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「民俗・地理学のフィールドから」        

序として・・・ 私は学術(民俗・地理学)写真家です。このページでは私の写真/研究の現場であるフィールドでの様々なエピソードを語り、その中に写真を撮るということの意味や、その学術性/芸術性をあとからやって来る人達に少しでも残しておきたいと考えて、ちょっとしたフォトエッセイとして書き進めていくことにしました。  ☆1999年12月開始☆

2000-2001年のフィールドノート

2002-2003年のフィールドノート

2004-2006年のフィールドノート

2007-2008年のフィールドノート

2009-2014年のフィールドノート

 ・...

2015-2017年のフィールドノート

 ...  

*フィールドノート*

2021.6.17

旧街道を進む…廃屋が目立つ、道の左が集落なのだが、その中心部は居住者が多く、周辺部に人が住まなくなっている。街道は突き当たりを(よくある街道の設計)右に折れて、その先でまだ左に折れるクランクのようになっている。そして左は集落の往還となっている。

突き当たりから見た旧街道、僅か2−300m程度が残されているだけで、向こうの突き当たりはバイパスの下を潜って現163号線に抜けている。右に見えている家々の半分は人が住んでいない。左の構造物は163号線に架かる古い歩道橋で、ここを渡って集落の子らは対岸の学校へ通ったのである。国の地元対策のひとつであろう。現在は子供も少なくなって歩く人は希である。

SAMYANG AF24mm/F2.8…悪くない描写だ。精密なピントではTAMRON 24mmF2.8/Diにやや劣るが、小型軽量さとAF速ではこちらが上だ。

2021.6.13

 別の旅をこちらに書く(天王への旅は「デジタルカメラ・レポート」で)。

昨日、梅雨の合間に一番近い近所(車で5分、乾谷地区)の旅に出てみた。国道163号線の工事現場へまず立ち寄る…予算が回ってこないのか工事はあまり進んでいない(土日は休みらしい)。架空線注意の看板と幟が立っていて、これから電気や光のケーブルを敷設するのだろう。ここに車を停めて、この右側の集落内を1時間ばかり歩いた。 カメラはα7+SAMYANG AF24mm/F2.8である。α7は最も古いモデルだが、今でも通用するカメラである。Rより少しAFが速いようだ。ホールディングはα7-IIよりこちらの方が好みである=グリップが薄い・シャッターボタンが真上から押す、つまりLeicaを常用してきた筆者にはLeicaに似た持ち加減が快適なのである。その意味ではα7Cが更に良いのかも知れない。

車を置いて旧街道を東へ歩く…つまりこの道が昔からの伊賀へ向かう街道で、戦後国道163号線として左側の村外れに変更され、今回さらに道が付け替えられるのである。旧街道の外れのため両側共に荒れ地になっていて廃車が置かれている。しかし右側には新しく家屋か営業所が建築されつつある。向こうがバイパス架橋で、車を停めたあたりは道も広げられて、どうやら廃道に近かったこの道もバイパスからの降り口として再度見直されるようである。

右は民家があるため、左側が広げられる。

2020.1.28

三井寺の上空の雲、加工はしていない。Canon EOS Kiss M(或いは他のCanonボディも)の絵造りの好ましく感じる場面だ(ハイライト優先モード)。SONYセンサーに比べてダイナミックレンジは狭いがエンジンの威力でハイライト部のグラデーションを見せているようだ。

三井寺は正式には園城寺と云い、密教・天台寺門宗の総本山である。山をひとつ越えれば京の町、東海道を歩いてきた旅人が最後に立ち寄る場所だ…近江八景の三井寺の晩鐘の景色である。

園城寺

2018.8.16

伊島の追補…データを別の目的で見ていたら、連絡船の待合所のツバメの巣の写真に面白いものを発見した。毎年同じ場所に営巣する性質があり、それが建物の分電盤の上なのである。ショートの可能性があり、建物にとってもツバメにとっても危険なので、巣を作らないように天敵である蛇の写真が張ってあった。しかしそれをものともせず巣作りはなされ小鳥は親と同じぐらいに成長していた。そして住民はあえて巣を壊すこともしない。私の瀬戸内話にひとつのエピソードが加わった。

2018.7.15

船の時刻が近づいて港へ出る。しかし暑いので堤防の陰に座って缶コーヒーを飲みながら道行く人を観察する。

15分ばかりの間だが、まだまだ往来する人は多くいて「伊島は大丈夫」との感想を持った。堤防の向こう側は入り組んだ路地ばかりなので、用事のある人は皆広い港を歩くのである。

そしてさっきの電気工事の人も船に向かう…このあと私も乗り組んで本土へ帰った。 伊島の旅はこれでお終い。良い旅でした。

2018.7.14

伊島漁協の建物…この半分がストアになっていて、町のコンビニ程度の品物が置いてある(暑かったのでアイスモナカを購入)。漁業で生きる島らしく、いまだ漁協の経営は滞っていない(私はこのような廃れつつある消費組合や生産組合方式を支持している)。離島で一般的な個人での通販とは違っていて、ここを通して都市から物を仕入れるのである。やはり汀には古風な石垣の堤防が続いている。

ストア前には連絡船の待合所(元)があり、船待ちの電気工事の人が休憩していた。日に3本しかない連絡船なので半日しか仕事はできない。以前はここの前浜から連絡船は出ていたが、今は港の北端に移動していて、ここは半分物置状態である。扉は開けっ放しで屋内にツバメの巣があり、人に慣れた子鳥が餌を催促していた。

