣を降りおおいに真剣な儀式である。傍らの紅白の桃の花が綺麗だった。民間信仰(アニミズムとシャーマニズムが混淆している)には不思議な雰囲気がある。気楽な気分で山伏と言葉を交わしたことは言うまでもない。

さて汐見橋駅に着く。大通りに面しているが人はほとんど居ない。電車も30分に1本で客は我々も含めて5名、外の喧噪とは異なる静けさのなか、ひたすらベンチで眠り続ける客は前の電車に乗り遅れたのだろうか熟睡していた。もう一人の客も我々と同じく初めて乗るようで、熱心に改札上のすっかり剥げてしまった路線図を眺め、時刻表を書き取っていた...写真家とは別に鉄道のマニアにも雰囲気のいい駅である。駅員は一人しかいない。

駅の外から。外もやはり狭いが公園のように植物が植えられて、うたた寝をしたくなる雰囲気である。春眠暁を覚えず=春に眠いのは生理的現象で当たり前なそうだ。居眠りの人の手にはパンと牛乳の入った袋をぶらさがっている。

ホームに入る。2両編成のワンマンカーだ。画面上の2名と私と友人、そしてあとから婦人がひとりの5名である。以前は沿線の工場へ労働者を運んでいたに違いない。渡船は川沿いの工場労働者の足として乗客が増えている。無料と有料の差か、自転車ごと乗れる船がいいのか、かなり極端な対比が見える。駅構内は駅員の手入れが行き届いていて美しく木々が茂っている。

走り始めた。我々の車両は3名しか乗らない。ゆっくりとゴトゴト走っていく。駅間が短く、すぐに次の木津川駅だ。だれも降りないしホームに人は見えない。私たちが降りた津守駅も同じである。駅は無人であっけなく外に降り立つ。

駅前は西成高校があって、その脇道を川へ向かう。町の一角に高校の農園がある。町の高校なのだが園芸科があるのだろうか。そこの桜が散り始めてとても美しい・・・「葉桜もまた桜」。管理人のおじさん(と言っても私とたいして歳は違わない)が片付けをしていた。静かである。

川沿いの工場街を抜けると堤防沿いの道にトラックがブンブン走っていて極端に空気が悪い。排気ガスではなく砂やホコリを巻き上げるのである。船に積んできた砂利や砂を川から直接あげて、そこからダンプカーで運び出すのである。こんなに空気の悪いところでも競技用の自転車が練習で走っている。この街道の左(川と反対側)の西成公園には神戸の仮設住宅がホームレスのための住宅となって久しい。洗濯物がはためき、木陰に人達が寄り集ってそれなりに「新しい町」は定着しているようである。

木津川の左岸(川の右岸・左岸は上流側から見た左右である)を10分ほど歩き下ると「落合下渡船」の船着き場である。川には固定した構造物を作れないから、市営渡船と言っても浮桟橋である。ワイドだから少し遠く見えるが、本当はほんのすぐ向こうに渡るのである。客は土曜なので工場労働者ではなく近所の人達である。15分に1本、乗っている時間は2−3分だ。川の水もひと頃より汚たなさが減った。対岸の工場は鉄のスクラップ工場である。

対岸(大正区)へ上がり少しばかり歩くと人の暮らしが見えてくる。埋立地の公園では小学生が野球の練習をしていた。私も子供の頃こんなに設備はよくなかったが暗くなるまで練習していたことを思い出す。

千鳥公園の近くまで来た。埋立地の公営住宅は整備されていて環境はいい。そして何となく異国風の植栽が見られる。

さて千鳥公園内の昭和山に登る。たった30m程度だが海抜0mからの登りで傾斜も急である。おそらく天保山と同じく港湾・河川の浚渫の土砂を積み上げた人工の山なのであろう。円錐形の山の頂から360度全開で周囲の町々が見える。公園全体に桜がたくさん植えられ、散りゆく花を地元の人々が楽しんでいた。印象に残ったのは、桜の木の下で散る花びらを、桜色の服を着た姉妹が追いかけていた姿である。芸術を解する両親なのであろう。

さあ親子は桜の海の中を家に帰っていく。空は晴れ、空気は清涼、これに勝るものはない。散歩写真は楽し。

西方向を見ると遙か遠くに海が見える。本当はこの山のすぐ下が海だった。そして更に以前はここも海だった。しかし人々は光の粒子の中、黙って海を眺めている。この雰囲気は「そこに居ないと分からない」性質のもので、写真家はそれの表現におおいに悩むのである。今の私には35mmレンズの画角ですら距離感の圧縮を感じてしまう=28mmがメインレンズになっている昨今。 じゃ今年はさようなら。

5/4

4月の上旬に仕事で1日中出歩いた。ちょうど桜の咲く季節で天気も良く、各地の普通の街角に咲く桜を写せた。毎日カメラを持って歩いてはいるが、珍しく1日でRA-135/36を1本使った。下の写真はその1本36枚の中から選んだ「散歩写真」である。

朝のJR祝園駅にて。ローカルの単線なので30分に1本しか電車は走っていない。すれ違い駅である祝園では5分間は停まったままである。駅の外は土手になっていて桜並木が続いている。

片町線に乗って徳庵駅で降りた。駅前は商人宿がまだ残る田舎の風情のある古い町だが、再開発は進まず、ともかく狭い街並みだ(徳庵周辺は別の機会に紹介する)。駅周辺の町のはずれの神社で桜を撮る。どういう訳か高いフェンスに囲まれていた。もちろん中へ入ることは問題ない。町はずれの神社の向こうは田畑ばかりだったのだが、現在はマンションや住宅、町工場などが建ち並び、すでに駅前より活気があるように思う。境内の桜や鎮守の森は昔と変わらず本殿の回りにそびえている。場所は大阪市鶴見区と東大阪市の境界あたりである。

用事を済ませて、徳庵から1時間半かけてJRを乗り継ぎ、昼過ぎに泉州の和泉砂川駅に降り立つ(快速では次の駅はもう和歌山県だ)。駅前の線路脇にて。大阪南部のこの駅に降りると、いつも暖かいと感じる。木々の緑も深く小径の向こうにも、緑に囲まれた古い屋敷がずっと続いている。

駅の横の踏切にて。線路脇に桜並木が続いている。踏切のカンカン鳴る音と電車の轟音以外は静かな町で、踏切が閉まる前から遠くの踏切の音が聞こえて、もうすぐ電車が来ることが分かるのである。空はうんと高くて桜の花がよく映える。駅前にはいつ来るか分からないバス停のベンチに老人が座り、タクシー会社の小屋に車が3台ほど入っている。駅前のスーパーは撤退し、何年も空き家のままである。

用事を済ませて駅に戻る。ここは大阪側の最後の快速停車駅と言うこともあり、複々線になっている。客のほとんど居ない駅にも桜の季節は彩りがあり、時間待ちの各停の車掌も桜を眺めて気分がほぐれているようだ。

快速でJR天王寺駅に戻る。大阪駅と並んで大きな駅である。ここから奈良と和歌山方向に(そして関西国際空港)線路は延びている。環状線を見ても、ちょうど大阪駅の対角に位置し、鉄道における南の玄関口ということだ。ただし京阪神の要の大阪駅とは異なり衰退していることは間違いない。最近駅前再開発で高層マンションや新しい多目的ビルも建ちつつあるが、どうも古くからの伝統と開発のバランスはとれていないように感じられる(私はこの近所で事務所を開いている)。

さてまたしても電車に乗って、今度は河内松原へ行く。と言っても駅から離れた大和川沿いの若林町である。ここはひと昔前は渡し船があり、大和川の両側に村有地があって、どちらも若林町だったが、のちの行政区画の変更により川の北側は八尾市に、こちら側は松原市に編入された。いまでも地区名はどちらも若林のままである。ここは元は不便な場所だったが、自動車道の発達で、現在「近畿自動車道」「西名阪」「阪神高速」「中央環状線」などの交差する交通の要衝となっている。そのため村は高速道路により分断され、バス停からいくつかの道路を跨ぐ長い歩道橋を歩いて村の中に入ることになる。ここは近畿道上で、右に少し見えているのが阪神高速である。左から中央環状線が合流し、それらに囲まれた狭い三角地に植えられた木々が大きく育って景色を少しはなごませている。

若林町の中へ。ここは古い村で30年以上前に高速道路の整備計画とともにゴミ焼却場の設置が決められて、かなり大きな反対運動が起こった。町会は正式には勝てはしなかったが、建設を阻止し続け、長い年月の末、ついに人口増加や環境基準の変更等により、当局は建設計画を断念することとなった。しかし次に下水処理場の計画が持ち上がり、そのまま反対運動は形を変えて継続している。のどかな村の風景に「詰所」まで設けた運動は続くだろう。私もこの風景を25年見ている(反対運動をしているわけではなく村の中に知り合いが1軒ある)。

「若林町会詰所」この村では1960年代以来、時間が止まっているような気がする。多少の目眩を感じながらも住民には切実な問題があり、現在進行形の公害との闘いがあるようである。村人に聞くと、かつての熱気はもうないものの、処理場の誘致には依然として反対であり、各道路からもたらされる騒音・振動と共に30-40年間にわたって強いられた開発の圧力の犠牲に対する反発は感じとられる。

かつて田圃のあった場所に、交通の便の良さを利して町工場や倉庫群が建っている。最近は不景気のせいと環境問題により、工場より住宅の進出が著しい。年に1回来る程度だが、来るたびに田畑は少なくなっていく。知り合いの地主宅の前にて。植物が好きで自作の温室(普通の建具で作った)を置いている。ヤマブキが満開である。この家でも工場や住宅を建てて賃貸して生計を立てている。さて忙しい一日だった・・・そろそろ帰路につこう。

今回の機材。CLは周知のとおりだが、レンズは借りてきた「TANAR 35mm F2.8」である。ブラックペイントで細かな作りも仕上げも非常に良い。今までに触ったB級ライカマウントレンズでも最高だろう。おそらくライカコピー機時代の最末期のレンズと思われる。直進ヘリコイド、34mm径。今回の撮影はすべてこのレンズで、絞ると非常にいい結果であった。色は暖色系だが「黄色」というより「オレンジ色」に近い色で、コントラストも低く特殊な写り方をする。少しWEB向けに画像処理してあるので差異は分かりにくいだろうが、踏切の写真あたりが最もオリジナルに近い。残存収差も大きく絞りを開けると中央部しかピントが来ないし(これは球面収差らしくF8まで絞ると劇的に改善)、遠距離の描写は特にホヤホヤである(これは絞っても改善は小さく、おそらく非点収差などの横軸の収差だろう)。どちらにしても偏りはあるにしても色乗りは良く、遠距離をあまり撮らないスナップなら、クラシックな味を残してフレア・ゴーストを排除した当時の「面白レンズ」だったことは分かる。案外優等生的な当時のキヤノン、ニコン、コニカ、フジカ、トプコンなどのライカマウントレンズよりいいかも知れない。なぜなら当時の優等生でも現代の最新レンズには勝てないからで、どうせ勝てないならB級の個性あるレンズの方が「他に類を見ない」ために楽しめそうだからである。

4/17

さる4/4、奈良の長谷寺に行ってきた。桜は満開だったが、冷たい雨の降る寒い一日だった。しかしそのせいか人影はやや少なく、湿気た山の空気が情緒を感じさせてくれた。

長谷寺駅は近鉄大阪線の桜井からふた駅の町から近い場所だが山は思ったより深い。 ホームから桜の大木が見えていた。駅前は閑散として茶店が一軒あるだけである。中央に見えている門の向こうは谷底まで一気に下り、川を渡ったところが門前町の始まりである。そして画面の向こうに見えている山の麓を右方向に登っていくと、駅から20-25分程度で寺に着く。便利な場所なので昔から参詣客は多く、門前町の一部には遊郭の跡らしきものもうかがえる。