2018.7.9

集落の中に入っていく…島で二軒になった旅館である(民宿ではない…どうもこちらが老舗のようだ)。今は釣り客や港湾その他の工事関係者が泊まる程度だが、以前は遠洋漁業の船員や魚問屋や行商人で賑わったことだろう。「入船旅館」なんて小説になりそうな名前である。

集落内はこのような各地の漁村の昔の雰囲気を残す路地が多い。どこまでが敷地か住居なのか倉庫なのか全く分からない雑多さである。左の大きな建物は廃業した旅館らしい。2度目の訪島だが1回目には見えなかったモノが見えてくる。以前に塩飽粟島の人に聞いた「1日1島」「最低2度訪問」の言葉を守って、それから10年以上を経た今、正しかったと思う。現在連絡船の通う瀬戸内海の島は80%回っている。気になった島は3度4度と訪問するので時間がかかるのである。ではなぜフィールドワークに立つのか?それは今後のお楽しみ…刳り船研究から、鮭川の民俗、琵琶湖の風物、若狭の港の景観…そして今は瀬戸内の島々なのである。海・川・湖を歩き続けて35年…そろそろお終いかと思えば次の新天地がやって来る。そういうモノである。

2018.7.8

診療所近くで…残念だがこれが伊島のひとつの現状である。漁業で自立した島ではあるが、人口や世帯数は減少の一途をたどっている。風雨が強いため家は土壁の上に板を張っている。温暖な島では放棄されて10年ぐらいで自然に還っていく。

もちろん一方で漁業で成功した人たちのお屋敷や新築の2X4住宅もあり、島民のオバさんに話を聞いてもそれほどの悲壮感はない。寺から浜まで徒歩5分、堤防上から撮影した…浜の近くでは、どこでもこのように風波を避ける高い石垣が組まれているのが特徴的な景色である。漁業があり、綺麗な空気、豊かな自然…島に残った人々はここを離れる気はなさそうだ。

2018.7.7

住民によって掃き清められた寺の境内から地区の全体と海が見える(何かの大木も刈り込まれている)。神社も高台にあったが神社の森が茂っていて下がよく見えなかった。

境内から集落内に下りたところに伊島診療所がある。もちろん医師が常駐しているわけではなく、月に何日かやって来るのである。ここの建物は新しくて最近建て替えられたのだろう(看板は古い)。ようやく地区の周囲を巡って集落内に入った。空には巻積雲が出ていて明日は天気が崩れる予知ができよう。

2018.7.5

集落の辺縁部を歩いていく…やはり廃屋や、それらを壊した跡地ばかりが目立つ(人は港近くに住んでいる)…20年ほど前から過疎が進み、現在は150名程度の人口と聞いた。そしてどこでも島にある消火器具の箱、水が常に不足しているため、このような箱に消火器や家庭の水道につなぐホースが格納されている。

集落の南端の山側にある松林寺(真言宗)ここで休憩、かなり立派な寺ではあるが、どうも無住寺のようだ。この奥は深い山となっている。

2018.7.4

学校前から集落への道が拡幅されていた(平成28年度竣工)これが山の方へ続いているのである。それまでの歩道ではなく、明らかに車道を意識した道路である。

ところが集落に入ると元のままで軽自動車が一台通れるかどうかの小径になる(さて下の重機はどこから運んだのか?)。不在地主も多く、整理が難航していると思われる。写真の石垣の上には元は家が建っていて、その家の井戸は放棄されたが危険なので蓋がしてあった。このあたりは湿地帯(すなわち低い土地)だったので、高潮に備えて少しでも高い場所に家を建てたのだろう。家がなくなった敷地は可哀想なぐらい狭かった。

2018.7.2

この日は平日だったので伊島小中学校は授業中…早々に校庭を横切って道に出た。ここは地区で一番奥になり(海から最も遠い)、左に集落、右は山である。

右を見ると前回来た時は一面の湿地だった景色に、新しい道路の工事の始まりが加わっていた。島の向こうには集落はなく、山が続いているだけなので生活道路ではない。紀伊水道に向いた灯台や美しい海岸はあるので(山中に何か戦跡もあるらしい)観光用の敷設であろうか?

2018.6.29

更に道を進むと学校の裏になる。ここで満開のツツジを愛でる老夫婦と出会った。話を聞くとここに随分以前に家があって、その人たちが本土へ移った時に廃屋が増える中「もったいない…」と買い取り、建物を壊して花や木をたくさん植えたとのことで、今日はツツジの季節なので恒例の夫婦だけの花見にやって来たところへ出くわしたのである。私はこのような優しい島の人々を愛する。

もう反対側の村はずれなので、学校へ降りてみる。校庭の脇に簡易上水道の浄化設備があって、川からではなく地下水を汲み上げて浄水し、各家庭に送水している。ほとんどの島は水不足に悩んで暮らしてきたため、とても水を大事にする(まだまだ個人や地区の井戸も活躍している)。

2018.6.28

神社を出て集落のはずれの山沿いの道を進む…村はずれなので廃屋が目立ち、この本瓦葺きの家(お屋敷だ)は完全に山野に飲み込まれている。もうどこが門なのか玄関なのかまったく分からない。かろうじて煙突が見えるので、そこが台所か風呂場だと思われる。

気配を感じて振り向くと、神社の裏山の崖に猫がいた。こちらを窺っている間に3カット撮る時間があった。だいたい猫と同じ反射速度が撮影に関してはある(普通の人なら1カットがせいぜいだ)。

2018.6.27

境内には地元の功労者の銅像があった。よくあることだが全国的には知られていない人であっても地元にとっては重要な人物が多く存在するのである。

神社拝殿内に、なぜか赤穂義士の絵馬がかかっている…年代が昭和貳年となっている割にはきれいで、おそらく最近修復されたものであろう。しかし徳島の離島になぜあるのかは分からない。いずれ歩いていくと分かるときも来ると思う=間違いなく何かの縁でここにあり、今も大切にされているのだから。

2018.6.26

島で唯一の集落を北から南へ歩くことにした。地区の北東外れの當所神社に寄る(2度目の来島なので道や家並みはすぐに思い出す)。ここでも神社への階段の途中に仏式のお堂がある。この神社もやはり海難への畏怖と安寧を祈った場所である。神社の裏山は深い緑につつまれていた。

神社の階段の前には前回来たときにはなかった新しい住宅が建っていた…おそらくまだ休校とはなっていない小中学校の教員住宅と推察される。前回の写真を見て、何があったのか確かめてみよう。徹底的に記録するので(好悪や興味にかかわらず)たぶん分かるだろう。

2018.6.25

5分も歩くと村はずれに出る(家並みは海岸沿いに長くなっている)。すぐ向こうに堤防の見える野原にお堂が建っていた。元の木造のお堂はとっくに朽ち果てて、風や高潮にも負けない鉄筋コンクリート製のお堂に建て替えられている。しかし周りの構造物は高波にやられたのだろう、何も残ってはいない。

しかしお堂を覗くときれいに清掃され、お供えも絶えず大事にお地蔵さん(あるいはお大師さん)が座していた。地蔵座像は珍しいので如来かも知れない。すでにこの仏像以外は何もないので分からないが、まだ地元の信心は続いているようで安心したのである。

2018.6.24

さっそく集落の北側へ入る。廃屋も多いが、まだまだ生活感はある。この島の特徴として沖縄の島と似たような石垣が家の周りに構築されていることだろう。やはり太平洋に面していることから台風などによる風波への防御だろうが、さらに太平洋側に位置する出羽島よりも防御は固く、紀伊水道を抜けていく風や波のエネルギーは大きいのだろう。使われている石の年代も古く伝統的な文化も感じさせる(つまりこの島に移り住んできた人たちの故地の伝統文化)。

島のあちこちに潜水漁のスーツや道具が見られ、年金ではなく生業で暮らしを立てている人が多いと分かる。島の生活の生命線の井戸も健在で水道と共に今も使われているようである。

2018.6.18

伊島は行政上、瀬戸内海と太平洋の境界となっており、港の北側は瀬戸内海である。島唯一の集落も全体としては西向きだが、より穏やかな瀬戸内海側を向いている。突堤上の高いフェンスは冬の北西の季節風とそれによる風波を緩和させるための目的であろう。

こちらが港の南側の太平洋。ほとんど人は来ない。太平洋からのうねりと台風時の波のためテトラポッドがたくさん並んでいる。前の島は無人島で堤防でつながっている。両島を上から見ると「い」の字になっているから伊島という言い伝えもある。

2018.6.17

伊島へ上陸(オープンデッキがないため海からの写真は撮れず)…1日3便の連絡船、しかし人も荷物も多い。卸売市場で見かける運搬車で漁協まで運ぶのである。この規模の離島としては珍しく漁協ストアがあり、たいていのものは発注できる。漁業が盛んなためか観光には力を入れていない(釣り客はいるようで旅館は営業している)。

連絡船の船着き場から漁協へ荷物を運ぶ。遠くに四国側の蒲生田岬が見えている。

2018.6.3

蒲生田岬への道は長く紀伊水道に突きだした二股の半島になっている。狭い道を回って行くが、小さな漁村が点々と続くだけで、先端まで行くと連絡船の時刻に間に合いそうもないため左の半島の先の椿泊までで引き返した(次回阿南に来るときは時間調整をして岬の先端まで行こう)。

半島の付け根に大宮八幡宮があり、少し覗いてみると拝殿に天狗面が奉納されていて(置かれている場所も一等地)ここでは天狗信仰が続いていることが分かり成果のひとつとなった。

2018.6.2

境内は丘陵地にあり、神社信仰の方が強かったらしく鎮守の森には天神社などの社が点在していて、境内の外れからは蒲生田岬方向の海が望めた。真ん中の小島には弁財天が祀られているらしい。

そして傍らの社には彼方の弁天さんを見て拝むための望遠鏡が設置されている。木製ではなく埃や雨よけの箱の中にコーティング付きの望遠鏡が固定されている。覗くと倍率が高くて、水蒸気に揺らめきながらも弁天島が画面いっぱいに見える。ここの名物「のぞき弁天」である。

2018.5.31

翌日は伊島へ渡るのだが、12時過ぎまで船がないため午前中は阿南市の郊外を探索した=もちろん下調べはせずに南へ蒲生田岬へ向いて海岸近くを走ったのである。まず金林寺の看板が見えたので入ると民宿の駐車場、どうやら寺は民宿の管理で保全されているようだ。おそらくその昔はそれなりの由緒ある寺(阿波七福神霊場のひとつ)で、参拝者向けの宿坊だったのだろうと推察される。

現在も信仰は盛んなようで、本尊は弁財天なのだが、それとは無関係に鏡・御神燈や三鈷や招き猫、果ては手前には男根信仰の像まで雑多に奉納されている。そして絵馬の代わりに信心が盛んだった昔の写真がかかっていた。今はない大鳥居があったようだ。