端から端まで歩くと10分以上もかかる長い門前町を歩く。ここは山門のすぐ前だが、饅頭を蒸かした湯気が冷えた身体に食欲を生む。まだ朝なので人は少ないが、昼頃から観光客が増えてくる。突きあたりが仁王門。

仁王門(重文)に上がる。朝は観光客より参詣人が目立つ、ここは西国三十三観音霊場第八番札所で真言宗豊山派の総本山、全国に末寺三千余ヶ寺(壇信徒300万人)の有力な寺院である。一般にはボタンをはじめとする「花の寺」として有名で、年を通じて人々の往来が絶えることはない。

仁王門をくぐると登廊(これも重文=屋根のついた階段道)と399段の石の階段が始まる。話で聞くよりは苦しくはないが、参拝の多数を占める老人には相当厳しい登り道である。しかし雨風が防げるため、こういう日には楽である。そして長い上り坂の左右に桜やボタン、アジサイなどの花が年を通じて目を楽しませてくれて、まさに「浄土」へ登っていく道である。お遍路姿の人々も目立つ...「同行二人」(お大師さんと二人連れという意味)の旅...南無大師遍照金剛。 「迷故三界城 悟故十方空 本来無東西 何処有南北」という漢詩もある。

息を切らして登りつめたところに本堂がある。左に見えるところまで参拝道は抜けていて、秋になると四角い空間が真っ赤に染まる。中間の右側に南を向いて本尊の十一面観世音菩薩立像が安置されている。日本最大の木造仏で、さすがに信仰心のない私も手を合わせる力を持っている。素晴らしい仏像だ(これも国の重要文化財)。また天井から下がっている長谷型灯籠は登廊や本堂の随所にあり、独特の雰囲気を持っている。ぜひ点灯されたときに見たいものだ。

本堂の正面は、今しがた登ってきた谷と向山を一望とし、幽玄の世界を望ませる。眼下の寺の各院や堂、色々な種類の桜や桃の花、そして山にはところどころに山桜がたなびいている。そしてその向こうには雨に煙る屏風のような山塊が続く。若いふたりにはどんな浄土が見えているのだろう。心から彼らの将来を祈りたい。

本堂内部から南を見る。広い舞台になっていて、清水寺の舞台とも似ている=もちろん長谷寺の景色が圧倒的に迫力がある。人々は皆、しばし座って山々の神に祈る。山岳信仰はそもそも古くからあるアニミズムと密教が習合したものである。

多くの寺と異なり、重要文化財の前でごく普通に法事がとりおこなわれていた。本尊は撮影不可なのだが隣の部屋は問題ない。彼ら参列者の視線のすぐ前に圧倒的な重量感の本尊が存在している。猛烈に暗いがなんとか止まった。

本堂の寺務所にて。坊さんが話し込んでいた。ここは修行寺でもあるため若い僧侶が数多い。石畳は花崗岩(組成は長石が多い部類)で鞍馬寺のものとそっくりである。向こうに見える柱群は供養のためのもので「参り墓」にちかい性質のものである。本堂の裏側ではまだ場所があいていた。何とかしてこのような寺に死後は入りたいと思った。今回の訪問記は何となく抹香臭いと自分でも感じる。この2年ばかり仕事は河川や海浜だが、私的には寺巡りが多いせいだろう。

若い僧が昼食の準備をする。大勢で別の坊からてんでに電子ジャーのご飯やおかずを雨の中運んでくる。今日は法事で本堂は混み合っていて、準備も大変そうである。

本堂の屋根と裏の深い山。雨に濡れてとても美しい。木はおおむね照葉樹である・・・そう言えば本尊もクスノキで、照葉樹林文化と共に密教はやってきたように思う(これは学問的に正確とは言えない=私の感慨である)。

同じ傘、同じ下駄、同じ墨染の衣、反対側から撮影。 柱は桜か梨か、バラ科の固くて目の詰まった耐久性のある木である。

さて12時になると鐘突が始まる。3名の僧が鐘楼に上がり、ホラ貝を吹き鳴らしながら鐘を突く。静かな山域に豪放な音色である。町の寺院の艶やかな鐘の音色とは違い、素朴を通り越した荒々しさを感じてしまう。粗にして野なり、されど卑にあらず(粗野だが野卑ではない・・・)という言葉を思い出した。

この時、鐘楼横の本堂東側からしばし音色に聞き入る。訪れる人は12時に本堂前に居ることだ・・・写真は「その時その場」に居ないとどうにもならない。その不安感から何度も足を運び、調べ、粘るのである。

さて鐘突が終わると狭い階段から修行僧が降りてくる。どこの修行寺でも同じだが彼らの動きは速くて、あっという間に視界から消え去る。私は「この場所この時間」を知っているので、場所と距離を定め、2台のカメラで登るときと降りるとき合わせて6カット撮れた。ポジション取りと移動と画角は完全に頭に入れておく必要がある。

食事や鐘突など昼の行いが終わると修行僧は、彼らの花に囲まれた坊へ集団で戻っていく。速い。概して体格がいいのだが、気のせいだろうか。参詣人も風のように通り過ぎる僧に思わず手を合わせる。 今回はCLE+Gロッコール28mmF3.5+RDPとG−1で撮影。

3/11

久し振りに書く。年始から比較的多忙で、年度末の今その極を迎えている。あと数日でそれからも解放されるだろう。私にとっての春の始まりである。

先日少し用があって大阪・鶴橋へ行った。駅を降りると狭い通路にびっしりと店が入っている。ご存じ韓国食材店を中心にチマチョゴリの専門店や朝鮮料理の店が、JR環状線と近鉄線のガード下を中心にして四方八方に伸びた通路にひしめきあっている。今は朝、ほとんどの店は本格的に稼働していなくて人影もまばらである。それなりに何度も来ているのだが、どうしても迷ってしまう。 今回はどうしてもピントの合いにくいミニルクス(ズマリット40mmF2.4xTREBI 100C)でだましだまし撮った。

商店街を抜けるとごくありふれた下町風景となる。その中で由緒ありげな銭湯を見つけた。黄色い総タイル貼りの小さな風呂屋である。局面にこしらえた玄関前、丸い窓、そして石畳の踏み込み...鶴橋温泉とある。

更に先へ歩くと、目的地の「御幸通り商店街」である。ここは大阪市からコリアタウンと名付けられて再開発が始まっている。古称「猪飼野」と呼ばれてずいぶん昔から在日韓国・朝鮮人の人達の暮らす町である。今日はここの漬物屋さんに仕事の話でやってきた。

約2時間で仕事を終えて西を向いて歩き出す。古い写真館と由緒正しい神社、大阪も古い町でオフィス街を外れると一気に明治時代ぐらいまで遡れそうである。私のような歴史や民俗を扱う写真家にはやりやすい町なのである。写真館の筋向かいの文具店の端に固まって、構図を決めて道を曲がってくる人を待つ。何組目かでようやくシャッターを落とした(人間は必要の範囲でなるべく小さく写すほど良いと思う)。

狭い路地。トタン壁...本来ここは道ではない。長屋の一軒分が切り取られた空間なのである。これで狭い路地奥に車が通れるようになったのである。下町を歩くとこういう光景はしばしば見られる。それというのも大抵は地主・家主がいて、たとえ一軒分の家賃がなくなっても奥の貸家の至便性が良くなれば、減収分を補える「投資」なのである。都市の住民がマンションに住み替えたり、郊外に出ていったりして、すっかり長屋暮らし、文化住宅住まいは減っているようである。

2/9

今回は1/25に訪れた大阪の道明寺天満宮である。毎年1/25には「ウソ替え神事」が行われるが、今年は休日となったためぜひ行きたくて、ずいぶん以前から友人と訪問を決めていた。そして年に1度仕事の都合でこの駅を通過する時、いつも駅前から門前町が見えていて、神事とは関係なくいつか来ようと思っていた。これがその駅前の風景である。大阪で駅前からはっきりとした門前町があるのは珍しい。おりしも雪が降り始めていた。

さて3分も歩くともう山門である。今日は年に一と度の神事があるため人出は多い。もちろん多いと言っても京都や奈良の有名な寺社とは比べられない。雪はだんだん激しくなっていく。

天神さんと言えば梅(菅原道真の紋が梅鉢)である。境内の早咲きの梅のつぼみに冠雪しとても綺麗だ・・・それにしても特別に紅い梅である。向こうに見えるのは露天商のテント。すべてが雪に呑み込まれていく。

人は多く、しかも境内が狭いため露店もひしめきあっている。狭い通路が傘で埋まる。しかし雪のためまったく商売にならず、商品が濡れないようにするのが精一杯だ。かろうじて出す呼び声も弱々しい。傘にもテントにもしめ縄にも重く湿った雪が積もっていく。

「うそかえ祭」の手書きの看板がそこここに立っている。氏子が行事の進行を受け持つのだが、年に一度の大仕事、なかなかうまくいかない。それでもノンビリとした雰囲気は好ましい。有名な観光地での寺社の行事は多くの場合信仰より人集めの印象が強く、地元の人達の(それでも遠くから来る人も増えている)祭りはいいものだ。

神事は午前と午後の2回実施されるが、午後はもっと混むらしい。あさ11時からの始まりに10時頃から人は並ぶ。今年は雪のため待つのは辛い。でも私たちは雪のせいで祭りの風情がいっそう強く味わえたようだ。雪はさらに強くなって鎮守の森が見えにくくなってきた。湿った雪は傘を重くする。

さて「うそかえ」が始まった。本殿前で配られた「ウソ」(ウソという鳥の小さな木彫り)の入った袋を「かーえましょ!」「替えましょう!」のかけ声とともに幾度も誰とでも替えるのである。回数が多いほどごりやく(厄除け、招運、安泰・・・その他何でも)が大きいと言われ、皆は替え続ける。もちろん私も! ああ今日は高いところから鳥瞰で撮りたかった。狭い本殿前でたくさんの人、たくさんの傘がいっせいに渦を巻くように動き出し、袋を替え、雪は降り積む。なんという美しさだろう。人間は本来美しい生き物だと感じた。

上は24mmでこれは35mm。人が混みすぎていて35mmでは足りない。もっとワイドで踏み込みたい!しかし傘や足下の悪さで近づけない・・・ウソの木彫りには何本かは分からなかったが「金」「銀」「木」と書いたものが混じっていて、これはあとでそれぞれ金/銀/大きな木のウソに交換してもらえる。もちろんハズレもそのウソの木彫りは持ち帰れる(すべて無料=今どきは観光地では何でも有料・・・私が子供の頃は京都でもたいてい無料だった)。そして来年そのウソを神さま(菅原道真だろうか、それとも土着の古い神か)に返納するのである。

「うそかえ」も終わって巫女も午後の部にそなえて社務所へ帰る。参拝者も三々五々散っていく。祭りは実際はあっというまに終わってしまい、また来年(今年というべきだろう)が始まる。

本殿へ上がってみた。熱心な参詣者は本殿で菅公を拝み、更に奥でお参りする。神太鼓の音がドコドコ聞こえていて、厳粛さよりとても浮き浮きとする。お参りを終えた人の表情も明るい。背後の闇に「梅鉢紋」が浮かんでいた。

帰り道の参詣者。北野天満宮と同じで酒樽が酒造会社によって供えられている。昔清酒の流通の鑑札が天満宮から与えられていたことの名残である。もちろん当時から実質的な権力を持っていたのではなく清酒の「神性」によるものである。今日は良い日であった。 今回はヘキサーRF+エルマリート24mmF2.8とM6+ウルトロン35mmF1.7で撮影した(SRA=とても不思議な色合いを出す。自然とは言い難いが青と黄色の発色に個性があり、常用フィルムとしては粒子の粗さだけが惜しいと思われる)。