2018.5.28

神社の岬の山を海側へ下りると小規模な干潟が広がっていた。そして岬の先は大規模に埋め立てられ運動公園と広大な空き地となっている。左へ続く堀は下の方にある工事中の堀とつながっている。

運動公園脇の狭い市民公園で…手入れはされているが子供が遊ぶ様子はない。ブランコも乗れないようにロックされていた。バブル時代の残滓である。ようやく阿南市の1日目はここで終わる。

2018.5.24

長い階段を上がって神殿に辿りついた。本来この山は陸地から飛び出した岬か単独の島だったと思われる。島全体が神域で海正八幡神社(1024年、源氏の新羅三郎義光の創建と伝えられる)といっても、明治の合祀令も関係してか橘神・金比羅神・大己貴神などが祀られ、海上安全を見守ってきた。神殿の特徴として神社にもかからず拝殿正面に卍の透かしがあるということだ(その由来は書いていない)。白の源氏が航海神というと不思議に思うかも知れないが、ライバル赤の平氏と同様に水軍力を基本に天下をとったのである。壇ノ浦の海戦で平氏を破ったのも偶然ではない。

もうすぐ日没の境内、あちこちに千年の間の遺構が見られる。境内の向こうは断崖が海へ落ちている。

2018.5.21

阿南市街地に着いても、まだ日が残っていたので港あたりを日暮れまで散策…ここでも海辺の堀を大改修していた。右に見えている家の裏はすぐ海である。

堀割の横の海辺に建つ海正八幡神社にも寄る…とても立派で格式の高い神社だが、ここでも祭りの担い手が減っているようだ(10月の祭りに4月から募集)。この波板の向こうにだんじりが格納されている。長い1日はまだ終わらない…「せっかく来たのだから」「ひょっとしたらもう来ないかも知れない」と言う気持ちがフィールドワークには常につきまとう。

2018.5.19

お松大権現のある集落の前を流れる那賀川の支流で大規模な河川改修工事を見た。川は画面の左を流れる見たところ小河川だが、河川敷の広さや両側の河岸段丘を見ると増水時には相当の水量となるようで、那賀川本流での水神社の数や大袈裟に見える河川改修も、降水量が多く(太平洋から見ると東海岸になるので台風時には大雨になる)河川勾配も大きそうなので納得=現地に行くと理解ができる。

峠を越えて阿南市街地へ向かう途中、支流の支流へ分け入ってみた。日本一社という腰宮神社(付近に集落はない)が渓流の前に鎮座していた。やはり水神である。昔と現在の水害対策であった。阿南に着いて半日で下に紹介したとおりたくさんの取材ができた。

2018.5.18

裏山の斜面には色々な花木が植えられ、この時はツツジとシャクナゲが満開であった。この日も植木職人達が手入れに余念がなかった。

拝殿=新しいもので廟扉の透かしも猫の顔である。通りからは参道もあり=これは今出来ではなく、古くからの参拝客相手の店も数軒残っていた。この角度が、現在の猫神社ではなく昔のお松信心の雰囲気を最も残している。新しい「狛猫」…どうも様にならないらしく左右で「阿吽」にはなっていない。先に進めないのでここら辺で次へ移るが、お松大権現社は厚化粧感はあるものの、山あいの小さな神社としては成功しており、観光適地という観点からは興味深い取り組みと感じられた。

2018.5.17

更に奥に進むと、今度は「猫大仏」そして真新しい「猫七福神」…ここまですると過剰としか言えなくなる。まだまだ猫がらみのモノはあるがこれぐらいにしておこう。

2018.5.16

山に入ると大きな一枚岩があり、そこから滝が落ちていた。この上の方には砂防ダム(景観に配慮して見える部分は石垣で組んでいる)があって、本来はもう少し水量があったのだろう。横に熊野権現社も見えていて、ここが聖域の中心と思われた。

そして岩の傍らには「猫不動」…少しやりすぎの感もなくはないが、各地の「花の寺」同様に信心だけではなく、観光に力を入れないといけない現代事情があるため許容の範囲だろう。それにしても苔むした聖なる岩とコンクリート製の猫不動の対比と、たまたま横に来た子供連れの若夫婦の「きゃー!カワイイ」には当惑した。

2018.5.15

しばらく走ると…お松大権現、いきなりコレである。鳥居やその他の構築物は古いものがあるにも関わらず、真っさらでキンキラキンのものもある猫神社である。最初の印象は古い社に最近の猫ブームに乗って新興宗教団体が陣取ったような気がしたが、由緒書きを読むとそうでもなさそうである。かなりの数の参拝者(もちろんほとんどが観光客)が来ていた。色々探しても主神が分からない=お松が権現したというのは分かるが、神様と言うほどの取扱ではない。奥の山に聖的な滝や泉があり、三宝荒神のお札を置いているところを見ると、どうやら「お松大権現社」となる前は山そのものを聖域とする荒神山が元々のようだ。

拝観料はなし、猫ブームに乗って繁栄しているように思われる(寄進と土産物や絵馬・お守りなどの売上)。猫好きの人には良くても、少しカルト的な怖いめの景色である…裏山も花畑に造成中である。神職は見えず地元の人達が半ばボランティアで運営しているようだ。地元の人達の信心を集めてきたことはブームとは関係なく間違いない。観光適地という視点から見ると興味深い…明日も奥を紹介する。

2018.5.14

山を下りて那賀川を遡って行くと鯉のぼりが見えてきた。加茂谷の鯉祭りの会場設営であった。5月4日の祭りのために河川敷を国から借りて、祭りが終わるとまた元へ戻すのである。30回というから、すっかり恒例になっているようだ。鯉のよく捕れた淵のようで、バブル期の頃、鯉漁と鯉のぼりを結びつけた観光事業として始まったらしい。左に沈下橋が見え、車も走ることができる対岸への重要な道でもある。そして橋のたもとには新橋の基礎の工事が始まっている。私は沈下橋を渡って右岸域の旧跡へ向かった。

LUMIX G VARIO12-60mm F3.5-5.6の望遠端…めったに望遠域は使わないが、このレンズの望遠もなかなか良い画質である。

2018.5.13

馬頭観音像=年代不明ながら地衣類の付着と原石(全体に赤っぽく花崗岩など普通の石材ではない)の風化を見ると古いものだと思われる。

首切り地蔵(全国に存在する)=明治の廃仏毀釈時に壊された仏像に後日セメントや丸石で首を付けられて祀り直された。廃仏毀釈は神道重視の明治政府の命令ではなく、普通の地元の人達の行為であった。それはとりもなおさず江戸時代に幕府や藩の行政末端組織として寺が機能(戸籍にあたる過去帳の管理や檀家組込みの強制等々)していたことへの反発が爆発したものだろう。

2018.5.12

時間の都合もあり麓まで散策路を下らなかったが(どうやらこちらが奥の院への参道らしい=道が古くてしっかりしている)頂上直下に星祭りをおこなった場所があった。標識に「星かかりの松跡」とある。

さて岩の横の道を歩いて元へ戻る。岩々の側面には古くからの奉納仏像が並んでいた。一様ではない霊気を感じさせる妙見の山である。磐船が神を乗せて天からここへ降りてきた場所と古代〜中世〜近世の人は考えたのだろう。

2018.5.11

荒神社の付近は大きな岩が群れをなしている。不思議と山頂付近以外には巨岩は少なく、土に埋もれているのか崩れてしまったのか、石材として搬出したのか不明である。

山頂は尾根の上にあり山を巡る道は史跡やお堂や社を巡って麓まで続いている。尾根の横はかなりの断崖となっていて、近代には軍の監視硝が置かれていたようである=木を切り払えば右の上流域から左の河口、更に紀伊水道が見渡せたはずだ。確かに那賀川を河口まで下ればそこは太平洋なのである。

2018.5.10

これは違うが他の霊場に比べて馬頭観音が目立つ…ただし珍しいからか盗まれたらしいものもあるようで残念だ。

そして山頂の三宝荒神社(取星寺奥の院)=岩だらけだが運んできたと言うより、ここが岩山で、岩を砕いて塚を築いたように見える。付近は鬱蒼とした森である。

2018.5.9

坂の途中に古墳の石室の跡とみられる岩屋があり、摩耗していて判然とはしないが古い観音像(おそらく如意輪観音)と新しい地蔵が安置されていた。これ以外にも数多くの仏像や石碑が参道のあちこちに見られる。

そして振り返ると高野山遙拝所の碑がある。確かに海の彼方に高野山・金剛峰寺はある。もうすぐ奥の院である。

2018.5.8

那賀川左岸を離れて取星寺の山へ登ってみた。寺と言っても、ここも神仏混淆の聖地で山全体に堂宇や社が点在し、山頂付近の三宝荒神を中心に神域を作っている。中腹までは車道が通じていて展望所から那賀川の流域が一望できる。海上に浮かぶふたつのコブは伊島だろう。空気が透明な時期には遠く紀伊山地が見えるそうである。たしかに昨年紀伊の由良から眺めたとき伊島と四国山地が見えていた。

展望所の駐車場からは距離は遠くないが急勾配の坂道が待っている。最近整備されたらしく、にわか造りの直登の道なので雨の日は気を付けないといけない。

2018.5.6

那賀川の水神社三態…わずか2−3km走っただけで4ヵ所の水神社があったことになる。ここは住宅地のため由来は分からないが、すぐ横に端が架かっているため渡し船のあった場所かも知れない。社裏のちょっとした広場では初めて自転車に乗る娘の家族がいた。

こちらは那賀川本流から取水する用水の場所だ。右の道路脇に用水は2方向に流れている。堤防も少し低くなり大雨が降ると決壊しやすい場所だ…少し大きな水神社で水害の碑と不動明王の像が境内に建っている。

ここは那賀川漁協の敷地内の水神社、ごく最近建てられたもので、やはり漁業の無事を祈念して社屋の建て替え時に祀られたのだろう。

2018.5.2

御獄神社から那賀川河川敷へ上がって、下流域から中流域を走る。道ばたに水神様の社があり、その下には大きな材木屋があり(ここ以外にも製材所や材木問屋が川沿いに多く見られた)以前は上流域の材木を川で下して、中流域で製材し、陸路各地へ運んだのだろう。ここでの水神様はここで川からの揚げ場のあった場所の目印と水運鎮守のためだろうと思われる。現在河川敷(特に一級河川)に構築物を造るのは治水上厳しく制限されているから、社は古くからのものと思われる。もちろん河川改修時に移設されているのも土台を見れば分かる。