2/7

1月の終わり、大阪・我孫子から大和川を歩いた。まずは公営住宅街である。新築された公団の建物あり、古い府営住宅ありで、もともとの下町が再開発で公営のアパートに変わり、それがまた再々開発で新しい集合住宅に代わりつつある。まさに「ハイライズコンプレックス」である。ここでは古い府営住宅の中庭を撮った。今や老人世帯ばかりで活気はまったくないが、よく手入れされた植木が冬なりに華やいでいた。まわりの古びた灰色の建物との対比は何やら考えさせられる=私は植物が特別に好きで、人々の生活を描くとき必ず花や草木も意識する。今回は新調したsummicron35mmF2/8枚玉と新ベルビア100のテストを兼ねての散歩だった。カメラはM6TTL0.85である。眼鏡付のズミクロンなのでM3としたいところだが、実用性としてはM6がいいだろう。新ベルビア100もいいフィルムで今後も使いたい(風評ではまだ安定していないと言われているが、私は全然そのように感じなかった)。

JR貨物の平野線がまだ走っている。ここは線路脇のもとの駅だろう。広大な倉庫をともなっている。今は道路工事の機器/備品が収納されているようだ。やはり人は少ない。

すぐに大和川へ出た。橋の上から上流を眺める。日本一汚染の進んだ河川というありがたくない評価をもらったが、その後の浄化でだいぶましになってきているようだ。眼下の浅瀬にはユリカモメ(京都ではミヤコドリと呼ばれる)がコロニーを作っていた。比較的近年まで河川敷には雑木や葦が茂っていたが、今は刈り込まれている。まだ進んではいないが、いずれ他の大河川と同じように河川公園となるのであろう。私はそれを好まないが、河原が放置され不法投棄や汚水のたれ流しのような元の状態よりははるかにましである。川が生活の場ではなくなった時、川は荒れる。そこで人工的な環境保全が必要となるのである。

中州の先端部では釣り人が出ていた。まさか食べないとは思うが、これも水の浄化が進展している証であろう。ましてここは本流へ流れ込む下水処理場からの川なのである。とても良い景色である。これで草原ばかりでなく、少しは木々(例えば昔多くあったような河川敷の桜並木など)が欲しいと思われる。国の施策で河川敷に木を植えることは制限され(根が堤防の強度を下げる)古い桜並木は全国でどんどん減っている(桜は比較的寿命が短いため)。昔の川の風景には必ず春の満開の桜並木があったものだが、どうだろう?私はこのところ「港の景観」に取り組んでいるが、その次は「川辺の景観」である。

さてその支流を見てみる。狭くて完全な水路となっている。概してこのような河川は工業廃水や生活雑廃水が流れ込み(本流に直接は流さない)浄水したのちに本流へ落とすことになっている。かなり重要な役割を持っているのである。トタン張りの小屋が面白く写してみた。こんな水路にももう少し潤いのある景色を取り込んでみてはどうだろう。いつか水路・用水の研究もしてみたいと思っている。

1/31

1/10に竜安寺(京都)へ行った。その時の写真は出してないが、同道の友人がいたく感激して「雪の日に撮りたい」と言った。そして次の週、まさに朝から雪であった...私の家でも彼の家でもかなりの雪で大丈夫。と朝8時彼からメールがあり「今京都駅!先に行く」ということである。おっとり刀で出かけたが私が着いたのは11時、しかも雪はない。屋根などに少しだけ残っていて彼が廊下の隅でふるえていた。寒い朝、8時半から座っていたのである。そうしている間に観光客も出てきて、バスガイド(これも懐かしいひびき)の人が説明を始めた。 データはすべてヘキサーRF+キヤノン28mmF2.8L+SRA

竜安寺内部。暗くて肉眼ではよく見えない。ストロボで撮ったが、上の梁の造形が美しい。今回は石庭の写真と駅での2枚以外はすべてカードストロボによるシンクロ撮影である。

竜安寺本堂の廊下。防火用のプラスチックバケツである。これがここ以外にも軒下にたくさん並んでいて不思議に美しい。なぜ?

寺域内の鏡容池にて。池のまわりには木々が鬱蒼と茂り、寺の裏は深い山に連なっている。まさに俗界と聖域の境界に位置しているのだ...このあたりは東に金閣寺、西に仁和寺、大覚寺と山沿いに古くからの名刹が並んでいる。東から紫野、宇多野、嵯峨野、化野(あだしの)...なんと美しい響きだろう。

小雨降る庫裡前の階段にて。ここから石庭に入る。訪れるのは婦人が圧倒的に多い。このグループにはちょっとインテリな男性ガイドがついていた。この画面の向こうに池がある。

竜安寺から町へ出る。旧参道を南へ歩くと「嵐電・竜安寺道駅」だ。京都の辺縁部を走るチンチン電車で(京福電鉄経営)、四条大宮から嵐山、北野白梅町へ、出町柳から八瀬、鞍馬へ走っている。京都市電・京阪京津線のチンチン電車がなくなった今、京都で唯一の路面電車だ。このあたりは単線なので「行違い駅」がある。誰もいないホームで次の電車を待つ。ここから「帷子ノ辻」「太秦」「蚕ノ社」(どれも由緒あるしかも変わった名前の駅)を過ぎて「西院」(サイと読む)で降りた。天候はいぜんとして小雨。

駅を降りるとそこは壬生である。最近「新撰組」でにわかに注目を浴びている。しかしここは市街地のはずれのごく平凡な街並みで、「壬生狂言」以外は観光的なものはほとんどない。新撰組屯所跡の「八木家」も人が住んでいて普段は公開していないが、今の人気で1−3月には特別公開となっているのである。内部は当時のままで解説員の迫真の話しぶりにもおおいに感心。来て良かった。ここの茶店でお茶とお饅頭、屯所入場券とセットで販売、面白い。「新撰組の青色」が案外浅い色だったこと、かなり苦しい生活をしていたことが印象に残った。突撃隊・遊撃隊の生活とその末路はいつでも悲惨なものなのだろう。

壬生から丹波口へ。京都駅からは近いにもかかわらず比較的開けていない。板壁の家と古いままの「正式」の住所表示・・・仁丹の広告が入っていた。この奥から若い衆が出入りしている、いったい何があるのだろう。

丹波口駅のホーム。高架だがあたりは中央市場や学校が見えているだけで人気はない。そのためかホームに人は我々以外はひとりしかいない。山陰本線の京都の次の駅なのだが・・・京都駅まで歩くつもりだったが、天気はますます悪くなり電車で帰る。また近日に来ることになるだろう。

1/24

今年が始まった。1999年にこのサイトを始めて以来、年々多忙になり、いつまで続けられるか自信がなかったが「今のところ」今年は何とか継続できるだろう。 1月に入って1/2-1/10-1/17と連続して京都へ行った。この時の写真から新年の旅としよう。

まず1/2の嵐山・嵯峨だ。天候晴のち曇り、暖かな正月の一日だった。JR嵯峨駅を降りて桂川に向かう道で陵墓があり(当然入れない)その敷地内に少し入れる場所があった。あたりは閑静な住宅地である。見ると小さな鳥居に石造りの墓があった。なんとこんな所にも安倍清明の墓があった。奈良の安倍文殊院が生地の菩提寺であり、平安期の京都で活躍した陰陽家で(二条城・堀川あたりにも遺構がある)、その功績により大阪・阿倍野に所領を得た(ここにも遺構あり)人物で現在でもその呪力は衰えていないようである。狭い敷地だがきれいに掃き清められ、ナンテンの木が美しい。墓石の正面に彼の紋「セーマン」=五芒星形が見るものに力を送っているように思える。ここを進むとすぐに桂川に出る。

桂川に出た。ここは丹波山中に源を発し、保津を下った後ここから京都へ流れて淀川に合流する。上流域では大堰川、亀岡から嵐山までは保津川、そして下流では桂川と呼ばれてきた。往古より利水(農業用水・飲料水)と共に水運のための重要な河川であった。古くは秦氏、近世期では角倉了以による河川改修によって、そして名も無き各時代の川人により守られてきた。戦後の昭和30年頃まで筏流しは行われ、それより以前は丹波の物資(米や薪炭・材木)が、それより以後も保津川川下りの遊船として残っている。 撮影データ=ベッサフレックス+SMCタクマー24mmF3.5/スーパータクマー35mmF3.5+RA/SRA 久し振りの一眼レフによる野外撮影である。24mmはさすがに最後のM42レンズである、絞りF4.5以上なら充分に実用に足る。35mmは少し性能が落ちてF5.6にはしたい(どちらのレンズも開放付近では遠距離でピントがピチンと来ず、周辺の崩れが現代のレンズから見ると大きい。

渡月橋を渡った右岸の中州の公園にて。左岸と比べて観光客は極端に少ない。そのためか昔の観光地の雰囲気が残っている。「行楽」そんな場所である。向こうに見えるのが左岸の奥地の料亭群である。もともとは名家・富豪の別荘があったところで、最奥の邸は藤原氏の末裔近衛文麿の別邸の跡である。白波の立っているのが堰で治水のためのものだが、これにより大きな池のように水が溜まっている。河畔で地方から来たらしい親子がしばしの休憩である。つまらない雑踏の喫茶店で休むより余程気が利いている。

上の場所のすぐ背後に堀があり、保津川下りや嵐山での船遊びの舟溜まりがある。冬は寒いのであまり活気はないが、春夏秋は旧山陰本線を利用したトロッコ列車とあわせて、かなりの観光客が出入りする。観光客や船頭の数は増えているそうである。奥の山並みのあいだを保津渓谷が走り、トロッコ列車で亀岡まで上がって、そこから豪快に下るのである。ぜひ訪れると良い。24mmなので山並みは小さく見えるが現実にはかなりそびえ立っている。

ふたたび左岸から。堰の上のトロ(流れの緩やかな場所)での船遊び。客は少ないが逆に貸しきりで乗ることができる。船は棹で操り、下るときは当然としても遡る時でも思ったよりずっと速い。船頭は船を進めつつ川の名所や歴史を面白おかしく話すのである。まとまれば船での食事も可能である。船遊びは昔からお大尽の贅沢な遊びと決まっているが、それが分からないでもない。今は気軽に誰でも楽しめる、それが人気の秘密であろう。老船頭の話でも「昔より安くなっている」とのこと。50年も前だと貨幣価値が変わっているので換算は難しいが、だいたい今の2−3倍の船賃だったようである。

さて川を離れて昼ご飯である。河畔の料亭の一軒に入り、相場に従って湯豆腐を注文した。ごく単純な家庭料理にも登場するようなものなのだが、やはり冬の京都は湯豆腐である。昔は護岸整備がなされておらず、座敷の真下に川が流れて、船の往来発着が見下ろせたものだが、今は護岸上の道路を隔てての川見となる。残念ながら湯豆腐の店では窓際がとれなかったが、食後に入った店でぜんざいを食べた時は、川と渡月橋を行く人々を見ながらであった。私は京都の田舎に住んでいるが洛中洛外の風情は何ものにも代え難いと感じる。それで友人と共にしょっちゅう来るのである。写真家の友人(大阪人)は何年かかかっても、何十回となっても京都をくまなく回りたいと言い出した・・・それじゃあ私も道連れとなろうじゃないか。

左岸の河岸段丘上に公園が整備されている。大きく見れば天竜寺の寺域であり、その中の宝厳院の庭園に入った。ここまで来ると一般の観光客は皆無に近く、ここに参拝に来る人や、ここを目当てに来る人達だけである。静かでよく手入れされた境内庭園である。紅葉の時期が最もよさそうだ。天候が悪化し、暗くなったが京都の冬らしくて好ましくすら感じる。「腹は北山時雨」のとおり、太平洋側なので全体としては冬晴れなのだが、市街地の北部はしばしば時雨れる。冬場なら多くはないが雪となり、降らないとしても雪雲に覆われることになる。

宝厳院をあとに今日のもうひとつの目標である「落柿舎」を目指して嵯峨野を30分ほど歩く。大河内山荘、野々宮神社を経て、嵯峨野の大竹林を抜けてドンドン歩いていく。道は以前より整備されているが、景色はほとんど変わっていない。もちろん景観保全地域である。本当にこの先にあるのだろうかと不安になるほど観光とは無縁の田舎景色が続く。ふとS&Gの「冬の散歩道」が浮かんでくる。私の生家は過疎地にあり、暗い田舎道を歩くと「早く家に帰りたい」気分に自然になってくる。