そしてかなり大規模な仕入・加工・販売を手がける川魚問屋もあり、川漁も盛んな川なのである。3年ほど前に来たときは木造船が多く見られたが、今回はすべてがFRP船に置き換わっており、何か大きな出来事があったに違いない。この件、今回は未調査だが年度内にもう一度来て理由や仔細を調べたい。

2018.4.30

寺を出て旧村部の辻を曲がったところに地図にも載っていない御獄神社があった。境内は広く江戸時代の碑がいくつも建っていた。奥へ行くと寺の裏と接しており、本来は神仏混淆の場所で、明治の分離令で仕切を立てたものであった。

そして境内から南を見ると坂を数10m上がったところが那賀川の堤防である。対岸からも舟をこして、この神社に詣ったことだろう。このあとも川沿いに走ると水神の社が多くあり、直線化する前の那賀川は相当の暴れ川だったのだろう。参道右に見える低い屋根の家は現在無住のようだが、お札や絵馬・お神籤を扱い、その他神社の世話全般をしていた神人の家のようだ。

2018.4.26

西光寺の境内は広く、片隅の焔魔堂を覗くと、エンマ様とその眷属がちゃんと祀られていた。改装中でほとんど真っ暗な中で撮影した(LUMIX GX8はストロボ不内蔵)が、強力な五軸手振れ補正が効いて「押さえ」も含めて6枚撮ったが1枚も手振れはなかった(12mm=F3.5:SS1/20:ISO800)。OLYMPUS PEN-FやOLYMPUS OM-D系もストロボは外付けだが、もう必要ないとのことだろうか? 私にはデイライトシンクロの効果を期待するためストロボは必要だが、高感度での画像の改善も含めて「暗いからストロボ」は過去のことなのだろう。AF補助光もOFFにしているが暗くてもピントは高速に合う。

阿波公方(足利氏)の墓所もあり、ただ立ち寄っただけの寺ではあっても、過去のエピソードは語られ、私の新しい記憶となる…歴史の深さを感じたと共に「行ってみないと分からない」フィールドワークの大事さを再確認。

2018.4.24

阿南市の旅…まずは市内を流れる那賀川のほとり、阿波中島駅から始まった。もとは乗降客も多い駅だったに違いない、現在無人の駅舎はかなり大きく、今はレールが外されているが、単線のすれ違い/特急通過駅だったと思われる。徳島から来た列車は阿南に向かう…乗車客1名、降車客はおぶさった子供も含めて4名。1日めは川を遡って史跡を訪ね、源流部から峠を越えて阿南市中心部へ戻ることになる。

そして駅の前に西光寺があり、やはり四国、お大師さんが立って迎えてくれた。午後2時、気温は28℃…暑くて静かな空間があった。

2018.4.23

4/22-23で徳島県南部の阿南市の海岸部と沖合の伊島へ行った。快晴・暑気により大変だったが成果はそれなりに大きかった。今日は帰宅pm10なので1枚だけ掲出する。伊島の港に飾ってあるアバ(網漁の浮き)=今は使っていない。遠くに見えている岬は四国最東端の蒲生田岬。この島には石積みの防波堤がいたるところに残っている。今日も強風だったが台風時や冬には更に強烈な風波が予想される。

携行カメラは結局これだけにした。歩くのにジャマになるのと、たいていの場合サブカメラはほとんど使わないことが多いためだ。LUMIX GX7-IIは次の機会に1台だけ持って出かけよう=もちろんアトリエで入念にテストしてから。

2018.3.29

帰路に就く…水天宮付近である。もう操業していない資材置き場だが、右は高堤防のため海はまったく見えない(階段もない)。

そして湾奥の工事車両の出入り口から日没の海を見た。これで堺大浜への旅は終わる。LUMIX GX8とLEICA DG SUMMILUX 15mm/F1.7だけで撮ったが性能やハンドリングが気に入って、他の最新μ4/3ボディを店頭で触ったが(私の持つ「最新」はGX7)どれも小さすぎて写しにくいように感じたので当分はこれでいくことにした(μ4/3)。

2018.3.28

公園の景色はこのとおり、左は北波止町へ続く少しばかりの植木、右は埋立地の工場敷地、そしてごく狭い人工の海峡。誰も居ない静かな風景だ=実際は高速道路を行く車群のロードノイズが轟々と響いている。

工場敷地側はフェンスに阻まれて入ることは浜も含めてできない。海岸は私有地ではないが占有権を持っているのだろう。少しでも拒絶感を和らげるためか「たちいりきんし」の看板にも配慮がある…しかし工業都市を目指した過去数十年のいきさつは、大仙古墳を中心とした世界遺産登録を主に、文化・歴史都市を目指す現在の堺市の構想とは別に簡単に払拭はできない。

2018.3.27

北波止緑地で新しい護岸堤は終わり、そこから先は砂州上の微高地に住宅が建ち並んでいる。矢板が打ってあるものの護岸は無いに等しい。住民には悪いが津波がやってきたらひとたまりもないだろう。ここは奥に向かって高くなっていくので町全体が呑み込まれることはないだろうが…護岸堤を整備するためには、おそらく浜際の家は立ち退かざるを得ないことが障害となっているのだと思われるが、なんとかしないと津波どころか強力な台風による高潮でも危ないだろう。

そして旧灯台から見えていた大浜北公園に到達した。公園と言っても高速道路下の広場にすぎず人は誰も居ない。ここが元の海岸線の先端でやはり松林が広がっていたと想像される。

2018.3.26

公園の片隅に港湾改修時に発掘された1865年建立の標柱石が建っていた。堺港のどこかに建っていたに違いないものだ。破損しているため全容は不明ながら船の出入りの作法について彫ってあるらしい。