ようやく落柿舎についた。全体の写真はどこでもあるので載せない。芭蕉の高弟の向井去来の草庵で、一般に知られる所としては最も「侘び」の色が感じられるところである。これはその玄関。正月のしめ飾り、チマキ、そしてシンバリ棒、壁の蓑傘はこれがかかっていると在宅、ないと不在の印となっていたそうな。ここは茶室ではないが人の暮らせる最低単位の広さと設備であり、それらが俳人をして統一的な宇宙を形作っているように思われる。確かに趣という点では最高である。閉門が4時半で来るのが遅かった分客も減ってゆっくりとできた。

さてもう4時半、管理人に促されて、さて家に返ろうと門に向かったその時、庭に生えている柿の木の実の向こうに京都西山の夕暮れの姿が望まれた。去来の気分になって最後の1枚はシンクロさせた落柿舎と嵯峨野の田舎景色とあいなった。

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2005年のフィールドノート

12/26    11月下旬の仁川の景色。今年から大学へ出講することになった。学んだときも楽しかったが、教えるときもこんなに楽しいとは想像できなかった。大学教授の言葉「大学ってのはいいもんだ」。

仁川の駅前で。空気感のいい町、家がゆるやかに建っていて人は比較的少ない。バスの車列や駅前にありがちな放置自転車の山は見あたらない。以前に隣の小林(オバヤシ)に住む構想もあったが、当時あまりにも不便なので見送ったことを思い出した。

大学までは徒歩で15分ぐらい、うねうねと続く丘の向こうにある。町を歩くのは苦にならない。いつもの下町や田舎ではなく、瀟洒な住宅地を歩いて、物珍しい気分で撮影を重ねた。大きなお屋敷、スペイン風の建物、修道院...確かに人は住んでいるが歩いているのは学生ばかりに見える。この町の大学の先生になるのだから「この町の人の眼に写る景色」に興味が湧くし、すぐに私もこの町の住人になるのである。私の能力の最大のものは「適応力」と思っている=自動的に頭が切り替わる。

大学前へつながる楠通り。道の突きあたりが正門になっている。紅葉が美しい。今回は久しぶりに(2年ぶり)CLを持ち出した。レンズもセレナー35mmF3.5だ。逆光では必ずハレるレンズだが、それに気をつければ問題はほとんどないと言っていい。

正門の近くで。珍しく道路の一部に照葉樹の密植があった。ここで道路が大きく曲がるために狭い直進路との境を際だたせているのだろう。上の写真の突きあたりの木々がこれである。

正門を入ると大学のシンボルの時計台が見えていて、その前に広い芝生が広がっている。植裁やスペイン風の建物など、ある種のテーマパークを想起させる。どうしたわけか乳母車を押した若い母親が何組かいた。学生とも教員とも見えない...たぶん市民講座などを受けに来たのだろう。平和な景色だ。特に若い頃にこういう環境で学び、遊ぶのはとても大切なことと思う。

紅葉は真っ盛り、木々の手入れも良く、綺麗なキャンパスだ。私も食事を中でせずに、生協で買ったサンドイッチを文学部横のベンチに腰掛けて紅葉の下、少し寒いが行き交う大学の住人を眺めながら、おいしくいただいた。フィールドワークで慣れているので屋外で食べるのは平気なのである(むしろ好んでいる)。

時計台下から。中庭を囲むように校舎が並んでいる。裏にある古い校舎には普通の四角い建物が多いが、暫時スペイン風に改修、建て替えがなされている。左奥の礼拝堂は改修中。

さて講義が始まった。全部で130人、一年生が中心だ。内容はこのサイトの「民俗・地理学のフィールドから」「港の景観−民俗地理学の旅」と同じようなものだ。寝ていたり他のことをしている学生もいるが、一向に気にならない(自分も似たようなものだった)。聞いていないようだが、感想文を書かせるとなかなかポイントを突いている。確かに私が学生の時より幼稚な感じがしたが、その分頭が柔らかくて、素晴らしい可能性を感じさせてくれる。彼らの眼に宿る光に「日本の将来もまんざらじゃない」と考えたし、彼らの成長にほんの少しでも手を貸したいと心から思った。

神学部近くの木=これが気に入ったので何枚も撮影した。「すずかけの小径」を教授が歩いていく。いい天気、いい景色、私も勉強を続けたい。

12/24   またまた初冬の景色である。今回買ったM6トラベラーの最初のフィルム1本の中身だ。毎日カメラを持ち歩き、あちこちに行く=仕事とは別に写真を撮り歩くのである。そもそも新規で(新品中古は問わず)カメラを買うと取りあえず1本はテストのために撮ってみる。レンズとは異なり、ボディは味や個性より性能の確保が最大の関心事なのである。技術者の手による計測的な完全性は頼りになるが、それだけではなく使ってみて分かることもあるのだ。例えば圧板やフィルムゲートに問題があってフィルムに傷が付くことがある=これは使わないと分からない。撮影はすべて11月末から12月初めだ。レンズは全部28mmで、キヤノン28mmF2.8/新旧アベノン28mm、フィルムはTOREBI100Cだ。

ある日京都の山間部の園部へ行ったとき。園部には2ヶ月に1回は行く。駅前に雑貨店や旅館などの古い町並みが残っている。その周りの大部分は開発で近代的なマンションなどになっている。京都駅まで普通電車で45分、高速道路も通って充分通勤圏なのである。観光地ではないので駅前の商店や旅館は行商人やセールスマンのためのもので、今でもこのあたりの中心の駅であるため営業は細々と続いている。 キヤノン28mmF2.8

上の写真の奥から逆に向いて撮った。28mmのパースのこともあるが遠い方の看板は上の写真でも小さく見えていて、駅前の路地がそうとう長いのが分かるだろう。かなりの大きさの旅館や店舗が並んでいたことが分かる=ほとんどは閉店している。廃業した店のショーケースにマネキネコその他の過去の店の装飾品が並べられている。 キヤノン28mmF2.8

大阪府枚方市の郊外で。今まで山だったところが大規模に開発された。まず木や竹を刈り倒し、あっという間に土をならした。最近では珍しい大規模かつ大胆な自然破壊だと思われた=ここは枚方の山田池の自然公園の隣接地で、ながく保全され続けた地域なのである。どうしてこんなことになるのかまったく理解ができない。私の家は向こうの山の向こう(京都側)だが、開発は極めて計画的で融和的とすら思われる。どうせ開発するのだから...とは言って欲しくない。人が住み仕事をする以上、開発は必至だろう。しかし節度ある保全も同時に実施されなければならない。 アベノン28mmF3.5旧...F8にもかかわらず、周辺光量の落ちと逆光による真ん中の大きな黄色いゴーストがアベノンそのものだ。しかしピントは悪くない。

大阪市都島にて。大きな紡績工場がマンションに変わるらしい。大川(旧淀川)沿いにたくさんあった(水運で荷は運ばれた)鐘紡の紡績工場はすでに大規模なマンション街になっている。都市から工場が消えて空には青さが戻ってはいる。人も居なくなった。もちろんマンションが建てば「新住民」が入ってくる。マンションブームとなって10年ぐらい経って大阪市の人口は増加している。昔から住んでいる人はもはや少数派で老人ばかりだ。 アベノン28mm旧モデル

上と同じおばあちゃん。同じ方向に歩いていく。表通りから少路へ入るが、すでに視界には高層マンションが目立っている。やがて下町の古い家へ入っていった。昔からの商店街が消えて年寄りには暮らしにくくなったと言う。70歳を過ぎると市営の地下鉄/バスが無料になるため、買い物は地下鉄で隣の駅の天六へ行くらしい。 アベノン28mm旧...周辺の落ちは仕方ないが、歪曲はかなり小さい。非点格差が大きいのか、見かけ上の深度が深い。久しぶりに使って「ちょっと昔のレンズ」悪くない。

さて地下鉄都島の近くで。都島の交差点周辺は、駅ができてそれなりに繁盛している。これといった店はないが、下町の風情が駅前に残っているのは面白い。マンションやビルに身売りしなくても生きていける立地なのだろう。 アベノン28mm旧

別の日天王寺区空堀に行った。もう完全に区画は整備され、路地へはかなり中まで入らないといけない。朝の静かな町にパトカーが出てなにやら職務質問をしていた。事件らしいが例によって私は呼び止められない。写真を撮っても知らぬ顔だ...いつも写真家は現場では透明人間になっているのだろうか。 キヤノン28mmF2.8...古いレンズだが少し絞ると端正な絵を作る。当たりはずれに注意すれば、最新レンズに負けない性能を発揮するレンズだと言える。

阪急梅田駅とJR大阪駅の連絡通路にて。正面のビルが「ヨドバシ」、左の高架は環状線、そのガード下が古くからの食堂街、若い頃はここの食堂や喫茶店の世話によくなっていた。ともかく安価でおいしい(勿論ほどほどに)。久しぶりに喫茶店の看板を見たら、少し値上がりしてコーヒー一杯250円だった。 キヤノン28mmF2.8...絞り開放でもピントはしっかりとしている。

大阪環状線のガード下の店。最近は少しずつ整理されている。この近くに私の御用達の技術者氏が働いている=店員ではないので普段は店に出ていない。下町の遠景に高層のテナントビル、私には違和感のある景色だ。ここから下は新しく入手したアベノン28mmF3.5新タイプで撮影...これの実写テストも兼ねている=テストはチャート撮影もするが、自分の現場でも使って試さないといけない、つまりテストは自分の撮影のためにするのだから。時々評論家的なレンズやボディのテストを目にするが、参考になることもあれば役に立たないこともある。撮影は私の撮影が最も信頼できるし(当然私にとって)、メカは親しい技術者、材料学的なことは研究者に聞いてみることだ。

カメラ店の近所で。ここだけ100mぐらいに巨大な街路樹が並んでいる。ずっと続けようとしたらしいが、すでに予算がなくなったようだ。アベノンは新タイプになって(大きく言うとマルチコートと10枚絞り羽根)コントラストが高くなり、周辺光量落ちも小さくなった。同様の変更をされた21mmより画質の変化は大きい。ただしレンズ構成は同じなので全体に良くなったとは思われない。個体差も大きいためテストせずに買うことは考えもので、コシナ=フォクトレンダーレンズやコシナ・ツアイスの方が少し高くても安心だろう。それでも私は使う=目的がいろいろあるため。

梅田の阪急東通商店街の更に辻を折れた「裏町」にて。簡易旅館が何軒もある。この中には商人宿と連れ込み旅館があるらしいが、ちょっと見かけだけでは区別が付かない。商店街も以前に比べていかがわしい店が増えているようだ。明智小五郎の出てきそうな裏町だ。ここら辺でカメラを構えてじっと待っていると「監視」の視線を感じる。それでも撮影を阻止されることはない。主レンズが28mmなので寄ることが必然だし、主客の構成はとても大事なのである。 こういう場面でもアベノンは力を発揮する。

尼崎市塚口の市民公園にて。終わりかけた紅葉。何と緑色は人工芝!冬になって地面の草が枯れても緑は欲しいらしい。アベノンの個性=逆光になるとゴーストやフレアが盛大に出てくることと、それがどんなモノか現像しないと分からないスリルと偶然性。これがいいと割り切れる人はアベノンを(時としてsummilux35mm旧)使っていいのだろう。私は火線は出ていいと思っている=ピントの来ないレンズがいけないレンズなのである。

公園の表口にて。かなり広くて温室まで併設されている(ちなみに無料)。私は昔から植物園や動物園、博物館から市民会館、緑地や公園、そういう公共物が大好きで、しょっちゅうブラブラと歩いている...いくつまで続けられるか、毎日ブラブラと町や村を歩く。 家でもブラブラとして寝ころんでいるのが趣味である。生産はまったくと言っていいほどしてはいない...ポートフォリオだけで生きている。