そして公園を出たすぐに鳥居と狛犬と石灯籠だけが残っている天満宮の跡地(これも幕末の頃の建立)があり、背後は砂州上の北波止町の住宅地である。

2018.3.25

柵を乗り越えて女神像の建つ小さな公園に入った(北波止緑地)…もちろん街路側からは普通に入れる。銘板を読むと龍女神像とあり、元は明治の内国勧業博覧会時の創建で、傍らの鳥居や狛犬(天満宮=社殿はすでにない)の年代から少なくとも江戸時代から神聖視された岬だったようだ。浜寺公園といい大浜公園といい、明治の殖産興業政策と堺の密接な関係がうかがえる。

「北波止緑地」と言ってもそれほど緑化が進んでいるわけではなく、小さな花壇と松の植栽がみられるだけで、海岸の再開発と共にこれから整備が進むのだろう。現在は北波止町の市民公園という程度だ。

2018.3.23

堺港右岸へ来て、道の海側は堤防の工事中だったり私有地だったりしてどうしても浜へ出ることができずにいた。ようやくちょっとしたレストランの脇に小径があり(ここもレストランの私有地だが…)海へ出た。むこうはヨットハーバーになっていて、昔からの権利で海面を占有(海は国のものなので占有料は払っている)してヨットを預かっているのである(行政にとっては開発のためにはやっかいな存在だ)。

浜へ出ると遊歩道はだいぶ以前にできあがっているにもかかわらず自由に入れないようになっている。それは海に隣接した地権者の種々の権利がそうさせていると推察される。私は無理に入ったが実際は遊歩道に入る道はなく、入れそうな場所はバリケードで塞がれている。向こうの女神像のある公園にも金網を乗り越えてしか行けなかった。私は地権者の非協力的さを批判するのではなく(彼らには権利がある)、行政のこれらを問題を整理する能力が批判されるべきだと思っている=莫大な税金がすでに投入されている。今年に入って徳島と堺で2ヵ所の港の再開発の問題点を見たことになる。

2018.3.22

しばらく浜の工場街を歩くと、ついに昔の港町の歴史に遭遇した。工場や資材置き場の狭間に水天宮の社があり、ここは往時の荷揚場であり、一種の通行税を取った「石銭場」の跡であった。当時の井戸の跡もあり、まさにここが江戸時代のウォーターフロントだったことが分かった。今も誰かが管理しているようで清掃はいきとどいている。

工場街を抜けたあたりに(水天宮のすぐ上)、昔の砂嘴と思われる場所に小さな住宅地があった(新興地ではなく砂丘の上の町らしい)。黄色い線は高速道路でその外はずっと下の方に掲示している埋立地の工場街である。ここの探索をするために対岸まで来たようなものだ。

2018.3.17

しかし港町(だった場所)の建物の多くは取り壊されてフェンスやゲートの向こう側である。残っている倉庫や店舗もすでに営業はしていない…やはり早々に消滅するのだろう。

そこを過ぎると工場街となる…ここでも操業しているのは僅かで空き地や廃屋が多い。外国人労働者が自転車で走り去る。そろそろ夕刻、光の色が変わってきた。

2018.3.15

すでに整備の進んでいる港左岸と違って、右岸側はいきなり港町の以前の景色となる。現在海浜広場や遊歩道の工事が始まっているが「完成はいつのことやら…」が正直な感想である。ここでもLUMIX GX8はμ4/3とは思えない粘りを見せる。

そして閉店した店に外国人親子(白人系)が住んでいるようだ。親子でバスケットボールをしていたが、もし不法滞在だと具合が悪いため人物は入れない。

2018.3.14

湾奥の川に架かる水門を渡り対岸へ下りる。ここも観光的な補修がなされていた。夕刻になり歩行者が多少増えてきた。

対岸は遊歩道の工事中で一般の人は入れない。そこで堤防の右へ下りて古くからの海岸道路を女神像に向かって歩くことにした。

2018.3.13

対岸に大きな女神像(遠目には観音様に見える)が見えてきた。こうなるとぜひ港を大回りして対岸へ渡ろうと思う。右のホテルの向こうが駅である。

湾のように埋め残された港がある。停泊船は少なく、しかも大部分はプレジャーボートやヨットだが、多少の漁船や釣り船も残っている。工業地帯ができるまで泉州でもトップクラスの漁港だったとは想像もできない。浜は片付けられて遊歩道となっている=漁具は浮き桟橋に積んでいる。

2018.3.12

旧灯台を巡り港の方へ歩く…上は高速道路だ。遠くに小さく見える島影は淡路島の山である。

高速道路の下が最も埋立の海の狭まる場所で、ここを船が通過するため浚渫船が止まっている。ワイドレンズのため少し遠く見えるが非常に狭い。しかし歩道橋はなく、対岸の大浜北公園地区へ行くためには湾奥まで戻らねばならない。遊歩道延伸の計画はあるようだが対岸はまだ整備はなされていない。ここでもLUMIX GX8のダイナミックレンジの広さは発揮されている(デフォルト)。

2018.3.9

遊歩道に出た。今のところ歩道は途切れ途切れだし、特別な施設があるわけではないが、海辺を歩くのは気持ちがいいものだ。突きあたりは旧堺灯台。文化財として保全されている。工場も塀に海辺のイラストを描いて景観に配慮している(その予算が会社から出たのか市から出たのかは不明)。