12/7    大阪環状線の旅。今回は鶴橋から玉造、森ノ宮を経て京橋までの写真散歩である。  オリンパスE300

今回は鶴橋の絵は載せないことにした=鶴橋は鶴橋だけで出したい。さてそこで玉造の商店街の入り口だ。右が環状線の高架で、これに沿ってアーケードが続いている。30年も前に数ヶ月隣の森ノ宮に住んだことがあり、この商店街をたいした買い物もせずにブラブラ歩いて見物していた。その頃も寂れつつあったが、今でも似たような状況らしい...反対によく保ったと感じる。土曜の午後、人はあまり歩いてはいない。

鶴橋と玉造の中間あたりの環状線高架下のスッポン料理店で。開店はまだだが、水槽に何匹かのスッポンが泳いでいた。どうも恐い顔をしていて、プレゼンテーションすると余計入りにくくなるように感じた(もちろん食べたことはあるが...)。まわりに歩いている人は少ない。小さなオフィスや古くからの住宅が並んでいる。

やはり玉造周辺の駐車場で。倉庫の壁には意味不明の落書きがしてある。一部では何かアートであるがごとき意見もあるが、上手い下手は別として犯罪(もしくは犯罪的)であることは間違いがない。環状線の高架下は店舗や倉庫、時には住宅として賃貸で利用されている。JRの本音としては出ていってもらって有効利用をしたいようだが、国鉄時代からの営業権や借家権などにより簡単にはいかない。適正な家賃をとっているのか気になるところだ。今は民営化した国鉄時代の赤字は税金で埋められていることは忘れない。もちろん私は納得しているが。

玉造を経て森ノ宮への途上。すでに区画整理のなされた住宅地になっている。あまり多くの人が住んでいるとは思えない。郵便局も民営化が決まったが、本当に僅かな郵便物を抱えて回ってくれるのだろうか...過疎地だけではなく都市の郵便ですら疑問だらけなのである。郵便貯金と簡易保険のお金だけが焦点なのかと勘ぐりたくなる。子供の頃、特別仕様の郵便カブがカッコ良かった。

森ノ宮日生球場跡地にて。都市の真ん中に巨大な空き地があった。最初は何なのかさっぱり分からなかったが、ぐるりと一周して私の住んでいた近辺に来て思い出した。確かにマンションの10階(高いところに居住)から近鉄が試合をしている球場を眺めていたのである。そこがポッカリと空き地になっていて、一部を駐車場として市が管理をしている。

大阪城公園に入る。以前はもう少しくらい雰囲気が残っていたが現在は市民の公園になっている。キャッチボールやノルディックスキーの練習が目に飛び込んでくる。今年は紅葉が全般に遅かったようだが、ここではイチョウを中心に手入れが行きとどき、何とはなしに西洋的な美しさがある。

公園中央の噴水前で。必ずしも位置的に中央ということではなく、ここを中心として放射状に道が延びている。子供とおばあちゃんが(縁戚ではない)ハトにパン屑などをやっていた。さて奥からマーチングバンドがやって来た。

どうやら兵庫県から来たらしい。高校生達のバンドだ。明日の日曜、大阪でコンテストでもあるのだろう。最後の仕上げの練習のようだ。青い空、緑のイトスギ、そして紅葉の落葉樹に白いスーザーホーン、マーチングバンドはいいものだ。その音圧は素晴らしいものだ。

ブラブラ歩いて大阪城のお堀へ出た。ここでは若者達のグループが踊りか演劇の練習をしている。若者の文化は健康的である。「近頃の若者は...」という声を時々聞くが、そうは思わない=私だって振り返ると似たようなものだったと思うし、どう考えても彼らが次世代を担うのである。せいぜい人生を楽しんで欲しい、そして柔らかな頭を生かして新しい機軸を造っていって欲しい。天守閣が30年前と同じに若者(当時の私と同年齢)を見下ろしていた。

お堀の傍で。子供が林の中から飛び出してきた。チェシャー猫の出てきそうな都市の森である。ここは戦国の時代から何度も血なまぐさい戦のあった場所である。若い頃、夜にしばしば歩いた...ナイトアウルの出てくる森、悪くない趣向、今度は夜に来よう。

公園とOBPの間に観光バスが入ってくる。警備陣もノンビリとしたもんだ。

私と歩く人、そして書き割りのようなビル群のトリプルイメージ...以前には存在しなかったOBPのオフィスビル・コンプレックス。昔を知る私には落ち着かない空間が広がる...以前は片町の貨物駅と日通の広大なコンテナヤードがあった場所だ。そもそもJR片町線(現学研都市線)は枚方や祝園の弾薬庫と都心を結ぶ軍事鉄道で、それを平時は近郊作物を運ぶ路線として利用していたものである。現在は関西文化学研都市とOBP、そして阪神間や伊丹、丹波篠山方面をつないだ重要路線となっている。私はこの路線の終点近くに住んでいる。

OBP内のホテルにて。高層ビルの間に人工の森が造られ、不思議な景観を作っている。私の立場から考えると不謹慎に聞こえるが案外居心地はいいのである。ここのカフェは特に気分が良かった・・・おそらく空調で温度や湿度以外に空気を清浄しているようだ。ビルはミラーグラスのような窓で囲まれ、鏡の国に来たような面白さを見つけた。ここのところこういうビルを見て、なぜか気分がいいのである。素通しの実像と反射された虚像の区別が分からず、そこへ色々な方向からの光線が交差する...またまたチェシャー猫が出てきそうである。

OBPから京橋駅へ。柳の並木が綺麗だ。このような晴天の夕暮空が好きで、完全に暗くなるまで人気のない街を歩いた。もちろんシンクロさせている。

さて駅ビルへ入った。アメリカナイズされた店舗やインテリア、そして東アジア的な人達、日本にいるのだから当たり前だが、ここはOBPや大阪城公園、さらに古くからの下町に比べて居心地は悪い。これから電車に1時間近く乗って帰る、昼寝にちょうどいい帰路だろう。次の環状線の旅は桜宮から天満となる(12月)。これで2004年1月、芦原橋から始めた環状線の旅は、まる2年をかけて一応の終わりを迎える。その次は何をテーマに町を歩こうか?!

12/5  11月の半ばに奈良県の最奥、下北山村まで行った。データ:ベッサR2A+Summaron35mmF3.5+EB3...ピントは充分細かいのだが晴れていてもトロンとした絵になる=これでも画像処理でコントラストを上げている。

奈良の山中、川上村の大滝ダムで。大きなダムでダムや河川の水利・水防の資料館(もちろん無料)まで併設されている。ダムの底からダムの上まで螺旋階段の歩道があり、古木の周りを回って景色を楽しみつつ資料館へ到達する=なかなかの趣向だ。最初は分からなくて「古木を保全した」と思ったが、実際はプラスチックでスーパーリアルに造ったものである。最近は行政や電力会社の地元や観光客への気の遣いようは格別だ。もっともこれらの経費も税金や電気料金でまかなわれるので良いことと単純に考えてはならない。しかし「気を遣う」ことは重要で、開発と保全のバランスや情報の開示・啓蒙にコストはある程度かけなくてはならない。開発は必至だがコンセンサス(もちろん自然科学的なことと同時に人文科学=つまり文化的なことも含む)はなにより力を入れるべきことなのである。

大滝ダム湖にて。ダムは試験的に満水にしたが、法面の崩落が起こり山腹の集落に危険がおよんだ。現在修復工事中となっているが、最初の工事に問題があったことが明らかとなり、崖と共に「コンセンサス」も崩れ去った=補償や再工事は進んでいるが、ダムの操業開始は大きく遅れるだろう。私は頑固な環境保護派ではない、しかし開発と保全は同時に進行されねばならないと考えている。保全のキーは単に自然の環境保全ではなく、歴史・文化的な景観保全だと思うのである=結局、開発にせよ保全にせよ人間(あるいは人間の暮らす社会)のなす行為であり、そこにある種のコンセンサスを得ることになると、そして地元のみへの利益還元・誘導が単純には許されない昨今では、「川は皆のもの」という思想が採り入れられるべきと考えている。

今回の最終目的地、下北山村の不動滝にて。ここまでは若干の観光客が来る。今どき4X5で風景を撮るアマチュアは珍しい=私は中判ですら面倒になっている。谷の向こうの断崖に滝が落ちていて景色は雄大である。景勝地の付近は整備がなされていて危険性は少ない。

湿度が年中を通じて高く、前鬼への林道のコンクリート擁壁の表面も苔むしている。日本でも最多降雨地帯である(夏の雨、冬の雪)。山は手入れのされていない植林地帯と雑木林が混淆していて荒れた印象がある。もちろん自然林ではなく伐採後の二次林である。人手が入らない植林帯はなかなか元には戻らない。自然に還るためには何百年かかかるだろう。確かに木々に囲まれているが私には「自然が一杯」とは感じられない。多くの場所で山肌の崩落が起こり、道は陥没、岩がゴロゴロ落ちたままになっている。見た目以上に危険性があるだろう。

前鬼へのトンネルふたつ。車が一台やっと通れる程度だ。山が急峻すぎて道はこれ以上の幅は期待できない。ここも世界遺産に指定されているのだろうが、あまりに山が深すぎる。これは谷の国道への道で、背後に不動滝、前鬼への山道がつながっている。この道は元々修験道の道で、前鬼地区の人々は鬼の子孫とされ、開祖役行者(役小角)との約束で、古来より修験者の宿坊の世話を代々してきた。それもほとんど絶えてしまって、今は一軒だけが残っている。最近、当代で終わるとされていた前鬼に跡継ぎが決まったと聞いた。とりあえずあと数十年は伝統の火は消えないだろう。

北山川にて。すでに川は和歌山県側へ流れている。突然川の中州のような場所に強固な堤防を築いて新興の家並みを見つけた。奥に少し見えているセメント工場(石灰石を彫っているのか?)の労働者のための住宅らしい。どちらの施設も治山・治水の上では少し問題がある。全体に一部の山は荒れているように思う。

帰りの道にて、川上村の大迫ダムの上から見る。ここでは奈良・吉野方向へ流れている。分水嶺を越えたということだ。山また山の連続だが、どうも吉野川水系川の方が山や川は整備されている。

帰りの電車で。橿原神宮駅ではさすがに吉野/熊野からの修験者の乗り降りが目立つ。ベッサのAEは難しい条件でもなかなか良く追従する。

*下北山村教育委員会の解説*   村指定史跡 前鬼山由緒
役の行者(小角(おずぬ)が大峯山を拓いた時(白鳳三年・676)その弟子、義寛と義賢の夫婦が修験道の行場守護の命を受け、この地(前鬼)に住みついた。(前鬼村誌)
この夫婦に五人の子(五鬼)があって五鬼熊(行者坊)・五鬼童(不動坊)・五鬼上(仲之坊)・五鬼助(小仲坊)・五鬼継(森本坊)と称し、代々館を構え連綿として、この修験道の聖地を守護して来たが、時代の変遷と共に明治の末期から、つぎつぎと姿を消し、今は、わずかに五鬼助(小仲坊)だけが残って、単身、千三百余年の法灯を護っている。

この文章では弟子となっているが、伝説では生駒(ここも役行者の本拠地のひとつ)の鬼を調伏し、降参した鬼が役行者に従ったこととなっている。葛城山や吉野、熊野と同様に山岳に住む独立性の高い諸族を平定従属させていった歴史が読みとれる。また前鬼・後鬼は呪術的な存在=シャーマンともされる。思えば神武東征で難波の津で長脛彦にうち破られたあと、熊野から八咫烏(やはりトーテム的なシャーマン)の助けで大和へ攻め込んだという神話もある。古代においては山岳民の動向が後の時代より重要な意味を持っていたことは間違いがない。いにしえの列島には、まつろわぬ民やシャーマンとその眷属が跋扈していたのだろう。それらが何を意味するのか、なぜ伝承が力強いかに関心がある。  

12/3   1ヶ月ほど前に奈良県の曽爾村へ行って来た。ススキで有名な曽爾高原である。高校生の頃、地学部の地質調査で来たことがあるのだが、ハッキリとは覚えていない(35年前)。しかし同級生の親の出身地だったため、その人に何度か昔話は聞いていた。場所は奈良県と三重県の境で室生や赤目、名張などと近接している。以前はそうとうの山奥で国境の村として知られた場所だったらしい。くだんの友人の親の話によると奈良からの伊勢参りの宿場のような村で、曽爾高原の倶留尊山(土地の人はクロッサンと発音していた)を越えると伊勢まで下りの道だったそうな。曽爾川筋には戦後まで山窩のセブリがあつたという。この川筋には鎧岳、兜岳、屏風岩などの断崖の壮大な景色が続き、現在は多少不便とはいうもののハイキングを中心とした来訪客も増えている。そのなかで小太郎岩(地元では「小太郎落とし」とも言う)の伝説が印象に残っている。曽爾川東岸にある200mの垂直の断崖で、その昔伊賀の豪族道観長者の息子、小太郎が財産を狙う義母にこの岩から突き落とされそうになったが、反対に義母が誤って落ちたという話である。ここまではJTBのガイドブックに載っているが、聞き取りでは落ちたのは小太郎だという悲話もあるし、ここの岩が赤いのはその時流れた血で岩が染まったとも言われている=落ちたのは義母か...勧善懲悪、小太郎か、何を暗示しているのか?何百年も語られる伝説や逸話・説話には直接的には語られない歴史が込められている。私のこれからのテーマのひとつが「エピソード」(挿話・逸話)である。ストーリーからエピソードへの展開、HCBの言った「・・・側面が大事なんだ。ものごとの枝葉末節が本質となる・・・」を思い出そう。 データはLeicaMP+eimarit28mm/3rd+EBX/EB3...素晴らしい性能を発揮する。

曽爾高原の広くない駐車場。ここで地元の産物と駐車料金の徴収をしている。道が狭くて突きあたりなのと、駐車場が狭いためススキの季節の土日は大渋滞となる。モータリゼーションと観光、これは考えなくてはいけない問題だろう。奈良や京都ではマイカー締めだしの方向だが、全国的には道の駅建設などマイカー歓迎のムードも強い。いい天気の平日に観光地にはおもむきたい=しかし私は可能でも一般的な仕事をしている人は難しい。

駐車場は中腹にあるため少し歩くと、もうススキの原に囲まれる。元がどこから始まったかは分からないが、現在は明らかに木々を刈り払ってススキを育てている。35年前来たときはもう少し野性的であったと思う=と言ってもやはり草原だった。ススキの大群落の中に何条か道が延びている。これらの道の1本が伊勢への間道だったということである。

ススキの背丈が高いため近くへ来ないと人の姿は見えない。突然車椅子の人とその家族が現れて驚いた。しかし高原中腹の道は緩やかなので、身体が不自由でも充分堪能できるだろう。

高くなるとだんだん勾配が大きくなり階段が付くようになる。地面がやや滑りやすい粘土質の場所があるため山の尾根(尾根の向こう側は森林である)までの半分ぐらいは木や石の簡単な階段である。平日でも人出は少なくない。秋の休日には人で埋まる。

半分ぐらい登ったところで勾配が緩む場所があり、少し休憩。28mmなので遠くに見えるが、実際は正面に兜岳や鎧岳、屏風岩の景色が壮観である。谷底に小さく曽爾村の家々が見えている。最近はデジタルカメラが普及して記念写真も失敗なく撮れるようになった。しかし老眼でのちっちゃなモニターを見ながらの操作は不便そうである。ともあれ写真の普及は良しとしたい。ただしススキ原での記念撮影はタイミングが難しい=むき出しの山肌なので風が強く、どうしてもススキが顔にかかってしまうのである。

また少し登った。眼下に周囲500mの「お亀が池」が見えている。ここにも伝説がいろいろあるが、ここでは省略する(検索してみよう)。昼ご飯の時間になったので弁当を広げはじめる。やはり平日なので主婦や老人のグループが多い。いい景色、少し寒いが頬を撫でる山の風、おいしい食事となる。ただしこの向こうは急斜面(池の向こうの斜面と同様で勾配は30度はあり、実感としては「壁」)で、樹木がないため滑落すると下まで転げ落ちるかも知れない。更に怖いのは道の岩が転げ落ちたときは途中で絶対に止まらず、9.8m/秒の二乗で加速(転がるときの摩擦で減速はされるが)し、下の人に当たると大怪我するだろう。こういう樹木のない急斜面では、特に観光地の場合は、どうしても遊歩道付近の岩や石は徹底して取り除くべきである。

ここでもアマチュアカメラマンの砲列はある。場所が広いので目立たないだけである。夕陽が兜岳などの山塊に沈んでいくので、ススキと山塊の対比を狙っているようで、毎年何度も来ているらしい。まだ2時頃だが、日没まで場所を取りつつ写真やカメラの話で盛り上がっている。少なくとも都市の喫茶店でミーティングしているよりは健康的な気がする。諸氏、野山へ出よう! 尾根はまだまだ上だ。上まで行くと展望は開けるが、斜面が急すぎてススキを前景に撮ることはできない。尾根への道は何本もあり、体力に応じて選べる・・・ススキ原なのでどこでも踏み分けられるということである。

帰りは香落渓から名張へ抜けた。香落渓は以前からの景勝地なのだが、なぜか渓流も山も少々荒れていた。山の維持はたいへんである。曽爾から名張への路線バスとすれちがったが人は乗っていない。この渓流の落ちるところが青蓮寺ダムである。ここでも観光地としての整備が少しなされているが、あまり冴えない雰囲気である。そんな場所だからかバイカーばかりが目立つ。ダムを越えると名張の市街地だ。

11/15  9月から11月にかけての秋の散歩写真である。まとまってフィールド写真を上げられないため、そうとう雑然と並べた。これからはカジュアルでポップがいい。

9月、大阪市京橋近辺の下町にて。レールはJR城東貨物線。寝屋川の堤防上の微高地に旧街道が走る。貨物線の脇にペットなどの寺があり、その事務所が町のモータース内にあるようだ。不思議な光景である。10分ほど居たが何組もの参詣人が出入りしていた。 MP+CS28mmF3.5+EB3

10月、信楽の陶器の焼屋(信楽では作家的な工房以外の窯元をしばしばこう呼ぶ)の庭先にて。たいていは家と一緒に工場があるため、畑や果樹なども植えられていることが多い。 ベッサR2A+コムラー28mmF3.5+EB3...このレンズはオモチャレンズとは言え(私の定義なので深慮は無用)とてもよく写る。色が黄色いのである程度色補正している。

10月、信楽にて。山中の土砂採取現場から、信楽盆地を見下ろした。土砂と言っても陶土ではない。全般に信楽の山は雑木林が多く、陶器を焼く窯には適している木々が多い。同時に、それ由縁にこのような荒っぽい開発(開発と呼ぶにも気が引けるが)も多い。 ベッサR2A+コムラー28mmF3.5+EB3

10月、信楽にて。小さな河川の小さな河川工事。先日吉野熊野の山へ行ったが、山奥でも河川工事は着々と行われ、この川のような小川でも河川工事は実施される。ひとえに治山・治水・利水が日本の河川行政の根幹という歴史が大切かということである。河川文化を研究するにつれ、その考えは深まっていく。人と自然の関わりの大きな接点のひとつが川にあると思われる。 ベッサR2A+コムラー28mmF3.5+EB3

11月、またしても大阪・梅田のややジャンキーなブティック街で。ディスプレイデザインがポップでいい。 ベッサR2A+コムラー28mmF3.5+EB3

11月初旬、大阪市天王寺区清水谷公園で。ずいぶんと寒くなったが近所の学生が投げる・打つ・捕るの簡単な野球練習をしていた。今年は暖かく、ふじ棚もまだ青々としていた。 ベッサR2A+コムラー35mmF3.5+EB3...28mmと並んで、このレンズもオモチャ的な味を越えている。変形ガウス5枚玉、回転ヘリコイドの簡単な構造のレンズだ。やはり黄色玉。

11月初旬、天王寺区空清町にて。以前は町工場が多く建っていたが(特に印刷関係)大阪市内には珍しい高台の立地のため、震災以後地盤の強固さとも相まってマンション街になってきている。それでも工場のオヤジ一人、まだまだ頑固に操業を続けていた。 ベッサR2A+コムラー35mmF3.5+EB3

10月、天王寺区空堀町にて。工場やアパート、駐車場などが建てこんだややこしい町並みに一軒の洋食屋があった。以前にも一度入ったが、その時と同じ夫婦(少し年をとった)で営業していた。前はトンカツ、今度はチキンカツ定食を食べた。とてもおいしい=下町に置いておくのはもったいないぐらいだが、たぶんそれが店の信念なのだろう。狭い店内にはモダンジャズが流れていた。客は私だけ、テーブルに置いたLeicaが妙に似合う店だった。  MP+CS28mmF3.5+EB3

10月下旬、自宅近所の住宅地にて。私の住む京都の田舎町でも年々開発は進む。山の中腹を造成し、今は点々と家が建っている程度だ。田舎なので価格は安い。 ベッサR2A+コムラー28mmF3.5+EB3

10月下旬、上と同じ場所で。まだまだ赤土の地面ばかりだ。以前から開発の進行の写真を撮り続けている。山なので寒いが、空気は澄んで空が高い。「我が町」「我が友ライカ」だ。 ベッサR2A+コムラー28mmF3.5+EB3

10月下旬、同じ場所。荒野の中に工事用の電力制御の小屋がずいぶん以前から建っている。当然かも知れないが頑丈な建物だ=普通は仮設の適当な施設なのだが、ここは工事が大規模で長期間かかるためだろう。10年前からあるが工事は劇的には進んでいない。たぶんあまり売れないのか、工事費に先行コストをかけられないのだろう。 ベッサR2A+コムラー28mmF3.5+EB3

10月下旬、若狭高浜町にて。町はずれの海水浴場の駐車場で昼食(旅には弁当を持参する=店の無いところが多いため)をとった。荒れ始めた日本海、縮こまった南方系の名を知らない植木、ドアの壊れた仮設シャワー室、わびしい風景だ。若狭には特別の気持ちを持っている。向こうに見えているのが若狭富士と呼ばれている青葉山、25mmワイドなので小さく遠のいているが、実際は大きくそびえている。 ヘキサーRF+biogon25mmF2.8ZM+RAIII...25mmもZMレンズは完璧だ。ただしeimarit24mmF2.8も健闘していて互角と言っていい。

10月下旬、信楽の西はずれ朝宮にて。以前は朝宮村で独立した行政単位だった。今でもなかなか対抗意識は強い。信楽の焼き物に対し、朝宮茶は最上等とされ、粋人の間では全国区だろう。これは茶畑ではなく販売用の菊の畑である。 ヘキサーRF+キヤノン25mmF3.5+RAIII...不思議なことに古いキヤノン25mmでもF8に絞ると、周辺部は捨てたとしても、それ以外は充分最新のレンズに対抗できる。要するに最新レンズの良さは絞りが開いていても、周辺部でも、そして低コントラスト下でも安定した描写が得られるということなのだろう。

10月下旬、信楽にて。農業用水はいつも水はけよく清掃されている。山の湧き水を引いた山間部の米はおいしい(私も信楽米を買っている)。水路の研究もしてみたいものだ。 ヘキサーRF+キヤノン25mmF3.5+RAIII

10月下旬、信楽にて。窯元の傾いたような作業場と大きな柿の木。裏は竹藪、空は青天井、本当は寒いが暖かそうな絵になった。 ヘキサーRF+キヤノン25mmF3.5+RAIII...25mmレンズの写角と距離感は好ましい。3mm差の28mmは常用レンズ、たった4mm差だが21mmはどうしてもなじめない。