ここが元の堺港の突堤の先端部である。外海は遙か彼方に行ってしまい、延々と埋立の工場群が続いている。木造の灯台本体は復元の手が入っているが、それを支える石垣(旧突堤の姿も彷彿とさせる)は以前のままに近い。

2018.3.8

体育館脇のサザンカが綺麗に咲いていた…私の家やアトリエの庭もサザンカ屋敷なのだが、どうも手入れが行きとどかずこうはいかない。

体育館の先は駐車場で、そこから高速道路の下をくぐって(歩道だけ)ようやく海へ出ると、そこはどこまでも続いていそうな工業地帯だった。現在の堺市の方針で遊歩道が少しずつ整備されつつある。

LUMIX GX8を触っていてμ4/3の可能性を見たため発注した=本当はLeicaバージョンにしたかったが価格が倍もするのと絞りが1段明るいだけなので、無印ズームとした(画質は劣らない)…実際の撮影はLUMIX 14mmF2.5GかLEICA DG SUMMILUX 15mm/F1.7が多いと思われるが、これ1本で間に合わせるためにはちょうどイイのである。

2018.3.7

蘇鉄山を取り囲むように広い松林が続く…おそらく昔の大浜の松林で、その向こうが海水浴場になっていたのだろう。休日だが人影はまばらである。

松林を抜けると広場があり、堺市立体育館があり、下のラジオ塔のレプリカも建っている。その先は阪神高速湾岸線で工場の煙突からの煙も見えている。

2018.3.6

久しぶりに堺・大浜に戻る。山の一角に「堺南臺場」跡の碑がある。砲台跡はあちこち訪ねたが本当に砲台跡があったのは和田岬(神戸)と友ケ島(和歌山)しか見ていない=東京のお台場にはそれらしき跡が残されているがレプリカと見た方が良さそうだ。

山を下りると「ひょうたん池」があり、あまり綺麗とは言えないがサギや亀の姿が見え、餌になる小魚や水生昆虫も多そうだ。LUMIX GX8は良い階調性を持っている。フレアの色づきだけは感心しないが…。

2018.1.30

蘇鉄山の史跡。嘉永7年(安政元年)の大地震の碑、擁護爾。別の場所にあったものを明治になってここに移転した。LUMIX GX8は逆光でフレアがマゼンタになることが多いことも分かる=色々なシーンでマゼンタ系の火線を引く。

麓に「ラジオ塔」があった…これも昭和5年に天王寺公園に建てられたものを後日ここに移築したものである。最初ラジオの電波塔の残骸かと思ったが、説明文を読むと、私が子供の頃(昭和40年頃まであった)人の集まる場所に設置されていた「街頭テレビ」と同じ性質のモノで、当時最新のラジオが家庭に行き渡る前に公共の場に設置された。おそらく上の四方の窓にスピーカーがあり、周りを囲んで聞き入っていたのだと思われる。

2018.1.29

蘇鉄山頂上広場。松などの針葉樹に混じってソテツが多く植えられている。 LUMIX GX8はやや暗部が潰れる傾向があり、ダイナミックレンジを広げて暗部を立ち上げると多少ノイズが見られる。同様に「超解像」をONにすると確かにエッヂの弱い部分には効果的と言えるが、エッヂの立った部分では不自然にコントラストが上がってしまう。ダイナミックレンジオプティマイザーも超解像もAUTOとしておくのが賢明だろう。カスタムボタンやダイアルで機能を割り振り、どうしても必要なときに呼び出せばいい。

広場の隅っこに確かに三角点を見つけた…長年の風化や移設ですっかり丸くなっている。

2018.1.28

港からそれて大浜公園へ向かう。大浜は昔からの漁港で、今は工業地帯となって往時の見る影もないが、今も魚の夜市が市民イベントとして開催されている。阪神高速湾岸線のインターがあり、道路は広いが土曜なので車はほとんど走っていない…民家は港までで、このあたりは砂浜と松林であった。その一角が工場に囲まれて大浜公園となっている。

公園に入ると松林の中に史跡が点在している。大阪港の天保山と同様に浚渫された土砂が積み上げられて低い山となっている(本来砂丘なので公園全体も微高地である)。蘇鉄山といい、日本で最も低い一等三角点がある(標高6.97m)。ちなみに天保山には日本一低い二等三角点がある。

2018.1.27

さて今日は堺市大浜地区周辺(堺港の周り)への日帰り取材に行った。南海本線堺駅を南に出ると堀割(環壕という見立て)があり、これを渡って港を目指す。堺商人全盛の頃の風景をイメージした当時の西洋人の銅像が立っている。すべて秀吉によって破壊・再編された堺で、現在はかすかな雰囲気や史跡が残っている。向こうの船は数年前に乗ったNPO運営の「環壕クルーズ」の船だ。

堺港、海へ向かって手を振るのは呂宋助左衛門の像、右岸側に自由の女神のように建っているのが龍女神像、そして現在の堺の象徴である阪神高速湾岸線と大浜を埋め立てた大工業地帯…工業城下町から文化都市への脱却を目指しているようだ(今のところはイメージだけ)。 

今回はニューカマー・LUMIX GX8とLEICA DG SUMMILUX 15mm/F1.7ですべて写した。まだセッティングは煮詰まっていない=これは正しい語法の「煮詰まっていない」だ。まずマイナスの印象としてα6000に比べると明るく設定してもEVFが暗いことである。プラスのことはバッテリー1個で900カットも撮れたことか…画像は整っていて良好。


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