10月下旬、信楽の友人の窯元にて。すぐ裏が山である。建物は昔の小学校の分校の講堂を移築したものらしい。移築と言っても最近の流行りでしたのではなく、先々代の時代の話である。窓は明治の当時のまま、柔らかな光が部屋を満たす。ヘキサーRF+キヤノン25mmF3.5+RAIII

11月上旬、富山・黒部川、愛本の堰堤に戻ってきた。橋は堰堤下に架かる最新の吊り橋で、川の向こうが北国街道愛本宿、左のセバトに堰堤がある。この橋の何世代か前に、日本三大奇橋の「愛本の刎橋」があった。ここでは紅葉は真っ盛りである。 MP+biogon28mmF2.8ZM+RAIII...biogonは逆光にかなり強いことが分かる。画面内に太陽が入っているが、フレア/ゴースト/画質低下は最低限だ。画面確認のできないRF機にとっては心強いレンズシリーズだと思う。すでに25/28/50mmと3本持っているが、いずれ全部持つことになることは想像に難くない。

10/24  今年は紅葉の綺麗な写真を撮りに行けそうもない。1回のチャンスぐらいだろう。そこで昨年の写真を掲示しておこう。

京都でも比較的有名な紅葉の名所「東福寺」へ行った。他にも高雄や栂尾など名所は数々あるが、東福寺は交通の便が良く、大盛況であった(紅葉のシーズンに行くのは初めて)。 京阪電車とJRの東福寺駅は同じ場所にあり、電車が着くたびに大量の観光客が狭い改札からはき出される。普段は町はずれの小さな駅なので改札もホームも信じられないぐらい狭い。駅前も古い街道の一角にあり、何も特別な施設はない。自動出札機も少ないため臨時の切符売り場が設けられ、帰りの人と降りる人で混雑しホームから転げ落ちそうである。

寺域の全体は小さな谷を囲むように回廊が尾根にめぐり、その谷にたくさんのモミジを中心に紅葉する木が植えられている。この谷を洗玉澗という。もちろんこの回廊の外に本堂その他の寺院はある。紅葉だけが有名だが、なにしろ5万坪もある広大な寺域で、臨済宗東福寺派のの本山で25もの塔頭寺院がある、京都でも5本の指に入る寺なのである。さて回廊の最初は観光写真にも多く出てくる通天橋を紅葉の向こうに見るポイントである。ここで最初の混雑がある。しかしさすがにお寺のことゆえ皆整然と見ていて、テーマパークとはまつたく異なる。

洗玉澗に降りてみる。紅葉はちょうど良い時期で、ほんの少し緑が残っていて、枯れている葉はまだない。木の下は観光客で埋まっているのだが、木々の手入れが良いからか、至近距離でも葉の陰に隠れてあまり見えない。

洗玉澗の道は狭く、それほど整備もされていない。それが趣があって銀閣寺などより良好。管理されて歩くよりウロウロしたい、それでの混雑は仕方ないと思う。

例によって「写真撮ってください」だ。同行した友人が撮っているところを並んで撮った。さすがにファッションカメラマンなのでいい表情を引き出す。よく「最近の若い者は...」と言われるが、何といったって若いってことはいいことだと思う。私も若い頃は似たようなものなのだった。

通天橋から最初の回廊を見た。この絵ではややくすんでいるが、本当はもっともっと鮮やかである。

また谷へ降りる。人はどんどん増えて撮影のために立ち止まるのが困難になった。これも崖っぷちの危ない場所から撮った。なぜか人々は黙々と歩いていく。

やはり若いアベックは混雑とは無関係に歩く。なんだかここだけ甘い(しかし重い)空気が流れているように思った。  キヤノンG1デジタル

10/21

ミノルタTC−1を毎日持ち歩いている。と言っても2ヶ月でフィルム1本ぐらい撮るだけである。今回は8月の中旬から10月の中旬までの「道連れ写真」を紹介しよう(36枚撮りのポジ1本からセレクト)。フィルムはEBX=彩度は高いが少々濁りがあってこの手の写真には良さそうだ。

8月、JR大阪環状線・大正橋駅前にて。これから放置自転車の撤去が始まるようだ。あちこち旅をするのだが放置自転車は大阪が圧倒的に多い。交通行政に問題があるのか、人心に問題があるのか?特に下町の駅前では、すぐにも何とかせねばならない深刻な状態である。歩道の幅いっぱいに放置され、人間が一人歩ける隙間があいているだけという場所も少なくない。

8月、大阪市鶴見区徳庵にて。最近では珍しくなった銭湯もまだまだ元気である。時代の趨勢にあわせて色んなサービスがついている。大阪の下町では「路上占拠植木」が目立っている=悪くない、こんな「不法占拠」なら認めてもいいと思う(もちろん当局も黙認)。道路に勝手に植木鉢を置き、ここでは石を積んで路上生け垣となっている。

8月、東大阪市布施にて、小さなお寺の地蔵盆。今年の夏は暑さも厳しく道を歩いている人は少ない。お寺も日よけに青いシートを掛けて、その青い透過光が、涼しいと言うよりお化け屋敷のようだ。

9月、同じく布施にて。狭い路地にやはり植木鉢の行列だ。小型車が1台やっと通れる道に電柱工事の車両が停まっている。これで通行止めである。

同日布施にて。狭い路地には人も車もよそ者は入ってこない。公園はないが子供は街路に守られて元気に遊べる。向こうの道は軽トラックも入れなくて行き止まりである(『通り抜けられます』の看板の出ていた街)。

同日布施にて。狭い歩道のついた車道へ出た。昔栄えた寂れた商店街である。選挙前だというのに静かなものだ。「そうはい神崎!」...やはり人も車も待たないと通らない。

9月、大きな事故のあったJR塚口駅前で。ここは工場街の駅で駅前は何もない。駅前の再開発で更地が少しづつ広がるが、何年経っても進捗は微々たる速度でしか進まない。違法投棄防止用のフェンスにフウセンカズラが巻きついている。

9月、大阪府和泉市にて。泉州では岸和田のだんじり祭りが有名だが、観光化はしていなくても他の多くの町で盛んである。たまに来るのだが京都に比べると暑いと感じる。

9月、滋賀県信楽町にて。陶芸の里として全国的に有名だ。しかし町の中心を少し外れると山に囲まれた農村地帯が続く。陶器以外には高級なことで有名な「朝宮茶」がある。ここも月に2度ばかり仕事でやってくる(もう15年になる)。私の家からは車で1時間というところだ。

10月、京都府山城町・高麗寺廃寺跡にて。木津川の河岸段丘上にある。渡来人が川の交通権を握っていたのだろう。遠くに見えているのは大阪との境である生駒山系。これのみデイライトシンクロ=光量はまるで足りないので、光のポイント付け程度に考えておくのが良かろう。

JR大阪駅前の西梅田にて。ここも再開発でめざましく変貌している=たいていは外資系のビル。グレーのガラス張りのビルが増えて、ビル本体と写り込みが重なって幻惑的だ。

10月、大阪環状線のガード下を利用したショッピング街にて=横文字の名前がついているのだが覚えられない。けっして高級品の店舗ではないが、限定された狭い空間を利用してディスプレイに工夫をしている。

また次の2ヶ月でのTC−1レポートを続けたい。毎日カメラを持ち歩く習慣は10年ぐらい前から始まったが、ライカを持つより負担が少ないため撮ることに苦痛を感じない。レンズはGロッコール28mmF3.5、信頼できるレンズだし、AFも遅いが確実に合う。

7/11  今年の6/5奈良県橿原市上品寺町での「シャカシャカ祭」での記録。画像処理が悪くてザラザラしているが、本当はeimarit28/4thは極めてシャープでボケ味もワイドとすれば軟らかい。それに球面レンズだ!   すべてM7+エルマリート28mmF2.8/4th+RVP50/100

薄曇りの中、上品寺町へたどり着く。町と言っても農村地帯で、最近宅地化が進んだ地区である。戦国時代(あるいはそれ以前)から続く、外からの防御を重視した典型的な環壕集落の形式を残すムラである。このキョウチクトウのような木(だと思う)は環壕の土手に生えていて、溝はほとんど見えないが、溝(堀)の内側は家屋敷のみで、外側に耕作地が広がる。そしてムラの周囲を囲む溝のあたりにはどこでも花や果樹が植えられている。

溝の南の端に神木(ヨノミの木という)が生えており、ここに去年奉納されたワラでできた蛇が朽ちたまま残されている。これが今日(6/5)取り払われて、新しい蛇神が巻き付けられる。もとはムラの北はずれの北口の池のノガミ塚に旧暦の5/5に奉納されていた。つまり端午の節句の祭と水神様(蛇)信仰が習合した祭のようである。奈良県下には同じような祭が多く残っているが、ここのノガミ祭がもっとも有名である。と言っても観光とは無縁の村祭りで、最近では一般の観光客は少ないもののアマチュアカメラマンが増えているとのことである。本日も蛇神の巡行の頃にはたくさんのカメラマンが集まっていた(TVクルーも一組)。

さて歩いていくと今年の祭の頭屋(長男の生まれた家=今は長男のいる家で持ち回り)宅のブドウの棚が木の重さでかしぐぐらいよく茂っていた。その先で頭屋の若いおじいちゃんが蛇神を作るための稲ワラを整理しているのが見えてきた。

機械刈りの昨今、このような稲ワラは入手しずらく、頭屋は自身だけではなく、親戚や近所にも手刈りの稲ワラを前年から頼んでおくようになっている。今回の頭屋はこの人の息子で、その長男の孫のために頑張っているのだ・・・この世代より下はワラなどを取り扱えないようになっているという。

頭屋の娘。皆が準備を始めるなか、ひとり走り回っていた。主役の兄より目立っていてカメラマンの人気者になった。

頭屋。まだ若いが祭をすべて仕切らねばならず、経済的にも精神的にも負担は重い。最近は頭屋の輪番の辞退を申し出る人もいると聞く。子供達のはっぴを準備しているが、参加者への接待もたいへんである。

赤いのが頭屋の長男のもの、青いのがその他の子供のもの、これは行政の補助があったらしい。最近は行政もこのような伝統的な民俗・歴史にも注意を払い始めているようだが、自治体の財政難は、ここ橿原市に限らず深刻さを増しているようである。あちらこちら歩いている私はそのことを目の当たりにしているし、結局は地元の人々の熱意が大事なのだろうと思っている。若いおばあさんが接待のためのグラスを運んでいく。

さて朝の準備を見た後、町内をブラブラと歩いてみる。やはり溝沿いに花木が茂っている。町内のちょっとした駄菓子屋の軒先も木々に被われている。街路は農村としては珍しく、どの家も頑丈な塀を巡らして、いかにも防御的な性格を今も残しているようだ。古い家ばかりではなく、比較的新しい家もそうなのである。

頭屋以外に、町の区長さんも忙しい。頭屋はほとんど家に張り付いて準備に余念がなく、外回りの準備は区長の活躍がある。テレビのインタビューも受けたり、祭の進行係でもある。頭屋宅から集会所へ走る。

環壕(溝、堀)このように木々で囲まれ、堀があって、更に頑丈な塀が連なる。そして四角い町のぐるりを堀が囲み、入り口もたくさんはない。由緒書にはないが、堀は川につながっいて往事は川舟による舟運があったものと予想される。町内の神社には金比羅講の古い石碑が建ち、今でも金比羅参りはなくても講は残っている。金比羅さんは周知のとおり船や水運の神様で、川は古来から氾濫の災いをもたらすが、耕地を豊ませ文物をもたらす道だったことが理解できよう。

さて頭屋宅の隣の神社の参道にて蛇造りが始まる。町内の名人の出番である。ここは他の長老も立ち会うだけで手出しはできない。特に頭の部分は難しいらしい。胴の部分は皆で共同で造り、あっという間に形になる。今年は例年より大型の蛇となったらしい。

蛇を仕上げる長老と頭屋と、その長男。ごくマイペースで準備は進んでいく。願わくばこの子の長男の時も行事が残っていて欲しい。全国で大規模な観光的な祭は別として、ごく普通の村祭りは衰退し、大きな祭と異なり記録までが散逸しつつある現況なのである。

さて刻限がきて、蛇を担いで町内を練り歩く。まわりを囲む人の3割がカメラマン(遠くからの人は少ない=最近多い中高年カメラマンである。そしてその過半数が婦人で、この傾向は年々強まっているように思う)で、あとは地元の人や、この日に都会から戻ってきた人達である。鐘太鼓、三味線をかき鳴らすわけではなく、整然と狭い街路を進んでいく。

町中の子供が参加しているようだ。小さな子もお父さんに抱かれて参加。天候は回復し、少し暑いが気分は晴れやかだ。エルマリート28mmF2.8/4thのボケ味は最高である(F4ぐらい)。

本来ここには池があったが、集会所の建設で埋め立てられた。その場所で池に浸ける所作を、頭屋宅から持ってきたバケツの水を蛇の頭にかける。これは頭屋とその長男の仕事である。

そしてヨノミの木に着いた。ハシゴをかけて蛇を木に登るがごとく巻き付ける。子供達は夕陽の中、皆で大人の作業を見上げる。ほんの少し残された幽玄な空間である。これはデイライトシンクロだ。

狭められた堀と1本だけの神木、猫の額ほどの聖地、そして迫り来る団地。

よくは見えないが後ろの木に蛇が巻き付いている。子供達もホッと一息である。これから集会所で「なおらい」が行われる。

長老が堀の脇に祀られた御神酒と供物を片づける。神木でもなく、蛇=水神でもなく、堀、水そのものを神聖視すること、これに本質のひとつが顕われている。もちろん意識されてのことと言うより、何世代も引き継がれた行為なのだろうと思われる。

皆が集会所に移動し、ヨノミの木の場所の後片づけを済ませた長老達、カメラマンも去って最後に内々で御神酒で祝う(あるいは祓う)。もちろん私たちもご相伴した。ではまた来年。

祭の由緒書、これは地区で作って見学者に配られたものである。

6/26   「港の景観−民俗地理学の旅」昭和堂

ようやく本ができた。若狭湾においての20年にわたるフィールドワークの、ひとつの集大成の物語である。もちろんいったんの終止符であり、今後も研究は続いていく。今までは写真家として色々な企画に参加していたが、今回は初めて著者となった。

5/29  今年の春の桜・・・今年は忙しいのと運の悪さでたくさんは見られなかった。

石川県羽咋市JR千路駅にて。北陸では関西より1−2週間開花が遅い。それに桜は栽培植物、都会ほど濃密には見られない。たいていは寺や神社、公園や公共の場所などに植えられている。関西でも本当の田舎には多くないだろう。 ヘキサーRF+GR28+RVP100

京都疎水夷川発電所にて。ここは花見にちょうどいい。観光地ではないため人は少なく、宴会をするほどのスペースもないため花を見るだけなら良好・・・花と囂々と流れる疎水の対照がとても美しい。まさしく桜が町の花であることが分かる。

京都東山のインクラインにて。ここでは満開であっただけではなく、すでに疎水の観光地として親しまれているため、たくさんの人々が歩いていた。このシーンは空いている場所を上から撮ったもので、実際は写真を撮ることが難しいほど人が多い。

京都東山、哲学の小径の南のはずれにて。やはり人は多く、道はスムーズに歩くことすら不可能なために、ここを通り抜けるのを諦めた。南禅寺の近くから、疎水の分水に沿って銀閣寺まで通じている。  上3枚、ベッサR2A+ズミクロン35mm/2nd+RA

京都府園部町JR園部駅前の宿屋の前で。園部の町はずれに駅はあり、数少ない列車の発着時以外は人は少ない。ここでも多少の駅前再開発は始まっていて、私の背中側では最近マンションが二棟建った。  M7+ズミクロン35/6+RVP50

5/11    CLExCS28mmF3.5xRVP100(思ったより彩度は高くない)

4月の終わりに京都の東寺へ立ち寄った。近鉄の東寺駅に降りて、ぶらぶら歩くとすぐに山門に着く。天気が良くて暑かったが、桜が終わって、急に新緑になって気分が良かった。あまり人は歩いておらず、外の喧噪(門の前は国道1号線だ=静かそうに見えているかも知れないが、背中は猛烈な騒音である=写真家は嘘つき)をよそに近所の人たちが日陰に憩っていた。観光客は反対側の北門から入る。駐車場もバス停も北側だし、京都駅も北にあるからである。

境内の南側は木々が茂っていて、新緑が春の空に映える。木の間越しに有名な五重塔が垣間見える=新幹線から見える塔である。新緑と言っても、黄色から深緑まで色々である。落葉樹は明るく軽い色だし、照葉樹は艶のある反射の強い色だ。

東寺を出て下町を京都駅へ向けて歩き出した。表通りは常に避けて、いつも遠回りの道行きである。多くの場合、京都の寺の近辺は昔の町並みが残っている。戦災にあわなかったことと、開発が簡単ではないことが理由だろう。低い軒の平屋建ての「しもた家」と路地が続く。ここでも大阪の下町と同様、ほんの少し残された地面や植木鉢に植物が植わっている。寺の荘厳な景色でも下町の小さな景色でも、新緑の季節は確実に毎年やってくる。ただし規制が緩み、住民の感情も変わってきたのか、京都においてもマンションは軽いブームとなっているようだ。今のうちに下町や裏町を回ってみたい。

京都駅のすぐ近くの路地で。牛乳配達のおばさんが、ほんの少しの顧客のために、小さな箱に牛乳やヨーグルトを積んで、自転車を押して配達していた。挨拶と話を聞くことは勿論だ。路地の突きあたりは接骨院、右は町工場、左は木賃アパート、いつもの風景である。

路地を抜けると、ポンと京都駅の西の裏手へ出る。右が表から見ると前衛的なデザインの京都駅ビル、裏から見ると衝立か書き割りのセットの裏側のようだ。左はたぶん京都中央郵便局。高いビルに囲まれた空間に奇妙に道路標識のたくさん付いた柱が立っていた。正面のガラス張りのところが中央改札で、その正面に京都タワーがある。つまりこの道を突きあたり左を見ると、そこは観光客や通勤・通学の人々であふれているのだ。東寺から京都駅まで1時間の短い散歩であった。

1/15     データはCLE+canon28mmF2.8+(E100G/CTprecisa100/RVP50....フィルムは色々試した)

1/2に嵯峨野へ初詣を兼ねて、いつもの洛中洛外散歩をしてきた。嵯峨駅で降りて北へ歩くこと20分、大覚寺の門にたどり着いた。ここでは新年の修正会が恒例のとおり行われている。大覚寺は真言宗大覚寺派の総本山で、今でも般若心経の写経の根本道場として、たくさんの人々が写経をつとめている。また華道、いけばな嵯峨御流の総司所としても有名で、この日も華道関係者の団体が初詣に来ていた。

天気は最高で、朝の寒さのために厚着をして出てきた私には、歩いていると暑くさえ感じた。大覚寺はとても広いので、迷路のような回廊をまわって幾つもの堂を見るには、時間がかかる。少し不便な場所にあるためか、正月といってもそれほどの人出ではないし、広い建物群のそこここに休むことはできる(禁止していないのが大事なこと)。ここは式台玄関=正式な玄関で、一般的には脇の小さな入口から入る。

回廊を巡っていくと庭に多くの立木がある。本式の日本庭園より野趣があって面白い。と云うのもかなりの大木が手入れされた状態で生えており、それがどれも傾きをもっているのである。回廊を回るとそれらの重なり、影の移動、そして背景の植え込みや幾つもの堂舎の変化がいいのである。当然に長くて複雑にめぐる回廊の移動を前提として作られたのだろう。

正寝殿にて。塗りかえたばかりの建物は輝くばかりの赤色を放っている(ストロボをシンクロさせている)。ここは後宇多法皇が院政をとったところで、狩野山楽、渡辺始興らの絵が飾られ、寺院としては華美な場所である。前の庭は大きな築山を中心にやはり野趣満点のたいへん好ましいものだった。

大沢池に面した大覚寺本堂の五大堂で。写経はこの建物内でなされる。回廊が池に面して舞台のように広くなっている。また池にも水面に張り出した舞台のような構造物がある。おそらく何かの宗教儀礼や祭りごとがなされるのだろう。ここには塀はなく、下を池の散策をする人達が歩いている。

大覚寺を出て、門前の茶店でうどんと白玉しるこを食べて、更に嵯峨野を歩く。観光ルートをなるべく避けて(地元のことゆえ土地勘はある)田舎道を30分ばかり西へ歩くと、次の目的地の祇王寺へ着く。竹藪の中の小さな庵の風情だが、昔は一帯を占めていた往生院内の一尼寺で、往生院が荒廃したあと残ったのである。これも明治の廃仏毀釈で廃寺となったが、当時の大覚寺門跡が惜しんで、再建を計画していた。そして明治28年、当時の京都府知事が別荘の一棟を寄付し、大覚寺の預かっていた墓と木像が安置されて、現在の祇王寺になった。今行っても本堂らしきものはなく、茶室のような建物に六体の小さな木像がいますのである。寺の名前は平清盛と白拍子の祇王・祇女との悲恋の物語からきており、木像も大日如来以外は彼らのものである。尼僧となった祇王・祇女姉妹とその母のエピソードから後に祇王寺となった。詳しい話はぜひ行って調べて欲しい。境内は竹林に囲まれ、木々は落葉樹ばかりである。回りを見渡しても普通に知る寺の境内とはまったく異なり、自然の山に茶室がたたずんでいるといった景色である。山に囲まれ地面は暗いが、落葉した梢の向こうの空は広くて高い。

さて次はまた20分ばかり歩いて、昨年に続く落柿舎への訪問だ。前回も1/2=保津川から上がり、今回は山から下った。ここも半分山の中のような場所なので、木々に囲まれ、西山へ沈む夕陽が美しい。不便な場所なので人力車で来る人も目立つ。

落柿舎内で。去年と違って柿はすべて落ちていた。台風の影響だろうか。庭の馬酔木(アセビ)が今回はとても目立った。この木は庭で育てるのが難しく、なかなか大木にはならない。葉に少しの毒性があり、馬に食べさせると死にはしないが酔ったようになるから「馬酔木」と字が当てられたらしい。28mmだから遠くに見えるが向こうに名物の柿の大木が見えている。

ここでは庵の縁側に座ってもいいことになっていて、しばらく一日歩いた疲れのために休みながら西山を眺めていた。冬の山の日は短い。すっかり暗くなった。落柿舎の生け垣と藁屋根の軒の間の狭い空間から眺めた嵯峨野は、いままで経験したどの嵯峨野より気持ちを落ち着かせた。去来もこのような景色を眺めていたのだろうと思う。人間の気配が希薄になったのか、私のすぐ前の樹に巣に帰る前のヒヨドリがとまって私を見ていた。

さて帰ろう。おりから郵便局が年賀状を持って落柿舎にやってきた。郵便局員について庵を出た。「頭上注意」昔の人が小さかっただけではない、昔の粋人は何でも小さなものを好んだようだ。茶室は趣味の良いところほど狭い傾向がある。

帰り道に竹藪を抜けたところで山陰線の嵯峨野側の最後の踏切がある。すぐ右はトンネルだ。珍しく遮断機が下りていて、しかも上下2本の列車が通っていった。観光客や地元の人達、様々な人々がその日を終えて帰路につく。嵯峨野の踏切、これは物語が生まれる。さてあと10分でJR嵯峨駅だ。また来年も来よう。何年もかけて、いや終わりのない洛中洛外の散歩は京都中を巡る旅となるのだろう。

2005/1/1

今年はワニ年ではない。ページを整理して寂しくなったので12月に行った生野区の風景を出した。ごく普通の下町に忽然と前衛的な建物があって、どうしたものかワニが飾ってあった。 真っ向勝負のフォトエッセイもいいが、変わった景色も今年は撮ってみたい。


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